聖書のみことば
2021年1月
  1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月10日主日礼拝音声

 メシアに出会う
2021年1月第2主日礼拝 1月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第1章35〜42節

1章<35節>その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。<36節>そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。<37節>二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。<38節>イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、<39節>イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。<40節>ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。<41節>彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。<42節>そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 ただいま、ヨハネによる福音書1章35節から42節までをご一緒にお聞きしました。35節から37節に「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。この日、洗礼者ヨハネが口にした言葉は、今聞いた箇所では少し縮められた形になっています。少し前の29節では、主イエスが神の小羊だということについて、ヨハネは『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」と言っています。
 「世の罪を取り除く」、世には罪があるのです。それは大元を辿るならば、生きている人間、つまり私たち一人一人から生じているもので、キリスト者であっても例外ではありません。キリスト教を毛嫌いする人たちは、「キリスト教は人間を罪人だと言っていて面白くない。キリスト者は二言目には罪、罪と言って罪人扱いするが、冗談ではない。私たちは犯罪者ではない」と反発したりします。確かに反発する気持ちも分かりますが、しかし、聖書が語っていることは、「キリスト者には罪がなく、その他の人には罪がある」ということではありません。私たちは誰しも、「神を中心に生きるよりは自分中心に生きるのが当たり前だ」というところがあります。誰しも、自分自身が人生の主人公だと思ってしまう傾きを持っているのです。それで互いに衝突したり、隣の人に恐れを抱くようなこともあります。そのために言葉が荒々しくなったり陰険になったりします。上辺ではいかにも隣の人のことを思いやっているように見せながら、どうしても私たちは、当たり前のように自分中心から抜け出せないという呪縛に陥っているようなところがあります。
 ですからキリスト教が教えていることは、「キリスト者は清らかで他の人は違う」ということを言っているのではありません。どうしても人は、自分中心になってしまって、思い通りにならないことに不満を溜め込みそれを周囲にぶつけてしまいます。けれども、そういう人間の惨めさ、人間の罪のありようを救ってくださる方、その方の光に照らされて生きるならば、たとえ自分に欠けや破れがあっても、その光に照らされ温められて、自分中心という蛸壷に押し込められたような人生から少し広い所へ出してもらえる、そういうお方がおられるのです。神が私たちのために備えてくださっているこの世界の中で、喜び感謝して周りの人たちと一緒に生きていけるような、そういう新しい生活をもたらしてくださる鍵になってくださるお方として、ヨハネは主イエスを指し示しました。「見よ、この方こそ、神が私たちのためにお与えくださった神の小羊だ。この方が私たちを新しい生活へと招き入れてくださる方だ」と証ししました。

 ヨハネがそう語った言葉を、近くにいた二人の弟子が聞きつけました。ここには「二人の弟子と一緒にいた」と言われていますが、他の福音書などを読みますと、ヨハネの周りにいた弟子は二人ばかりではなかったと思います。ですが、この時、先生であるヨハネが主イエスを指差しながら「見よ、神の小羊だ」と言った言葉を、きちんと聞き取ることができた弟子は二人でした。仮にヨハネが、主イエスを指差しながら「この方こそ救い主だ。皆、この人に従いなさい」とはっきりした言い方をしていれば、また様子が違ったかも知れません。けれども、ヨハネはそう証ししませんでした。ヨハネは「見よ、神の小羊だ」とポツンと言ったのです。それはまるで「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っているかのようでした。
 そして、ヨハネの証しを聞き取った人が主イエスに従って行くようになりました。37節に「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。同じ言葉を耳にしても、人によって対応が違うということがあります。ある人はヨハネが証ししている主イエスに心惹かれますが、ある人は少しも心惹かれません。けれども、ヨハネはそれで良しとしました。
 どうしてかというと、それはもともとヨハネが何を教え、求めたかを考えれば分かります。ヨハネが求めていたものは「悔い改め」でした。そして「悔い改める」ということは、人から言われたり、人に強制されてするようなことではありません。キリスト者であれば、洗礼を受けた時のことを思い返せば分かるのではないでしょうか。大人の洗礼、或いは幼児洗礼を受けた人が信仰告白をする時に、洗礼を勧めてくれる人はいたとしても、強制されて受けたという人はいないと思います。それは、私たちの洗礼や信仰告白の中心に「悔い改め」という事柄があるためです。自分から「神さまのものとして生きる」という新しい思いを与えられて、私たちは洗礼を受けたいと自ら言い表すのです。そしてそれを主イエスが聞き取ってくださり、「よろしい。付いてきなさい」と言ってくださって、それで私たちは洗礼を受けキリスト者とされていきます。

 ここでヨハネの話を聞いて従おうとした二人についても同じです。37節に「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とありますが、この二人は主イエスのことを本当に救い主だと分かっていたでしょうか。気になる言葉があります。38節に「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ―「先生」という意味―どこに泊まっておられるのですか』と言うと」とあります。
 二人はヨハネに指し示されたお方に興味を持ち付いて行きました。「悔い改め」というのは、最初はこの程度のものであることがあるのです。「ちょっと興味を持った」という程度です。最初から十字架や復活や再臨が全部分かって悔い改めるということではありません。或いは、聖書の教えている教理的なことが分からなければ悔い改めできないということでもありません。「主イエスという方は特別なお方。自分中心ではない新しい生き方をさせてくださるお方」という証しを耳にして興味を抱き、それならば少し教会に通い主イエスの話を聞いてみようと思うぐらいのことでも、しかし確かにその人の中には新しいものが始まっているのです。主イエスに対して何かの求めが生まれる、そういうことが起こっています。

 二人の弟子たちは、主イエスに「何を求めているのか」と問われた時、最初は「ラビ」と呼びかけています。それは「先生」だと説明されていますが、ユダヤ教の学者、旧約聖書について教えてくれる先生のことを「ラビ」と言います。二人は最初、主イエスのことを救い主だとは全然気づきませんでした。聖書の先生だと思って付いて行きました。
 ところが、そのようにして興味を持って付いてくる人に対して主イエスは目を留めてくださり、語りかけてくださいます。「あなたは一体何を求めているのか」と尋ねてくださいます。これは聖書の中で主イエスがおっしゃっていることですが、実はここにいる私たちにも教会生活の中で主イエスが繰り返し問いかけてくださる言葉であるかも知れません。「あなたは熱心に教会に来ているけれど、何を求めているのか」。
 私たちは一体、なぜ教会に集まってくるのでしょうか。温かな家庭や交わりを求めてくるのでしょうか。周囲の人たちから認められたいから教会でいろいろと奉仕するのでしょうか。それとも神の言葉を聞きたいと思うからでしょうか。しかし、神の言葉は果たして私たちが予想するような言葉なのでしょうか。「あなたは何を求めてここに来るのか」という主イエスの問いは、もしかすると私たちが一生をかけて答えを探して行くような問いかも知れません。私たちの場合には、礼拝を捧げる生活を続けて行く中で、「一体自分は何を求めているのだろうか」ということが繰り返し問われるように思います。

 二人の弟子の場合はどうだったでしょうか。主イエスが「何を求めているのか」と問われたことに対する二人の答えは、あまり明瞭ではないようです。二人は「どこに泊まっておられるのですか」と言いました。二人はヨハネに示されて主イエスに付いてきました。ですが、実のところ、主に従うということがどういうことなのか、よく分かりませんでした。主イエスが泊まられる宿を尋ねたということは、これから先、主イエスを訪ねたり、主イエスが出かけられるのに付いて行って、主イエスがどんな歩みをなさり何を教えられるのかを知りたい、そういう思いから出てきた言葉だと思われます。ですから二人のこの問いは、別の言葉で言えば「イエスさま、あなたのことを私たちはまだよく分かっていません。あなたに付いて行って、あなたがどんな方なのか、あなたが何を教えてくださるのかを知りたいのです。そのために、あなたはどこに滞在しておられるのか知りたいのです」ということだろうと思います。そして最初はそれで十分だろうと思います。
 主イエスはこの問いに対して、二人を拒むことはありません。主イエスは「来なさい」とおっしゃり、主イエスに付き従う生活の中に二人を招いてくださるのです。39節です。「イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」。
 主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。一体何が分かるのでしょうか。二人の言った字面からすれば、泊まっている場所が分かるということになります。けれども二人が知りたかったのはそういうことではなく、二人が本当に求めているのは、主イエスそのものです。相手がどんな人か分からないのに求めるということは、少しおかしく、また危なっかしいことかも知れません。けれども二人が主イエスを求めたのは、もともと彼らの先生であった洗礼者ヨハネの証しの言葉があったからです。「見よ、あの人が世の罪を取り除く神の小羊だ」という証しを聞いて、二人は心惹かれました。同じ話を聞いても、心惹かれたなかった人たちも大勢いました。その人たちは主イエスに付いて行きませんから、主が振り返っても声をかけることもできません。けれども二人は違いました。ヨハネの話を聞いて心惹かれて付いて行きました。ですから、二人が求めたのは、主イエスがどこに泊まっておられるかではなく、主イエスご自身なのです。そして、主イエスはそういう二人に目を注いで温かく迎えてくださいます。「来なさい。そうすれば分かる」と言ってくださるのです。

 思えば、私たちの信仰生活にも、この二人の弟子たちと似たようなところがあると思います。私たちが洗礼を受けキリスト者としての生活をスタートした時、一体私たちは主イエスについて何が分かっていたでしょうか。
 教会では、洗礼の志がある方には、そのための準備会を行います。ですが準備会を行ったからと言っても、全部が分かって洗礼を受けるという方はいないのです。実際に私たちが洗礼を受ける時には、分からないことがたくさんあります。けれども、主イエスが私たちを礼拝や祈祷会やその他の集会に招いてくださり、少しでもご自身のことを分からせようとしてくださっています。ですから、主がそのように招いてくださっていると分かるので、洗礼を受けキリスト者の生活を生きる、そういう方が多いのではないでしょうか。
 「来なさい。そうすれば分かる」と言って二人の弟子を招いてくださった主イエスは、聖書の中の二人だけではなく、私たちの前にもおられるのです。
 主イエスの言葉に招かれるようにして二人は主イエスに付いて行き、主イエスのもとに泊まりました。私たちも主イエスが招いてくださっています。そして留まることを許してくださり、親しい交わりの中で主イエスがどのようなお方か、私たちに何をしてくださるのか、そのことを少しずつでも分からせてくださるのです。

 この日、主イエスのもとに泊まった弟子の一人はアンデレでした。アンデレは、主イエスのもとに留まって親しく交わる中で、主イエスについて新しい理解へと導かれていきます。最初は「ラビ、先生」と呼んでいましたが、交わりの中で主イエスの呼び方が変わって行きました。40節41節に「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア―「油を注がれた者」という意味―に出会った』と言った」とあります。
 初めは主イエスをラビだと思っていたアンデレたちは、主イエスと生活を共にするうちに、兄弟のシモンと会った時には「私たちはメシアに出会った」と言っています。そして驚くべきことは、ここでアンデレがしていることです。兄弟のシモンと出会った時に、主イエスのことを「メシアと出会った」と紹介しているのです。アンデレがここでしていることは、先に洗礼者ヨハネが主イエスを指差しながら「見よ、神の小羊だ」と証ししたことと同じことです。アンデレは、「この方はメシア、油注がれた特別な方だ」と言っています。
 主イエスと寝起きを共にし、主イエスの光に照らされる生活を送って行くうちに、アンデレは、主イエスがただの律法の教師ではなく、神から遣わされた特別な方だということに心開かれて行きました。しかしどうして、アンデレはそのように気づくことができたのでしょうか。主イエスのもとでどんな経験をしたのか、ここには書かれていません。
 けれども、アンデレに連れられてシモンが主イエスのもとに行った時に、シモンの経験として、42節に「そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―「岩」という意味―と呼ぶことにする』と言われた」とあります。シモンの経験によれば、主イエスは初対面であったにもかかわらず、シモンの性格や人となりを素早く見抜いてあだ名をお付けになりました。ケファは岩という意味ですが、それをギリシャ語にして呼ぶと「ペトロ」という名になります。もともとシモンという名でしたが、そこに主イエスがペトロとあだ名を付けられ、シモン・ペトロとなりました。この名が付けられた時期については、福音書には二つの伝承があります。ヨハネによる福音書では初対面ですが、マタイによる福音書ではペトロが主イエスの弟子になってから大分時間が経ってからの記事として語られています。
 ヨハネ福音書の今日の箇所で語られていることは、主イエスが初めてシモンに会った時から注意深く目を注いでくださり、シモンの岩のような頑なさや鈍さを見抜かれたということを言っているのだと思います。シモンからすれば、初対面の主イエスからそのように見抜かれたことは驚きだったことでしょう。

 けれども、そういうことは、私たちが教会生活を過ごして行く中で経験する場合があるのではないでしょうか。毎週日曜日に教会に集い、私たちは説教を聞きますが、その際に、「どうして聖書の中に、まるでわたしのことを知っているようなことが書かれているのだろう」と不思議に思われるということがあるのではないでしょうか。
 それは実は、聖書というものがもともと、すべてのことをご存知の神の言葉だからです。アンデレもまた、主イエスとの出会いの中で、自分のことを本当によくご存知の主イエスに不思議な思いを抱くようになったのだと思います。そして、これはただ聖書のことを知っている学者というのではない、特別な力を与えられている方だと思って「メシアがここにおられる」とシモンに紹介したのだと思います。

 私たちがどうして主イエスを救い主だと思うのか、それは私たちが自分一人でいろいろ考えているうちに悟りを拓くようにして思うということではないと思います。アンデレたちに対してはヨハネが、「見よ、ここに神の小羊である方がおられる」と紹介して、二人が主イエスに従うようになったように、あるいはシモンに対してはアンデレが「ここにメシアがおられる」と紹介して主イエスに従うようになったように、私たちの場合にもきっと誰かが教会に行くことを勧めてくれて、主イエスとの出会いの導き手となってくれているのです。最初は、主イエスをメシアだとは思わずに教会に来ていたかも知れません。いい話が聞けるかなと思って来ていただけかも知れません。
 けれども、証し人の言葉を聞いて興味や関心を持った人が教会に来て、そして教会で、聖書を通して主イエスが私たちに語りかけてくださるのです。「あなたは一体、何を求めているのですか。あなたはどう生きたいのですか」、そして主イエスとの交わり、言葉を聞く中で、私たちは「この方こそ救い主だ」ということを信じるように導かれて行きます。

 今日聞いている箇所には、さらに象徴的な言葉によって多くのことが語られていると思います。主イエスがヨハネやアンデレといった人間の言葉によって証しをされ、主イエスのもとに新しい人たちが招かれている、そういう主イエスへの招きは、私たちにも語りかけられているのであり、そして私たちは主イエスから「あなたは何を求めて生きているのか」と尋ねられていることを覚えたいと思います。
 私たちは、神のもとで生活をする幸いな者へと導かれています。そのように神と共なる生活へと私たちを導いてくださる主イエスがいらっしゃることを知り、私たちもまた「ここに特別な方がおられます」と証しをする一人一人とされたいと願います。

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