聖書のみことば
2021年3月
  3月7日 3月14日 3月21日 3月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月14日主日礼拝音声

 上からの証し
2021年3月第2主日礼拝 3月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第3章31〜36節

3章<31節>「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。< 32節>この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。<33節>その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。<34節>神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。<35節>御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。<36節>御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 ただいま、ヨハネによる福音書3章31節から36節までをご一緒にお聞きしました。31節に「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。
 ヨーロッパの古い時代に建てられた教会堂の中には、正面に3つの場面が描かれている祭壇画を持つ教会があるそうです。3つ一組の祭壇画ですので、日本語では三幅対と言うそうですが、3つが揃って一つの内容を表すそうです。中央が一番大きく全体の主題を表し、左右の絵は中央の半幅で蝶番で繋がれ、普段は折り畳まれており、祭事に開かれて全体が見えるようになるそうです。左右の絵は中央の絵と合わせて見ることで中央の絵が表していることが良く分かるという補助的な役割をするそうです。

 なぜこのような話をするかと言うと、今日の箇所は、先週聴きました3章30節までに語られていた洗礼者ヨハネの証し、またその前の3章1節から15節に記されたニコデモと主イエスの話と合わせて、3つセットになっているようなところがあるからです。ヨハネによる福音書の3章は3つの記事がお互いに関わりを持って一つの事柄を表しているようなところがあるのです。
 その際に中心となるのは、16節から30節までの箇所です。そこは大変有名な3章16節の言葉から始まって、30節の洗礼者ヨハネの証しの言葉で結ばれていました。16節17節、30節をもう一度お聞きします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。ここには「神がお遣わしになった独り子こそが世の人々を救ってくださる。そしてこの方によって永遠の命が与えられることになる」と語られていました。そしてヨハネは、「自分は証しするべき方を証しし、なすべき務めを果たすことができた」と知り、大変明るい声で「わたしは喜びで満たされている」と語りました。
 絵画に譬えますと、中央に当たる部分は、世界を救いに導き世の人々を救ってくださる方がこの世界に訪れてくださっているという明るい主題が描かれています。その方は花婿の姿でお出でになり、花嫁となる人たちを招いて親しく御言葉を語りかけます。花婿となる方を信じ、どこまでも共に歩んで行こうとする、花嫁が花婿を信じて一つの家庭を作って生きていくように、主イエスを信じる弟子たちが、神から遣わされた花婿である主イエスと固く結ばれて喜んで生きていく、そういう新しい歩みが始まったことに洗礼者ヨハネは満足し、務めを終えて、「わたしは衰えていく」と語りました。
 そしてその両側には、主イエスとニコデモの対話と、今日の箇所が描かれています。

 ニコデモが登場する記事は、真の救い主である主イエスにニコデモが話しかけるものの、その答えを理解できずに困っているという場面です。ニコデモは主イエスの奇跡の御業を見て、主イエスを神から来られたお方だと思い、訪ねました。ニコデモは主イエスに、「人はどうすれば神の国に入り、神の国の住人となれるのか」を教えていただきたいと思っていました。「神の国」とは、「神の慈しみ豊かな御支配の中を生きていくという生活」のことです。「神の慈しみをいつも覚えて感謝し、心から神に従う者になりたい」という憧れが、ニコデモの内にありました。
 主イエスはニコデモの心の内をご覧になり、問われるより前にお答えになりました。3章3節です。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」。けれどもニコデモは「新たに生まれる」ということが、どうしても分かりませんでした。ニコデモは、そもそも、主イエスが伝えようとなさっている神のことが分かりません。「神さま」と口に出しても、それは所詮人間が頭の中に思い浮かべている神というもの、自分以上の何かがあるということを思い浮かべているだけで、ニコデモの考えから離れたところに、神が実在しておられるということが分かりませんでした。ですから主イエスが、神の力である聖霊のことを風に譬えて教えられた時にも、ニコデモは戸惑うばかりでした。9節でニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と返事をしています。そういうニコデモの様子を主イエスは11節で「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」と言われました。両脇のパネルの一枚目に描かれているのは、そのようなニコデモと主イエスの対話です。永遠の命を与えてくださる救い主がニコデモの前に現れ、「あなたは上からの力によって新しく生まれるのだ」と招いてくださっているのですが、ニコデモはその方の前で当惑しています。

 そして、このように当惑しているニコデモの姿に対応するようにして語られているのが、今日の箇所です。ニコデモの前に立って「新しく生きなさい」と招いておられるお方が、どういうお方なのかが描かれているのが二枚目のパネルです。ニコデモを招いておられる方は「上から来られる方」であり、「天から来られる方」であると紹介されています。31節に「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。
 「上から」と語られている言葉は、主イエスがニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われた時の、「新たに」という言葉と同じ言葉です。つまりニコデモは「新たに、上から」、ニコデモ自身の知恵や熱心さによってではなく神の力によって新しくしていただく、そのことを信じて、「生まれ直すように」と主イエスに招かれましたが、そう招かれた主イエスご自身がまさしく上から地上に降って来られた方だと、今日の箇所の最初に語られています。「上から」は「天から」と言い直されています。主イエスは「上なる天からお出でになって、すべての者の上におられる方」と言い表されています。
 「すべての者の上におられる」というのですから、主イエスは、主イエスを信じて弟子になろうとしている人の上にもおられるし、またニコデモのように信じることができずに背を向けつつある人の上にもおられるのです。信じる人の上にも信じない人の上にも、主イエスは「すべての者の上におられる」のです。主イエスは信じる人とだけ一緒にいてくださるというのではありません。信じない人や、主イエスに反発する人たちとも、主イエスは共にいてくださるのです。ですから、主イエスは十字架への道のりを歩んでくださったのでした。もし主イエスが、自分になびく従順な者たちだけを相手にするということであれば、主イエスは十字架への道を歩まれることはなかったでしょう。けれども、なぜ主イエスが十字架への道を歩まれたかというと、「すべての人と共に生きる、すべての人の悩みや嘆きや苦しみや痛み」をご自身の身に引き受けるという覚悟があり、また神の御心に従われたからです。
 ヨハネによる福音書1章5節で、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と言われていたことを思い出したいと思います。主イエスはこの世に光をもたらす光なるお方ですが、光の中だけでなく暗闇の中にもいてくださいます。11節では「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とも言われます。主イエスは暗闇に理解されない光であり、ご自身の民に受け入れてもらえない「言」として、この世に来てくださいました。

 そして、まさにそういうお方としてニコデモの上にもいてくださり、「新しく生まれるように」とお招きになるのですが、ニコデモは理解しません。ニコデモは、自分が生きている世界と別に、神とだけ直属している領域があるということを信じませんでした。
 しかしこれは、ニコデモだけのことではないと思います。21世紀のこの社会でも、ニコデモのような人はいると思います。実際に存在するのは、今自分たちが見たり経験しているこの地上という領域だけであり、神に直属する天の領域などホラ話に過ぎないと思って生きている人は多くいるのではないでしょうか。そういう人たちは批判精神旺盛に、神や天の存在など証明できないのだからと最初から疑い、それこそが正しいと思っていますけれども、そういう人たちも、実際に生きている生活の上では「証明できないものに支えられている」という面が多くあるのです。
 例えば、私たちが生きていく上で誰もが必ず必要とするものに「愛」があります。私たちは生まれ落ちた時から死ぬ時まで、誰かに愛されるということをずっと必要としています。もし誰も愛さず愛されることもないとすれば、その人生は非常に殺伐として、もはや人間の人生とは呼べなくなるかもしれません。けれども、愛は、とても厄介なことにその存在を証明することができません。私たちが誰かを真心から愛したとしても、その愛を証明して見せることはできません。相手がその愛を受け止めてくれなければ、私たちの愛は宙に浮いたようになってしまいます。愛はいつも、他の人が自分を愛してくれているということに感謝して受け取るという仕方でしか存在できないのです。自分の方から「これは愛だ」と押し付けても、相手がそれを受け入れてくれなければ、愛として認めてもらえないのです。
 どの愛も信じることができなくなって誰にも心を開けなくなるという場合もあります。その場合にはとても辛い思いをしますが、しかしそれは本当に周囲に愛がないということではなく、愛を受け取ろうとしない人に愛を押し付けることはできないからだろうと思います。
 そしてこれは、人間同士の愛だけでなく、神と人間とのことでもそうです。神が人を愛してくださって、「生きるように」と配慮してすべてを支えてくださる、そのことを信じて、「神に愛されている者としてもう一度生まれ直し、生きていきなさい」と主イエスがニコデモに招いてくださっているのに、ニコデモには理解できませんでした。主イエスの言葉をニコデモは信じませんでした。しかし、ニコデモが信じず、主イエスを通して神がお与えてくださる愛を受け取ろうとしないからと言って、主イエス・キリストが消えていなくなるのではありません。
 主イエスについて、32節に「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」と語られています。主イエスは天からお出でになったお方ですから、天の父なる神さまの御心をつぶさにご存知です。この世界に生きる一人一人を神がどんなに深く愛しておられるか、この世に生きている人たちがどんなに苦労し嘆き、悲しみ痛みを負って生きているかをご存知で、御言葉をかけて労い、慰め、生きる勇気と力を与えようとしてくださっていることを、主イエスはよくご存知です。主イエスが私たちに語りかけてくださる天の父の慈しみは、主イエスご自身とすれば確かに見たこと、そして神から直接聞いたことです。ところが地上の人間は、それをなかなか信じることができません。自分の目で確かめるというものではないためです。多くの人は、主イエスが証ししておられる神の慈しみ、神の愛を信じて受け取ろうとはしません。ニコデモもそういう大勢の人たちの中の一人でした。

 けれども、そのような中で、ごく僅かですが主イエスの言葉を素直に受け止め信じる人たちもいるのです。「神がわたしを愛そうとしてくださっている」と信じて生きようとする人たちは、神が真実に支えてくださっていることを確認させられ、確信するようになります。33節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」とある通りです。
 今日の箇所が、3幅対の脇の一枚であることを思い出したいと思います。中央の絵の主題は「神が独り子をお与えになったほどに世を愛された」、神の大きな愛と慈しみが語られています。それは花婿が生涯をかけて花嫁を真実に守り愛していく、それによって花嫁が喜び力を与えられ花婿と共に生きていく、そういう場面として描かれています。けれども、このことは脇の絵の一枚目である、ニコデモが信じることができなかったような、そういうことが起こる出来事でもあるのです。中央に描かれた神の慈しみ、愛は、誰もが見れば分かるというような者ではなく、主イエスが目の前に立ってくださって語りかけてくださった時に、それを信じて受け入れる時に初めて、確かなことだと確認できるようになるのです。
 今日私たちが聞いている二枚目の脇の絵は、そのことを告げています。大方の人は主イエスの言葉を信じて受け入れることができないけれど、ごく少数の受け入れ信じた人にとっては、神の慈しみは真実であると確認できるようになるのです。
主イエスが私たちの世界にお出でになり、「神は確かに私たちを愛してくださっている」ことを証してくださる、そこで一方では信じることのできないニコデモがおり、もう一方には信じて受け入れ神の愛を確かめることができる人がいます。

 ところで、そこで大切なことは、ニコデモがどうしても疑ってしまうということよりは、主イエスの御言葉を受け入れた側の人たちのことです。主イエスの御言葉を信じて受け入れると、どうして「神は真実である」と分かるようになるのでしょうか。それについても、今日の箇所に語られています。それは、神が聖霊を豊かに送ってくださって、主イエスの御言葉が本当だと示してくださるからです。34節に「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」とあります。
 「神がお遣わしになった方」は主イエスのことです。神から遣わされた主イエスは、神の御言葉を私たちに聞かせてくださるのです。それは、もともと主イエスが神の元におられ、上から来られた方だから当たり前だと思うかもしれませんが、知っていることと、語り聞かせるということは必ずしも同じではありません。私たち自身のことを考えてみてもそうでしょう。私たちは自分の知っていること、知識を全て語るわけではありません。知っていても語らないこともあるでしょう。相手のことが気に入らなければ知っていても教えない、ということもあります。
 けれども、主イエスはご自身を愛して受け入れた人だけと交わっておられるわけではありません。「暗闇は光を理解しなかった」とあるように、主イエスは圧倒的に受け入れてもらえない人たちの間にお出でになっておられます。普通であれば、そんな相手に御言葉を語ろうとしなくても不思議ではありません。しかし主イエスは、闇の中で輝き続けます。受け入れない民に御言葉を語り続けます。それは、神が聖霊を豊かに、限りなく主イエスに注いでおられるからです。つまり主イエスは、この世で受け入れてもらえない辛さを経験し、悲しみを経験し、人間的に考えれば、もう嫌になってもおかしくないのですが、神が聖霊を送ってくださって、それでも「わたしはこの人たちを愛している」と伝えてくださるので、主イエスは、ご自身を受け入れない人にも何度でも繰り返して「神の愛はどれほど大きいか」を語ってくださるのです。
 ですから34節の言葉は、神がお遣わしになった方、主イエスと神との間柄のことを書いてあるように思いますが、実は、「神の言葉を話される主イエスとは、神が限りなく霊を注いでくださっている方である」ということは、もう少し言いますと、「神が主イエスを通して、私たちにも限りなく御言葉と霊を与えようとなさっている」、そういうことが起こっているのです。主イエスも神の霊に動かされて御言葉をお語りになりますが、私たちの側から言えば、主イエスを通して、神の御言葉と霊が溢れ出すようにして私たちの元に及んでくるのです。神の霊、聖霊は、時に「風のよう、神の息吹、神の力」と譬えられますが、主イエスが神の愛に背中を押さるようにして御言葉を語る生活を送ってくださる中で、それを聞いて信じる人たちには、「本当に、わたしにもその力が与えられている」と知るようなことが生まれてくるのです。
 今日の箇所の先の方を読みますと、主イエスが逮捕される直前に神に祈られた言葉が17章に出てきます。17章23節に「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」とあります。主イエスは限りなく、また絶え間なく注がれる聖霊によって、神の愛を伝えるために御言葉を語り、十字架に向かってくださいました。そしてその主イエスを通して、「私たちの上にも絶え間ない神の愛と慈しみが注がれている」と知らされるということが起こるのです。花婿の言葉に勇気を与えられた花嫁が健気に家庭を守り、花婿と共にどこまでも歩んでいこうとするみたいに、主イエスの言葉を信じて受け入れた人は、主イエスの言葉を通して神の力をいただいて勇気を与えられ、神に喜ばれるように生きていくようになるのです。
 そしてそういう生活の中で、「神がどれほどにわたしを愛してくださっているか」をしみじみと味わうようにされていきます。

 私たちが生きているこの世界については、さまざまな克服できなうような問題や、私たちが不自由さの中で押さえつけられるように感じてしまう問題や、また私たちの間には死の出来事があり、愛する人が遠い手の届かないところに連れ去られてしまっているように思ってしまうこともあります。
 けれども、「この世は深い闇に包まれている、この世に何の希望もない」と真顔で言う人が大勢いる社会にあって、主イエスを信じて従う人は、そこになお神の愛が注がれ、慰めと希望が与えられるのだと、神が主イエスを通して語りかけられる御言葉を聞くのです。主はご自身の身をもって語ってくださいます。「わたしは、あなたがたのために十字架に架かり命を失うことになったが、しかし今、甦ってあなたたちと共にいる。あなたたちには、どんな時にも希望がないわけではない。本当に困難なときがあるかもしれないけれど、それでも神の愛は、あなたの上に確かに注がれている。あなたがもうダメだと思ったとしても、神の愛はその先に希望を与えてくださる」と、主イエスが、神の愛を私たちに証ししてくだルのです。

 主を信じて従う人は、慰めと希望を与えられ、勇気を与えられて歩みます。主イエスが証ししてくださる神の配慮に満ちた慈しみと愛に力を与えられ、歩む者とされたいと願います。

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