聖書のみことば
2020年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月31日ペンテコステ主日礼拝音声

 聖霊降臨
2020年ペンテコステ礼拝 5月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第2章1〜13節

<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 <9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただいま、使徒言行録2章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。1節から4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。何度も耳にしたことのある、聖霊降臨の出来事を記した箇所です。
 主イエスが復活なさったイースターから7週を数えて、50日目に聖霊が弟子たちの上に降り、教会がこの地上に誕生しました。ペンテコステの日は、教会の誕生日だと、よく言われます。しかし、聖霊が降って教会が生まれたとは、実際のところ、どういうことだったのでしょうか。
 1節には「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていた」とありますから、弟子たちは既に集まっていました。聖霊が降る直前のこの集まりは、教会にならないのでしょうか。弟子たちが集まっている様子については、1章15節では「120人ほどの兄弟たちがひとつになっていた」、つまり集まっていたとも言われています。14節には、その120人ほどの集まりは、婦人の弟子たちやイエスの母マリア、あるいは主イエスの弟たちと一緒に心を合わせて祈っていたと言われています。これは教会ではないのでしょうか。そうです。たとえ多くの人間が集まっても、またそこで熱心に祈りが捧げられたとしても、それだけで教会になることはできなかったのです。教会になるためには、どうしても、そこに聖霊が訪れてくださらなければなりませんでした。
 もし聖霊抜きで、弟子たちの熱心さによって教会が成り立つということであれば、今日私たちが聞いている聖霊降臨の出来事は、起こらなくてもよかった出来事だということになります。しかし、教会が地上に誕生するためには、どうしても聖霊の訪れが必要なのです。聖霊が120人ほどの弟子たちの上に降った、そこに教会の歩みが始まりました。聖霊が降って初めて、教会という不思議な存在が成り立ちます。教会は、聖霊がそこに集っている人間たちの元を訪れてくださることによって成り立つ、不思議な存在です。人間は、一人一人が聖霊の働きによって教会の群れに加えられ、教会の群れの生きた枝々とされていきます。洗礼を受けたキリスト者は、洗礼を受けてから長い人も、たった今受けたばかりの人も、皆等しく教会の枝となります。

 けれども、私たちは教会の枝ではあっても、教会の幹になることはありません。どんなに長く教会に通っていようが、あるいはどんなに信仰が強く大きくても、あるいは牧師であっても、幹ではありません。教会の幹は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と弟子たちに教えてくださった方であり、地上のすべての教会の幹でいらっしゃいます。私たちはいわば、その幹に接木されるようにして教会の枝々とされていくのです。
 神はペンテコステの日に聖霊を送る、一人一人の上に聖霊を働かせるという仕方で、120本の枝を、幹から離れないようにしっかりと植え込んでくださいました。それが、ペンテコステの日に起こったことです。人間が教会の幹である主イエス・キリストに、聖霊によって堅く植え込まれるということが起こったからこそ、ペンテコステの日は教会の誕生日だと言われるのです。
 人間は教会の幹になれません。その同じ理由から、人間が教会を保っていったり、人間が教会を潰したりするのでもありません。私たちは皆、教会に養われ、支えられて生きます。神が聖霊を送ってくださり、一人一人の中に信仰を与え、私たちは信仰を通して、幹である主イエスに堅く結びつけられるのです。聖霊は決して肉眼では見ることができませんが、幹である主イエスと私たちをしっかりと結ぶ一本の絆のようなものです。聖霊が私たちを主イエスに結びつける、そして私たちは、幹である主イエスに結び付けられているということにおいて、お互い同士も同じ主イエスに結ばれているので、一つの群れであり、兄弟姉妹であり、そして全体が一つの体であるという、本当に不思議な結び付きの中に置かれるのです。

 聖霊の訪れと教会の群れの間にそういう不思議な関係があるので、使徒信条の中では「我は聖霊を信ず」と言い、その後に「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白します。聖霊が働いて教会が生まれている。また私たち相互の交わりも、聖霊の働きの結果生まれているということを、私たちは週ごとに告白しているのです。聖霊が働いて「公同の教会」が生まれていることを信じる。私たちが毎週やってくる教会は、目に見えるのは愛宕町教会ですが、しかしこれだけに連なっているのではないのです。地上の広がり、世界中に広がっている教会の群れ、それが全て公同教会です。それはまた、今広がっている教会だけが公同教会なのではなく、これまでの教会の歴史の中でずっと持ち運ばれてきた人たちも、それから終わりの日に至るまで教会に連なることになる、まだ見ない兄弟姉妹たちも、そのすべては一つに合わされて公同の教会です。私たちは、教会の全体の姿を見るわけにはいきませんが、しかし、神がそういう不思議な一つの教会の群れ、主イエスに連なる群れに人間を合わせてくださった、教会に植え込んでくださったのです。
 私たちは洗礼を受けることで個別の教会のメンバーになるのですが、それだけではなく、主イエスに直接植え込まれている、主イエスとの繋がりの中に置かれている全ての教会の一員として生きるようになるのです。ですから、少し長く教会生活をしている人なら身に覚えがあると思いますが、どこか他所の土地に出かけて行って日曜日になった場合、他所の町の教会に行きますが、そのような場合にも私たちは、まるっきり初めてのよそよそしさではない、何かの繋がりがあることを感じます。それはどうしてかというと、私たちが公同教会のメンバーとされているからなのです。初めて会う相手であっても、私たちは互いに同じ主によって結ばれている、そして、聖徒の交わりもまたそこで生まれていくのです。
 教会の交わりは、人間同士の親しい交わりということではありません。主イエスが仲立ちになってくださり、主イエスの執り成しのもとに私たちは招かれているお互い同士として、主イエスによって罪を赦され新しい命の希望を与えられている者同士として、主イエスを指し示し合いながら、主イエスの救いの中に確かに入れられていることを互いに確かにして、交わりを作っていくのです。ペンテコステの日に、そういう教会が生まれたのだということを、もう一度、聖書の言葉を通して確認していこうと思います。

 ペンテコステの出来事は、完全に言い尽くすことは出来ないだろうと思います。それは、今まで教会でなかった人たちが、突然、主イエスに結ばれて教会として誕生させられたような出来事だからです。
 私たちが地上に生きているのは、一人一人に誕生が与えられているからですが、それでいて、誕生の時を覚えている人は一人もいません。他者の誕生を見ることは出来ても、自分の誕生、自分が生まれた時のことを見ることは出来ません。
 教会の誕生も同じです。気がつくと、わたしは主イエスに接木され、教会の群れの中に植え込まれていた、そして主イエスとの繋がりの中で生きる者とされていた、そのようにして、一人一人が教会生活を始めていきます。朧げな感覚としてすら、誕生の時の様子を私たちは語ることは出来ないのと同じように、ペンテコステの出来事もそうなのですが、使徒言行録はそれを何とか伝えようとしています。けれども、それを具体的にはどう言い表して良いのか困っているような、描きっぷりになっています。
 困っているので、何かに喩えようと「ような」という言葉がたくさん出てきます。「激しい風が吹いて来るような音が」、「炎のような舌が」と、「ような」という言葉は分かるようで分からない言葉です。
 はっきりしていることは、聖霊が送られる直前、弟子たちは一つの場所に集まっていたということです。けれども、弟子たちが一つの場所に集まりさえすれば聖霊が送られると決まっているわけではありません。弟子たちは皆、主イエスが約束してくださった聖霊が送られ、自分たちに力が与えられるという約束を信じて集まっていたのですが、しかし、実際のところ、それがどういう形で実現するのか、全く見当がついていませんでした。
 それは、洗礼を受ける時も同じではないでしょうか。私たちは、本当に不思議な仕方で洗礼への思いというものを与えられ、洗礼へと導かれて行きます。
 弟子たちは、「やがて聖霊が降る。するとあなたがたは力を受けるようになる。そして、地の果てまでわたしの証人となる」という主イエスの約束を信じて、どのように実現するかは分からないまま、その時を待っていました。弟子たちは今か今かと待っていたのかもしれませんが、聖霊は唐突に訪れました。2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と言われています。

 ここでは、聖霊は「激しい風が吹いて来るような音」と、実際に風が吹いたのではなく、「風」に喩えられています。聖書では、他にも聖霊が風に喩えられるようなところがあります。例えば、列王記上19章11節12節には、預言者エリヤが神とお会いした時に、激しい風が吹いたことが語られています。「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」とあります。あるいは、ヨハネによる福音書3章8節では、主イエスがニコデモというファリサイ派の人に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われました。風は目に見えません。どこから来てどこへ行くのかも、私たちには咄嗟にわかりません。けれどもそれは、私たちに当たり、私たちを吹き抜けて、どこかへと過ぎ去っていきます。聖霊にもそんなところがあると、主イエスはおっしゃっています。

 聖霊が風に喩えられている、それは、聖霊がいかに自由に働くかということを言い表しています。聖霊がキリスト者の群れを訪れ、そして教会が生まれる。私たちが主イエスに植え込まれる。それは一瞬にして起こります。主イエスに結ばれる時は、本当に一瞬なのです。けれども、その時が一体いつだったのか、どういう経緯だったか、どういう理由でか、恐らくそれを正確に言える人はいないと思います。それは、聖霊が風のように私たちを訪れて、私たちを吹き抜けていったからです。
 ですから私たちは、聖霊の出来事を手元に留めておくことは出来ません。人間の側は、ただ聖霊が訪れてくださることを待ち望むことしか出来ません。聖霊が訪れてくださる、それは神が与えてくださる奇跡の出来事です。神が自由に、ご計画のままに、人間に力を与えてくださる。その様子を使徒言行録は、風に喩えて語っているのです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、人間はただ座って待っているだけでしたが、神が一人一人を訪れ、確かに主イエスと堅く結んでくださり、この後弟子たちは、主イエスが私たちのために十字架に架かり復活してくださったことを譲らなくなりました。以前のペトロをはじめとする弟子たちは、自分の気持ちで主イエスに繋がれると思っていて、主イエスが十字架に架けられる前の晩に、「どんなに躓く人がいたとしても、わたしは間違いなく主イエスに付いて行きます」と言いましたが、しかし誰一人、主に付いて行くことは出来ませんでした。人間の思いでは、主イエスと一つに結びついていることは出来ないのです。キリスト者であればお分かりのように、私たちは、いつも主イエスを忘れてしまうようなことがあるのです。
 けれども、それでいて不思議なことに、私たちは、主イエスと切れてしまっているのではありません。それは、主イエスが私たちの土台となっていてくださり、聖霊が私たちに働くときに、私たちは、土台である主イエスと結び合わされているのだということを、私たち自身が自分のこととして、しみじみと間違いないことと知らされるからです。

 今日の箇所では、聖霊の訪れが風の音に喩えられますが、もう一つ、「炎のような舌」とも喩えられています。3節に「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。神の霊が炎のように体験されるのは、やはりこの箇所だけではありません。例えば、モーセが40年間を荒れ野で過ごし、それから神に遣わされてエジプトに向かっていく入り口の出来事で、神は燃え尽きない柴の中にご自身を現されました。出エジプト記3章2節から4節に「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた」。あるいは洗礼者ヨハネが人々に洗礼を施した時に、主イエスのことを語っている箇所があります。マタイによる福音書3章11節に「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」とあります。主イエスが、聖霊と火によって洗礼をお与えになる時が来ると、ヨハネは伝えました。そしてまさしく、ペンテコステの日に、聖霊と火によって洗礼が授けられる日がやってきたのです。
 聖霊が訪れる、そして、火が諸々の不純物を焼き尽くして貴金属を精錬し清らかな輝きを与えるように、地上の教会も神の前に清らかな群れとして立てあげられていくのです。私たちは、もし聖霊の訪れというものがなかったならば、もし自分自身でしかないならば、決して清らかな者とは言えません。信仰を与えられ洗礼を受けても、私たちはいろいろなことを思い悩んだり、悪いことを考えたり話したりと失敗をします。そういう不純物が私たちには付き纏っているのですが、しかし、そういうものが、聖霊が働く時には掃き清められ、「わたしは神の前に、今、立たされている。主イエスの十字架によって、贖いによって罪を赦され、神の前に立つ者とされている」いう新しい思いを与えられて、教会の枝々として生活していくようになるのです。

 私たちは、火と聖霊の洗礼によって、清められた者としてこの地上を歩んで行きます。この世にあって、暖かく明るく周囲を照らす務めを与えられていくようになるのです。しかもそれは、ただ明るく暖かいというだけではなく、ここには、炎のような舌が一人一人に与えられたのだと語られています。教会には、聖霊が働く時に、本当に不思議な明るさと新しい舌が与えられるのです。
 ここには「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と語られています。原文を読みますと、「国々」という言葉はなく、「他の舌で語り出した」と書かれています。そして、聞いた人たちも、様々な国の人たちが弟子たちの言葉を聞きました。自分たちの故郷の言葉を聞いたとありますので、外国語が語られたのかなと思ってしまいますが、当時の世界で共通に使われていた言葉はギリシャ語であり、それは少し訛った言葉でしたので、その言葉で弟子たちが主イエスのことを語れば、大方の人はそれを聞くと言葉としては理解できました。けれども、故郷の言葉と語られているのはどうしてかというと、そこで弟子たちが語ったことが、本当に府に落ちたからです。「幼い時から思ってきたこと、そう思うことが言い当てられている」、そのことを不思議に思っているのです。「ここに集まっている人たちは、皆生まれも、また生活している社会状況も違っているのに、皆が等しく『そうだ』と言えるような、正しく懐かしいことを聞かされるのはどうしてだろうか」と思っている。そういうことが最初のペンテコステの日に起こったのです。
 そして、それは世界中の教会の中で今日まで続いて起こっていることです。

 私たちは、礼拝で説教を聞く時に、説教が分からない時もありますが、「本当にそうだ」と思うこともあります。それはどうしてかというと、聖霊が働いて、「本当にそうだ」と気づかされるからです。
 教会は誕生の時から、聖霊によって導かれ、神の救いの御業を告げ知らせる群れとして歩んでいます。ですから、ペトロたちはペンテコステの日にいきなり人々に主イエスのことを語り出していくのです。それは決して、上手な言葉で語ったということではありません。今日の箇所の先には、この日ペトロが語った説教が記されています。それは決して鮮やかな語り口で語られているわけではありません。旧約聖書の箇所が何箇所か引用されて、ペトロは懸命に語っていますが、どちらかといえば難解な説教だったと言えるでしょう。聞いた人がすぐ分かったということではなかったようです。ですから、この日、この説教を聞いた人の中には、酔っ払いが世迷いごとを言っているのだと思って、嘲笑った人もいたと記されています。

 教会の語る主イエスの言葉は、教会の歴史の最初の日から、聞いた人全員にすぐに理解してもらえたかというと、そうではないのです。けれども、大変不思議なことですが、その難解な言葉を聞いて、分かった人もいたのです。その人たちは何と語ったでしょうか。11節に「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言っています。「神さまが今、私たちの上に非常に大きな業を行ってくださっている。本当にそうだ思うような言葉で語られている。本当に不思議なことだ」と言う人たちがいたのです。このように理解させたのも、聖霊の働きです。
 聖霊が訪れ、聖霊が働いてくださるところで、私たちは教会に植え付けられ、主イエスという土台に結び付けられますが、そのことによって、「教会の中に起こっていることはまさに神の出来事なのだ」と理解するようになるのです。「神がこの世界の上に大きな御業をなさっておられる。私たちは今、そのことを見聞きするようにして教会に招かれている。神の大きな御業が今も行われて、私たちは神のなさりように抱かれるような中で、この地上のそれぞれの命を生かされているのだ」ということを、礼拝を捧げる中で知り、信仰を与えられ、歩んで行くのです。

 神がどんなに私たち一人一人を値高く見ておられるか。また、慈しみを与えようとしてくださっているか。そのことは恐らく、私たちが自分の中を眺めているだけでは理解できないだろうと思います。神がわたしを御心に留めてくださる、神がわたしを配慮してくださる、わたしが生きられるように様々なことを備え導いてくださる。それは、わたしに理由があるのかと私たちが自分の中を一生懸命探しても、そこに理由は見つけられないと思います。そうではなくて、神が私たちに語ってくださっている言葉に耳を傾けるのでなければ、私たちは、自分がどんなに神に深く覚えられているかを知ることは出来ません。
 神からの贈り物として神の言葉をいただく時に、私たちは「わたしは本当に取るに足りない者だけれど、不束な小さい者にすぎないわたしだけれど、しかしそのわたしが神によって確かに覚えられ、持ち運ばれているのだ」ということを知るようになります。
 そして、私たちはそのことを知らされる時に、自分自身のあり方、自分自身の思いや言葉や行いをもって、神の慈しみを表して生きていこうとし始めるのです。

 先ほど、私たちの教会に洗礼の機会が与えられ、二人の姉妹方が御名に加えられました。証しをしてくださいましたが、それは聖霊が働く中で、思いが与えられ、証しの言葉が与えられたことを感謝したいと思います。
 聖霊が働くことによって、私たちに信仰が与えられます。そして、私たちが堅く主イエスに結ばれているということが確かだという思いが与えられます。聖霊は自由に働いて、私たちを訪れてくださり、私たちを清め、慰めと希望の言葉を与えて、生きるようにしてくださるのです。
 そういう神のなさりようの中に、今日、私たちも抱かれ、持ち運ばれていることを、もう一度この朝、確認したいと思います。
 聖霊の働きによって私たちが新しい命を生きる者へと作り変えられ、生かされていることを、信仰を持って感謝し、喜びあい、これからの一巡りの歩みへと遣わされたいと願います。

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