聖書のみことば
2021年8月
  8月1日 8月8日 8月15日 8月22日 8月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月8日主日礼拝音声

 中風の人のいやし
2021年8月第2主日礼拝 8月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第2章1〜12節

<1節>数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、<2節>大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、<3節>四人の男が中風の人を運んで来た。<4節>しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。<5節>イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。<6節>ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。<7節>「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」<8節>イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。<9節>中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。<10節>人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。<11節>「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」<12節>その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 ただいま、マルコによる福音書2章1節から12節までをご一緒にお聞きいたしました。1節から3節までに「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た」とあります。ガリラヤ地方を巡っておられた主イエスが、再びカファルナウムにおいでになって「家の中におられた」と述べられています。主イエスは、生涯、ご自身の家をお持ちではありませんでした。ですからここに言われている「家」は、おそらく、少し前にシモン・ペトロの姑の熱病を癒されたことで懇意になったシモン・ペトロと兄弟アンデレの家だろうと思われます。
 主イエスがその家に泊まっておられることが知れ渡ると、大勢の人々がその家に押し寄せてきました。この家は大変質素な造りの家でしたから、主イエスがおられる部屋はたちまち人でいっぱいになり、戸口まで人が満ちるようになりました。そんな人々に向かって、主イエスが「御言葉を語っておられた」と言われています。
 私たちにとりまして「御言葉」と言えば新約聖書の主イエスの話だと思いがちですが、この時点では主イエスご自身が語っておられるのですから、まだ新約聖書は書かれていません。おそらく、主イエスが旧約聖書の言葉をもとに父なる神について話をしておられたのだろうと思います。

 するとそこで、予想外の事が起こりました。まずは3節ですが「四人の男が中風の人を運んで」来ました。中風というのはやや古めかしい言い方ですが、今日風に言いますと、脳梗塞などの理由で体が麻痺している状態、症状を言います。原因は必ずしも脳梗塞とは限りません。とにかく体が麻痺して自分では動けないでいる、そういう病人を、おそらく友人たちと思われる4人が、戸板かあるいは携帯用の担架に病人を乗せて連れて来たのでした。そしてここまでなら、これまでにもよく見られたような光景です。ところが、誰も予想しなかったことがその後に起こりました。4節に「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」とあります。
 教会生活の長い方は、何度もこの話を聞かされているうちにいつの間にかこの話に慣れてしまって、あまり驚かれないかもしれません。けれども、この話を今日初めて聞くという方がおられたら、多分ショックを受けられるのではないかと思います。本当にひどい話で無茶苦茶だとお感じになる方がいても不思議ではないと思います。
 何と言っても、この家は主イエスご自身の家ではありません。またこの病人も4人の人も主イエスの身内だったとも書かれていません。おそらく主イエスと初対面の人たちです。それなのに「病人を主イエスのもとに辿り着かせたい」という思いから、他人の家の住居の屋根を壊しています。こんなことが許されるのだろうかと思う方がいても不思議ではありません。さらに、この場面を実際に思い浮かべて考えますと不思議に思います。パレスチナの家というのは外階段がついていて屋根の上まで登れる造りだったようですので、中風の人を連れて来た4人は、外階段を上って屋上に立ち、萱や粘土で葺いてある屋根を壊したに違いないのです。けれども、かなり狭い幅の担架だとしても、担架をつり下ろすにはかなりの大きさの穴を屋根に開けなければなりません。いったいペトロやアンデレは、自分の家の屋根が壊されていることに気がつかなかったのでしょうか。大変横暴な行いだと言って止めに入ることはなかったのでしょうか。そういう点について、この福音書自体は少しも訝しいと思っていないようです。これが大変不思議なところです。
 ですから聖書の註解書でも必ず取り上げられるところです。注解書によりますと、そもそもパレスチナ地方と日本では気候が違うため、家の構造も違うという説明がされます。パレスチナの家は屋根が平らで、木の棒を家の壁の上に渡し、そこに萱などを置き、さらに粘土などで隙間を埋めて簡単に屋根を葺くそうです。大雨が降ると雨漏りすることもありますが、パレスチナは雨季と乾季がはっきりしていますから、むしろ乾季には屋根に穴が開いていれば風通しが良くなり、暑い時期を涼しく過ごす工夫として始終屋根に穴を開けたりまた閉じたりということをしていたようです。ですから、家の屋根に穴が開けられて床がつり降ろされるという出来事があっても、それは、日本の家屋で屋根に穴が開くということほど大ごとではなく、また簡単に修理ができたのだと説明されています。

 しかし、たとえそうだったとしても、この4人がした事は決して当たり前の事とは言えないと思います。この4人には常軌を逸しているところがあるわけです。何としても自分たちの仲間である中風の人を主イエスの前につり降ろし診ていただきたい、そして癒していただきたいという懸命な思いがあることは確かです。
 そして彼らは、そういう自分たちの大変真剣な思いを主イエスに知っていただくことに成功しました。5節に「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。主イエスは、ひとまずこの事を受け入れてくださいました。
 けれども、これまでの成り行きも予想外でしたが、ここで主イエスがおっしゃった言葉には、恐らくこの4人もびっくりしただろうと思います。この4人が病気の人を連れて来たのは、何といっても病気を癒していただきたいという思いがあったからですが、しかし、主イエスは連れて来られた人に向かって「子よ、あなたの罪は赦される」言われました。一体なぜ主イエスはこんなことをおっしゃるのでしょうか。主イエスのこの言葉もやはり腑に落ちませんから、さまざまな説明がされてきました。
 例えばある人は、「この出来事には隅々にまでイエスの助けに対する信頼が行き渡っている。そしてイエスはその信頼を踏みにじられなかった。ここには切実で確信に満ちた願いがあった。イエスはそれを辱めないで聞いてくださった。それゆえにイエスは病人に恵みの言葉をかけてくださった。それは病人の罪を葬り、その罪から生じていた悲惨、これからも生じる悲惨全てにけりをつけ、終わりを告げるものだった」と言っています。つまりこの註解者の説明は、簡単に言うと「主イエスのもとに病人を連れてきた人たちは、きっと主イエスがこの病気を癒してくださると心の底から信じて、まっすぐ主イエスに願う信仰があった。その大きな信仰を主イエスも認めてくださって、連れて来た人たちが願ったものより以上のプレゼントをしてくださった」ということです。あるいは他の人は、「ここに言われている信仰とは、主イエスへの信頼と熱意を意味している。当時、病気や苦しみは罪に対する神の裁きと考えられていた。この中風の患者も自分の病を罪の裁きと受け取って悩んでいたのかもしれない。主イエスはその根本の問題に触れて『罪を赦す』と宣言してくださった。この罪の赦しの宣言はイエスの権威を背景としている」と言います。こちらの説明になると「この病人は、本当は病気のことよりもっと深刻に、自分に罪があるのではないかということで悩んでいた。主イエスはそれをご覧になって『あなたの罪は赦される』とおっしゃってくださった」と言うのです。あるいは、また別の人は「当時ユダヤ教のラビたちがこんな格言を語っていた。『全ての罪から赦されないで、病気の癒された人はいない』」。この説明は「当時は、まず神さまとの関係が整えられることが大事で、そこから体の健康も生まれてくると考えられていた、その表れである」というものです。一つ一つの説明を一つだけ聞くと「なるほど」と思うかもしれませんが、このように並べていくつも聞かされますと、どれもすっきりしない説明だという思いになるのではないでしょうか。私たちはやはり、主イエスのこの言葉には不思議なところがあると思わざるを得ないと思います。

 けれども聖書では、この主イエスの言葉は、説明されていくというよりはむしろ、主イエスの言葉がきっかけになって話がさらに先へと進んでいきます。この家の居間に居合わせた人たちの中にたまたま2人の律法学者たちが座っていて、主イエスの言葉に激しく反発しました。6節7節に「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」とあります。一体どうしてペトロの家の居間に律法学者たちが入り込んでいたのか。また、彼らは口に出して主イエスを批判したのではなく、ただ心の中に思っただけなのに、どうして主イエスが彼らの心の内を知ることになったのか。ここにはたくさん分からないことがあります。
 けれども聖書では、主イエスがご自分の霊の力で律法学者たちの反発を見抜かれたという言い方がされています。主イエスは私たち人間とは違う、神の独り子であり神と等しい方なので、私たちがたとえ口に出さず心の内に思い描いたことでも、「見抜かれた」というほかはないように思います。
 主イエスは律法学者たちの心の内の反発を取り上げて、8節9節で「『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか』」とお尋ねになりました。これは私たちの感覚から言うと、答えるのがとても難しい問いであるように思います。ただ口先で言うだけならば、「罪は赦される」とか「病気は治るよ」と簡単に言えるかもしれません。けれども、実際に言った通りのことが行われるのだとすれば、どちらも難しいと言わざるを得ません。「罪が赦される」ということは神と人間との関係の話ですが、「病気が治る」ということは人間の体の話ですから、それぞれ性格が違う話です。性格の違うことを二つ並べて、どちらが易しいかと問うこと自体が、問いにはならない問いのように思います。

 けれども、これは今日の私たちの受け取る感覚なのだろうと思います。今日でこそ、神との関係が切れているという人間の罪の問題と、体が良くなるという病気の癒しの問題は、かなり別々の事柄だと考えられています。ところが聖書の時代、主イエスが生きておられた頃には、この二つは密接につながっていると考えられていました。癒しや不思議な業、奇跡を行うということが、主イエスが神のもとからお出でになった証拠であり、「神とのつながりの中で罪を赦すこともおできになるのだ」と考えられていた、そういう痕跡を聖書の中から幾つか聞き取ることができます。
 例えば、ヨハネによる福音書3章にニコデモという人が登場しますが、ニコデモは主イエスがなさっておられる癒しの業を念頭に置きながら、主イエスに言っています。3章2節「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。ニコデモは「主イエスは神のもとから来られた方だと分かる」と言い、それは「神さまが一緒にいてくださるのでなければ、あなたのなさるようなしるし、つまり病を癒すという業は、だれも行うことはできないから」と言っています。また、使徒言行録2章22節で、弟子のペトロは主イエスについて説教した際に「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言っています。ニコデモもペトロも同じこと言っています。「癒しが行われること」「癒しを行う人が神のもとから来られた方であること」、それは聖書の時代の人々の感覚ではごく当たり前のことでした。
 ですから、今日の箇所でも同じようなことが言われているのです。主イエスの問いは「中風の人の罪が赦されることと病気が治ることと、どちらが易しいか」という問いですが、実はそういう言い方で主イエスがおっしゃっているのは、中風の人が癒されることでご自身が神のもとからおいでになった方であることが明らかになるだろうということです。
 体が麻痺していた中風の人は、人間的に見れば嫌なこと辛いことですが、しかし体が不自由であったが故に、却って主イエスから癒されることで、主イエスが神から遣わされた方であり罪を赦す権威をお持ちの方であることを自分の身を通して証しするということになりました。

 さて、今日の箇所で起こっている出来事とは一体何なのでしょうか。目に見えるところでは「中風の人の癒された」ということです。けれども、この聖書の言葉が本当に伝えようとしていることは、中風の人の癒しを通して「主イエスは人間の罪をお赦しになり、人間と神との間の断絶に橋を架けてくださるお方である」ということではないでしょうか。
 ですから、主イエスは「『あなたの罪は赦される』と言うのと『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と、それだけを考えると返答に困ってしまう問いかけをなさり、この二つは互いに関わっていることを示そうとされたのでした。
 そして、主イエスが中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた時、間髪入れずに「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」と最後に書かれています。それは中風という病気が確かに癒されたということと同時に、もう一方、主イエスが神のもとからおいでになった方で罪を赦す権威をお持ちなのだということが現された、そういうしるしでもありました。ですから、この病人が癒された時に、同時に「主イエスが人の罪を赦すことがおできになること」、つまり「あなたの罪は赦される」ということも宣言されました。

 そしてそうであればこそ、今日の癒しの記事には、今までいくつかあった癒しの記事とは違う、結びの出来事がくっついています。それは、その場にいた人たちが皆神を賛美するようにされたという結びです。12節に「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」とあります。
 主イエスによって罪の赦しが宣言される、そして清くないはずの人間が清いと言われ癒されていく、その時そこで神への賛美の声が湧き上がるのです。
 私たちは礼拝のたびに、聖書から「主イエスの御業、主イエスがどういうお方か」を聞かされます。毎週毎週私たちが聞かされるのは「あなたがたとえどんなに破れを抱えていても、どんなに上手くいかなくても、どんなにままならないところを持っていても、それでもあなたの罪は赦される。あなたは主イエスとの関わりの中で本当に神に愛され、神との結びつきの中で生きることができるようにされている」という語りかけです。そして「本当にそれは嬉しいことだ」と思わされ、勇気を与えられたり慰められたりしながら、神を賛美するということが、毎週この教会の礼拝でも起こっているのだと思います。

 教会にとって「賛美」は、「自分の、また自分たちの罪が赦されている」ということを確認させられていく業です。私たちは「赦されている者」として、「今ここで『生きて良いのだ』と宣言をされている者」として、本当に喜んで心から神を賛美をして、そして自分の一生を歩んで行こうという思いを新たに与えられます。
 そして、そういう罪の赦しの中にあって、様々な癒しも行われるということを覚えたいのです。

 神が主イエスのもとに多くの人々を招き、そしてその群れ全体を賛美へと招こうとしておられます。
 私たちは、主イエスのもとに招かれ賛美する生活の中で、「罪を赦され、また癒しを与えられて、神との交わりの中を生きる」、そういう生活へと新しく招かれていることを覚えたいと思います。お祈りを捧げましょう。

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