聖書のみことば
2021年6月
  6月6日 6月13日 6月20日 6月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月20日主日礼拝音声

 招きと応答
2021年6月第3主日礼拝 6月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章14〜20節

<14節>ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、<15節>「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。<16節>イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。<17節>イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<18節>二人はすぐに網を捨てて従った。<19節>また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、<20節>すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 ただいま、マルコによる福音書1章14節から20節までをご一緒にお聞きしました。14節15節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。
 ここで、洗礼者ヨハネが捕えられたことと、主イエスがガリラヤに赴き伝道を開始されたことが結び付けられて語られています。

 ヨハネが捕えられたことについては6章中ほどにその顛末が記されています。ヨハネはガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスに正しく忠告しましたが、ヘロデにとっては疎ましく、口を封じるために、ガリラヤ湖畔のマルケス城の地下牢に閉じ込めました。それ以後ヨハネは、もう二度と人々の前に姿を見せることはできませんでした。
 洗礼者ヨハネは、主イエスがどのようなお方であるかを人々に指し示す証し人としての役割を果たした人物です。またヨハネは主イエスに洗礼を施し、救い主としての道を準備した人物でもあります。そういうヨハネは、自分の死においても、行く末を指し示す役割を果たしました。すなわち、主イエスの地上の歩みが、最後には十字架へと向かって行く道のりなのだということを、ヨハネは彼の死によって現しています。14節には、ヨハネの投獄の後に、主イエスがご自身の伝道を始められたと述べられています。
 けれども注意して聞きたいのですが、ここは時間的に、ヨハネが捕えられてその活動が頓挫したので、それを受けて主イエスが活動を始められたということではありません。また主イエスというお方が単純にヨハネの後継者で、活動を引き継いだということでもありません。ヨハネも主イエスも聖書の言葉の上では「悔い改め」を呼びかけたと書いてありますが、主イエスが呼びかけた内容は、洗礼者ヨハネが呼びかけていた悔い改めの勧めと違っています。主イエスの呼びかけは明らかに、ヨハネが思っていた内容と違っています。どこが違うのでしょうか。今日は初めにそれを確認したいと思います。

 まず洗礼者ヨハネですが、ヨハネはどう考えていたのでしょうか。ヨハネは、私たちのこの世界が今やものすごいスピードで終わりの滅びに向かっていると感じていました。それはヨハネが人々に宣べ伝えていた言葉から窺い知ることができます。マタイ福音書やルカ福音書には、ヨハネがこの世の滅びに対する危機意識を滲ませながら語った肉声とも言える言葉が出てきます。ヨハネは繰り返し人々に教えました。マタイによる福音書3章10節には、ヨハネの言葉が出てきます。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。ヨハネは本気で、この世界が火の中に投げ入れられ焼き尽くされ滅んでしまうことを心配していました。ヨハネにとっては、もう既にこの世界が木っ端微塵になるほどの大きな時限爆弾のスイッチが入っていて、世界は今や終わりの大爆発に向かって秒読みの段階にあるという切迫した緊張感がありました。「今ここで悔い改めないと、私たちの世界は大変なことになる」、更には「自分の後からお出でになる方が、木の根元にある斧に手を伸ばして木を切り倒す方である。一切を滅ぼしてしまう方が来られるのだ」と考えていました。ですから、実際にそれが起こる前に「一人でも多く、悔い改めた人を生み出し、裁き主が現れる時にはその裁きを思い止まっていただこう」と考えたので、ヨハネは非常に真剣に悔い改めを宣べ伝えました。ですから、洗礼者ヨハネの活動の根底にはいつでも、来たるべき方への恐れ、また神が今にもこの世界を滅ぼされるのではないかという不安がありました。「来たるべき方が来てしまったら、この世の悪と罪が明るみに出てしまう。そしてそのために、この世界は裁かれ滅ぼされてしまうに違いない」という恐れを、ヨハネは感じていたのでした。裁きへの不安と恐れ、それがエネルギー源となって、ヨハネは懸命に悔い改めを宣べ伝えていたのです。

 では、主イエスはどうだったでしょうか。主イエスもマルコ福音書の1章15節を見ますと、人々に向かって「悔い改めるように」と呼びかけています。けれども主イエスが呼びかける悔い改めは、ヨハネのものとは違っていました。主イエスは「希望を持って、あなたがたは人生の向きを変えて良いのだ」と勧めました。主イエスは「悔い改めなさい」とおっしゃる前に、15節で「時は満ち、神の国は近づいた」とおっしゃり、「だから悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。
 主イエスは悔い改めを迫るより前に、まず、「時は満ち、神の国は近づいた」ということを人々に分からせようとしました。「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉は、ギリシャ語の原文を見ますと、完了形になっています。英語では「The time has come,and kingdom of God is near.」です。英語のニュアンスで言いますと「時は来ている。神の国は近くにある」という文章です。ヨハネと主イエスの語っていることの違いはなんでしょうか。
 ヨハネは「刻一刻と時限爆弾が破裂する時がやってくる。この世は恐ろしい裁きと滅びに向かっている」と考えていました。ところが主イエスは、ヨハネが気にしている「終わりの時」については、「その時は既に訪れている」と言われました。ヨハネの言う通りであれば、もう世界は破裂しているのです。主イエスは「時は満ちて、神の国はもうあなたの近くにある」と言われました。主イエスが言われる「神の国」というのは、「神の御支配」ということです。ですから「神の国」は英語で言うところのカントリーやステートではなく、キングダム(kingdom)なのです。
 神の御支配は私たちの肉眼には見えません。けれども「世界の造り主であり支配者である神さまに心から従う、何であれ神さまの御心に従って生きていく生活」それが「神の国、神の御支配」です。そのような「神さまに従って生きて行く生活、神の国」が、「もうあなたのすぐそばに、既に成り立っている。時はもう来ている」と主イエスは言われました。けれども、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。主イエスのおっしゃる通りであれば、ここにいる私たちであってもすぐに手で触れることができるくらい、神の国は近いのです。
 私は、愛宕町教会の牧師になってから、それまでに経験したことのなかったことを経験させられています。他の教会では、礼拝の終わりに「祝祷」という祝福の祈りをします。けれども愛宕町教会では、「祝福授与」といって、牧師が皆さんを祝福します。この「祝福授与」の際に、思うことがあります。「この世の中には、まだ多くの悲しみがあり、苦しみ悩みの最中におられる方もおられる。教会の中にもおられるかもしれない。そのような中で『祝福をあなた方に与える』と言ってしまって良いのだろうか」と。私はこれまでは「神さまがどうか、皆さんを祝福してくださいますように」と祈っていました。けれども、愛宕町に来てからは「神さまの祝福が確かにここにある。それを皆さんに差し上げます」と言っているのです。果たしてそんなことが言えるのだろうか…しかし、実はそれは、洗礼者ヨハネも抱いていたような問いなのだろうと思います。洗礼者ヨハネも大いに恐れていました。この世界にはまだ幾らでも人間の不正があり、偽りがあり、悪があり、悲しみがあり痛みがある。だからこの世界はもう保たないだろうと思っていました。ヨハネは、世界が滅びないように、心ある人は罪から離れるようにと勧めて、悔い改めた人たちはヨハネから洗礼を受けました。けれども、一旦罪から離れようと決心しても、その決心すら忘れてまた気ままに生きてしまう、それが私たち人間のありのままの姿です。ですからヨハネは、自分の授けている洗礼に限界を感じていたのでした。

 では一体どこに、慈しみに満ちた神の国がやってきていると言えるのでしょうか。主イエスはなぜそうおっしゃったのかというと、ご自身を指し示しながら語っておられるからこそ、それが言えるのです。私たち人間は誰一人、神に従っているとも神の御支配がここにあるとも言えません。神の御支配よりは自分の思いを先立たせてしまう、それが私たち人間の姿です。けれども、主イエスは違います。主イエスは真実に神の御心に忠実に歩んでおられる。ですから、「時が満ちた。今あなたのすぐそばに神さまの御支配がやって来ている」とはどういうことがというと、主イエスが「わたしがここにいる」とおっしゃっているということです。「わたしがあなたの傍にいて、あなたと一緒に生きる。そういう生活が今ここに始まっている。だからあなたは、神さまの御支配に触れることができる。いつもわたしに触れているならば、神さまの御支配に従う生活がどういうものなのかを思い出すことができる。だからあなたは、生き方の向きを変えなさい。神さまのものとして生活することができることを信じなさい」、それが主イエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という招きになるのです。

 主イエスは、このように人々を招く以前には、何をなさっていたでしょうか。主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。けれども、本当は主イエスはヨハネから洗礼を受ける必要のないお方です。洗礼が「これまでわたしは、神さま抜きで生きて来ました。その生き方を改め、神さまに従って参ります」という悔い改めことを表すのであれば、主イエスはもともと、神の御心を知り神に従っておられるのですから、洗礼を受ける必要はありません。他の人間が全て洗礼を受けなければならないとしても、主イエスだけは洗礼を受けなくてもよいお方なのです。主イエスが洗礼を受けに来られた際に、ヨハネは驚き、洗礼を思いとどまっていただこうとしたと語られていますが、それはまさに、主イエスが初めから神の御心を知り従うお方だからです。
 けれども、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになりました。それは、主イエスご自身の悔い改めということではなく、主が洗礼をお受けになることで、「神に向かい悔い改めて歩みます」という私たち人間の只中に立ってくださったのです。主はそういうお方としてガリラヤに行き、「あなたはわたしと同じである。わたしがあなたの側にいるので、あなたも悔い改めて生きなさい」と招かれたのでした。
 マルコによる福音書は、主イエスが洗礼をお受けになったことが「福音の初めである」と語っています。「人間の罪がどんなに深く、またこの世に悪が抜き難くあり世界を蝕んでいるようであっても、主イエスがこの世界に来てくださり、人間の只中に立っていてくださる。ヨハネから洗礼を受け、私たちの隣に来てくださるお方になってくださった。それが全ての福音の初めだ」というのです。「神の国は近い。神の御支配がすぐ側にある」のは、「主イエスがこの世界に来てくださり、洗礼を受け、神に従おうとする者たちのそばにいてくださる」からです。
 主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われましたが、それはヨハネの言っていたこととは大分違っています。ヨハネはこの世が滅びるという不安と恐れから「洗礼を受けて、変わらなければならない」と言いました。しかし、主イエスは違います。「わたしがいつもあなたと共にいることを信じなさい。だから悔い改めて福音を信じなさい」と招いてくださっているのです。
 私たちは、そういう主イエス・キリストと結び合わされ、どんな時にも主イエスが共に歩いてくださることを信じて従うようにと招かれていることを心から感謝して、主イエスと神のそういうなさりようを心から賛美したいと思います。

 さて、主イエスがそのようにしてこの世界においでになり、私たちの生活の只中に踏み込んで来られる。私たちは教会生活を通して主イエスと触れ合わされ、招きを受けていますが、私たちはその招きに対してどのように応答することが良いのでしょうか。
 私たちは、ヨハネの洗礼ではなく、主イエス・キリストの名による洗礼を受けています。そしてキリスト者としての生活が始まりますと、やがて私たちは、恐らく誰もが思い知らされることがあります。それは、私たちが信じて従うという「信仰」というものが、何ともろく弱く、貧弱なものでしかないかということです。主イエスがご自身では受ける必要のない洗礼を受けてくだり私たちと同列の者となって、私たちの側に来てくださっていて「わたしと一緒に生きるように」と招いてくださっているのに、私たちは鈍感なところがあって、招きを聞いた当座は喜んで「従って参ります」と言うのですが、そういう喜びが長続きしないのです。いつでも気付くと、私たちは主イエスを忘れ、神がおられることを忘れて、自分の興味や関心ばかりを追いかけています。キリスト者としての生活を真剣に歩もうと思う方は、どなたもそれを経験なさることと思います。自分でもどうしようもないほどに、私たちは自分中心のあり方が当たり前になっているのです。特にエゴイストだとか自己中心的だと言われないとしても、私たちは誰でも自分中心に物事を考え、生きるのです。
 「従っていきたいと願いながらも従えない」、そういう悩みを信仰者は抱えるのですが、しかし、聖書を読んでいますと、そのような嘆きや悩みを抱えたのは私たちだけではないことが分かります。主イエスが地上の御生涯の中で直に出会って「わたしに従って来なさい」と招かれた弟子たちにしても、実は、主イエスが歩んで行かれる道には到底ついて行くことができませんでした。
 今日は、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという4人のガリラヤの漁師が主イエスに招かれた記事もお読みしました。この4人から始まって12人の直弟子がいましたが、12人は、主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、主が逮捕された時には、散り散りバラバラになって逃げてしまいました。主イエスに直に招かれ、目に見え触れることのできる主イエスがおられるのに、弟子たちはついて行くことができませんでした。
 けれども主イエスは、私たち人間の中に、弟子として招く者たちの中に、そういう頑なさや弱さがあることをご存知です。主イエスが弟子として招いてくださった人間、私たちが、主イエスに従おうとせず神から離れて自分の思いに任せて生きてしまう、そういう罪があることを主イエスはご存知です。ですから主イエスは、その罪の責任を全てご自分の側に引き受けて、十字架に向かって行ってくださいました。
 私たちの信仰が貧しく脆く弱いことをご承知で、自らが十字架に架かることで、そういう私たちの罪を精算してくださいました。そうした上で、「あなたの罪の問題は、わたしがすべて処理したのだから、あなたはただわたしを信じて、わたしと一緒に生活するようになりなさい」と、主イエスが招いてくださっている言葉を聞き取りたいと願います。

 今日の箇所で、主イエスがご自身を指し示しながら、「今や福音が訪れている。悔い改めて信じなさい」と人々を招かれるようになったのは、洗礼者ヨハネが逮捕された後だったと語られています。主イエスが宣べ伝えた福音は、洗礼者ヨハネが考えていたこととはまるで違っているのに、どうして今日の箇所で、ヨハネの逮捕(やがての死)のことが取り沙汰されるのでしょうか。それは、ヨハネの逮捕が、主イエスの十字架の死を指し示す出来事だからです。「悔い改めて福音を信じなさい。あなたはもう、神の国に触れる者となっている。そのことを信じて行きなさい」と主イエスが招いてくださるところでは、もう既に、ヨハネが指し示している主イエスの十字架の死ということが、どこかで覚えられているのです。
 私たちのために十字架に架かるということは、主イエスにとっては、ヨハネから洗礼をお受けになって私たちと同列の者になられた、私たちの只中にお立ちになった時に、もう既にはっきりと意識しておられ、ご存知だったことでした。主イエスは、本当に、私たち人間と一緒に生きて、私たちのどうにもならない自分中心の惨めさというものを、ご自身の側に引き受けて、神と私たちを結ぼうとなさってくださる、そういうお方です。
 ですから、今日の箇所で主イエスがおっしゃっていることは、「わたしはあなたのために十字架に架かる。あなたの信仰が弱くても薄くても、そのあなたの罪は全てわたしが十字架の上で精算する。だからあなたは、自分の弱さにくよくよしないでいなさい」ということです。洗礼者ヨハネは「あなたの罪は本当に重い。だから悔い改めなければ滅ぶ」と教えました。けれども主イエスは、「あなたのその罪は、わたしが引き受けた。だからあなたは、そのことを気にするのではなく、わたしを信じ、神さまのものとされていることを喜びながら、ここから新しく生きていきなさい。それこそが悔い改めである」と教えておられます。

 私たちは、全員が主イエスの十字架に執りなされた者として教会に招かれ、そして主イエスによって、「神に愛されている子らとされ、慈しみを受けて生きる。そのことを学ぶように」と招かれています。主が常に私たちのことをご存知でいてくださる。そして、神との交わりの中に私たちを受け入れ、私たちが「今日ここで生きて良いのだ」ということを知らせてくださっていることを感謝して、主イエスと神のなさりようを心から誉め称えて、ここから生活する者とされたいと願います。

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