聖書のみことば
2021年3月
  3月7日 3月14日 3月21日 3月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月7日主日礼拝音声

 先触れ役のつとめ
2021年3月第1主日礼拝 3月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第3章17〜30節

<17節>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。<18節>御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。<19節>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。<20節>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。<21節>しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」<22節>その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。<23節>他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。< 24節>ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。<25節>ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。<26節>彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 <27節>ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。<28節>わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。<29節>花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。<30節>あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 ただいま、ヨハネによる福音書3章17節から30節までをご一緒にお聞きしました。
 29節に「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」とあります。ここに「大いに喜んでいる」洗礼者ヨハネの姿があります。この記事は、この福音書の中で洗礼者ヨハネが登場する一番最後の場面です。最後にヨハネは大いに喜んでいます。
 30節で、ヨハネはこれからの将来を暗示するようなことを語ります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。こう言っている通り、間もなくヨハネはヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、地下牢に幽閉され、そのまま斬首され亡くなっていくのです。他の福音書に語られているそんな辛いヨハネの将来のことは、ヨハネによる福音書には記されていません。それは、この福音書が辛いことには目を閉じているからということではありません。洗礼者ヨハネは、この福音書では他の3つの福音書に描かれているのとは少し違った、独特の役目を果たす人物として登場しています。
 それは、この世に対する主イエスの証し人という役割です。1章23節「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」とあるように、ヨハネはこの世の人たちに主イエスを紹介し、人々をまっすぐ主イエスのもとに連れて来ようとする声です。もちろん、他の福音書でも、ヨハネは主イエスの先触れであって、主イエスを指し示す役目を果たしてはいます。けれどもヨハネによる福音書では、そういうヨハネの役割が際立って描かれているのです。

 今日の箇所の、ヨハネが大いに喜んでいるという姿もそうです。そして、洗礼者ヨハネの喜びというのは、「真の光であり、救い主として来るべきお方である主イエス・キリストを証しする」証し人としての喜びです。
 今日の箇所で、ヨハネは主イエスをどのように紹介するのでしょうか。29節で主イエスを「花婿である方」と紹介しています。花婿は主イエスです。そして花婿の介添人として出てくるのが洗礼者ヨハネ自身です。そして花嫁は主イエスの弟子たち、さらには主イエスを信じ受け入れるようになった人たち、すなわち教会の群れを表しています。花婿の介添人というのは、花婿と花嫁を目合わせる仲人と言っても良いのですが、その仲人であるヨハネが花婿の声を聞いて大いに喜んでいます。
 花婿が花嫁に語りかける限りない真実の愛の言葉を聞いて、結婚の仲立ちをした洗礼者ヨハネは喜びました。「花嫁に花婿を紹介することができた。まっすぐ導くことができた。今確かに新しい真実な家族の交わりが誕生した」、そのことを知ってヨハネは満足し、喜びます。「花婿はどこにも偽りのない真実の花婿である。そして花嫁は花婿の愛を信じて、その言葉を聞き喜んで従っていく。そういう生活が始まっている」、その様子を見てヨハネは喜ぶのです。これは、介添人であり仲人である者の喜びです。

 ところで、洗礼者ヨハネが主イエスを花婿と呼び、ヨハネ自身を花婿の介添人と紹介することに、少し驚くかもしれません。洗礼者ヨハネという人物について、私たちはどう思っているでしょうか。野性味あふれた無骨な人物だというイメージではないでしょうか。ラクダの毛衣を着、イナゴと野蜜を食料とし、人々に悔い改めるようにと呼びかけていたヨハネの口から、「花婿」や「花嫁」という言葉を聞くと驚きます。
 今日の箇所でヨハネが語る花婿や花嫁のイメージは、ヨハネが自分の思いつきで語っているのではありません。旧約聖書の雅歌という書物から取られているのです。雅歌をお読みになりますと納得していただけると思いますが、雅歌では、神と教会との真実で密接な交わりの姿が、恋人たちや花嫁と花婿の姿に譬えられて語られます。ですから、ヨハネは旧約聖書の雅歌のイメージを念頭に置いて、それに重ね合わせるようにして語っています。
 けれども、それでも腑に落ちないかもしれません。ヨハネが「荒れ野で叫ぶ声」となって人々に呼びかけたのは、厳しい裁きと徹底的な悔い改です。神の激しい怒りを伝えようとして、ヨハネは集まってきた人たちに向かって「蝮の子らよ」と呼びかけたことさえありました。人々に対してそんな厳しい言葉を語っていたヨハネが、どうして今日の箇所では突然、「花婿と花嫁」というような柔らかなイメージの言葉遣いをするのでしょうか。不思議です。
 ヨハネは、自分の後からお出でになる方について、ただ単にこの方は悪や罪を白日の元に晒して裁くというだけではなく、むしろこの方がお出になるということは、人々にとって結婚のように晴れやかなものなのだということを承知していました。ヨルダン川の荒れ野に現れたヨハネの、悔い改めを呼びかける叫びは、初めから救いへの呼び声であり、結婚生活の喜びに人々を招こうとする、そういう招きの声でした。
 ヨハネは、誰彼なく十羽一絡げにして人々を蝮呼ばわりしたかというと、そうではありません。仲人役のヨハネには状況がよく見えています。ヨハネが呼びかけた人たちの中には、確かに心が頑なで、何も変わろうとしない人たちがいます。しかし中には、「斧が木の根元に置かれているぞ」という言葉を聞いて大いに心を動かされ、自らを省みて新しいものとされることを願う人たちもいたのです。群衆の中には、ヨハネが宣べ伝えた来るべき方、花婿に出会って救われたいと願う人たちもいます。それこそ晴れやかな結婚式に臨むような思いで、来るべき方を心から喜んでお迎えしたいと思う人たちが、ヨハネの説教を聞く人たちの中に確かにいたのです。ヨハネはそのことをよく知っていました。すなわち、「神が送ってくださった救い主を信じ、永遠の命に与ることを喜ぶ人たちがいる」ということを、ヨハネはよく分かっていました。

 この朝、私たちは、ヨハネが確かなこととして知っていた事柄を、私たち自身もしっかりと心に留めたいと思います。
 来たるべき方が本当に私たちのもとに来られる時、それは裁きの日ですが、それは花婿の真実な愛に包まれて救われる喜びの日でもあるのだということを、しっかり心に留めたいと思います。裁きの日は、主を信じる者たち、すなわち神のもとから遣わされた御子を自分の救い主だと信じる人たちにとっては、新しい喜びの生活が始まる門出の日になるのです。終わりの日というのは、ただ恐ろしいだけの日ではありません。主を信じるキリスト者たち、また教会にとっては、裁きの日にもそこで喜んで新しい生活に入っていくということが許されているのです。
 終わりの日の審判を描いた絵画の中で、恐らく最も有名なものは、バチカンのシスティナ礼拝堂に描かれている祭壇画だろうと思います。ミケランジェロの描いた、逞しい若者の姿をしたキリストが右手を高く振り上げて、近づこうとする全ての人を今にも薙ぎ倒そうとしている、そういう絵です。けれども、洗礼者ヨハネの目には、来たるべきお方は、そういう荒々しい姿とは全然別の姿に見えていたようです。最後の審判を下す方は、信じる者にとって、まさに真実な無償の愛で花嫁を迎え、覆い包んでくださる、そういう花婿のような方です。来たるべきお方がそういう方だと信じる人たちは、裁きを免れます。18節の最初に「御子を信じる者は裁かれない」と言われている通りです。
 私たちは、主を信じるすべての人に、こういうまことに大きな約束が与えられていることを聞くときに、もはやただ感謝しかありません。そういう人は裁きを恐れる必要はなく、むしろ逆に花婿の訪れを待ち望んで、その声を聞いて、ヨハネと共に喜ぶようにされていきます。そして、そうなるためのただ一つの条件は、「御子を信じる」ということなのです。

 「御子を信じる者は裁かれない」、聖書からこういう言葉を聞かされますと、私たちは少なからず心惹かれるのではないでしょうか。もし許されるのであれば、自分もぜひ、そのただ一つの条件を備えている者になりたいと願うのではないでしょうか。そういうことなら、自分も御子を信じる信仰を持って、裁きを恐れることなく救われる側に入れられたいと願うのではないでしょうか。
 そこで、全ての鍵となる「御子を信じる」ということが一体どんなことなのか、考えてみたいのです。このことについて考えますと、まず言えることは、「わたしが毎日、日々新たに主の導きのもとに置かれて生活すること」と言って良いと思います。「日々新たに御子を救い主と信じる」ということは、私たちが生活していく際に、自分自身の思いや願いや計画を先立たせて自分の思い通りに生きられなければ気が済まないというあり方から離れることだろうと思います。たとえそれが人の目からは良い志であると見えるとしても、例えば私たちが自分から主イエス・キリストに従いたい、主の僕として自分自身を見事にお捧げして見事な僕としての生涯を生き切りたいという志であっても、もしそれが私たちの中から生まれている思いであるならば、それに拘ってはいけないのかも知れないと思います。前任者の北紀吉牧師は「キリスト者は、その信仰においても罪を犯す者である」としばしば言われました。信仰を生きようと願う私たち自身にはどうしても欠けがあり、自分の思い通り自分の願い通り信仰を生きようとしてそれを押し通してしまうと、そこにどうしても過ちが生まれ罪が生じてしまうのです。
 私たちは自分の思いや願いを先立たせて自分から生きていくというのではなく、「主イエス・キリスト、そのお方の方がわたしと共にいてくださる。過ちや失敗を犯しやすいわたしを、その度に御言葉を通して叱ったり慰めたり勇気づけたりしながら歩ませてくださる」ということ、「キリストこそが、わたしがどうにか立たされ生きていける土台だ」ということを毎日発見して歩んでいく、そういう生活が自分の思いから離れていく生活だろうと思います。そして、毎日新しく悔い改め、共にいて御言葉をもって導いてくださる主イエスの恵みに自分自身を委ねて生活していくのです。
そしてそういう生活を別の言葉で言うならば、「日々、主イエスがお架かり下さった十字架によって罪が贖われ清められている。私たちの罪と誤りを主イエスが身代わりとなって十字架で精算してくださって、私たちは罪赦され新しく生きることを許されている。そのことを知って感謝していく生活である」ということになると思います。

 洗礼者ヨハネは、「主を信じて生きる生活が花婿の無償の愛に支えられ実際にここに始まっている。その言葉を聞いて喜ぶ」、そういう仲人であると自分自身を考えています。ヨハネが告げたような花婿が、ここにいる私たちの元へも訪れてくださるのです。私たちの戸口をたたき、私たちが戸口を開いて招き入れるようにと、「わたしはもう、ここまで来ているよ」と呼びかけてくださっています。その来たるべき方を信じて花嫁が花婿を受け入れるならば、もはやそこで裁かれることはない。そしてヨハネは実際に人々を救いへと導いた者として、安心してその務めを終えていけるようになるのです。
 主イエスを救い主と信じ、必ず共に歩んでくださると信じる人は、たとえ将来どんなに思いがけないような事態に出会っても、それで大きく揺さぶられるようなことはありません。主イエス・キリストが、どんな時にも確かな道連れとして、また後ろ盾となって共にいてくださることを知っているからです。

 ところで、そうであるなら、主イエス・キリストを信じない人の場合はどうなるのでしょうか。地上の人生の最終盤に差し掛かって、死の床に横たわっていたり、生活上の不安にどうしようもなく捕らえられていたり、あるいは自らが犯してしまった罪の重荷でとても苦しんでいながら、それでいてなお、救い主などそっちのけにして、自分自身で人生を進もうとする人は、決して少なくありません。そういう人の場合は、どうなるのでしょうか。
 18節に「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と言われています。「信じない者は既に裁かれている」という言葉は、恐らく、聖書全体の中に記されている文言の中で最も厳しい言葉だろうと言われています。主を信じなかったら終わりの時に裁かれるというのではありません。待ったなしに今もうここで「裁かれている」というのです。
 しかも19節では、その説明のように「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」と言われています。主を信じない人には、もう今の時点で終わりの日の裁きの予兆のようなものが兆していると言われています。光である方、主イエス・キリストがお出でになって、せっかく命を与えようとしてくださっているのに、それを振り払ってしまうために、そこにはどんなに足掻いても、どうしても絶望の影が兆してしまうのです。

 けれども、ここに記されていることを決して誤解してはならないと思います。「主イエスを信じる人には、神が万事を取り計らってくださる。裁きや困難に遭わずに済ませてくださる。けれども、主を信じない人には厳しい運命が臨む」と言っているのではありません。他の人たちがこの世の生活でびしょびしょになっているときに、キリスト者だけが乾いた所にいて澄ましていられるということではありません。主を信じて永遠の愛のもとに置かれている人でも、この世の生活においては他の人たちと同じように、泥水を被ったり苦しかったり、悲惨な境遇を経験させられるということがあり得るのです。
 ところが、まさに不思議なことですが、そのような中で、主を信じる人たちは他の人たちに比べて、少し違った生活態度が見られるようになるのです。主を信じて生きる人たちのもとでは、困難や辛さや苦しみや悲しみを、神からの愛の鞭だと受け止めて生きていく、そういうあり方がしばしば見られます。ヘブライ人への手紙に記されているような、父なる神からの訓練の鞭として、目下の災難や禍を受け止めるというあり方が、キリスト者の生活の中には起こります。
 そしてそれは、たまたまそうなって行くということではありません。「真実な救い主、主イエスがわたしと共にいてくださる」、その信仰があるからこそ、自分が今受けている困難を愛の鞭だと受け止めることができるようにされているのです。
 今日の花婿と花嫁の譬えで言えば、花嫁も大変な目に遭うこともあるのです。けれども、花嫁は、自分は決して一人ではないということを信じ知っているのです。これから先、どんなに大変な生活がやってきても、花婿が一緒にいて、その時々に必要な慰めとなり力を与えてくれるような御言葉を語りかけてくれる、そう信じるが故に、「苦難にあっても決して自分は打ち倒されない。すべてを信じ、すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐えることができるようにされている」と、花嫁は考えるようになるのです。 従って、主を信じて生きる人には、たとえ災難に出遭わされる時にも「万事が益となる」というようなことが起こるのです。
 しかし一方で、主を信じない人たちは、もちろん、そういう希望に辿り着くことはできません。主を信じない人たちにとっては、災いや災難は、まったく自分が予想もしない得体の知れないところから持ち上がって来た滅びの矢か運命の鉄槌のように感じられます。それは、自分を愛してくださる方がおられるということを知らないためです。良くないことに遭遇すると、それを全部自分一人で受けなければならないと思うと、そこには不安や恐れや絶望がどうしても入り込んできてしまう、それが「信じない者は既に裁かれている」ということなのです。

 このように考えますと、苦難や災いを愛の鞭だと信じるより滅びの鉄槌だと思い込む人がいるということ、また光よりも闇を愛する人がいるということ、つまり真実な花婿の愛のもとに置かれて生きていくことができるのに、敢えてその愛に背を向けて生きようとする人が多くいるということは、何とも理解し難いことのように思います。まったくもって、これは一つの謎と言うべきかもしれません。
 けれども大事なことは、謎である、宿命であるとの口実をあれこれ挙げるのではなく、ただ素直に「花婿の愛に自分自身を委ねる決断をする」ということではないでしょうか。「わたしは、わたしの前に来て戸口を叩いておられる主イエスを信じるのか、信じないのか。神さまの愛の保護のもとに身を寄せるのか、それとも背を向けていくのか」が問われます。そしてその時には、どっちつかずの中間点というものはありません。結婚を申し込まれた時のことを考えると分かります。結婚を申し込まれた時には、「信じて一緒に生きていきます」と言うか、あるいは「悪いけれど、今回は見送ります」と言うか、どちらかしかありません。

 こういう問いかけは、決して、厳しくおどろおどろしい口調で問いかけられるのではありません。今日の箇所では、まことに懇ろに親しく、この問いが問いかけられています。洗礼者ヨハネは新郎新婦の仲人の気持ちを尊重しながら穏やかに、しかしそれでいて、本当の気持ちをはっきりと確かめるかのように語っています。「あなたのもとにも花婿が訪れて来ています。わたしは今、その花婿の真実な言葉を聞いて、心から喜んでいます」とヨハネは言っています。
花婿の声が聞こえるようになった今、花婿の証し人であり露払いでもあったヨハネの仕事は終わりを迎えることになります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。務めを終えた者として、この先、わたしは衰えていく、そしてあの方が栄えていきます。これからは、あの方の声があなたを慰め、支え、励まし、導いてくださいます。必ずそうなります」と、ヨハネは語っています。
 ヨハネはこのよりに語りながら、大きな喜びをもって証し人の務めを終えていきます。そして私たちは今日、そういうヨハネの言葉を耳にしているのです。

 ここに訪れてくださる花婿の声に耳を澄まし、ヨハネと共に、この方の声に喜びをいただき、力をいただきながら、ここからの一巡りの時へと押し出されていきたいと願います。

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