聖書のみことば
2021年8月
  8月1日 8月8日 8月15日 8月22日 8月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月4日主日礼拝音声

 とりなしの主
2021年8月第4主日礼拝 8月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第2章15〜17節

<15節>イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。<16節>ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<17節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ただいまマルコによる福音書2章15節から17節までをご一緒にお聞きしました。15節に「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」とあります。
 先週の礼拝では、徴税人のレビを主イエスが弟子にお招きになったという記事を聞きました。レビは主イエスの弟子に招かれた後、今日の箇所では、レビの家で「食事の宴を開いた」と記されています。しかしながら、この食事会がどのように行われたのかということを考えてみますと、「疑問なことが多い」と聖書の研究者たちは口々に言います。いったいどんなところが疑問なのでしょうか。

 まず、食事会を開いているのがレビだということです。中心的なお客様として招かれているのは主イエスで、二人が食事の宴の席の一番中心にいます。そしてその周りに、レビの知人たちや主イエスの弟子たちが大勢同席して、食事を共にしていました。しかしこんなに大掛かりな食事会を開くということが果たしてレビに可能だったのか、そのことがそもそも疑問だと言われます。場所はレビの家です。レビは、主イエスに招かれて弟子になるまでは--それがつい数時間前なのか、あるいは昨日か一昨日なのか分かりませんが--収税所で働いていました。しかも、レビは決して裕福とは言えません。レビはザアカイのような徴税人の頭ではなく、頭の下で日々徴税の仕事をしている下役に過ぎないのです。そういうレビに、大勢の人を招いてもてなせるだけの経済的な余裕が果たしてあったのか、このことがまず不思議です。
 また、疑問はそれだけではありません。当時食事をどのように摂ったかというと、普通の食事の場合には椅子に座って食べるということがありましたが、改まった宴会の席では、そこに参加する人は皆、敷物を敷いてその上に寝そべって食事をしました。15節には「イエスがレビの家で食事の席に着いておられた」とありますが、ここは原文を読みますと「彼の家で寝そべっていた」と書かれています。ですから、この食事会は宴会だったということが分かるのですが、問題なのは、レビの家に、そのように大勢が寝そべることのできるような大広間があったかどうかということです。

 けれども、レビの経済状況がどうだったかとか、一介の下役のレビの家に大きな広間があったかとか、そのような舞台設定に属するようなことは、今日の箇所で述べられている中心の事柄ではありません。今日の箇所で注目させられるのは、その後に出てくるやり取りです。16節17節に「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」とあります。
 主イエスがレビの家に招かれて食卓を共にしていた、するとその様子をファリサイ派の律法学者たちが見て、咎め立てしたのだと言われています。ところが、この点もやはり奇妙です。どうしてかというと、この家は、これまで徴税人として生き、そして今主イエス弟子になったレビの家です。今までのレビの歩みから考えますと、この家に多くの徴税人や罪人と言われる人たちが出入りすることは不思議でも何でもありません。けれども疑問なのは、どうしてそこにファリサイ派に属する律法学者が現れたのかということです。

 「ファリサイ派」と呼ばれる人たちは、主イエスの時代に実際に生活していたユダヤ教の一派です。人数は決して多くありませんでしたが、社会の中で非常に影響力を持つグループでした。ファリサイ派の人たちは、旧約聖書の教えを厳格に守ろうとして、旧約聖書に従った生活をしようと志していました。ファリサイ派の人たちは旧約聖書の中から613もの従うべき戒律を数え上げ、それを守って生活していると自負していたそうです。ある意味では、非常に真面目に旧約聖書の言葉に向き合い行おうとしていた、そういう人たちでしたので、周囲のユダヤ人たちからは、「あの人たちは大変真面目な人たちだ」と尊敬され、頼りにもされていました。聖書に対する真剣さ、真面目さが、ファリサイ派の影響力の源でした。
 ファリサイ派の名前の由来は、元々は「分ける、分離する」というヘブライ語の動詞だそうです。当時、一般のユダヤ人たちも、それぞれ自分なりに旧約聖書の教えるところに従って生活していました。けれども普通の人は613もの戒律をいちいち心に留めてそれを守ることなど、とてもできません。そのように「一応は聖書に従っている生活している」一般のユダヤ人たちに対して、ファリサイ派の人たちは本当に厳しく聖書に従い真剣に律法を守って生活していました。ファリサイ派の人たちは内輪では「同志たち」と呼び合っていたそうですが、一般の人たちから自分たちを「分離する、分けている」という意味で、外部からは「ファリサイ派」という名で呼ばれていました。

 一方、「徴税人や罪人たち」とはどういう人たちだったのでしょうか。
 徴税人というのは税金を集める人ですが、彼らの集める税金はユダヤの国の税金ではなく、ユダヤを支配しているローマ帝国の税金でした。ローマの税金は、その土地土地に住んでいる顔役に、一種の請負の形で集める権限が任されました。その顔役が徴税人の頭です。税金を集める際に、顔役はローマに納める税金ちょうどを集めたのではなく、それに幾分か上乗せして集め、その差額が顔役の懐に入るという仕組みになっていました。下役たちの給料もその差額から支払われました。ですから、顔役(徴税人の頭)とその下役たちは、一般のユダヤ民衆からは好ましく思ってもらえませんでした。自分たちを支配しているローマ帝国の回し者、手先だと思われて、大変嫌われました。
 また、罪人と呼ばれる人たちは、貧しさや生活の仕方のために旧約聖書の律法を完全には守れない人たちのことで、決して犯罪者ということではありません。どういう人が罪人に数えられたのでしょうか。例えば羊飼いという職業がありますが、羊飼いのように生き物を相手に仕事をする場合には、「安息日には仕事を休め」と言われても実際には仕事を休むわけにはいきません。「安息日を必ず守るように」という律法の要求を満たすことができませんので、羊飼いは常に、罪人の仲間、同類であると見なされていました。

 ファリサイ派の人たちは、自分たちは旧約聖書を正しく守る人間だと思っています。そして、そういう正しい人間として、罪人たちや評判の悪い人とは一切、交わりませんでした。
 そうしますと、どうしてこの日に限って、ファリサイ派の律法学者たちがレビの家での宴会に参加していて、そこで主イエスが食事をしていることを咎め立てしたのか、ファリサイ派の人たちの感覚からすれば徴税人の家になど出入りするはずがありませんから、これは不思議ではないかと言われるのです。
 ですから、今日の記事というのは、果たしてレビが食事会を開くことができたのだろうか、またファリサイ派が本当にこの場にいたのだろうかと考えると、実際にあったことかどうか、不可解な点がたくさんあると言わざるを得ない記事です。考え始めますと分からないことが多くなり、そこでつまずいてしまうことになりますので、今日は、この記事がこういう描き方で、いったい何を伝えようとしているのかを考えたいと思います。

 主イエスはレビの家の客となって、多くの徴税人や罪人たちと食卓を共になさいました。ですから、ここに登場する主イエスの姿は、多くの人々を教える教師としてではなく、身をもって交わりの中に入り多くの人たちと繋がりを持ち、その人たちをご自身との交わりの中に迎えようとなさる、そういう姿です。そしてこの食卓は、主イエスを迎えて、本当に喜びに満ちた宴の席であったに違いありません。
 ところが、そのように皆が喜んで楽しく食事をしているところに横槍が入ってきました。ファリサイ派の律法学者が、徴税人や罪人と親しく交わる主イエスと弟子たちを咎め立てします。こういうことが実際に起こり得たのかは何とも言えませんが、この出来事を通して、ファリサイ派の人たちと主イエスとでは、「罪に対してどう思っているか」という点で、明らかに違っていることが、はっきりしてくるのです。

 ファリサイ派の律法学者たちにとって「罪」とは何か。それは、自分たちが共同体として歩む生活を成り立たせる一つの社会秩序、生活の秩序を、それに従わないで壊していくような、そういう人間のあり方です。皆が同じルールを守って一つの共同体を成り立たせて行こうとする時に、その秩序に従おうとしない人がいれば、そこでは当然混乱が生じることになります。社会や共同体がすっかり混乱して、もはや一つの生活を皆で守っていけなくなるかもしれない、そういう意味では全員が危機にさらされることになってしまいます。ですから彼らは、「ルールを守らない人や守れない人は、共同体の交わりの中から追放して交わりの外に置くべきである。敢えてそういう人たちと交わろうとしたり、自分たちの社会や共同体の中に迎え入れようとする人は、共同体に対して反逆行為を行っていることになる」と受け止めました。ファリサイ派の律法学者たちが主イエスについて「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って批判しているのは、そういう理由からです。
 当時のユダヤ社会では、その社会を成り立たせていく根本の秩序として旧約聖書があり、その中でも特に「律法」が中心にありました。「律法に従うこと」を中心に置いて考えるファリサイ派の人たちにしてみれば、「神がお与えになった秩序に反したり無視したりするような人たちは、群れの生活から追放するのがよろしかろう。それなのにどうしてあなたがたの先生は、彼らと食事を共にして共同体の中に迎え入れるのか」と批判しています。

 こういう批判に対して、主イエスはどうお考えになるのでしょうか。主イエスもファリサイ派の人たちと同じ時代、同じ社会に生きておられます。従って、社会を成り立たせ盛り立てていく正しい人と、それを妨げてしまう罪人がいるという、ファリサイ派の人たちのものの見方はよく分かっておられるのです。
 そして主イエスも、いわゆる罪人たちに問題があるということ自体は否定なさいません。「罪人には罪がある。放っておけばその罪によって社会全体が混乱し壊れて、共同体が滅んでしまう可能性がある」ということを否定なさらないのです。「人が皆、神に従い、共に生きていく共同生活を成り立たせよう」と主イエスもお考えになります。
 けれども、ファリサイ派の人たちとの違いは、その次のところにあります。ファリサイ派の人たちは、「罪を犯している人間は社会秩序を脅かす敵、神の敵であるから、交わりから排除しなければならない」と考えます。ところが主イエスは、「罪とは、人間が皆、抜きがたく宿している病気のようなものである。これは病気なのだから、癒されなくてはならない」とお考えになります。17節に「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」とあります。
 主イエスは罪人たちのことを、ファリサイ派のように「神の敵であり、交わりから排除されるべき人々だ」とはお考えになりません。確かに罪人は、ユダヤの生活秩序に逆らい、それとともに神にも逆らって正しいあり方を失っています。しかしだからこそ主イエスは、「この人たちには、医者によって体の病気が癒されるように、罪が癒され滅ぼされ、清められていくことが是非とも必要だ」とお考えになるのです。

 ファリサイ派の人たちからすれば、神の前で清らかに生活できるのは、敬虔に一生懸命聖書の教えを守って生きている者、自分たちだけだということになります。そして秩序を守れない罪人たちを共同体から追い出すことで、自分たちの清い生活が保たれると考えています。
 ところが主イエスは、それと正反対のことを確信しておられます。「罪人たちを交わりから追い出してしまう、そのことこそが大問題だ」と主イエスはお考えになるのです。そんなことをすれば、いずれ交わりの中に残れる人は誰もいなくなってしまうからです。ですから、罪人を社会から締め出すのではなく、「罪を清算し、清めて、もう一度交わりの中に取り戻すことが大切だ」と主イエスは確信しておられます。
 そしてそのために主イエスは、敢えて、レビの家で、弟子たちだけでなく徴税人や罪人たちとも親しく交わり、交わりの中で一人ひとりを癒し、ご自身の交わりの中に迎えようとなさるのです。

 けれども、「主イエスが人々を癒し、清める」とは、一体どのように生じることなのでしょうか。ただ人間同士が親しく交わり楽しい時間を過ごせば自然に清まっていくというものではありません。人間には、罪を赦したり清めたりすることはできません。
 しかし神には、それをなさることがおできなのです。
 そして神は、そのことをなさるために主イエスをこの地上に送ってくださいました。人間が神に逆らう生活を続けていく限り、最後には神から裁かれて滅んでしまうことになります。その裁きを主イエスは、十字架においてご自身の側に引き受けてくださって、そして「わたしはあなたのために十字架の上で死ぬから、あなたは自分の罪が滅ぼされたのだと信じて、もう一度神さまの前に生きていくように」とおっしゃってくださるのです。
 そういう主イエスが交わりの中に来られ、そして一人一人を招いてくださった、それが今日の箇所、レビの家で開かれていた食卓の宴の場面なのです。

 主イエスは神について、ファリサイ派の人たちとは違って考えておられます。ファリサイ派の人たちにとって神とはどういう方か。神は正しい者の神、正しい者しか相手にしない神だと思っています。
 ところが主イエスが知っておられる神は、正しい人だけを招くということではなく、「罪人であっても何とかして清め、神の民の交わりの中に生きるようにしようと招いてくださるお方」なのです。神は失われた一匹の羊を探し求めて、その失われた一匹が見つかり群れの中に戻ることができたならば大喜びするような、そういうお方です。
 そしてそうであればこそ、失われる者を取り戻すために独り子をさえ惜しまず犠牲となさる、そういう神です。

 今日の出来事を聖書から聞かされて、思わされます。
 私たちもまた、このような神からの招きをいただいて、また独り子である主イエスの執りなしをいただいて、キリスト者の一人ひとりとされ、今日を生かされているのではないでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって神の民の中に入れていただき、「皆で共に生きる交わり」を生かされているのです。

 「わたしの人生とわたし自身は、確かに主イエスに伴われ、神の御手のうちにあります。主イエスに執りなされて、わたしは今日ここで歩んでいます」、そう心から主イエスを讃美し、ここからの一巡りの生活へと送り出されたいと願います。

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