聖書のみことば
2021年6月
  6月6日 6月13日 6月20日 6月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

6月6日主日礼拝音声

 救い主の受洗
2021年6月第1主日礼拝 6月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章9〜11節

<9節>そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。<10節>水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。<11節>すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 ただいま、マルコによる福音書1章9節から11節までをご一緒にお聞きしました。わずか3節ですが、この箇所は、主イエスがこの先救い主として御業をなさっていかれる上で、出発点となった大事な出来事を伝えています。「受洗、洗礼を受ける」ということが、あらゆるキリスト者にとってのスタートとなるように、主イエスにとっても、「洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた」という出来事は、決して忘れることのできない御業のスタートの日でした。

 まず9節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とあります。「そのころ」という時と、「ヨルダン川で」という場所が語られています。「そのころ」とはやや漠然とした言い方ですが、執筆者のマルコはこういう言い方で、主イエスの受洗という出来事が確かに歴史上の、ある時点、ある場所において起こった出来事なのだと言い表そうとしています。もっと踏み込んで言い直すならば、「主イエスが私たちのために洗礼を受けてくださった」という事実が、確かにこの世界に起こったということを忘れないように、マルコはここに書き記しています。忘れてはならない大事な出来事だと、マルコは気づいていたということになります。
 それで、そのことをどうしても書き留めねばならないと思い、マルコ自身はあまり問題を感じないまま、すっと書いてしまったような言葉もあります。それは、主イエスが誰から洗礼を受けたかということです。洗礼は、自分でできることではなく、必ず誰かに授けてもらうものです。それで、主イエスに洗礼を授けたのは洗礼者ヨハネでした。私たちは福音書からその事実を聞かされていますので、それは確かなことだったのだろうと思っていますし、マルコもそう捉えて「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と、事実のみをここに語っています。

 ところが、このようにマルコが語ったことが、この後、初代教会の中で大変大きな問題になってしまいました。このマルコの記事を聞いた多くの人々が、このことに大いに戸惑いを感じたようです。「主イエスがヨハネから洗礼を受けた」ということが、一体どうして多くの人を戸惑わせる躓きになるのでしょうか。
 それは、洗礼者ヨハネが主イエスを紹介するときに、「わたしの後から来る方は、まことの洗礼、聖霊による洗礼をお授けになる」と伝えていたのにもかかわらず、実際にはヨハネが主イエスに洗礼を授けてしまった、それが多くの人を戸惑わせました。1章7節8節でヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と、主イエスを証していました。「ヨハネは、自分の授ける洗礼は、主イエスの名によって受ける洗礼には劣るのだと言っていた。なのにどうして主イエスはヨハネから洗礼をお受けになったのだろうか」と、どうしても腑に落ちない人たちが大勢現れました。ですから、「主イエスが洗礼をお受けになった」という出来事は、マルコによる福音書より後に書かれている他の福音書では、補足するような言葉が付け加えられています。

 例えば、マタイによる福音書では、主イエスが洗礼を受けるためにヨハネのもとに来た時には、ヨハネは主イエスに洗礼を授けることを躊躇したと語られています。3章14節15節に「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」とあります。この記事は、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったということについて、「どうしてそんなことが」と訝る人たちが大勢いたので、そのことに対する説明としてマタイによる福音書に書き加えられている文章です。ヨハネは躊躇っていたけれど、主イエスが是非に、どうしてもとおっしゃったので、そのご命令に従って洗礼を授けたのだと書き加えています。
 ルカによる福音書では、マタイのように「ヨハネが主イエス思いとどまらせようとした」という記事はありませんが、その代わりに、主イエスが洗礼をお受けになった時に「主イエスは祈っておられた」と、ほんの短い一言を付け加えています。3章21節22節に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。ルカは、主イエスがヨハネから洗礼を受けられたのは確かな事実だと語っています。けれども、そのことでその後、主イエスがヨハネの弟子になったということではなく、洗礼に際して主イエスは、「ただ神に祈られ、神に仕える者となられたのだ」と説明しています。主イエスは確かにヨハネから洗礼を受けられたけれども、それでヨハネの風下に立ったということではない。主イエスは、形の上ではヨハネから洗礼を受けているけれど、それはヨハネの洗礼を受けたということではなく、神との関わりの中で、神だけに従う洗礼を受けたのだということを、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という言葉で表しています。ルカは祈っている主イエスの姿を一言書き加えることで、この洗礼を「神と真っ直ぐ結びつく洗礼だったのだ」と説明しようとしています。
 このような書き加えを読んでみますと、主イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実について、初代教会の人たちがどんなに戸惑ったかが窺い知れます。
 けれどもマルコは、そういったことに一向に気を遣っていません。どうしてかというと、マルコは、主イエスがヨハネの弟子になることなど決してあり得ないと確信していたからです。「洗礼をお受けになった主イエスは、神に従う新しい生活へと歩み出された」ことをよく承知していて、そのことを何とか伝えようとして今日の記事を記しました。

 洗礼を境にして主イエスが歩み出された新しい生活とは、どういうものだったのでしょうか。マルコはそれを伝えるために、主イエスを主人公のようにして、洗礼に際して主イエスが二つのことを経験なさったという言い方で語ろうとしました。一つは「神の霊、聖霊が鳩のように降ってくるのを見た」こと、そしてもう一つは「天からの声、神ご自身の御声を聞いた」ことです。10節11節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。主イエスは洗礼を受けたときに、聖霊がご自分の上に降ってきたこと、神の御声が親しく語られていることを経験されたと語られています。実はこういう言い方で、主イエスが受けられた洗礼は、ヨハネの宣べ伝えていた水の洗礼とは全く質の違う出来事だったのだということを伝えています。マルコは、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼には確かに違いがあったことを伝えようとして書いています。既に1章8節では、ヨハネ自身が「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言って、自分の洗礼と主イエスの洗礼とでは天と地ほども開きがあるのだと言っていました。

 では一体、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼の違いは、どういう点にあるのでしょうか。洗礼者ヨハネが人々に勧め、求めていたことは「悔い改め」でした。4節に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。神の御前で、「わたしはこれから、神のものとなって生きていきます」と言い表していることのしるしが洗礼です。「これまでわたしは自分中心に、人生の主人公は自分だと思って生きてきた。自分の喜びだけを求めて生きてきた。それが当たり前だと思ってきた。けれどもこれからは、神さまを中心にして、神さまの御心を聴きながら、御心に従って生きていきます」という決心をヨハネの前で言い表した人に対して、ヨハネは洗礼を授けていました。ヨハネから洗礼を受けた人は、その時の洗礼の出来事を思い出すたびに、ヨハネの前でした悔い改めを思い出させられる、そういう洗礼です。ですからヨハネは、悔い改める気持ちのないままヨハネの前に来た人たちには、大変厳しい言葉もかけました。そのことはマタイによる福音書、ルカによる福音書にも記されています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と、ヨハネは準備のないままヨハネの前に来た人たちをどやしつけました。「あなたは悔い改めなければならない」とヨハネは言いました。
 では、ヨハネにとって、悔い改めた生活とはどのようなものだったのでしょうか。それはヨハネ自身が生きた生活です。そのことは聖書の中から知ることができます。6節に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とあります。いなごと野蜜が食べ物と聞くと大変野生的だと思いますが、そういうことだけではありません。いなごと野蜜は、いつでも手に入ると決まっていない、そういう食料でした。食料を得ることも不安定な、そういう生活をヨハネはしていました。不安定な食料で我が身を養い、肉体を痛めつけるような生活をしていました。2章18節では、ヨハネが弟子たちに断食を命じていたらしいことが分かります。断食も、自分の肉体を痛めつけるというあり方です。ヨハネはどうして、このような禁欲的な生き方をしたのでしょうか。それは、わざと肉体を弱らせようとしたということです。肉体が弱れば、当然人間は救いが必要になります。弱った分だけ「神さま、助けてください」と祈るようになります。
 ヨハネにとって、神の裁きは差し迫った恐ろしいものと感じていました。ヨハネの実感からすると、今まさに頭上に雷雲がやって来ていて、いつ雷が落ちるか分からない、神の裁きはそれほど差し迫っていると思っていました。だから懸命に「今、悔い改めなければ、滅んでしまう」と伝えました。いつ神が裁きを下し、終わりの時がやってくるか分からないのだから、今の自分の生活は通用しなくなるかもしれない。その時がいつ来ても良いように「神さま、わたしはあなたに依り頼んでいます。わたしは貧しく弱く、肉体も衰えていますが、あなただけがわたしの救いです」と神に申し上げられるような生活をしなければならない、それこそが悔い改めた生活だと、ヨハネは考えていました。
 ヨハネが真剣に神の裁きを恐れ、救われるために自分の生活の全てをかけている生き方は、一面では確かに立派です。ですからヨハネは大勢の人から共感され尊敬されました。それは、ヨハネが真剣に裁きを恐れ、神の前に悔い改めた人間として生きるという生き方を、人々の前に、目に見える形で現していたからです。

 けれども、改めて考えたいのですが、そういうヨハネのあり方は、確かに神の前に真っ直ぐ生きようとする真っ直ぐさはありますが、しかし、私たちが聖書から聴かされているキリスト教の信仰という点から考えますと、ヨハネの悔い改めの生活には、「神さまの赦し、神さまが送ってくださる霊の助け」というものが入り込んで来る余地が殆どなさそうです。ヨハネは大変真面目な人ですが、しかし、主イエスが宣べ伝えた福音とは全く違う場所に立っている人物でもありました。ヨハネは人々に決心と努力を勧めました。「自分の意思で、自己中心なあり方から神さまの方へ向きを変えよう。そして神さまに喜ばれる者になろう」と呼び掛けました。それは、ファリサイ派の人たちが、神の律法の言葉を隈なく読んで、「律法を守るならば、神の前に正しい者とされ生きる者となる」と教えていたことと、方向性としてはあまり違わない生き方でした。行動や生活のあり方において、ファリサイ派の人たちはヨハネの足元にも及びません。けれども、自分自身の生活のあり方によって神に喜ばれたい、そして裁きが起こる時には自分の生き方や暮らし方のゆえに救われたいと思っている、その点では洗礼者ヨハネもファリサイ派の人たち同じ考えを抱いていました。

 では、主イエスはどうなのでしょうか。主イエスは、この点で全然違っておられます。主イエスが洗礼を受けられた時に経験なさったことは、「神の霊が鳩の姿をしてご自身の上に降ってくる様子をご覧になった」こと、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という神の御声を聞いた」ことでした。神の救いは、人間の正しい在り方の度合いによって与えられるのではなく、神の愛と慈しみによって、贈り物として私たちに与えられるものなのです。主イエスは洗礼を受けられたときに、はっきりと、その贈り物が天から与えられているということを、ご自身の身をもって経験なさいました。そういう意味では、確かに主イエスは洗礼者ヨハネの手によって洗礼をお受けになりましたが、しかしその洗礼の時に、ヨハネが考えもしないような、ヨハネが知らない洗礼を主イエスは受けられたのだと、マルコは語っているのです。
 主イエスの受けられた洗礼は、人間の決意表明の儀式ではなく、「神の霊に導かれ、神の愛と真実な導きの前に歩み始める」そういう洗礼でした。そして実は、主イエスが受けられた洗礼がそういうものであったことが、「なぜ洗礼を授けるはずの主イエスが洗礼をお受けになったのか」という理由でもあるのです。
 ここにいる私たちが洗礼を受けた時、主イエスの御名が唱えられ、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられ、そして私たちはキリスト者として歩み出しました。キリスト者は皆そういう始まりを持っています。実は私たちの洗礼の時にも、主イエスがお受けになった時と同じく、聖霊がその人の上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者なのだ」という神の御言葉が、私たちの上に語りかけられているのです。私たち自身は、洗礼の際に、「鳩の形をして聖霊が降った、神さまの御声がはっきり聞こえた」と思わなかったかもしれません。けれども、神の側は、真剣に愛し慈しんででくださり、私たちが「神さまのものとなって生きていきます」と言って洗礼を受けるときに、本当に喜んでくださり、「あなたはわたしの愛する者だ。あなたは今から、わたしの心に敵う者として生きていくようになるのだよ」という言葉を、一人の例外もなく、私たちの上にかけてくださっているのです。私たちには聞き取れなかったかもしれませんが、しかし、洗礼が授けられる時には、そういう神の愛と慈しみに満ちた言葉が語りかけられています。
 そして、神は口先だけでなく、本当に私たちが神のものとなって生きていけるように、私たちの上に聖霊を送ってくださるのです。私たちが洗礼を受けた日以来今日まで、キリスト者としてどうにかこうにか生きてくることができたのは、私たちの側に固い決心があったからでしょうか。ヨハネのように、生活の全てをかけて必死に神から離れないようにして来たからかと言えば、そうではなかったというのが私たちの実感ではないでしょうか。「わたし自身の決心が無かったわけではないけれど、それは本当に脆いものだった。気がつけばいつも神さまを忘れ、神さま抜きで歩むこともあった。神さまから離れてしまっても不思議ではなかった。なのに本当に不思議な仕方で、わたしは、教会の群れに加えられ、今も神さまを信じて生きるものとされている」、あるいはある人は、「わたしは随分、長い間、神さまを忘れ、神さま抜きで生活していた時期もあったけれど、神さまは本当に不思議な仕方でわたしを教会へともう一度招いてくださった。今は神のものとされて喜んで生きている」と、そのように私たちは思い返すことができるのではないでしょうか。

 私たちには見えませんが、しかし間違いなく、聖霊は私たちの上に注がれています。聖霊が注がれているので、私たちは神から離れないで生きることができるのです。
 そしてそのことは、主イエスが地上で洗礼を受けられた方として、私たちの教会の先頭に立っていてくださることによるのです。地上にあって、主イエスの御名によって洗礼を授けられたキリスト者全員の名簿があるとしたら、その名簿の一番先頭には主イエスの名が記されています。私たち人間は鈍いところがありますので、洗礼によって何が起こっているのかを悟らない時がありますが、その時にも「洗礼とはこういうものなのだ」と、主イエスが身をもって知らせてくださるのです。
 もし主イエスが洗礼をお受けにならず、キリスト者の名簿の先頭におられなかったとするとどうなるでしょうか。私たちは、自分の経験からしか物事を考えられませんので、「洗礼を受けたことは気の迷いだったかもしれない」と、洗礼の出来事を小さなことにしか考えないかもしれません。けれどもそうではなく、主イエスが洗礼を受けてくださり、神の慈しみと愛のもとに生きる者とされることを主イエスが経験してくださった、そのことがあればこそ、私たちはその後に続いて、主イエスと同じ洗礼を受ける者とされ、教会に連なる者とされて生きているのです。

 マルコによる福音書では、まずヨハネの話が出て来ますが、それはヨハネが主イエスに洗礼を授けたからでした。ヨハネのことというよりも、ここでは、主イエスがヨハネから洗礼を受けながら、しかし、ヨハネが宣べ伝えたのとは全く違う、神の慈しみと愛のもとに生きる生活を歩み出す、そういう洗礼を受けてくださったこと、これこそが私たちの福音の始まりなのだと、マルコは伝えようとしてこのように語っています。

 私たちの信仰生活は、自分自身の思いや心の強さによって神に結びつくのではなく、神の方から聖霊を送ってくださり、私たちの信仰を励まして、神の愛を私たちに教え、またその愛によって生きていく者とされていくことを覚えたいと思います。たとえ迷い、彷徨ってしまうような時があるとしても、神のものであることから離れないように、神は聖霊を送って私たちを保護してくださるのです。そしてまた、「あなたにはわたしの愛がいつも注がれている。あなたはわたしの愛の中に生きている」という御言葉を語りかけてくださいます。聖霊に保護され、御言葉に導かれて、私たちは確かに神の子らとしての生活を歩むようにされている、そのことを覚えたいのです。
 神が恵みとして私たちに洗礼を与えてくださり、一人一人をキリスト者としてくださっていることを思い、感謝したいと思います。私たち自身の想いや力はごく僅かでも、神が真実に私たちに恵みを与えてくださるので、私たちは神のものとして地上を生かされています。今日も私たちは、神から愛される一人一人として生きることを赦されていることを感謝して、祈りを捧げたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ