聖書のみことば
2021年3月
  3月7日 3月14日 3月21日 3月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月28日主日礼拝音声

 不安から喜びへ
2021年3月第4主日礼拝 3月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第4章43〜54節

<43節>二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。<44節>イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。<45節>ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。<46節>イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。<47節>この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。<48節>イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。<49節>役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。<50節>イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。<51節>ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。<52節>そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。<53節>それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。<54節>これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 ただいま、ヨハネによる福音書4章43節から54節までをご一緒にお聞きしました。43節に「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」とあります。ユダヤからガリラヤへ行こうとしておられた主イエスが、サマリアの地で二日をお過ごしになった後、改めて目的地のガリラヤへ向かわれました。

 ガリラヤは主イエスの故郷です。小さい時からお育ちになった土地に、どういう人たちが暮らしているのかということを、主イエスはよくご存知でした。ガリラヤでは、主イエスの幼かった頃、若かった頃のことをよく知っている人が多くいるために、救い主としての御業をなさる上では差し障りとなることも起こってくるだろうと、主イエスは予想しておられました。44節「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と、はっきりおっしゃっておられました。
 ところが、いざガリラヤに着いてみますと、主イエスは大歓迎されました。45節に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」とあります。「預言者は自分の故郷では敬われない」という主イエスの予想は外れたのでしょうか。そうとは限らないと思います。確かに、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とありますが、それは、「エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」と言われています。
 「主イエスがエルサレムでなさったこと」については、2章23節で「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。主イエスがエルサレムでなさった多くのしるしについて、具体的には記されません。病気の癒しが典型的ですが、主イエスに備わっている神の力によって、困難な事態を打破して解決していただく、そういうことを表しているのだろうと思います。主イエスによって不思議な御業が次々と行われ、困っている人たちや悲しんでいる人たち、病んでいた人たちが皆、生きていく力、希望や勇気を与えられて歩むようになった、その様子を、故郷のガリラヤの人たちもエルサレムで見ていたのです。そして、困った状況に対して好ましい出口を示してくださるお方だと思い、ガリラヤの人たちは主イエスを喜んで迎えたのでした。

 確かに、ガリラヤの人たちは大喜びして主イエスを迎えました。けれどもそれは、自分たちの役に立ってくれそうな人物という意味合いで迎えているのです。不思議な力を持って困り事を解決してくれる、便利で重宝な人物だと思って迎えているに過ぎません。ガリラヤの人たちは主イエスを「預言者」として、すなわち「救い主、罪を贖ってくださる方」として迎えているのではないのです。ですから、主イエスは「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われました。
 ガリラヤの人たちは、自分たちの期待に応えてくださる限り、自分の役に立ってくださる限りは主イエスを歓迎しますが、「救い主としてお目にかかる」という意味では、主イエスをお迎えしません。それがガリラヤの人たちの態度でした。

 こういうガリラヤの人たちの在り方から、私たちは、自らの信仰の在り方について考えさせられるのではないでしょうか。私たちはどうして、主イエスに向かうのでしょうか。主イエスを一体どういうお方として、私たちの中にお迎えしているでしょうか。
 何か困ったことや辛いことが起こる場合の強い味方となってくださるお方として、お迎えしているのでしょうか。確かに、そういうことは大切なことだと思います。私たちが日々生活する中で直面する具体的な問題について、生きて働いてくださる主イエスを頼りにしなのだとすれば、それはそもそも主イエスに依り頼んで生きるキリスト者の生活から外れていってしまうことになります。私たちが困ったり悩んだり嘆いたりする時に、主イエスに「助けてください」と祈り、主イエスを呼び求める、それは大いにするべきことです。
 けれども、私たちにとって主イエスは、それだけのお方なのでしょうか。
 奇しくも今日から受難週に入ります。受難週は、主イエスが私たちの救いのために、自ら十字架にかかる苦難の道を選び取って進んでくださったのだということを覚える時です。愛宕町教会では毎年、受難週には聖書日課を設定して、主イエスが十字架に向かって歩んでいかれる聖書の記事を、毎日少しずつでも聴こうとしています。
 まさに主イエスは、私たちの罪の赦しのために自ら身を捧げてくださったお方として、私たちを罪から救い出し、父なる神と私たちを結んでくださるお方として、私たちのもとを訪れておられるのではないでしょうか。
 今日の記事の中で、主イエスが「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言っておられる警告を、私たちは心して聞くようでありたいと思います。ただ自分に役立ってくださる、それだけのお方なのではない、それ以上のお方として、私たちの罪を赦そうとして、そのために自ら十字架に向かって行ってくださるお方として、主イエスはこの地上に来ておられます。そして、私たちのために十字架に向かって歩んでくださっている、そのことを、襟を正して覚える者とされたいと思います。

 さて、主イエスが病を癒やし困難を解決してくださる方だという噂が、大きな嘆きに包まれている、ある家にまで伝わっていったことが、今日の箇所に記されています。主イエスはガリラヤにお着きになりましたが、そこから30キロほど離れたガリラヤ湖畔の町、カファルナウムに、ヘロデ王に仕える身分の高い役人が住んでいました。ところが、この役人の家で跡取りとなるべき息子が病に冒され深刻な状態になっていました。47節の最後に「息子が死にかかっていた」と言われている通りです。死に臨んだ息子を抱えている父親は、その状況で主イエスの噂を耳にしました。カナの町に不思議な癒しをなさるお方が来ておられるらしいという噂です。それでこの父親は、カファルナウムからカナまで、30キロほどの道のりを、主イエスに我が子を癒していただきたいという願いを持って出かけていきました。
 主イエスの前に来て、「息子の病気を癒していただきたい」と願うその人をご覧になったとき、主イエスは最初、この人が典型的なガリラヤの人だとお考えになりました。すなわち、他のガリラヤの人たちと同じように、「息子の病気は癒してもらいたいけれど、それ以上のことは求めない。主イエスに、罪の赦しや贖いを期待しているわけではない」と考えていると思い、48節のようにお答えになりました。「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」。「あなたがたは」と言われていることから分かるように、ただ、目の前にいる役人にだけ語られているのではありません。「あなたがたガリラヤの人たちは、いつもそうだ。自分の願いや必要が満たされるという、その限りにおいては、わたし(イエス)を大変有り難がってくれるけれども、決してそれ以上になろうとはしない」。主イエスが十字架に向かって歩んでくださる。そして、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださる。そのところは自分とは何の関わりもないかのように引き下がってしまう。「あなたがたは結局、しるしや不思議な業のところだけを信じて、主イエスを救い主としては受け入れようとしない」と言われました。
 48節の言葉は、役人である父親にだけ語られているのではなく、その背後にいる大勢のガリラヤの人たち、そしてまた更に言うならば、今日でもなお、ガリラヤの人たちのようにしか主イエスを迎えようとしない全ての人間に向かって語りかけられている言葉なのです。もし私たちが、自分の手軽な助けということだけを求めているのだとすれば、私たちにも語りかけられているかもしれません。

 ところで、この父親は、主イエスの厳しい言葉を聞かされましたが、その言葉を聞いた時に、我が子の苦しみを思い、我が子の救いを願うあまり、主イエスの言葉に腹を立てたりせず、なお一層主イエスの前に謙って懸命に訴えました。49節に「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った」とあります。これは別の言葉で訳しますと「うちのチビが死なないうちに、どうかお出でください。主よ」という言葉です。この父親が、心の底から絞り出すように主イエスに願っている、そういう言葉です。
 そして、そういう切なる思いから、この父親は、主イエスに向かって思いがけない言葉で呼びかけています。「主よ」という呼びかけです。「主よ」という呼びかけは、主イエスが弟子たちから聞かされることはありますが、それ以外、ガリラヤの土地では初めて耳にする言葉です。主イエスは、父親の本当に真剣な真心からの思いに心を動かされました。けれども、「主よ」という呼びかけが、どういうつもりで語られているのか、主イエスはそれを確かめようとなさいました。
 けれども、主イエスが父親の心を確かめようとなさるということは、少し不思議なことでもあります。どうしてかというと、主イエスご自身は人の心の内をすべてお分かりになるのですから、確かめる必要はなく、真心からの思いだったということをご存知だったに違いありません。それでもなお、ここで確かめるとはどういうことか。もしかすると、ご自身が確かめるということではなく、この父親の中にこういう形で生まれ始めていた信仰の芽を、父親自身に確かめさせようとなさったのかもしれません。
 「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」という言葉には、確かに信仰の響きが聞き取れます。ただ都合よく主イエスを使おうとするのではなく、何としても主イエスに来ていただかなくてはならないという切なる思いが、この言葉からは感じ取れます。主イエスはまさに、この父親に対して、ご自身が主である方として向かい合われます。

 主イエスははっきりと、カファルナウムに下っていくことを断られました。ただし、御言葉を与えて、断られるのです。50節に「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる』」。主イエスは父親に、ただ言葉だけをお与えになりました。「あなたの息子は生きる」という言葉です。「あなたの息子は生きる」とは、まことに力強い主イエスの言葉です。しかし同時にこれは、ただの言葉です。
 父親は、この言葉を信じて、帰るのでしょうか。主イエスのただの一言で、引き下がるのでしょうか。実は、父親が主イエスの言葉を聞いてどう行動するか、それによって、つい今しがた父親が口にした言葉がどういう言葉であるかがはっきりします。父親は、本当に心から主イエスを「主なる神、救い主である」と思っているのでしょうか。「主よ」という言葉は、たまたま口から出てしまった言葉なのでしょうか。
 父親は、直ちに決心しました。この場に居合わせてこの出来事を目の当たりにし、この福音書を書いた、バプテスマのヨハネの弟子であった主イエスの弟子は、大きな驚きをもってその行動を記しました。50節後半に「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。この人は「主イエスの言葉を信じた」、そして「帰って行った」と、ヨハネは記しています。この父親はガリラヤの人です。けれども、彼は主イエスの言葉を心から信じました。何を見たわけでもないのに、信じました。

 話は、そこで終わりません。父親が主イエスの言葉を信じて帰って行くと、その道中で、カファルナウムの家から「息子の命が助かった」という知らせを携えた使いの者と行き合うということが起こりました。役人である父親に、僕は「きのうの午後一時に熱が下がりました」と報告しました。不思議なことに、それは、ちょうど主イエスが父親に「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と約束してくださったのと同じ時刻でした。まるで、カナの町で父親が主イエスの言葉を信じたことと、カファルナウムにいる息子が助かったこととが、一本の糸で結ばれているかのようです。
 この身分の高い役人の息子には、癒しという奇跡が訪れました。しかし同時に、この父親には、息子以上の奇跡が生じています。それは、「主イエスを心から信じることができている」という奇跡です。
 父親は、カファルナウムの家を出た時には、本当に惨めでした。いくら身分が高くても、自分では手の施しようのないこと、息子が間もなく命を終えることを指を咥えて見ているほかない、そういう惨めな気持ちでした。この父親だけでなく、私たちであっても、もしこの父親と同じような立場に立たされたならば、きっと同じ惨めさを味わうに違いありません。
 しかし主イエスは、ご自身との交わりの中で、この父親の惨めさ、辛さに代えて、信仰を与えてくださいました。父親が、「御言葉を信じて生きる、主イエスを信じて生きる」という、信仰に生きる畏れと喜びを、主イエスは贈り物として与えてくださいました。

 今日私たちが聞いているこの出来事は、主イエスがカナの町で行われた二度目のしるしの出来事だったと、最後に言われています。これはどういうことを語っているのでしょうか。
 カナでの一度目の出来事は、2章の初めに記されています。結婚式の途中でワインが無くなってしまった時に起こった出来事です。その際には、主イエスの母マリアが、主イエスに向かって「ぶどう酒がなくなりました」と伝えましたが、それに対して主イエスは「それがわたしと何の関わりがあるのか。わたしの時はまだ来ていない」と返事をなさり、マリアの言葉を跳ねつけました。
 けれども、マリアはそれでもなお、主イエスに信頼して「この人が言いつけたことは何でもするように」と、板場の人たちに言い含めて、その結果、足りなくなっていたはずのぶどう酒が、水がワインに変えられることによって満たされました。
 この最初の奇跡は、「水がぶどう酒に変えられた」ということが奇跡であるように思われがちですが、しかしここでも、主イエスに断られたようであっても「主イエスが必ず新たな道をつけてくださる」と信じて従う、そういう信仰の歩みが生まれています。
 そして、今日の箇所もそうです。大方のガリラヤの人たちは、主イエスと近しい仲であるために、主イエスを自分の都合よく働いてくれる人だと期待して歓迎します。大方の人の思いはそこで止まるのです。ただ、ここで主イエスのもとを訪れた役人、父親の中には、「主イエスはまさしく自分たち親子の『主』でいてくださる。何があってもきっと、自分たちを生ける命の輝きで支えてくださる」、そう信じる思いが生まれていました。

 主イエスのしるしというのは、ただ単に主イエスが不思議な力を現すということではなく、その主を信じて、何があっても主から離れようとしない信仰が生まれるところで、まことに主が力強く頼もしく働いてくださる、そういう信仰が生まれていることのしるしなのです。

 主イエスは、この役人もガリラヤの人たちも、ユダヤの人たちも、また私たちも招こうとしてくださいます。この先、主イエスがユダヤ人たちと論争する中で、そのことが明らかになってきますが、「あなたたちは、わたしの方に来ようとしない」と主イエスは言われます。それは、主イエスがユダヤの人たちにも、主イエスを信じることを求めておられたことを表しています。私たちにも、主イエスは同じことをお求めなのだろうと思います。

 受難週に向かって行くこの時、社会の中にあって私たちの生活の見通しがなかなか立たない時代にありますが、私たちそれぞれの生きていく人生の中で、「主イエスが真の主となって、すべてとなってくださる。どんなに困難な状況に陥る時にも、希望の主となって私たちの歩みを照らしてくださり、私たちの命を、主イエスの十字架によって罪を赦し、生かし、潤してくださる」、そのことを信じて、私たちはここから新たに歩み出す者とされたいと願います。

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