聖書のみことば
2021年7月
  7月4日 7月11日 7月18日 7月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月25日主日礼拝音声

 主の使命
2021年7月第4主日礼拝 7月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章35〜39節

<35節>朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。<36節>シモンとその仲間はイエスの後を追い、<37節>見つけると、「みんなが捜しています」と言った。<38節>イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」<39節>そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 ただいま、マルコによる福音書1章35節から39節までをご一緒にお聞きしました。35節に「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。「朝早くまだ暗いうちに」と言われています。一体何時頃のことだったのでしょうか。日の出よりも前の時刻だったことは間違いないようです。世の中はまだ闇に包まれて寝静まっています。主イエスお一人だけが目覚めて起き出し、人里離れて祈っておられました。このように、この朝、主イエスが一人で祈っておられたことは誰も知りません。人々はまだ、夜明け前の深い暗闇が支配する中、ぐっすりと眠りこんでいます。
 私たちが重苦しい闇の中にあって、見通しがきかないと言って嘆いたり悩んだりしている時、実は、その暗闇の中で主イエスだけは既に目覚めておられます。私たちのために主イエスが祈ってくださり、御業は既に始められています。

 この朝、主イエスはどんなことを祈られたのでしょうか。その内容について、この福音書は何も記していません。それは、この前日、安息日に主イエスがカファルナウムの会堂でなさった旧約聖書の説き明かしの内容が何も伝えられていないということに、よく似ているように感じられます。この福音書を記したマルコは、祈りの内容を主イエスから教えてもらわず分からなかったので、書き記さなかったのかもしれません。けれども、もしかすると、祈りの内容を知っていても、わざと書き記さなかったのかもしれません。仮にそうだとすれば、主イエスがこの朝、私たちのために祈ってくださった祈りの内容の一々よりも、「主イエスが私たち人間のため、また世界のために祈ってくださっている」という事実を知るということの方が、ずっと大切なことであるからでしょう。
 私たち人間の地上の生活は、どなたの人生であっても、いつも多くの様々な問題に満ちています。悲しみや苦悩、また不正や愚かなことが幾度となく繰り返されます。その度に私たちは、もう二度と同じ失敗をするまいと、心に強く思うのですが、それでいてまた別の機会に、よく似た失敗をしてしまうようなところがあります。
 主イエスが、そういう人間の惨めなあり方に心を留めておられ、その一つ一つを執り成して祈っておられたのであれば、その祈りはどんなに時間がかかっても祈り終わるということはなかったでしょう。福音書の全てのページが主イエスが捧げてくださった祈りの言葉で埋め尽くされたとしても、なお主イエスの祈りの言葉の一切を記録し尽くすことはできないでしょう。ですから、マルコは敢えて、この朝主イエスがお捧げになった祈りの内容を一々書き記さなかったのかもしれないのです。祈りの内容の一々よりも、神の独り子である主イエスが私たち人間の生活を覚えて執り成しを祈ってくださっているという事実を伝えることの方が、はるかに重要だと考えて、ただ祈っておられる主イエスのお姿だけを記しているのかもしれません。

 マルコによる福音書を読み進めていきますと、この福音書の中で、祈っている主イエスの姿が記されている箇所は稀で、今日の箇所と、主イエスが十字架につけられる前の晩に捧げられた大変激しい祈りの場面だけです。裏切られ逮捕される直前の場面で祈られた祈り、ゲツセマネの祈りと言われる祈りです。あとは、主イエスが5000人に食事をお与えになった後、群衆を解散させた後に、弟子たちには舟で対岸に渡るように命じられ、主イエスご自身は祈るために山に登られたという言葉がありますが、そこでは「祈るために山に行かれた」という、山に登られる主イエスの後ろ姿が記されているだけで、実際に主イエスが祈っておられる場面は出てきません。ですから、マルコによる福音書では、主イエスが祈っておられる姿は、今日の記事とゲツゼマネの園の記事の2箇所だけということになります。
 そして、この二つの記事を並べてみますと、気付かされることがあります。それは、いずれも夜の暗闇の中で祈られている祈りだということです。
 私たちには見えない闇の中で、主イエスは私たちのために祈り、働いておられるのです。そしてまた、もう一つ気付かされることがあります。今日のこの祈りの記事というのは主イエスがカファルナウムの会堂とシモン・ペトロの家で公の活動を始められたという、その出来事の直後に出てくるのですが、もう一つのゲツセマネの祈りの方は、主イエスが捕らえられる直前の最後の出来事です。つまり主イエスの公生涯の中で、公の活動を始められたその最初の夜と、捕らえられてもはや自由な活動ができなくなる最後の夜と、主イエスの公生涯の始まりと終わりのところで祈っておられる様子が記されているのです。マルコによる福音書では、主イエスが祈っておられる姿が記されるのはこの2回だけですが、もちろん主イエスが地上の御生涯の中で神に祈りを捧げたのが2回だったと言おうとしているのではありません。むしろ公生涯の最初と最後に祈っておられるその姿を記すことで、この福音書を著したマルコは、主イエスが地上の御生涯において、公の活動なさっている間中いつも神に祈り神の御心をお尋ねになり、そしてただ神の御心に従って歩んでおられたということを示そうとしているのです。
 主イエスがただ神の御心に従うとして歩んでおられたということは、特にその活動の最後に祈られているゲツセマネの祈りの言葉を思い起こしてみると、はっきり分かってくるのではないでしょうか。マルコによる福音書14章36節に、主イエスがゲツセマネの園で祈られた祈りが出てきます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。主イエスはこの祈りの中で、まず「父なる神のご計画のままに、御心のままに全てが持ち運ばれるのだ」と祈っておられます。その上で「この杯を取りのけてください」と祈るのです。この杯とは、主イエスが十字架上でこれからお受けになる苦難のことを表していますが、主イエスはここで「どうかこの苦しい十字架を、わたしの上から取りのけてください」と神に憐れみを願います。けれども、なんでも主イエスの思い通りになるようにというのではなく、「神の御心に適うことが行われますように」と最後に祈るのです。ですからこの祈りは、主イエスご自身は十字架を避けたいと思うけれど、しかし「神の御心が行われますように。神のご計画が実現していきますように」、そういう祈りです。ゲツセマネの祈りというのは、「神の御心がそのまま実現しますように」という祈りです。主イエスは、ご自身の思いを先立たせるよりも神のご計画の方が実現されますようにと祈られました。

 そして、それが主イエスの地上の御生涯の最後の祈りであるならば、今日のところには具体的な言葉としては記されていないのですが、主イエスの公生涯の最初の祈りも同じような祈りだったのではないでしょうか。主イエスは夜明け前の深い闇の中で、ただ神の御心だけが行われますように、そのためにご自身が身を捧げ仕えていくことができますようにと祈っておられたのではないかと思えてなりません。ただ一つの祈りが、主イエスの公生涯全体を貫いています。
 主イエスは今日のところで、夜明け前の暗い闇の時、まだ人々がぐっすり眠り込んでいる時に起き出し、神に祈りを捧げ、その御心を一つ一つ尋ねながら神の御業にご自身を向かわせていかれます。こういうあり方は、主イエスの御生涯にわたって変わらなかったものと思われます。「神さまの御心に適う歩みとは何か。神の御計画が実現されますように。そのために仕え働けますように」と、日々祈っておられたに違いありません。
 私たちが困難に出会い、見通しがきかなくなり、深い嘆きと悲しみで絶望するほかないと思ったり言ったりしている時に、まさに主イエスが私たちの目に隠れたところで祈っていてくださり、執り成しの御業が始まっています。今日の箇所で福音書記者マルコは、祈る主イエスの姿を通して、「私たちは主イエスに祈られている。あなたは主イエスの祈りのうちに覚えられている」と語りかけています。

 そして、そういう神のなさりようというのは、考えてみますとただ主イエスの祈りについてだけ言えるというのではないようです。主イエスはただ私たち人間の苦しみや嘆き悲しみや寂しさに寄り添い、それを取り除こうとして祈っておられるだけではありません。何よりも主イエス御自身が、実際に十字架にお架かりになり、命をかけて執り成し、御業をなさってくださいました。ですから主イエスの執り成しは、ただ口先だけの言葉の祈りではありません。文字通り命がけの執り成しをなさる、主イエスがそのように生きておられるその一部分が、主イエスの祈りでした。ですから、今日の記事からは、「主イエスの十字架の苦難と復活の出来事」もぴったり重なって聞こえてくるようなところがあります。
 例えば、今日のところで主イエスは、まだ誰も起きていない早い時間に起き出し、執り成しの祈りを祈っておられます。それで思い出したいことは、主イエスが復活なさった朝の様子はどうだったかということです。主イエスの復活の出来事も、朝の大変早い時間に起こっていました。マルコによる福音書16章1節2節には、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」とあります。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという3人の女性の弟子たちは、安息日が終わった時、主イエスのご遺体に油を塗って差し上げたいと願って香料を買い整えています。香料を買った時間は、私たち曜日感覚ですと土曜日の夕方です。この弟子たちは土曜日の夕方から宵の口にかけて香料を買い、それをオリーブ油に混ぜて香油を作り、そして次の日、日曜日の朝早くにお墓に出かけ、主イエスのご遺体に香油を塗って差し上げようと考えていました。
 もちろん、この行いは主イエスのためにという真心から起こっていることです。けれども、真心はあっても、そこに喜びがあったかといえば、それはなかったと言えるのではないでしょうか。この3人の女性の弟子たちは、主イエスが金曜日に十字架でお亡くなりになったことを見届けた上で、しかし主イエスが前もって「三日目に復活する」とおっしゃっていたことは、まだ分かっていなかったからです。香料を買った時点での3人の思いは、お墓に中に主イエスの亡骸があると思っています。彼女たちの思いは、ずっと信頼を寄せ敬愛してきた主イエスが、死によって永久に自分たちの間から取り去られてしまったという嘆きにすっかり閉ざされています。この3人の弟子たちは、主イエスが十字架上に息を引き取られた金曜日の午後3時から、ずっと時間が止まったような思いで、暗闇の中に放り出され見通しがきかず目当てを失っている状態の中に置かれています。
 ところが、そのような弟子たちの暗闇の状況の中でも、神の側では御計画が推し進められていました。十字架の死から3日後、朝早く、3人の婦人の弟子たちが墓を訪れるよりも早い時間に、主イエスは復活をなさいます。誰も気づかないうちに、まだ深い暗闇が辺りを覆っている中で主イエスは起き上がり、眠っている者の初穂として甦らされました。
 今日もそうですが、私たちが毎週日曜日の朝に教会に呼び集められ神を賛美するのは、まさしく「主イエスが復活させられた」という御業が行われたからです。主イエスが復活されたからこそ、私たちはその甦りの日、週の初めの朝にこの場所に集まり、主の復活を喜び、神のなさりように感謝し賛美を捧げるのです。

 さて、主イエスが今日のところで、朝ごく早く夜が明けないうちに起き出し、神に捧げられた祈りのその言葉は、はっきりとは書かれていません。けれども、それが「神の御計画がどこまでも完全に実現されますように」という祈りであって、そしてその神の御計画のもとに弟子たち一人ひとり私たち人間の一人一人を覚えてくださり、御業を行っていかれる、そういう祈りであったのであれば、実は、今日私たちが聖書から聴いているこの祈りというのは、ただ主イエスが十字架に架かり死んで復活したという、それだけのことを超えて、更にここにいる私たちの上にまで及んできている祈りを、主イエスが捧げておられるということになるのではないでしょうか。
 主イエスが、「十字架の苦難を、どうかわたしから取り除けてください。しかしわたしの思い通りではなく、神さまの御心が実現しますように」と祈ってくださり、そして祈られた通りに十字架と復活の出来事が起こっています。主イエスがゲツセマネの園で祈られた祈りは、「わたしは十字架で苦しい目に遭いますが、どうかその後に復活させてください」というような祈りではありません。そうではなく、「十字架の苦しみはどうしてもある。しかしそれを超えて神さまの御計画が完全に実現していきますように」という祈りです。そして、その祈りの中には、「主イエスの復活を信じその出来事を仰いで生きる、そういう弟子たちすべてが希望を与えられ、たとえ死の暗闇にすっかり閉ざされてしまっているように感じられてならない時にも、そこにもなお神の御業が行われ、命の道がさらに先へと続いていって、最後の目的地まで辿り着かせてもらえますように」という、そういうことまでが含まれている祈りなのです。

 主イエスはご自身が救い主として活動を始められた最初の晩から、既に、全ての御業が完成され、主イエスを信じる者が永遠の命に生き神に感謝して命を喜ぶ、そういう喜びの中に一人一人が与れますようにと、弟子たちを覚えて祈ってくださっているのです。私たちのことも、主イエスは覚えてくださっています。主イエスは、「神さまの慈しみがこの地上に生きている一人一人の上に確かに注がれている。あなたはそういう神さまの慈しみを受ける者として、今日を生かされている」、そのことを知らせるために、天からこの地上に降って来られました。
 ですから、この朝、主イエスがおられないことに気がついたシモン・ペトロをはじめとする弟子たちがイエスのことを懸命に探し求め、見つけ出した時に、主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)と言われました。
 「主イエスの宣教」とは、ただ言葉だけ口先だけのことではありません。主イエスご自身が十字架に架かってくださり、復活し、そして「私たち人間に与えられている命が決して死をもって終わるだけの死の支配のもとにあるものではなく、いつも神のご支配のもとにある」ことを知らせ、「それを信じる人たちに希望と勇気を与えようとする」、そういう御業です。「そのためにわたしは出て来た」と主は言われました。
 もちろんシモン・ペトロたちは、この朝、主イエスのそんな思いまでは思いが至りませんでした。ですから自分たちの間で「病気が癒された」ことが大変大きなことのように感じられて、主イエスを一生懸命に見つけて、「みんながあなたを探しています」と言っています。けれども「みんな」とは、シモン・ペトロたちの感覚で言えば、カファルナウムの町にいる皆です。自分の周りにいる人たちの困り事が主イエスによって取り除かれたい、その程度のものです。
 けれども、主イエスの言われた「近くのほかの町や村へ行こう」とは、原文で読むと「村のような町」という言葉です。ですから、「多くの人がいる場所に行こう」ということではなく、「僅かな人しかいないところへも、神によって生かされる命を伝え持ち運んでいこう」となさっておられるのです。

 「甦られた主イエスがいつも共に歩んでくださる」ことを知らされて信じる人には、主イエスが共にいてくださる新しい生活が訪れるようになります。闇の中で執り成しを祈ってくださる主イエスが、私たちに新しい朝をプレゼントしてくださるためです。神の光に照らされ支えられて生きる、そういう新しい生活へと、ここから送り出されて行きたいと願います。

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