聖書のみことば
2021年7月
  7月4日 7月11日 7月18日 7月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月4日主日礼拝音声

 主の招き
2021年7月第1主日礼拝 7月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章16〜20節

<16節>イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。<17節>イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<18節>二人はすぐに網を捨てて従った。<19節>また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、<20節>すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 ただいま、マルコによる福音書1章16節から20節までをご一緒にお聞きしました。16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」とあります。直前の15節で主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃっていました。

 聖書で「神の国は近づいた」と言われるときに、「神の国」というのは、どこかの場所ということではありません。英語の聖書では「キングダム」という言葉が使われます。カントリーやステートではなく、神の国は「神の王国、神の権威に服する民の群れ」です。そして、自分こそが神の国の民に相応しいと立候補できるような人は、どこにもいません。
 人間は誰も、神の権威や御支配のもとで従順に生活するというよりは、どうしても自分中心に考えてしまいがちです。この地上で誰一人、その人だけで神の国を現せるような人はいません。皆がどこか自分中心であり、自分勝手に気ままに生きてしまうようなところがありまます。神の国の民ではなく、自分中心に生きてしまう、どこにも属さない、例えればはぐれ狼や一匹の虎のようなところがあります。
 ところが、主イエスだけは違います。主イエスだけは完全に神の御心をご存知であり、神の御心に従って歩まれます。主イエスが「神の国が近づいた。神さまの御支配がもうすでに来ている。あなたが神さまの御支配に触れることができるほどに近くにある」とおっしゃったのは、まさしく主イエスが生きてこの地上を歩く神の民の第一号、正真正銘の神の国の民だからです。
 そして今日の箇所につながることですが、今日の箇所で主イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いて行かれます。主イエスは湖のほとりを散歩しておられるわけではありません。主イエスは、ご自身がお出でになったことによって、初めてこの地上に現実となっている神の国、神の御支配のもとに生きる民を探しておられるのです。主イエスの方から招きの御言葉をかけてくださり、ご自身が今実際に歩んでおられる御国の生活を宣べ伝え、受け継がせようとなさるのです。

 主イエスが神の御支配、神の慈しみの広さと御力の強さを知らせて、それに与って生きる人々を招こうとなさっておられた、ちょうどその時に、シモンとアンデレという兄弟が湖のほとりで、投網を打っていました。16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」とあります。細かいことですが、ここでの「網」は、原文で見ますと複数です。ですからシモンとアンデレは、二人で一つの網ということではなく、それぞれに自分の網を投げて、岸辺に近い浅瀬に潜んでいる魚を捕らえようとしていたようです。
 また19節を読みますと、「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると」とあり、ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネが主イエスに目を留めていただいて弟子とされていきます。けれどもこの二人の場合は、同じ漁師であっても、シモンとアンデレとは随分経済状況が違っています。シモンとアンデレは岸辺で投網を投げ、その日の魚を獲る生活です。ところが、そこから主イエスがしばらく歩いた先にいたヤコブとヨハネは、網を打っているのではなく、舟の中で網の手入れをしていたと記されています。二人の父であるゼベダイは、日本風に言えば網元です。少し大きな舟を持ち、夜の間に湖の沖合に漕ぎ出し、流し網でたくさんの魚を獲り、明け方には帰ってくる、そういう大手の漁師でした。この漁は深夜から明け方ですから、朝には網を引き上げ魚を売りに行き、その後、日中には、次の漁に向けて大きな流し網の手入れをします。
 一方で、シモンとアンデレは、投網を打っている最中ですから、果たしてこの日の獲物が手に入るのかどうか、分からない状態で、もしかすると今日の二人に収穫はないかもしれないという不安の中で網を打っています。それと対照的に、ヤコブとヨハネはもうその日の漁は終わり、獲れた魚を市場で売り収入も確かな状態で、次の漁の準備をしています。

 ですから、「シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師だった」と言われますが、同じ漁師といっても、二組の兄弟の間には経済的な側面から言えば大きな違いがありました。そのように違いのある兄弟ですが、しかし、彼らには共通していることがありました。それは、主イエスが彼ら一人一人に目を留められたと言われていることです。主イエスが一人一人に目を留めて、その人をご覧になって、「弟子となってついてくるように」とお招きになりました。その点で4人は一緒です。この4人の漁師は誰一人として、自分の方から先に主イエスに気づいたとか、自分の方から主イエスに従おうとしたのではありません。いずれも主イエスの方が先に一人一人に目を留め、ご覧になり、主イエスの方から「わたしについて来なさい」とお招きになっておられます。

 主イエスは非常にはっきりした言い方で、招かれました。17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」とあります。主イエスがこうおっしゃったのは、この4人が漁師だったからです。主イエスが人々をお招きになるとき、その人々すべてに「漁師になれ」とおっしゃるのではありません。主イエスがシモンとアンデレに向かって「あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」と声をかけてくださったということは、二人が主イエスに招かれ弟子になったとしても、やはり元通りのその人らしい生き方をしていくということを物語っているのかもしれません。このことは、この先の12弟子の選びの箇所でも語ることになると思いますが、主イエスはご自身の弟子たちの中に、本当にさまざまな職業の人々をお招きになりました。4人の漁師だけでなく、徴税人マタイ、反対に徴税人をローマ帝国の手先と考えて暗殺しようとするテロリスト集団の人がいたり、果てには、主イエスを裏切るイスカリオテのユダまで、主イエスは弟子の集団にお加えになります。主イエスは、この世のさまざまな職業、さまざまな社会階層、さまざまな考え方をする人たちの間から、ご自身の弟子を一人一人、目を留めてご覧になり、「わたしについて来なさい」とお招きになるのです。それはまるで、神がこの世のどんな職業、どんな生き方にも、それなりにそれぞれ意味があり、「あなたの務めもあなたの仕事も、あなたの生活も必要なのだ」とおっしゃってくださっているかのようです。
 招かれる人はいろいろですが、しかし招きの言葉は非常にはっきりしています。「わたしについて来なさい」と、すべての人に同じように語りかけられるのです。原文に即して訳しますと「わたしの後をついて来なさい」とおっしゃっています。
 ですから、「主イエスの弟子になる、主イエスに従う」ということは、主イエスのもとにしばらくいて、思想や流儀、考え方や語り口や行いを身につけたら、あとは独立して自分なりのやり方で生きていくのが良いということではありません。「わたしについて来なさい」と主イエスがおっしゃっているのは、主イエスの方が「あなたと一緒にわたしが生涯を歩んであげよう」とおっしゃっていることでもあります。主イエスが一人一人を弟子にお招きになるところでは、常に、主イエスの側の約束が付いて回るのです。「わたしがあなたの主になろう。主となって、あなたといつも歩んであげよう」、そういう約束です。

 今日の箇所では4人の漁師が弟子とされましたが、弟子になるとはどういうことかというと、主イエスに従った時に、生涯にわたって、4人が主イエスに伴われて生きる生活を歩み出したということなのです。別の言い方をすれば、この4人が主イエスの中に何か深い宗教的な真理を見出してそれに従って行ったということではなく、「『わたしについて来なさい』と、こんなにはっきりとおっしゃる方であれば、よもや簡単にわたしを放り出してしまわれることはないだろう」と信じて、主イエスと歩みを共にしようと決心したということです。

 このように4人の弟子の招きが行われたことを聖書から聞きますと、私たち自身の信仰への入り口もよく似ていると思われる方がいらっしゃるのではないでしょうか。もちろん、今日ここに集まっている私たちは、どういう経験が入り口となって主イエスと出会い、主イエスから招かれ従ったか、その点は人それぞれだと思います。私たち人間の側からすれば、主イエスとの出会いはさまざまですが、私たちが主イエスに従いキリスト者であることの一番の根拠、確かさは一体どこにあるのかといえば、それは私たち自身の中にないということは、皆共通しているのではないでしょうか。私たち自身の想いの強さや霊的な感性であるとか、聖書の教えを理解する理解力とか、もともと私たちに備わっている何かが私たちと主イエスを繋ぐ拠り所であるということではないと思います。
 私たちがキリスト者である一番の根拠、確かさは、とても単純なことですが、主イエスの方から「あなたと一緒に歩んであげよう。わたしについて来なさい」とおっしゃってくださった、そして、そのことを素直に受け入れ信じたことに尽きるのではないでしょうか。主の言葉を信じることができるのであれば、いろいろなことがまだ分からないとしても、主イエスが生涯共に歩んであげようとおっしゃっている大事な土台のところは、既に知っている、分かっているということになるのではないでしょうか。

 この日、主イエスの弟子として招かれた4人は、一番最初に招かれた人たちですが、4人とも漁師だったということは大変示唆に富んでいると思います。ある説教者は、この4人について「この日、主イエスから弟子に招かれた4人は、人間的に見るならあまりに頼りない人々ではなかったでしょうか。彼らは、湖のどこに魚が潜んでいるかということは知っていても、自分が信じている事柄はこれだと言葉で説明できるような人たちではありませんでした。また、前々から主イエスと知り合いだったために従うというような謂れも何もない人たちでした。彼らはただ主イエスが『わたしについて来なさい』と言ってくださった言葉を聞いたいのであり、そしてそれに抵抗できなかったので、従う他なかったのです。主イエスを信じて従うという時に、最初から従うことの意味や内容が全て分かっていなくても、とにかく従うということで、この4人は十分だったのです」と語っています。自分が従っていく時に、その従うということの意味が分かっていないということは、少し虚を衝くような言い方だと思いますが、しかし、よくよく考えてみますと、「なるほど、そうだ」と思わされるのではないでしょうか。
 信仰を持つときに、私たちは普通は、自分が何を信じているのか、またどのように信じているのかを分かっていなければいけないと考えがちです。確かに、自分が何を信じているのか、その中身が何も分からない、あるいはそれが分かるということはどうでもよいことなのではなく、大事なことには違いありません。しかしその一方で、私たちの思いや気持ち、考え方は不動のものなのかと考えますと、決してそうではないと思います。私たちが理解したとしても、あるいは信じたとしても、その私たちの心や理解というのは、決して不動な揺るぎないものということではなく、しばしば移ろいゆくようなところがあるのです。
 自分の人生に、昨日は思いもよらなかったようなことが今日持ち上がった、今まで知らなかったような経験をさせられた、そういうことでも私たちは、人生観が揺さぶられたり、すっかり動揺させられてしまうということを経験します。その時に、確かなものは何か。それは自分が何を分かっているかではありません。分からなくなる、そういう時が来るかもしれませんが、それでもなお、そういうわたしを招いてくださっている方がおられ、その方が私たちを生かそうとしておられる事実は変わりないという、その点が、本当に私たちの拠り所になるのです。

 今日の箇所でいえば、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが何を考え、どんな立派な信仰理解を主イエスについて抱くようになったかということではなく、ただ主イエスがこの4人に目を留めておられる、そして率直に「わたしについて来なさい」と言っておられる、そのことが本当に大事な、変わることのない点なのです。
 どうして主イエスは、一番弟子として漁師をお招きになったのでしょうか。それは、主イエスと私たちの結びつき、繋がりが、人間の側の言葉による信仰理解とか思いの強さによるのではなく、ただ主イエスによるということがはっきりする、現す、そういう弟子として選んでおられるのです。
 思えば、私たち自身の信仰も、そういうところがあるのではないかと思います。この4人の漁師が、主イエスに招かれた時、どうして素直に従うことができたのか、世の人々はしばしばその点を問題にします。初めて会った人から「ついて来なさい」と声をかけられて、ついて行くはずがないと思う人が殆どです。ですから多くの人は、ここに書かれていないことですが、4人の漁師たちと主イエスは前々から知り合いで、何か付き合いがあってどうしても断れなかったのだと言っています。そう言いたくなる気持ちも分かります。私たちが頭の中だけで、この場面について思い巡らしている限りは、どうしても分からないだろうと思います。
 けれども、実際はどうだったのでしょうか。主イエスは、実際にこの4人の前に身をさらして出会ってくださり、「わたしについて来なさい」とおっしゃっています。そして、「ついて来なさい」という言葉は、ただ弟子たちに服従を求めている言葉なのではありません。私たちは誰と出会っても、どんな出会いをしても、「ついて行く」などということにはならないでしょう。しかしそうではなく、主イエスが「わたしがあなたと共に生きてあげる。だからあなたはわたしと一緒に生きるようになりなさい」と招いてくださっているのです。
 主イエスの招きというのは、決して物語なのではなく、実際に「あなたと生きよう」と言ってくださる主イエスの招きです。その主イエスの言葉を、本当なのだと信じ、そして主イエスがわたしと共に歩んでくださるのだということを聞き取って従う人は、生涯にわたって共に歩んでくださるお方と共に、新しい道に踏み出すということが起こるのです。

 人間にはどうしても、自分中心なところがあります。主イエスでない他の人であれば、「あなたと共に生きてあげよう」と思っても、言葉としては美しいのですが、どうしてもそうならない時がやって来ます。その言葉を出した時は本心でも、後々心変わりするなど、人間の決心には綻びが現れるのです。けれども、主イエスは違います。主イエスは神の御心をご存知で、「神さまの御支配があなたのもとにやって来ている」と語ってくださり、神の国の住人の、この地上での第一号として私たちの前に来てくださっているのです。そして主イエスは、神に愛されている者として漁師一人一人を招いてくださいました。漁師だけではなくここにいる私たちも皆そのようにして、主イエスに目を留められ、主イエスから「あなたと一緒に歩んであげよう。わたしについて来なさい」と、人生のどこかで招きを受けて、今、従う者とされています。

 「あなたを人間を獲る漁師としよう。あなたが本当に今まで歩んできたあなたであり、これからは、神さまに喜ばれる、必要とされる仕事に就く者としてあげよう。あなたはわたしに従って来なさい」と、主イエスが私たちを招いてくださり、今日の生活の中を生きるようにしてくださることを聞き取りたいと思います。
 主イエスが共に歩んでくださる幸いな者としての歩みを、ここから歩みたいと願います。

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