聖書のみことば
2021年6月
  6月6日 6月13日 6月20日 6月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月13日主日礼拝音声

 誘惑と勝利
2021年6月第2主日礼拝 6月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章12〜13節

<12節>それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。<13節>イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 ただいま、マルコによる福音書1章12節と13節をご一緒にお聞きしました。12節に「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。「それから」と訳されている言葉は、もともとのヘブライ語聖書を読みますと、「すぐに」という言葉が付け加えられています。「それからすぐに」です。「それからすぐに」という言葉は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった出来事と今日の箇所の出来事が、時間の上でも意味合いにおいても、間を置かずに起こったのだと伝えています。主イエスの受洗と荒れ野での40日間というのは、二つで一つ、セットの出来事です。

 主イエスは、私たち人間のために、地上における受洗者の第一号となられました。主イエスが受洗されたことで、全く新しいことが始まりました。その時までも、バプテスマのヨハネは多くの人に洗礼を施してきましたが、ヨハネが宣べ伝えていた洗礼は、それを受ける人が神の御心に敵う者となって生きるという悔い改めの気持ちが強調されていました。ヨハネにとって洗礼は、言うなれば人間の側の決意表明のように考えられており、洗礼は決意を表明した証拠のように授けられていました。ですから、ヨハネの前で洗礼を受けるという場合には、洗礼を受ける側の決心が強調されていて、神からの恵みが入り込む余地がありませんでした。
 ところが、主イエスが洗礼をお受けになったときに、そこでは全く違う様子が生まれました。もちろん、洗礼を受けようとする人が自分から神の子になって人生を歩みたいと願う点は同じですが、主イエスがお受けになった洗礼は、ただ単に人間の決心という事柄ではなく、そこでは天からの声が聞かれ、聖霊が鳩の姿をとって確かに主イエスの上に降るということが起こりました。そして、主イエスが洗礼をお受けになった後、主イエスを信じて洗礼を受ける人たちの上にも、主イエスがお受けになったのと同じ洗礼の出来事が起こるのです。
 バプテスマのヨハネは、自分がそれまで授けてきた洗礼と、主イエスの御名によって施される洗礼を比べて、「わたしが施す洗礼は水の洗礼だが、わたしの後からお出でになる方は、聖霊によって洗礼をお授けになる」と言っていました。まさにその通りのことが、主イエスの洗礼を境にして、実際に起こるようにされているのです。
 もちろん私たちは、自分が洗礼を受ける時に、聖霊が鳩のような姿をとって自分の上に降ってくるのを肉眼で見るということはありません。けれども、確かに聖霊はキリスト者一人一人の上に降ってくるのです。聖霊が私たちの上に降ってくださる、そして私たちは聖霊に励まされるようにして、主イエスから離れず神のものとしてずっと生活を歩んでいきます。キリスト者は、その人の情熱とか決意とか思いの強さによって信仰生活を歩むのではなく、聖霊の働きに与りながら、信仰を励まされ、そして与えられているそれぞれの人生を辿る、そういう生活を与えられるのです。

 マルコによる福音書の中で、主イエスの受洗の場面は、大変劇的に、絵画か彫刻を見せられているかのように描かれています。主イエスが洗礼を受ける決心をして、ヨハネと共に水の中に降りて行かれると、天が開けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神の御声が響き渡りました。そしてその時、聖霊が鳩のような姿をして主イエスのもとに降ってきました。
 実は、この場面には、父なる神が御言葉を語っておられ、主イエスが洗礼を受けておられ、さらには聖霊が鳩のような姿をして降ってくるという、父・子・聖霊なる三位一体の神が勢揃いしています。ですからこの場面は、大変美しいものと受け取られました。欧米、アフリカ、アジアのキリスト教文化圏に生まれた画家たちが、想像力を逞しくしながら繰り返しこの場面を描いています。画家たちはまるで見てきたように描きますが、マルコによる福音書が伝えている主イエスの受洗の光景は、実際には肉眼で見えるものではありません。この光景を直に見ることがおできになったのは、主イエスお一人だけです。注意深く読みますと、そう書かれています。清らかな主イエスの目であればこそ、神の御業の一切を見渡すことができて、そこで、神の慈しみに満ちた御声がかけられ、聖霊が確かに降ってくる中で、主イエスが神の子・救い主としての御業にお就きになる、そういうことが始まっていくのです。
 私たち人間の罪ある目には、神のなさりようの一切を見渡すことはできません。今日私たちの間で行われる洗礼式も、その度に、その人の上に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者として、ここから生きるのだ」という、神の慈しみに満ちた御声がかけられ、聖霊が確かに降ってきている、そういう様子を主イエスであればご覧になるに違いないのです。肉眼で見ることのできない私たちは、それを信仰によって思い巡らしながら、確かにそうだと信じて地上の生活を歩んでいくのです。

 聖書はそのように、主イエスだけがご覧になれた洗礼の場面に、すぐ続けるようにして、もう一つの情景を語っています。今日聴いている場面も、主イエスがどういうお方であるかを現すような場面です。
 今日の箇所では、聖霊は鳩のような姿をしてはいません。むしろ、主イエスを人里離れた荒れ野へと追いやり、40日もの間、厳しい試みに遭わせています。それが12節「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」です。この時、聖霊が主イエスを荒れ野に送り出したのは、聖霊が荒々しく主イエスを荒れ野に追い出したということではなかったかもしれません。けれども断固として、聖霊は主イエスを荒れ野へと導きました。それは、これから主イエスが救い主としての働きのために準備する時でもありましたが、はっきり言えば、サタンと対決させるためでした。主イエスは荒れ野に追いやられた後、40日に渡って荒れ野にとどまり、野獣と一緒にいて主イエスを脅かす誘惑をお受けになったのだと13節に述べられています。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

 ここに伝えられていることは、マタイによる福音書、ルカによる福音書が伝えていることと微妙に違っています。マタイによる福音書やルカによる福音書では、主イエスが荒れ野での40日間ですっかり空腹になられ、そこへサタンが来て誘惑を仕掛けたと言われています。マタイやルカでは40日の準備の期間を主イエスが荒れ野でお過ごしになった後に、サタンの誘惑があったと語られるのですが、マルコによる福音書だけは違っています。マルコでは、主イエスが荒れ野へと送られ、救い主としての準備をしておられるその最中で、40日にわたって毎日苦しめられ、「救い主としての働きを止めるように」と脅され、誘惑をお受けになったと言われています。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と、非常に簡潔にしか述べられていませんから、主イエスがお受けになった誘惑が具体的にどのようなことだったかは、今日の記事からははっきりとは分かりません。詳しいことは言えないのですが、しかし、すぐそれに続けて主イエスが、40日の間、「その間、野獣と一緒におられた」と言われていることから考えますと、獰猛な野獣の脅かしに遭いながら40日間をお過ごしになったのだと、この箇所は伝えているようにも思います。主イエスは40日の間、気を抜いたらいつでも野獣に襲われてしまう、そういう緊張を持ってお過ごしになったのではないでしょうか。
 また荒れ野は、ヨルダン川流域から東の方に広がっていく場所ですが、そこは私たち日本人が考えるような荒地、山林や草地というのではなく、岩だらけで木々の育たない文字通りの荒地だと言われています。ですから、食料や水を手に入れることも難しい場所です。荒れ野の40日の間、主イエスは、空腹や渇きも経験なさっただろうと想像できます。

 13節には、主は「野獣と一緒におられた」と言われていますが、同時に「天使たちが仕えていた」と言われています。この言葉は、ギリシャ語では「食事のお世話をする」という言葉です。ですから、天使たちは主イエスに、定期的に食料や水を運んでいたと読むことができます。旧約聖書に出てくる預言者エリヤは40日40夜、荒れ野を彷徨い、疲れ切って倒れこむのですが、その度に御使いがエリヤのもとを訪ねてパン菓子や水を届けてくれました。今日の箇所にはそういうことが詳しく描かれているわけではありませんが、恐らくこのような情景だっただろうと想像されます。エリヤが荒れ野の中で、天使たちに養われ支えられながら鍛えられ、預言者としての務めに向かって行ったように、主イエスも荒れ野に40日間留め置かれました。激しい疲労と食糧の乏しさ、そして野獣によって命を脅かされること、誰にも会えない孤独など、主イエスを脅かしていた状況が、今日の箇所では一言で「誘惑」と言い表されています。
 ですから、ここでの「誘惑」の中身は、マタイやルカで言われている「荒れ野の誘惑」の出来事とは随分と違う印象を受けます。ここには、パンやこの世の富を示して、「わたしを拝みなさい」と、サタンが主イエスに親しそうに寄ってくるという場面はありません。主イエスを神から引き離して罪の道に誘い込むような誘惑ではなく、むしろここに語られていることは厳しく、生存を脅かし、力づくでも主イエスを救い主としての働きから引き離してしまおうとする試みが起こっています。主イエスはまさに荒れ野で、試みの時をお過ごしになりました。「神に信頼して神の子として歩むという歩みを取るならば、この先、その歩み自体にさまざまな苦難や攻撃が襲ってくる。あなたは押し潰されていくぞ」というような誘惑を、主イエスは荒れ野で40日間、経験されました。

 この福音書で、主イエスを神から引き離し、違う方向に進ませようとするサタンの有り様というのは、他の福音書に語られるサタンの有り様と比べて、ずっと巧妙であると言われることがあります。それは、サタン自身が姿を見せないからです。主イエスはサタンから誘惑を受けられましたが、それは「野獣と一緒におられた」という言い方をしています。荒れ野の40日で主イエスを実際に脅かしたのは、野獣の攻撃であり、さまざまな欠乏であり疲労であり、私たちもごく普通に経験するものでした。サタンは確かに背後にいて、全てを操って指示をしていたに違いありませんが、他の福音書のように、のこのこ姿を現したりしていません。
 サタンが姿を現さないことには、一つの戦略があると思います。それは、一切を神抜きで経験させ、神抜きで解決させようとする思惑がサタンにはあるのです。こういう巧妙な誘惑というものは、主イエスが経験なさったというだけではなく、私たち自身が日々の生活の中で経験する困難や試みを思い返しても、思い当たるのではないかと思います。私たちも日々に、さまざまな困り事を経験したり、悩むことがあります。そのような時に、私たちはどうするでしょうか。少しでも困ったら、すぐに神に助けを求めて祈るでしょうか。そうなれば良いでしょう。私たちはどのようなことであっても神に祈り、助けを求めて良いのです。どんなに些細に思えることでも、逆に深刻なことでも、神に助けを求めて良いのです。今直面している困難や悩み事、悲しみや苦しみの向こう側にサタンの影を感じたならば、私たちは迷わず神に助けを祈るでしょう。
 けれども、サタンが姿を見せない場合には、神に助けを求めるのではなくて、私たちは何とかして自分の力で解決しよう、何とかなるのではないかと思うのです。そして自分の力では何ともできない、解決できない場合にはどうなるか。それも仕方がない、それが自分なのだと思って暮らしていくのですが、実は、それ自体が神から離れた生活なのです。
 サタンが姿を隠しているのはどうしてか。それは、一切の事柄や出来事を、もともと神などいない、この世だけの出来事なのだと思い込ませようとするのです。「この世界全体が平和でありますように。争い合っている国々に平和が訪れますように。災害が起こっている地の方々に助けがありますように」と神に祈ることはあっても、「神さま、どうか日毎の糧をわたしに与えてください。わたしのこの問題を、神さま、助けてください」と祈ることを忘れさせてしまう、そういうところにサタンの謀があるのです。サタンは姿を見せず、この世の日常は全て人間が自分の力で解決するものだと思い込ませてしまうようなところがあるのです。

 荒れ野で、サタンは自分自身が直接主イエスに手を下し攻撃を仕掛けたりはしていません。さまざまな欠乏や飢え、野獣たちの脅かしに一歩退いて、主イエスを試み行き詰まらせようとしています。
 ところが主イエスは、そのような生活に怯むことなく、最後まで耐え忍ばれました。「天使たちが仕えていた」と語られているように、天使たちの助けを借りて一瞬も神から離れることなく、40日間をお過ごしになったのです。13節にはごくそっけなく「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と語られていますが、「天使たちが仕えていた」ということは、とても重要だと思います。これは、主イエスが天使たちに仕えることをお許しになっていたということです。主イエスは荒れ野の40日間、「天使たちに支えてもらう生活」をお過ごしになってくださったのです。
 これはあまり考えないことかもしれませんが、主イエスご自身は、神の独り子であって神と等しいお方なのですから、神の子であるという力を使えば、荒れ野であっても何も脅かされることなどなく、獣を近づけることもなく、サタンに指一本も触れさせることなくお過ごしになることだってお出来になったはずです。「天使たちが主イエスお仕えした」ということも、それは主イエスがそれを許してくださったからです。主イエスが必要ないとおっしゃれば、天使は仕えることはできませんでした。けれども、事実として主イエスは、ご自身一人で神の子としての満ち足りた生活をするということではなく、聖霊の促しに従って、自ら荒れ野に赴き、そこで欠乏と疲労を耐え忍ばれ、獣の脅かしも甘んじてお受けになりながら、天使たちに養われ支えられる生活を選び取られました。

 こういう主イエスの有り様について、ヘブライ人への手紙4章15節に「この方は、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」という言い方がされています。主イエスは、救い主としての生涯をお始めになる前に、40日間、準備の時をお過ごしになりました。これから救い主として働くというときに、人間と同じようにお過ごしになる、そういう生活を荒れ野で経験してくださったのです。私たち人間は、神と同じではありませんから、日常の中でさまざまな困難や悩み、悲しみを経験するときに、それを自分とは関わりのないことのようにして一人で充実して満足して生きることなどできません。私たちは、慰めを受け勇気を与えられ、支えられながら、この地上の生活を歩んでいく他ないのですが、主イエスは荒れ野で、私たちと同じようにそれを経験してくださいました。私たちと同様に試練に遭ってくださいました。そして、そういう生活をもって、サタンの誘惑に対しても向かい合われました。さまざまな問題や欠乏を抱えながら、それでもそこで、ご自身が本当に神から愛されている者として、また神の御心に適う僕としての生活を、天使たちに励まし養ってもらいながら、お過ごしになったのです。
 ですから主イエスがここで40日の間、サタンから誘惑をお受けになったというのは、主イエスご自身が救い主としての業に立てられていくための準備であると同時に、私たちのためにも経験してくださったことでもあるのです。すなわち、私たちがこの地上での生活において経験させられる激しい悩みや苦しみ、あるいは深い痛みの出来事に出会う、その時に、私たちが助けてもらわなければならないような、「天使によって支えられる」という歩みを、主イエスは私たちに先んじて荒れ野で経験してくださいました。どんなに激しい脅かしに出会わされる時にも、「天使たちが間違いなく神の子らを顧みる。そういう救いを神は一人一人に与えながら、いずれに日にか神のものとして完成させられるところへと導いてくださる」、そういう生活を主イエスは、40日の間、歩んでくださったのでした。
 神の子らがこの地上で、いろいろな形で誘惑され攻撃を受ける、そして困り果ててしまう時にも、「神はきっとそこに糧を備えてくださる。また、生きた水を送って潤してくださる」、そういう経験を主イエスご自身が荒れ野でしてくださいました。

 マルコによる福音書は、冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。「神の独り子である主イエス・キリストの始まりは、このように始まっている」と言って、その土台は、「主イエスが地上のキリスト者の第一号として洗礼をお受けになられた」と語り、続いて、「主イエスは、地上のあらゆる苦しみ痛み、恐れを経験させられる荒れ野の生活の中で、確かに天使たちに世話をしてもらいながら、神への信頼と希望を失わずに40日を終わりまで歩んでくださった」、そういうことが語られています。
 荒れ野での誘惑は、主イエスご自身の働きの準備のためであり、同時に私たちのためにも苦しみを経験してくださっている出来事でした。そして、その荒れ野において、主イエスが「絶えず天使たちに助けられて歩まれた」と語られていることで、「私たちにも同じように、神が助け手を送ってくださる。誘惑に屈しサタンになびいてしまうのではなく終わりまで歩まれた、そういう主イエスが私たちといつも共にいてくださるのだ」と、私たちは知らされていくのです。

 私たちは、主イエスが私たちのことをご存知であり、天使たちを私たちにも送ってくださることを期待して良いのではないでしょうか。
 更に言えば、主イエスは野獣たちと一緒にいたと言われていますが、しかし主イエスは、普通であれば脅かす者だと考えられる野獣とも、神がお造りになった存在として愛を持って共にお過ごしになりました。そういう中で、野獣たちも主イエスのもとで大人しく過ごしていたのではないかと考える人もいます。
 私たちはこの地上で、さまざまに脅かされる時に、ただそれを恐れて逃げ回り、身を隠すということだけではないのだろうと思います。
 主イエスが確かに私たちと共に歩んでくださる、その時には、「隙があれば攻撃を仕掛けてくるような者に対しても愛を持って、共に生きていく」、主イエスが共にいてくださることによって、そういう生き方もできるのではないかと思います。

 私たちは、あらゆる人生の事柄について、神に期待し祈って良いのです。「神に救いを求め、神の助けをいただきながら、神に愛されて生きる。神の子らとしての生活を深く味わい、感謝し、御名を賛美する」、そういう幸いな生活を歩んでいく者とされたいと願います。

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