聖書のみことば
2021年7月
  7月4日 7月11日 7月18日 7月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月11日主日礼拝音声

 力の主
2021年7月第2主日礼拝 7月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章21〜28節

<21節>一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。<22節>人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。<23節>そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。<24節>「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」<25節>イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、<26節>汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。<27節>人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」<28節>イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 ただいま、マルコによる福音書1章21節から28節までをご一緒にお聞きしました。21節22節に「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。カファルナウムの町というのは、主イエスが弟子たちを招き集めガリラヤ地方で伝道活動をなさった時、その最初の拠点を置かれた町として知られています。この町にはシモン・ペトロとアンデレの家がありました。主イエスもその家にお住まいになったと言われています。

 今日の箇所は、主イエスがカファルナウムの町のユダヤ教の会堂で伝道を始められた時、それに接した人たちの驚きを伝えています。ここはかなり省略された形で記されていますので、ここだけを読みますと、主イエスが安息日の会堂で自由に話をしたように誤解して受け取られてしまうかもしれないのですが、安息日の礼拝にはある定まった形式がありました。礼拝の中で、まずは律法の巻物が読み上げられ、時によっては旧約の預言者の言葉を記した巻物が読み上げられ、それらの言葉を説き明かす人がいる場合には、説き明かしがなされました。いない場合には、もう少し長く律法の言葉を聞いたようです。

 主イエスが安息日の会堂で人々に教えたということは、説き明かしの部分を担当されたということですが、その説き明かしを聞いた人たちが皆一様に驚いたと語られています。驚いたということは記されていますが、肝心の、主イエスがどんな説き明かしをなさったのかについては何も記されていません。この日、主イエスが一体どんな話をなさったのか、聞いた人が皆驚くような話とはどんな話だったのか、記録がなく分からないのですが、しかし、いくつかの手がかりがここには記されています。

 第一は、22節にあるように「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ということです。これはどういうことを言っているのでしょうか。当時の会堂での教えというのは、律法や預言者の書の説き明かしを、律法学者たちは自分が教えてもらった先生の言葉を引用をするような仕方で、その日与えられた言葉の説明をしました。例えて言うと「あの有名なラビ、ヒレルさんは、この箇所についてこう語っている。あるいは有名なラビ、ベンザッカイさんは、この箇所をこう解釈している。有名なラビ、ガマリエルさんは、この箇所について、またこう言っている」という具合に、律法学者自身が属している学派の偉い先生の言葉を孫引きするような仕方で、聖書の説き明かしをしていました。
 そういうやり方をすれば、読み上げられた聖書の説明をすること、またそれがどんなに大事な言葉かを教えることはできます。けれども、そういう説明を聞くだけでは、その場で「神さまご自身がわたしに何を語っておられるのか」ということに、なかなか思いが向かないことになります。言葉の説明を聞くだけでは、聖書の知識を得るということだけになってしまいます。そういう点で、主イエスの説き明かしは違っていたのでした。
 主イエスはどんなラビの解釈も必要とされませんでした。主イエスは、人間的な権威の鎖に依り頼むということをなさいません。もともと、主イエスご自身が神の独り子であって、神の御心をよくご存知ですから、古い人間の教えや解釈の仕方を紹介するのではなく、確信を持って、「この聖書の言葉はこういう意味である。神さまは今日、この御言葉を通してこういうことを告げておられるのだ」と、直接教えられました。主イエスご自身が確信するところをお語りになり、神につき、神の御心について、主イエスが理解しておられることをお語りになりました。ですから聞いた人たちは、「これは一体どういうことなのか、権威ある新しい教えだ」という感想を語るようになりました。

 この日、会堂で主イエスがなさった話についての手がかりは、他にもあります。今日の箇所の少し前、1章15節に、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたとあります。「神の国は近づいた」というとき、「神の国」は、どこかの場所を指しているのではなく、「神の慈しみに満ちたご支配」のことを言っています。「神さまの慈しみに満ちたご支配が、今、あなたの前に来ている」、それが「神の国は近づいた」という知らせです。それは「主イエスが目の前に来ておられる」からです。主イエスご自身が来られ、「あなたの目の前に、あなたが手を伸ばせば届くほどのところ、あなたがその気になれば実際に触れ合えるところ」に、神さまのご支配を実際に生きておられる主イエスがおられる、そういう意味で主イエスは「神の国は近づいている」とおっしゃったのでした。
 この言葉をそのまま当てはめて考えると、この日カファルナウムの会堂に集まっていた人たちは、まさに「主イエスの前に立っている」ということになります。主イエスがそこにいてくださるが故に、「神の国のすぐ近くにいる」ということになるでしょう。そういう場面では、すなわち実際に神の御心に従い御心を生きておられる主イエスがそこにおられるという場面では、聖書の言葉は、もはや神抜きの人間の言葉の言い伝えや教え、あるいは約束事、先を示す予言ではなく、「今まさにここで神に触れている、神と触れ合って生きる現実を告げる言葉」になるのです。主イエスご自身が聖書を説き明かされるとき、律法学者たちがしていたような聖書の説明ではなく、その聖書の御言葉を通して、「まさに今、生ける神がわたしに出会ってくださっている。神さまが直接語りかけてくださる」という形での説き明かしがなされるのです。
 ですから、そういう主イエスの言葉を聞いた人たちは大変驚き、27節「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」と語り合いました。それは、主イエスがそういう形で、ご自身が神から遣わされた救い主としてその場にいた人たちに向き合っているということをお示しになり、ご自身がどういう方かを現してくださっていたからです。

 ところで、主イエスがそのようにはっきりと、「今ここに、神さまの御支配が、慈しみに満ちた生活が来ている。あなたもわたしと一緒にその生活を生きることができる」と語られるところでは、神に従おうとしない勢力がうごめいていて、当然そこでは主イエスの言葉に対するはっきりした反発も生まれてきます。この日の会堂では、まさにそのようなことが起こりました。23節24節に「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」とあります。救い主が現れ、実際に人間と出会われるという場面では、いつでもこういうことは起こり得るのです。この日カファルナウムで起こったことは、どの時代のどの場所でも起こり得ることです。
 それまで密かに「これは自分の領分だ」と思っていたところを、「今ここに神さまの支配が現れている」と聞かされますと、その言葉を恐れて必死に抵抗するということが起こります。ここでは「汚れた霊に取りつかれた男がいて」と、古めかしい言葉が使われていますので、私たちは「これは自分たちには無縁のどこかのお伽話の世界に起こっていること」と感じてしまうかもしれません。
 けれども「汚れた霊に取りつかれた男」ということに注目するのではなく、この男の人が語っている言葉に注目したいのです。この人は「我々を滅ぼしに来たのか」と言っています。叫んでいるのは一人の男の人ですが「我々」と言っています。これは、一人の人の中に複数の何者かが潜んでいるというしるしです。この言葉は、この人の人格が分裂してしまっていることを表しています。
 しかしどうして、こういう不思議なことが起こるのでしょうか。それは、実は私たちにも起こり得ることかもしれません。私たちが、ただお一人であられる神に真剣に直面しようとしないということに原因があるのではないでしょうか。「ただお一人の神が、わたしを地上にお造りになり生まれさせてくださった。命を与えてこの地上を持ち運び、どんな時にも『あなたは今ここで生きるのだよ』と招き導いてくださる。たとえわたしがどんなに神に背を向けて手の施しようもないくらい遠ざかってしまっても、そういうわたしをご自身に結びつけるために、独り子さえ犠牲にすることを厭わない神がおられる。わたしは今、そういう神の前に生かされているのだ」ということに、きちんと向き合おうとしていない、そういうところから、一人の人の中に人格の分裂ということが起こってくるのではないでしょうか。
 この会堂にいて叫び始めた男の人は、どこにいるかというと、会堂にいるのです。ということは、この人は最初から全面的に神に背を向けているということではなく、神を礼拝しに会堂に来ることは、やぶさかではないのです。ところが、その礼拝の場で主イエスが神の権威を明らかに現され「あなたは今、神さまの御支配のもとに生きるのだ」と言われると、その言葉に背を向けてしまいました。
 「私たちの上に、いつもただお一人の神さまがおられ、私たちはその神さまのもとで生きている」という事実が確認されるところでは、私たちの行動には裏表が生じなくなります。ところが、この事実を傍に押しやってしまって、私たちがその時その時の思いや気持ちに振り回されて、自分自身を適当に使い分けてしまうと、そこから私たちの人格の分裂は始まります。そう考えますと、この日大きな声をあげていた男の人は、決して私たちにとって無縁な人物だとは言えないのではないでしょうか。この人物の中に密かに入り込み、その人格を分裂させ、主イエスに逆らわせようとしている汚れた霊が、私たちの間にも入り込んでくるということはあり得るのではないでしょうか。神に従って生活したいと願いながら礼拝に来る、そう思っている人の内面に忍び込んで、いつの間にかその人の人格を分裂させてしまう悪の力というものは、誰の中にでも入り込んでくる場合があり得ると思います。

 私たちはこういう汚れた霊の力に対しては大変弱いところがあり、私たちはいつも分裂させられそうになるという危機の中にあるのですが、汚れた霊からしますと、この日、カファルナウムの会堂では全く予想もできないような相手に直面するということが起こりました。「この相手の中には決して忍び込むことができない」、そういう相手に、汚れた霊は出会ってしまいました。ただお一人の神と直接繋がっていて、神との間柄にいささかの隙間も隔たりもない、そういう方に会堂で出会い、汚れた霊は大いに慌てて恐れています。ですから24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びました。まさにこの悪霊が認めているように、悪霊の言う「我々」、つまり人格が分裂している状態を滅ぼすために、主イエスはおいでになりました。マルコによる福音書を記したマルコは、この点に、主イエスがこの世においでになった目的の一つを見ています。
 主イエスは、大声で叫ぶ男の人を会堂から追い出そうとはなさいません。この人を追い出す代わりに、この人に巣食っている汚れた霊に沈黙をお命じ、出て行くように言われました。すなわち、この人の中で人格を分裂させていた事情を取り除き、この人が二心なく守備一貫した人生を送るようにしてくださいました。25節26節に「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とあります。

 今日のこの記事は、遠く古い時代に、他所で起こっているよく分からない出来事を記しているのではなく、私たち自身の中に忍び込んで潜んでいるかもしれない、神への二心ということを気づかせてくれる、そういう記事です。この男の人の人格が、人の思いを超えて忍び寄ってくる悪霊によって分裂させられていたことに気付かされる時、恐らく私たちは、「それならば自分はどうか」ということを考えるようになるのではないでしょうか。そう考えて恐れを感じる方も多くいるのではないでしょうか。「わたしは大丈夫だろうか。礼拝に来ているけれど、わたし自身は神さまの前に二心を決して抱かないと言えるのか」と、私たちは途端に自分について心細くなります。
 けれども、教会の礼拝は、たとえ様々な霊の力に晒されて二心の状態になりかかっている人であっても、その人を追い出すのではなく、その人を受け入れ受け止める包容力を備えています。ですから礼拝には、どんな方でもおいでになって良いのです。あるいは私たちがどんな心の状態にある時でも、礼拝に来て良いのです。この場に来るということは、どんな場合でも望ましいことです。

 そして同時に、とても大事なことですが、礼拝において私たちと親しく交わり御言葉をかけてくださる主は、礼拝から汚れた霊をそのままでお帰しになるような方ではありません。カファルナウムの会堂で、汚れた霊に誘惑され密かに二心を持つようになっていた男の人から、主イエスは悪霊だけを追い出されました。私たちの場合も、同じだろうと思います。礼拝の中で聖書が読まれ、主イエスが説き明かしてくださる。そのことを通して、私たちの中から神に逆らう霊が追い出されていく、ということが実際に起こるのです。
 主イエスがこの場に共にいてくださる礼拝では、「神の御前に一人一人が名前を呼ばれ、集められ、神の御前に整列させられて、御言葉によって清められ、神のなさりようを讃美する者へと造り替えられて、それぞれの生活の場に送り出される」ということが実際に起こっています。思い当たることがあるのではないでしょうか。礼拝を捧げる前と後では、何となく自分の状態が変わっていると感じることがあるのではないでしょうか。礼拝に来る前には気がかりで重い気持ちだったものが、礼拝を終えて家路に着くときには、どういうわけかスッキリした思いで、新しい1週間に向かっていく気持ちにさせられるということがないでしょうか。礼拝を捧げる前と後で、私たちの置かれている客観的な境遇は何も変わっていないはずです。一体何が起きているのでしょうか。
 それは、礼拝の場で、私たちの中に密かに潜んでいる二心が清められ、思い煩いが滅ぼされるということです。その直接の結果として、私たちは朗らかな真っ直ぐな気持ちで「もう一度、ここから歩んでよい」という思いを与えられるのです。

 今日の箇所では、主イエスがせっかく会堂で御言葉を説き明かしてくださったのに、その説き明かしの内容については記されていませんでした。それはどうしてでしょうか。もしここに説き明かしの内容が記されているとすれば、私たちは、主イエスのその教えにばかり気を取られてしまうかもしれない、それを避けるために、わざと内容を省略しているのかもしれません。
 私たちにとって何よりも大事なことは、主イエスに礼拝の中で出会わされ、御言葉を通して、主イエスが示してくださった神を真面目に誉め讃えるようにされるということではないでしょうか。まさに神の独り子であり、神といささかの隙間も分裂もない主イエスとの交わりを通して、私たちもまた、「主イエスのような一筋の人格を生きる者、神に造られ支えられ生かされ、この世を去るときにも神のものとして死んでいく」、そのことを確かだと言いながら歩む、そういう人生を辿る者とされたいのです。

 主イエスの御言葉に清められ、主イエスを通して、ただお一人の神だけを見上げ、この神を生涯讃えて生きる、そういう幸いな者とされたいと願います。

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