聖書のみことば
2021年1月
  1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月31日主日礼拝音声

 最初のしるし
2021年1月第5主日礼拝 1月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第2章1〜12節

<1節>三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。<2節>イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。<3節>ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。<4節>イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」<5節>しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。<6節>そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。<7節>イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。<8節>イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。<9節>世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、<10節>言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」<11節>イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。<12節>この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

 ただいま、ヨハネによる福音書2章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節に「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」とあります。「三日目に」と始まっています。これは所謂、証しの一週間と呼ばれている週の最後の日です。この一週間の最初の日に、洗礼者ヨハネが「わたしはメシアではない。わたしは後からおいでになる方を指し示す者、荒野に叫ぶ声に過ぎない」と証しをしました。そして翌日、主イエスに出会って、「あの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と指し示し、それによってアンデレと名の記されない弟子が主イエスに付いて行きました。その翌日、その翌日と続いて、証しの一週間の一番最後の日に当たるのが今日の箇所です。
 この一週間は、24時間が7回繰り返されたということではなく、旧約聖書の天地創造の一週間を意識しながら、重ね合わせるようにして言われています。天地創造の一週間で、七日目には何が起こっているでしょうか。神がすべての造られた者たちと造られた世界をご覧になって、皆で命を喜び合い楽しむ「安息日」が祝われました。「安息日」は後に、ユダヤの人たちから「仕事をしないで休む日、仕事をしてはいけない日」と誤解して受け取られるようになりましたが、しかしもともとは、「神に造られたこの世界が、神と共に命を喜んで感謝する礼拝の日」なのです。
 ヨハネによる福音書では、一週間の間に弟子たちが集められ、弟子の群れが少しずつ形作られて行きます。そして7日目に、今日聞いているカナの婚礼の記事が出てきて、ここで主イエスが最初の不思議な奇跡の出来事を起こしてくださり、それを見た弟子たちが主イエスを信じたのだと記されています。主イエスを信じて礼拝する群れが形作られ礼拝した、それがこの7日目に起こっていることです。11節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。

 「主イエスが最初のしるしをなさり、それで弟子たちが信じた」と言われていますが、ヨハネによる福音書には、数えてみますと7つの奇跡の物語が出てきます。今日の箇所が最初のしるしと言われていますので、7つの不思議な出来事の一番最初だと受け取られがちですが、原文で読みますと、「最初のしるし」という言葉は、ヨハネ福音書の一番最初に出てくる「初めに言葉があった」という箇所の「初め」と同じ言葉が記されています。
 つまり、カナで行われた結婚式での奇跡は、この後何度も繰り返されることになる奇跡の順番で一番目ということではなく、「すべての根元、源であり原型である」という意味を持っている「初め」です。カナの結婚式での奇跡の中にこそ、主イエスがこれから何度も奇跡をなさりご自身が真の救い主だということを表すことのすべての、いわばエッセンスが詰まっているのです。
 では一体どういう意味で、この奇跡がすべての原型であり根源なのでしょうか。カナの婚礼での奇跡は、「主イエスとは何者なのか」を指し示す証しの一週間の最後の日に起こっています。天地創造で言えば、神が造られたすべてのものと共に憩いの時をもたれ、その存在と命を喜んでくださったのが7日目です。神はその7日目を迎えようとして、一切のものを6日のうちにお造りになりました。神と共にあることを喜ぶ7日目の安息日は、言うなれば、天地創造の一切がそこに向かって行われていたと言ってもよい時です。そうであれば、主イエスがどのようなお方なのか、証しの一週間で人々が口々に証ししましたが、カナの結婚式でのしるしによって現される栄光を目標にして、そこに向かっていくような証しがされてきたということになります。
 そういう意味で、この日主イエスによって行われたしるしの出来事、奇跡は、ただ一番最初というだけではなく、とても重大な出来事でした。一体どういう意味で重大なのでしょうか。私たちはこの記事をどのように理解し受け止めるのがよいのでしょうか。

 1節に「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって」とあります。結婚式があったのでした。結婚式が一つの鍵です。結婚式とは一体何でしょうか。世の中には一つの門出の儀式のように思っている人が大勢いますが、聖書は結婚の事柄を単なる儀式とは考えません。それは、元々別個の存在であり別々に生きて来た一組の男女が神によって固く結び合わされて一体のものとされるという出来事です。結婚式のたびに読み上げられる箇所ですが、創世記2章24節に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。別々の者だった二人が一つに合わされる、そこからは決して分つことができないほど固く一つにされる、そういう出来事が起こるのが結婚式です。
 主イエスは、その結婚式の場において、もう一つの結びつきが成り立っているということを、しるしによって表してくださいました。それは、天と地が確かに結ばれるということです。実は、結婚式で夫婦が一つに結ばれるということの根源のところには、「神が私たちと共にいてくださる」という結びつきがあるので、人間同士の結びつきが聖なるものを帯びるのです。神がご自身の民である人々を固くご自身に結びつけてくださる。そしてこれから先はもう決して分たれることがないようにされるのだと明らかに示される。それがこのカナの結婚式で起こったしるしの出来事です。神が地上の人間たちを確かにご自身に結びつける、そういうことが起こったので、ここに神の栄光が現されたのだと11節に言われています。
 そういうことが最初に起こっているので、この最初のしるしの出来事は、この後起こる全ての奇跡の根源であり原型なのです。

 今日の出来事を考えるために、三日前に主イエスがナタナエルに言われた言葉を思い返したいと思います。ナタナエルは主イエスに自分の在り方を言い当てられて大変驚きました。そして主イエスに「あなたは神の子、イスラエルの王です」という言い方で、ナタナエルなりの信仰を言い表して主イエスを証ししました。それに対して主イエスは、1章52節で「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。
 主イエスがこう言われたことには一つの下敷きとなる出来事があります。イスラエル全体の共通の祖先となったヤコブが、兄エサウから命を狙われ、生まれた家を出て放浪の旅に出た最初の晩に一つの夢を見た、その夢の出来事です。ヤコブは天涯孤独だと思いながら眠りました。ところが思いがけず天が開いて、そこから階段がヤコブの上に下りてきました。そして天使たちがヤコブを保護し導こうとして忙しく上り下りしている、その様子をヤコブは夢に見ました。創世記28章12節に出てきます。大昔、ヤコブは夢で、「誰からも顧みられず、世界の片隅で希望のないままようやく生きていると思っていた自分のところにまで、神の保護が及んできている」ことを知らされました。
 三日前に主イエスがナタナエルに言われたことは、そのように「あなたたちも、確かに神さまが一人一人に御心を向けてくださっていて、保護され導かれていることを知るようになる」ということでした。そして、そういう神の顧みが確かにあるということを、カナの結婚式で主イエスは一つのしるしをなさることで、信じる人々に明らかに示しておられるのです。

 カナで行われていた結婚式の披露宴の最中に、ぶどう酒が足りなくなるというハプニングが起こりました。当時のユダヤでは、結婚式は一週間続くのが通例でした。とにかく長丁場ですので、宴の途中でお酒が品切れになるということは、時にはあったことかもしれません。仮にそういう事態になりますと、その宴を取り仕切っている世話役の大失態ということになります。ちょうど主イエスが弟子たちと一緒に招かれた婚宴でそういう事態にぶつかったのでした。
 主イエスの母マリアがこの婚宴にどういうふうに関わっていたのかは分かりませんが、マリアが台所で働く召使いたちに主イエスの言いつけに従うように指示を出し召使いたちも従っているところから、マリアは宴会の世話役から頼まれて台所仕事の全体を指揮していたのかもしれません。そうであっても、マリアはぶどう酒を準備しておく立場ではありませんが、間もなくぶどう酒がなくなってしまうことに気づいて、主イエスにそのことを伝えました。主イエスが何とかしてくれるのではないかと期待してのことと思われます。3節に「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」とあります。
 主イエスも主イエスの弟子たちも、マリアとは違ってこの婚宴では客人です。そして「ぶどう酒がなくなりました」と言われても、これは大層困ったことでした。婚宴に用意されるぶどう酒は大量で、不足もちょっと買い足せばよいというものではなく、どこかの農園に話してまとまった本数を分けてもらうのでなければ、とても足りないという量です。ですから、ぶどう酒が足りないと言われても、主イエスにはどうしようもないこと、あずかり知らないことと言えます。4節で主イエスがマリアに「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と返事をしています。これを、冷淡に母を突き放した言葉だと説明する聖書学者もいますが、この時の状況や主イエスの立場を考えますと、そう答える他ないと思います。にわかにぶどう酒を準備することは、とても無理なことです。また、ぶどう酒の調達についても、マリアや主イエスの役割ではありません。ですから「わたしとかかわりないことです」と言われても当然のことです。
 ところが、マリアはそう言われても諦めませんでした。主イエスがきっと何事かをしてくださると信じて、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と指示しました。マリアは断られてもなお、主イエスに期待し続けました。そしてまさに期待通りのことが、この後、起こっていくのです。
 そこには、ユダヤの清めのために用いる、大量の水を蓄えるための大きな水瓶が置かれていました。「二ないし三メトレテス入りのもの」とあります。度量衡で見ますと、1メトレテスは約39リットルですから、大雑把に言って、1つが80〜120リットルほど入る大きな瓶です。それが6つですから、全体で480〜720リットルくらいの水を蓄えることができました。主イエスは召使いたちに、この水瓶に水をいっぱい満たすように命じました。そして全部の水瓶がいっぱいになったときに、その水を汲んで宴会の世話役のところに持っていかせました。すると不思議なことに、その水が上質のぶどう酒に変わっていました。

 そして、こういう不思議なことが起こったことで、この婚礼は救われました。お酒が足りなくなったために不機嫌になって帰ってしまう客はいませんでした。結婚式の宴は最後まで守られ、世話役の体面も保たれ、新郎新婦の門出の時は多くの人に喜ばれ祝福されて始まることができました。そういう奇跡が最初のしるしだったのだと語られています。これは一体どういう意味で、何を現すしるしなのでしょうか。母マリアの願いであれば、多少の無理でも主イエスは聞き入れてくださるというようなしるしでしょうか。私たちには考えにくいのですが、カトリック教会ではそう考える人たちもいるそうです。母マリアの執り成しは絶大なので、主イエスに助けていただきたい人はマリア像に向かって祈るとよいという見本として、この箇所が引き合いに出されることがあるそうです。
 けれども、実際はそうではありません。主イエスは母マリアから頼まれた際に、一旦きっぱりと断っておられます。そして同時に、4節後半ですが「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは、ヨハネによる福音書ではこの後何度も出てきますが、主イエスが「栄光をお受けになる時」についておっしゃった、一番最初の記事です。この後主イエスは、ご自身が栄光をお受けになる時が来ることをしきりとおっしゃるようになります。その「時」とは何のことでしょうか。最後まで読むと分かりますが、それは主イエスが「十字架に上げられ、息を引き取る時」のことを指しています。13章1節に「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。「この世から父のもとへ移る時」、つまり地上の生活を終えて神のもとに行かれる時、それは十字架の死によって実現することですが、その時を主イエスは「わたしの時」とおっしゃっているのです。
 主イエスが十字架で死なれる、そのことで人間の破れと神の愛がはっきりと示される、そしてそこで神の栄光が現されることになる。それで主イエスは「わたしの時」とか「栄光を受ける時」とおっしゃるのです。

 主イエスは、母マリアからぶどう酒が足りなくなったと聞かされた時に、やがて訪れる十字架の時のことをお語りになりました。なぜこの場面で、そのようなことをおっしゃるのでしょうか。今、結婚式でぶどう酒が足りなくなっているということと、主イエスがやがて十字架にお架かりになるということとの間には何の関わりもなさそうに思います。けれども、主イエスはそうはお考えになりません。主イエスは逆に、地上に起こっている様々な問題や様々な悲しみ、トラブル、それは全部、ご自身の十字架の時から照らされて、あることなのだとお考えになります。主の時が訪れ、主イエスが十字架に架かって亡くなられる、その時にこそ、全ての事柄が意味を持つようになることをご存知でした。
 十字架の御業によってこそ、一切のものが明るみに出されます。神の限りない憐れみの大きさ、人間がどんなに不安に支配され神に背をむけ信頼できないか、また、神への恐れと信頼の無いところでは人間がどれほどいい加減な、不正な者になりうるのかということが明るみに出されます。十字架は、人間の罪を明るみに出すのです。人間がいかに自分中心でいい加減で不束者、また物騒な者であるかを明らかにします。
 しかしその一方で、十字架は、神の強い御意志も現すのです。危険極まりない生き物である人間を、神がなおどこまでも受け止め生かそうとなさる、その御意志が十字架によって明らかにされるのです。そして、神の御意志がそうであるからこそ、この地上の、どんなに混迷し出口がないように感じられる困った状況にも、必ず出口が備えられるようになります。

 主イエスはこの日、ぶどう酒が足りなくなっていることに対して、思いを超える上質なぶどう酒を備えてくださいました。しかしこれは、婚宴の席のぶどう酒に限った話ではありません。私たちは毎週教会に集まり、礼拝を捧げます。礼拝の中心は説教であるとよく言われますが、しかし考えてみますと、人間の拙い言葉が、どうして神の出来事である礼拝の中心になり得るのでしょうか。それはまさに、神がここで御業をなさってくださって、人間の拙さを明るみに出すと同時に、神がそれでもなお人間の言葉を用いて、私たちに「生きてよい。あなたは生きるのだ」と命じてくださるからです。人間の言葉を用いながら、神が人間の言葉の上にご自身の言葉を重ねてくださるからこそ、説教が礼拝の中で神の栄光によって輝きを与えられ、実際に私たちを力づける言葉になり得るのです。
 そしてそれは、説教だけに限った話ではありません。私たちが捧げるお祈りも、賛美も、あるいは私たちが行う愛の業も、皆同じです。私たちにできることは、いつも拙いものでしかありませんが、しかし、それが主イエスの御業に結ばれる時に、そこに大きな慰めと力とが宿るようになるのです。神の慈しみと憐れみが、人間の貧しい業、行いの上に、明るく輝くのです。

 水瓶が6つあったと言われています。本来、水瓶は7つ必要だったはずだとよく言われます。7は神の祝福を表す数字だからです。ところが6つしかないので、本来必要な水が全部そこにあるということにはなりません。人間の行いにはそういうところがあります。私たちはどんなに敬虔に、どんなに懸命に祈りながら神に向かって奉仕したとしても、それだけで神に届くということはあり得ません。けれども主イエスは、6つしかない水瓶に水を満たすようにと命じられ、そして水が満たされた時に、それはぶどう酒に変えられるということが起こっています。神の御業が、本当に拙い人間の事柄の上に明るく輝いてくださるのです。

 主イエスはナタナエルに向かって、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。そしてそのことが、実際にカナの結婚式で最初のしるしとして、人間の目に見える、人間が経験できる出来事として生じました。そしてこのカナの婚宴が、すべてのしるしの原型であり土台であり、今日でも毎週の礼拝の中で、同じように、主イエスの上に天使が上り下りして、私たちが慰めと力と勇気とを与えられて、それぞれの生活へと送り出されていくということが起こっているのではないでしょうか。

 けれども、一つ覚えておきたいことがあります。しるし、奇跡の出来事は、いつでも人間の願いや思いによって引き起こされるのではないということです。主イエスの母マリアは、決して、主イエスに願いを聞き届けてもらったということではありません。人間の思いのままに主イエスを操ったのでもありません。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という返事は、主イエスが決して人間の思惑によって動かされるのではない、奇跡は神の御心によってのみ起こったのだということを現しています。
 母マリアは自分の願いを主イエスに聞き入れさせたのではありません。ただ自分の欠けを主イエスに訴え、あとは主イエスにお任せして、主イエスが求められることならば何でも従いますという姿勢を整えて待っただけです。私たちの捧げるお祈りにも、そんなところがあると思います。
 私たちは祈りの生活の中で、自分の欠けや痛みや苦しみを主イエスに訴え、神に祈ってよいのです。その祈りを、きっと神は耳を傾けて聞いていてくださいます。そして何とかしてくださいます。ただ、それがどのように聞き届けられ、どのように解決されていくかという道筋は、私たちには分からないのです。
 神が御業をなさり、神の栄光が私たちを巡り照らしてくださる時に、私たちは、自分が本当に拙い者でしかないということを明るみに出されますが、同時に神の慈しみがこんなに小さく貧しく弱い者の上にも注がれていることを知らされて、深く慰められ勇気を与えられて生きていくようにされます。

 そのような神の慈しみが今日も私たちの上に注がれている、そのことを信じ、待ち望みながら、ここからの新しい一巡りの時へと送り出されていきたいと願います。

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