2013年の夜明けを、共に主の御名を崇めて始められますことは感謝です。
新年は「おめでとう」と始まりましたが、一体何がおめでたいのでしょうか。「おめでとう」とは、吉事、祝いの言葉です。お正月を吉なる良きこととして祝うということです。お正月はめでたくもあり、しかしまた、歳を取るという意味ではめでたくもなしとも言います。
キリスト教にとってはどうでしょうか。めでたく、良きこととは何でしょうか。日本の風習では、古き汚れが一掃され、新しくされることを吉といたします。一年の歩みの中での汚れを一掃し、新しくする。それは過去に執着することを水に流して、過去を忘れることです。この日本人の感覚は、歴史に学ばないことに繋がります。過去にこだわることを良しとしないのです。
新しい年に、改めて、過去に経験した大きな出来事を受け止めて行くという新しい価値観を持つべきことを思います。
キリスト者としての祝いは、過去を忘れるということではありません。むしろクリスマスのメッセージは何であったかを思い出して良いのです。1月6日の公現日までクリスマスシーズンは続きます。西方教会では12月25日がクリスマスですが、東方教会のクリスマスはマタイによる福音書2章の「東方の博士たちが主イエスを拝し献げものをした日」ですので、そこでクリスマスが終わりとなるのです。
クリスマスに与えられたメッセージは何だったでしょうか。「神が共にあってくださる」「神の喜びのうちにある」ということでした。キリスト者にとっての祝いは何か。それは、「神共にある喜び」です。そして「神の喜びは、私どもの喜び」であることを改めて覚えたいと思います。共々に、神共にある喜びのうちに置かれていることを互いに祝う、それがキリスト者にとっての祝いです。そして、「神共にいます」ことをもって始める、神と共に歩む、それが新しい一年の歩みであることを覚えたいと思います。自己中心な生き方が、神と共に歩む生き方へとされる、それが新しい生き方です。
その上で、今日の箇所が与えられています。新しい生き方に相応しい、神共にある新しい生活とは何か。
まず、14節に、主イエスに対して、弟子たちの断食についての問いがなされております。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。ここで「よく断食」とありますが、これは、定められた以上の、自ら進んでの断食であることを示しております。イスラエルは一年の初めの月に断食をしました。断食をして、自らの罪に痛み、そして大贖罪日があって、罪の赦しをいただくのです。この断食によって、神との交わり、神との契約を新たにするのです。ですからこの断食は、悔い改めとして定められた断食なのです。
では、進んでの断食とは何でしょうか。それは自分の敬虔さを表すものです。バプテスマのヨハネの弟子たちも、ファリサイ派の人たちも、進んでの断食によって、悔い改め以上に自分たちの信仰深さを表しました。ですから、ヨハネの弟子たちから見て、断食をしない主イエスの弟子たちには信仰深さを見て取れない、だから主イエスに問うているのです。
ここで、なぜバプテスマのヨハネの弟子たちは断食するのかを知っておきたいと思います。バプテスマのヨハネは、メシア(救い主)到来のために、悔い改めて自らを整えることを勧めました。メシアを迎えるための悔い改め、備え、それが断食だったのです。
しかし、ファリサイ派の人々の断食はそうではなく、あくまでも自らの敬虔さを表すための断食でした。
けれども、共通していることは何かと言いますと、共に「メシア(救い主)は到来していない、救いを見ていない」ということです。救い主を迎えるために身を整えなければならないから、また、救いが来ないから自ら立っていなければならない、そのための断食なのです。
ですがここで、ヨハネの弟子たちが主に問うていることには希望があります。彼らは「主イエスこそメシアである」と知らされておりましたから、主イエスに問うたのです。主イエスに問うことで、そこで、もはやヨハネの弟子ではなく、主イエスの弟子へと変えられる、そういう望みがあるのです。
この問いに対しての主イエスの答えは、15節「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」というものでした。主イエスの弟子たちにとっては、花婿、すなわち主イエスというメシアが既に来てくださり、共にいてくださるのだから、メシアが来ていないという悲しみの内にはもはやいないのだと言われるのです。「メシアが到来している」、このことを主の弟子たちが理解していたわけではありません。主が招いてくださって、主が弟子としてくださっている、だから、メシアが来ていることを自覚していなくても、彼らは既に救いの内に置かれているのです。
自らの思いを超えて、ただ神の側に私どもの救いの根拠があります。花婿なるメシアが共にあってくださる、だから悲しみではなく、喜びの内にあるのです。
諸々何も自覚していない弟子たちですが、しかし、そんな弟子たちを、主が、主共にある喜びの内に招いてくださっているのです。
そして幸いなことに、今を生きる私どもは、「十字架と復活の主イエス・キリスト」を知っております。既に主の救いの内にあるのです。
そして16節「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ」と、主は言われます。織り立ての布は強いのです。ですから古く弱くなった布に新しい布を当てて継ぎ物をすれば破れるのです。17節も同様の譬えとして言われます。新しい酒は発酵途中ですので、古い革袋に入れれば、その発酵力に耐えられずに破れます。つまり、結論として言われていることは何か。新しい状況、新しさを迎えるということは、それに相応しい新しい歩みを始めるべきだということです。
メシアを迎える前の生き方は古い生き方なのです。それに対して、メシアが到来している、メシアが共にあることに相応しい歩みがあるということを、主は言ってくださっているのです。
メシアが共にいてくださる、それは祝いなる、吉なる出来事です。その祝いに相応しい生き方、あり方は何かということです。
ここで思い起こして良いことは、十戒です。十戒の前文にあることは、「神が出エジプトの神である」、つまりイスラエルを囚われから解放してくださった神であるということです。救い出してくださった神を「神として崇めて」生きるために相応しい生き方が示された言葉、それが十戒です。共にあってくださる神に相応しい生き方が求められているのです。
その前半は、「神を神とする、神を愛する」ということです。そして後半は「隣人を愛する」ということです。神を愛し隣人を愛する生き方、それは、神がそうしてくださったことを覚えて、私どももそうするということです。その中間にあるのは「父母を敬いなさい」ということですが、父母は神の代理人であるという意味で大切だということです。子どもたちに神を指し示す、それがこの世における父母の働き、ミッションです。今の時代の混迷は、信じることができなくなっていることにあると考えています。そこには、父母が子どもに信じることを教えられなくなっているということがあると思います。魂の養いを大切にしないこと、それは心の荒廃を生むのです。この世の価値観、お金や誉められることを第一としてしまう、人は自分の価値観によってしか生きられません。
しかしキリスト者は、救いの恵みをもって生きることが赦されていることを覚えなければなりません。私どもにとっての「新しい革袋」とは何でしょうか。それは「神を神とする生き方」です。「神が共にいますことを思い起こす生活」、それが、共にいてくださる神に対しての相応しい歩みなのです。
それは、一つには「礼拝」です。礼拝において、御言葉に聴き、聖書に親しむ、そこで、神の出来事を知る、神共にいますことを知るのです。もう一つは、「祈りの生活」です。「共にあってくださる神との交わりのとき」、それが「祈りのとき」なのです。
「神共にいます生活」とは、「礼拝し、御言葉に親しみ、祈る生活」です。それが共にあってくださる神の恵みに応える生活なのです。
そしてこのことは、十戒に示されていることです。救ってくださった恩ある神に対する、私どもの喜びの応答です。十戒に生きる、それは強いられてではなく、そうせざるを得ないから、神の恩を思って進んでそうする、神を神とする生き方なのです。
私どもの神は、人となってまで、私どもと共にいてくださる神です。そして、十字架についてまで私どもの罪を贖ってくださる神です。まさしく命の恩人なる神が共にいます生活、それが「礼拝、御言葉、祈り」の生活なのです。それは、感謝であり喜びなることです。強いられてすることではありません。救いの恵みに感謝と喜びをもって、礼拝しないではいられない、御言葉に聴かざるを得ない、祈らざるを得ないのです。
このことは、プロテスタント教会の原点です。ルターは、キリスト者の生活は「悔い改めと感謝」と言いました。ここに立ち帰ること、この恵みを思い起こすことをもって新しい一年を始めたいと思います。
神の恵みに対して、私どもが唯一応え得るあり方、共にあってくださる神を覚え、思い起こしつつ「礼拝し、御言葉に聴き、祈る生活」それこそが新しい革袋として示される「新しい生き方」であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |