聖書のみことば
2021年8月
  8月1日 8月8日 8月15日 8月22日 8月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月15日主日礼拝音声

 だれが招かれるのか
2021年8月第3主日礼拝 8月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第2章13〜17節

<13節>イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。<14節>そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。<15節>イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。<16節>ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<17節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ただいま、マルコによる福音書2章13節から17節までをご一緒にお聞きいたしました。13節に「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」とあります。再び主イエスが湖のほとりに出て行かれたと言われています。
 湖のほとりで主イエスは一体何をなさろうとしておられたのでしょうか。美しい風景を眺めるとか、漁師たちが忙しく漁をしている光景を眺めるとか、そういうことではなかったように思います。祈るためだったのでしょうか。祈りの生活について、主イエスは「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの主に祈りなさい」と、人目につかないように奥まった部屋で祈るようにと弟子たちに教えられました。けれどもカファルナウムの町では、主イエスはご自分の家がありませんので、弟子たちと共にシモン・ペトロの家にお泊まりになっておられ、その家には「奥まった部屋」はありませんから、祈りを捧げるために家を出て湖畔へと行かれたのかもしれません。
 しかしあるいはもしかすると、ご自身一人きりになって祈るためというのではなく、逆に大勢の人たちに説教をして神の御国の訪れを告げ知らせるために、湖畔へと行かれたのかもしれません。1章38節で主イエスは、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われました。主イエスは「宣教する」とおっしゃいました。すなわち「時が満ちて神の慈しみのご支配が、まさに今やってきている」ことを伝えて、「神さまの慈しみの約束が本当だと信じて、神さまを賛美しながら生活するように」と宣べ伝えられました。主イエスがそのように「福音を宣べ伝えられた」ということを重視する人たちは、主イエスが湖のほとりに出て行かれたことについて、「主イエスはガリラヤの町や村で福音を宣べ伝えられたが、ここカファルナウムでは、まずユダヤ教の会堂で教えられ、ついでシモン・ペトロの家でも教えられ、そして湖のほとりでも教えられた。すなわち主イエスは、どこにおられても、どんな場合であっても、出会う人々に福音を伝えようとなさった方だ」と説明しています。しかしまたある人たちは、「主イエスはここで、再び湖のほとりを歩いておられる。これは1章16節以下のところで主イエスが湖のほとりを歩いておられた時、シモンとその兄弟アンデレをお見かけになって弟子に招かれた姿、あるいは、その後でヤコブとヨハネの兄弟を弟子にお招きになった姿と、とてもよく似ているのではないだろうか。そうだとすると、主イエスが湖のほとりに出て行かれたのは祈りや教えのためではなく、弟子になる人物を探して招こうとなさってのことではないか」と説明します。

 そういう説明を聞かされ、改めて今日の箇所を読んでみますと、確かにここでも主イエスは、収税所で働いていたアルファイの子レビを弟子に招いておられます。そしてまた、アルファイの子レビを弟子に招く様子も、シモン・ペトロとアンデレが弟子に招かれた時の様子と非常によく似ているような印象を受けます。今日のところでは、主イエスが通りがかりに「収税所に座っているレビをご覧になった」と言われます。レビは「収税所に座っていた」のですから、この時仕事中だったということが分かります。レビは「仕事をしている」そのところから、その様子をご覧になっていた主イエスに「従って来なさい」と声をかけられ、そして主イエスの弟子になっていくのです。これはシモン・ペトロとアンデレが湖で網を打っていた時に、主イエスがその姿をご覧になり「わたしに従いなさい」と御言葉をかけられて弟子に招かれたことと、とてもよく似ています。主イエスがおかけになった招きの言葉まで一致しています。「わたしに従ってきなさい」と、主イエスはそう言われます。主イエスが招かれると、アルファイの子レビは迷うことなく立ち上がり、従っています。レビが直ちに従っていく姿もシモンとアンデレの姿に重なります。兄弟の場合には、従うように招かれた時に「すぐに網を捨てて従った」と言われていました。それまで自分がしてきた仕事を後において、即座に主イエスに従うということが、シモン・ペトロやアンデレの場合も、そして今日のアルファイの子レビの場合にも起こっています。
 このように、今日聞いている記事をシモン・ペトロとアンデレの招きの記事に重ね合わせて読んでみますと、この日主イエスが湖のほとりへと出て行かれたのは、もちろん祈りや教えのためであったかもしれませんが、それと同時に、ご自身の弟子となる人物を探しに行かれたと言ってよいように思います。主イエスはいつも、従ってくる弟子を探しておられます。私たちとも出会ってくださり、「わたしに従いなさい」と言葉をかけてくださり、私たちを弟子に招こうとしてくださるのです。

 さてところで、この日招かれて弟子となったアルファイの子レビという人に目を向けて考えたいと思います。14節に「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。主イエスがレビをご覧になった時、レビは収税所に座って仕事中でした。ですからレビは、13節で湖のほとりにおられる主イエスの周りに群がっていた群衆の中にはいなかったということになります。またレビは、後に主イエスから弟子として招かれる徴税人の頭ザアカイのような立場の人でもありませんでした。ザアカイが弟子になる話は、ルカによる福音書19章に出てきます。ザアカイは徴税人の頭で金持ちであったと紹介されています。そして、そういう立場にあるザアカイはかなり自由に行動しています。ザアカイはレビのように収税所の机や椅子に縛られてはいません。日中主イエスがエリコの町をお通りになると知ると、それを見物したいと思って収税所を抜け出し、いちじく桑の木に登って主イエスを見ようとしています。ザアカイもレビも同じ徴税人ですが、徴税人の頭であるザアカイには日中に好きに行動する自由がありました。一方アルファイの子レビは収税所に座って、その日町に出入りする人の人数を数えたり、商人の荷物を確かめて税金を請求したり、収支を帳簿につけたりしながら忙しく過ごしていました。レビは徴税人ですが、頭ではありませんので、今日風に言うならば一人のサラリーマンということになります。レビは、ザアカイのような自由な身分ではありませんでした。

 そんなレビが、主イエスに招かれて弟子になりました。直接招かれたのですから、直弟子になったのです。ところが、このレビについては不思議なことがあります。レビが間違いなく 主イエスの直弟子になったところまでは確かなのですが、今日の箇所の少し先の3章16節から19節に出てくる主イエスの12人の直弟子たちの名前の中に「レビ」という名前は出てこないのです。3章18節に「アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン」とあります。ここに出てくる「マタイ」も元々徴税人でした。また「アルファイの子ヤコブ」という名前は出てきます。けれども「アルファイの子レビ」という名前は出てきません。今日の箇所で「収税所で仕事をしていたレビは、まことに思い切りよく主イエスに従ったのだ」と記録されていながら、レビという名前は12弟子の人名表には載っていないのでした。
 よく知られていることですが、レビが弟子に招かれた話はルカによる福音書には出てきますが、マタイよる福音書には出てきません。マタイ福音書では、代わりにマタイという徴税人が主イエスから招かれ弟子になったという記事が9章9節以下に出てきます。今日の記事と大変よく似ていますから、アルファイの子レビはマタイと同じ人ではないかと考えられることも多いのです。
 けれどもそうだとすると、マルコによる福音書の弟子の人名表の中に、マタイと並んでアルファイの子ヤコブという名前が出てくることも引っかかります。今日のところで、新しく主イエスの直弟子に加えられた人物がいることは間違いないことですが、この人が本当はどういう名前だったのか、それがレビかマタイかヤコブかということは、はっきりしません。
 こう考えますと、マルコによる福音書をはじめとする福音書が書かれた時代、それは主イエスの十字架から50年から60年ほど過ぎた頃ですけれども、その頃には12人の直弟子であっても、その一人一人の記憶についてはかなり薄れていたらしいということが分かります。そしてそのことからは、福音書が何を大切に伝えようとしているのかということも聞こえてきます。それは、主に従った個人一人ひとりが大事にされるということよりも、12弟子という数で言い表されている事柄、つまり「12弟子」は「神の民全体」を表すような意味がありますから、「召された者たち全ての集い、教会の交わりそのものが大切にされている」ということであり、記された12人の弟子の名は、教会の交わりが本当に神の民なのだということを表すために記されているということです。

 聖書のこういう点から、私たちは、教会やキリスト者について大切なことを示されていると思います。つまり私たちは一人一人が主イエスを救い主と仰ぐ神の民の一人ですが、それは私たちが自分で主イエスを仰ぐというよりは、12弟子に代表される一つの教会に連なることで、私たちも一人一人のキリスト者とされていくということです。一つの主の教会に連なっていてこそ、私たちはキリスト者であり続けることができるのです。教会を離れて自分一人だけでキリスト者であり続けるということはできません。
 けれども、このことは誤解されてはならないと思います。私たちは教会の中で、まるで十把一絡げに没個性的に束にされて扱われるというのではありません。私たちには一人一人、その人らしい個性が与えられています。そして私たちは皆が、それぞれに違っている個性や特徴を備えながら、それでいて教会の頭である主イエスのもとで一つの教会に招かれるのです。私たちは皆、その人らしい生活をしながら一つの教会を形作るように招かれます。
 そしてこのことについて聖書は、さまざまな言い方で伝えようとしています。例えば、コリントの信徒への手紙第一には、教会には様々な個性を持つ人が集められているのだと述べられた後、12章27節に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。そして、このことをもう少し丁寧に説明するような言葉がエフェソの信徒への手紙4章13節から16節に出てきます。4章13節から16節「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」。ここに述べられていることは、「主イエスと私たちはどう結びつくのか、それはキリスト者一人一人が自分の理解や考えや思いだけで結びつくのではない」ということだろうと思います。むしろ様々な個性を持ち、その人らしい短所も長所も両方与えられている人間が、その人らしい姿で教会の群れに招かれ、そして群れの中で共に成長させられ一緒に生きて、頭である主に向かって育てられていく、その中で、主イエス・キリストによって示されている愛に次第に満たされて、主に倣う者とされていくのだということです。アルファイの子レビも主イエスを頭とする教会の交わりの中へと、この日、招かれ召されていきました。「『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」と言われている通りです。

 さてしかし、これはもちろんのことですが、アルファイの子レビが主イエスから招かれ立ち上がった時に、レビ自身の中に、今申し上げたような、「多くの兄妹姉妹たちが共に招かれ、一つに結び合わされて歩む」という、後の教会の幻が兆していたかというと、そんなことはなかっただろうと思います。この日レビが自分の目で見たもの、主イエスのもとに弟子として従っていたのは、先に召されたペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、その他数人の弟子たちだっただろうと想像することができます。そしてそういう数人のグループに、レビも加わったのでした。
 しかしそれにしても、14節の言葉は本当にそっけない書き方になっています。ある人がこの箇所を読んで、「これはまるで、木に彫りつけた木彫を見せられているみたいだ」という感想を述べています。14節には「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」と、出来事だけがあっさりと述べられています。けれども私たちは、この時のことを考えますと、「いろいろなことがあったのではないか…」と率直に思うのではないでしょうか。昔の方が今日より生活の仕方はシンプルだったかもしれません。しかしたとえそうであっても、今まで徴税人として暮らしてきたレビが、主イエスから「従って来なさい」と言われて即座に従う、そこでは心のうちに何かの戸惑いや迷い、問いがあったに違いありません。
 私たちとすれば、レビが主イエスから呼びかけられた時、どんなことを心の内に思い、どのように自分を納得させて従うようになっていったのかという内面の動きを、是非とも知りたいと思います。ところが聖書は、いかにも私たちの興味を引きそうなレビの内面の事柄については一切触れていません。それは、神の御前にあって決定的なことは「わたしに従いなさい」という主イエスの召しを受けて「従うのか。従わないのか」、その一点であるためです。

 「わたしに従いなさい」という招きがレビに発せられたときに、レビはすぐに決断して従うことができました。シモン・ペトロとアンデレに「わたしに従いなさい」と主イエスがおっしゃった時に、彼らもすぐに従うことができました。主イエスの招きを聞いた時にすぐに決断して従うことができる人というのは、誠に幸いな人です。
 しかし、皆が皆、このように即座に主イエスに従えると決まっているわけではないだろうと思います。主の招きの言葉は確かに聞こえる、けれども、その前で長く考え、ためらった末にようやく主に従っていこうと決心するという場合もあるだろうと思います。早いか遅いかということは、もしかするとあまり大きなことではなく、肝心なのは、その人の生涯の中で「わたしは主イエスの弟子です。わたしの人生は確かに主イエス・キリストの御手の内にあります」という、はっきりした理解が生まれていることです。
 アルファイの子レビは、思いがけず仕事をしていた時に主イエスから呼びかけられて弟子へと召されました。レビは自分から求めて湖のほとりに出かけたわけではありません。その意味では、レビの方から主イエスに興味を持って近づいたわけではないのです。レビとすれば、大変不思議だったに違いないのですが、こういう主イエスとの不思議な出会い、あるいは主の招きというのは、果たしてこの日のレビの上だけに起こったことなのでしょうか。私たちにも似たようなところがあるのではないでしょうか。
 私たち自身、自分が最初から望んでいたわけではないけれど、生きてきた中である日、誰かの紹介で主イエスに出会わされ、そして聖書の言葉を聞いている中で「あなたはわたしに従ってくるのだ」と呼びかけられていることに気づかされて、信仰を持つようにされたのではないでしょうか。

 主イエスは、祈りを捧げてくださいます。そして、御言葉を取り次いでくださいます。そのようになさりながら、ご自身に従い弟子となる一人一人を探し求めておられるのです。
 主イエスは決して、今身許に集っている弟子たちだけで十分に多いとはお考えになりません。「他の町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と言われた主イエスは、ガリラヤ付近の町や村をめぐって人々を招かれました。しかしそれで終わりではなくて、ユダとサマリアの全土で、そして地の果てに至るまで、主イエスは働いておられます。そして、「主に従い、神の御手に支えられて生きる」そういう一人一人を招こうとしてくださるのです。

 今日私たちが聖書から聞かされているのは、そのような主イエス・キリストの働きの一端です。カファルナウムの収税所でアルファイの子レビが招かれたのと同じように、主イエスは私たちにも招きの言葉をかけてくださいます。
 私たちのことも、御言葉をもって慰め支え、そして神の慈しみを信じてそのもとで生きるようにと私たちを招いてくださいます。
 教会の中で、そういう神のなさりように対する賛美を共にしながら、主イエスに伴われて生きる幸いな日を歩み出す者とされたいと願います。

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