聖書のみことば
2020年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月24日主日礼拝音声

 リストラのテモテ
2020年5月第4主日礼拝 5月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第16章1〜5節

<1節>パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。<2節>彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。<3節>パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。<4節>彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。<5節>こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。

 ただいま、使徒言行録16章1節から5節までをご一緒にお聞きしました。1節に「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた」とあります。先に、アンティオキアの教会の兄弟姉妹たちに祈ってもらい、主の恵みに委ねられて旅路を歩み出したパウロとシラスは、デルベ、リストラ、さらにイコニオンに向かって進んで行ったと述べられています。これは、第一回伝道旅行で辿ったコースを逆に辿っているということになります。
 こういうコースをパウロが敢えて選んで、前回の旅行の終わり頃に訪れた町々を最初に訪れたのは、これらの町に建てられた教会の兄弟姉妹のことが、パウロにとって大変気がかりだったからに他なりません。パウロは、最初の旅と同じようにキプロス島に渡り、それから小アジアに行くこともできたはずでした。そのコースを辿っていれば、キプロス島では、島の総督であるセルギウス・パウルスという人物がパウロの伝道によってキリスト者になっていましたから、大歓迎されたことでしょう。しかしパウロは、そのように自分が歓迎される町よりも、むしろ石をぶつけられ迫害されて立ち去らざるを得なかった町々に残してきた教会の群れの方が気がかりでした。何としても、まずはその方面の町々を訪ねなくてはならないという思いが勝って、パウロは、2度目の伝道旅行を前回と逆コースで歩んで行くのです。
 パウロが石をぶつけられ気絶させられるほどの、福音への抵抗が起こった町の中にあって、兄弟姉妹たちは果たして無事に生活しているか。大勢の敵に囲まれた中で生活していかなければならない兄弟姉妹が信仰を持ち堪えていることができているか。パウロは気がかりでした。それで、そういう兄弟姉妹にもう一度御言葉を伝え、祈りを合わせたいという望みを持って、パウロは小アジア方向に歩みを進めました。

 パウロが訪ねてみますと、それらの町には、兄弟姉妹たちが元通りに生活していました。彼らは、パウロが石をぶつけられて立ち去らなければならなかったその日から、ずっとパウロが伝えてくれた主イエス・キリストを通して、神に祈りを捧げ続けていました。パウロたちの姿は、この町からしばらくの間、消えていましたが、しかし、パウロがどこにいても、パウロの伝道者としての業、福音を伝える働きが出かけて行った先で、どうか無事に行われますようにと祈り、そしてまた、自分たちの生活も主の前に日々を過ごすことができるようにと祈り続けていました。一日の終わりには、その日の歩みが主によって導かれ、守られ過ごせたことを感謝して床に入り、また次の一日の歩みも主にお委ねして生きる、そういう生活がずっと続けられていたのでした。
 キリスト者には、そのような祈りによる不思議な交わりというものがあります。それは、人間同士の結びつきを超える、主にある交わりです。主イエスを仲立ちとし、祈りのうちにお互いを覚える、そういう交わりには、確かに人間の弱さを超えていくようなところがあります。交通機関や通信手段が発展するずっと前から、教会の兄弟姉妹たちの間には、主の真実に支えられている、そういう交わりがありました。

 ところでパウロは、今回の旅行で、そのような祈りの交わりと、主に支えられた信仰生活があることを見出して喜んだだけではありませんでした。今回の旅行は、最初の旅から数えると4〜5年後に行われているのですが、その4〜5年の間に、これらの町のキリスト者の間に、新しい世代の信仰者たちが育てられていました。デルベ、リストラ、イコニオンという町の教会は、信仰が失われていなかっただけではなく、兄弟姉妹の信仰が新しい実をつけていたのです。
  かつて石で打たれ、大怪我を負ったリストラの町で、パウロは一人の若者に出会いました。テモテという名の若者は、以前パウロが訪れた時には、まだ少年だったものと思われます。ところが、暫くの間に、テモテは教会の群れの中で成長していました。そして、この土地の人々の間で、良い働きをする者へと育っていました。2節に「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」とあります。正直で素直な人柄が教会の中で愛され、信頼されるようになっていったのですが、テモテとの出会いは、パウロにとっては終生の出会いとなりました。パウロもまた、青年テモテを愛し、テモテは、この先パウロが亡くなるまで、ずっと忠実な弟子としてパウロに従うようになっていきました。
 テモテは使徒言行録の中では、ずっとパウロに従って旅をしますし、また新約聖書に収められているパウロの手紙の多くで、最初の挨拶をパウロが書いた時に、「パウロとテモテから」と並んで名が書き記されています。
 またさらに、新約聖書の中には、パウロがテモテに宛てて書いた手紙も2通収められていいます。その2通の文面を読みますと、パウロが晩年を迎え、ローマ皇帝の裁判を受けるために囚われの身となっている状況が推測されるのですが、そのような中で、パウロがテモテを我が子のように愛し、信頼している様子を聞き取ることができます。例えば、テモテへの手紙一の1章2節では「信仰によるまことの子、テモテ」と呼びかけています。パウロとテモテには血の繋がりはありませんが、しかし、「信仰によって、あなたはわたしの息子になっている」と呼びかけ、テモテを実の子のように親しく思っていたことが分かります。あるいは、テモテへの手紙二の4章では、ローマの獄屋に繋がれて、多くの弟子たちがパウロの元から去って行く中で、パウロはテモテをなお頼りにして、冬になる前にぜひ来て欲しいと頼んでいます。
パウロにとってテモテは、片腕のような存在になっていたことが窺い知れます。

 この世の人間の交際というのは、お互いが元気な間だけ、続くようなところがあります。どちらか片方が弱ったり、あるいは両方が弱っていくような場合には、次第に交際も衰え、途絶えてしまうことが多くあります。けれども、主にある信仰者同士、兄弟姉妹の交わりは終生続くということが珍しくありません。私たちが教会の兄弟姉妹の死の床へお見舞いに出かけるということは、あり得ることだろうと思います。そしてそれは、普段のお友達の間柄では許されないようなことでも、教会の兄弟姉妹なので、死の床へお見舞いもあり得るのだろうと思います。
 それどころか、私たちがいよいよ地上の生活を全て終えていく、神のもとに召されていくという時にも、お互い同士をなお祈りのうちに覚え、覚えられながら、私たちの地上の生活は持ち運ばれていきます。
 伝道者パウロに、その生涯の一番最後の時まで忠実に仕えるようになった若者テモテとの出会いが、リストラの町で始まったのでした。

 さてテモテですが、複雑な生い立ちを抱えていたようです。ユダヤ人キリスト者である母親とギリシア人の父親との間に生まれていたと紹介されています。新約聖書の中で、テモテの母親はエウニケ、祖母はロイスと、母方の親の名が知られています。けれども、父親の名は出てきませんので、そんなところから、おそらくテモテの父親は、テモテがまだ幼い頃に亡くなり、母親と祖母が育てたのだろうと言われています。
 しかし、テモテの生い立ちがそうであったために、彼には、他の人たちと際立って違う特徴がありました。幼い頃から母親と祖母が信仰をもって育てましたから、テモテ自身の内面は「神を信じて生きる」という若者へと成長しています。ところが、外面、容姿からすると、テモテは割礼を受けていなかったのです。そのため、内面では神を信じていますが、外面ではギリシア人のように見えました。
 テモテの父親は亡くなっていますが、しかしテモテが生まれた時には生きていたと思います。ユダヤ人の両親の間に生まれた赤ん坊は、生まれて1週間後の8日目に、父親から割礼を受けることになります。テモテの場合には、父親がギリシア人だったために割礼を受けられませんでした。
 ギリシア人が人間の肉体をどのように考えていたかということは、おびただしい数のギリシャ彫刻が残されていることからも知ることができます。肉体、殊に鍛えられ均整の取れた肉体は神々の栄光を現わすものだと、ギリシア人たちは考えていました。ギリシャ彫刻は裸体や薄物を纏ったものが多いのですが、それはなぜかというと、肉体に神々が宿ると考えられていたからです。あるいは、古代のオリンピックは女人禁制だったそうで、それは男性が裸体で競技するため、女性には見せられなかったのです。それは人間同士の競い合いではなく、神々同士の競い合いを、この地上で映し出すものとして行われていました。ですから、ギリシア人にとっては、せっかく均整の取れた肉体を持って生まれてきた赤ん坊の肉体をわざと傷つけるような、割礼ということは全く考えられない論外のことでした。

  そして、テモテの場合には、母親はユダヤ人ではありましたが、ユダヤ人らしい手当てをされないまま大人になりました。テモテの父親がもし生きていたなら、テモテはギリシア人として躾けられ、育ったのかもしれません。けれども亡くなったので、母と祖母が信仰をもってテモテを育てました。それで、外面はギリシア人、内面はユダヤ人キリスト者という、テモテという人となりました。
 このことに、テモテは恐らく戸惑ったことと思います。外面が同じギリシア人と一緒にいても、内面が違います。それで内面が同じユダヤ人と一緒にいたいと思いますが、外からは異邦人と見られてしまいます。まるで、こうもりのようです。動物か鳥か分からない。どちらでもあるようで、どちらでもないと言われながら、テモテは育ちました。二重国籍を持つ子供というのは、成人するまでの間、国籍を二つ持ちます。大人になるまでの間に、自分は父と母のどちらの国の者なのかを考えながら成長して、成人した時に、自ら選んで国籍を得るのです。テモテにも、ユダヤ人キリスト者になる道とギリシア人になる道の両方がありました。そして、最終的にテモテは、自分を育ててくれた母と祖母の信仰に従って生きるという道を選び取りました。ユダヤ人であるキリスト者に育てられた者として、テモテも、自分は「ユダヤ人であり、キリスト者である」ということをはっきりさせる決心をしました。

 そこで、外見も異邦人ではなくユダヤ人の男性らしく見える「割礼」を受けることにしたのです。パウロもこの割礼に恐らく父親代わりの役目を果たしたものと思われます。
 ところが、パウロがテモテに割礼を施したということについては、この時以来、絶えず議論が交わされています。すなわち、割礼を受けなければならないと主張するユダヤ主義の人たちが大勢いる中で、パウロは、「割礼を受けることで救われると考えるならば、主イエスの十字架と復活を虚しくしてしまうことだ。割礼を受けるなら、あなたはキリストと関わりのない者となる」と言っているのですから、そのパウロがどうして手も手にだけは割礼を授けたのか、訝しがられるということは、当時から今日に至るまで、繰り返し議論されていることです。
 けれども、テモテの場合は、本当に例外中の例外です。もしも、テモテの父親がギリシア人ではあっても信仰が与えられ、テモテが少しでも父親から信仰的な教育や薫陶を与えられていたならば、テモテは異邦人キリスト者として生きていくということがあり得たかもしれません。ところが、テモテは父親から信仰を聞かされているのではないのです。母のエウニケと祖母ロイスから信仰へと導かれています。ですからテモテとしては、自分はユダヤ人の家に生まれ、ユダヤ人として躾けられ、そして福音を知らされ信仰に入った者だと言って生きるよりなかったのです。パウロはそういうテモテの置かれている事情を理解して、今は亡き父親に代わって割礼を施したのでした。これは、救いのために不可欠なので割礼を施したということとは違い、テモテがユダヤ人の男性として生きていけるようになる道を開くために手を貸したということです。

 パウロはテモテに割礼を施しながら、しかし、「割礼や律法の行いによって救われるのではなく、救いとはあくまでも主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって与えられるのだ」と教えていたことは、今日の箇所でも分かります。4節に「彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた」とあります。
 これは、エルサレムの使徒会議の結果をパウロたちが伝えて回っていたということです。使徒会議で問題になったことは何か。割礼を始めとして律法を守ることで神の民とされるとするユダヤ主義の人たちに対して、「主イエスの十字架と復活を信じるところに救いがある」とパウロたちは主張しました。そしてそれがエルサレム教会でどのような判断になったかというと、「異邦人たちに割礼を求めない。異邦人はユダヤ人とは違うのだから、生活のスタイルが違っても構わない。しかし、十字架と復活を信じて生きることこそが真実の救いである」ということが確認されました。それで、エルサレム教会とアンティオキア教会の信仰が同じなのだということが確認されて、それをパウロたちは伝えて回りました。
 その結果、デルベ、リストラ、イコニオン地方の教会の群れは、自分たちが何を信じているのかということを改めて確かにされ、信仰が励まされて、教会が一つに結束されるようにされて、さらに大勢の人たちを教会にお迎えする準備が整えられていきました。5節には「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」とあります。
 自分たちは一体何を信じているのか、自分は一体何に救われて生きているのか、そのことがはっきりする時に、私たちは、救いを与えてくださる救い主のもとに赴き、その御言葉を聞いて励まされながら生きていきたいという願いが生まれます。願っても礼拝への道が閉ざされると、主への憧れは一層強くなります。礼拝に結集して与えられている信仰を証ししながら主イエスに感謝して生きていきたいという思いがいよいよ募るようになります。
 デルベ、リストラ、イコニオンの教会は、パウロから「何を信じているのか」ということをはっきりと示されて、「そうだ」と受け入れ、いよいよ信仰が強められ、大勢の人が教会に来ることができるようになったのです。

 考えてみますと、日本の今の教会は、私たちの置かれている状況の中で、まさに今がその時ではないかと思います。パウロたちは使徒会議の決定を告げ知らせながら、教会の信じていることを兄弟姉妹たちに明瞭に伝えました。すなわち、「自分たちの救いは、あの主イエスというお方が十字架に架かってくださった、そして甦ってくださって私たちと一緒におられるということにあるのだ。この方の御言葉を共に聞き、御言葉に与り、この方の僕として、私たちはここからもうひとたび歩んでいく、そこにこそ本当の救いがあるのだ」とパウロは伝えました。そして、それに励まされ勇気を与えられて、この地域の教会は力を与えられ、前進していきました。
 そういう小アジアの教会の信仰の高まりの中から、パウロたちにはさらに新しい伝道の幻が与えられ、福音がアジアを超えてヨーロッパに、さらに世界へと広がっていくような新しい入り口が備えられるようになりました。
 パウロ自身、本当に不思議だっただろうと思います。アンティオキアでバルナバと大激論になり、バルナバがマルコを連れてさっさとキプロス島に渡って行ってしまった時、パウロは独りぼっちだと思わざるを得なかっただろうと思います。けれども、アンティオキアでシラスという共に働く人が与えられ、そしてリストラではテモテという働き手が与えられました。バルナバに代わってシラスが、マルコ・ヨハネに代わってテモテが与えられました。さらにこの先、トロアスまで行くと、そこではルカが与えられます。
 パウロはヨーロッパに渡っていく際に、共に働く同労者を与えられながら、新しい旅へと向かって行くことが許されました。

 私たちが今日ここで礼拝を捧げる、その一番の始まりは、福音がアジアを超えてヨーロッパに渡ったところから始まりました。私たちは、パウロがこのように「教会が何を信じているのか」ということが各地の教会で確かにされ、皆が喜んで、その福音に励まされて生きる生活の高まりの中から、押し出され、福音が世界に向かって行くようになりました。私たちはその末裔として、今日ここで礼拝を捧げています。
 リストラの町に育ったテモテがユダヤ人として福音に出会わされたように、ここにいる私たちにも、実は、振り返ってみますと、自分がどのようにして福音に出会わされたのか、どのようにして主イエスを知るきっかけが与えられたのか、思い起こすことができるのではないでしょうか。私たちは皆それぞれに、主イエスと出会うきっかけは違っています。しかし、「主イエスがわたしのために十字架に架かり復活してくださっている。わたしたちは、その主イエスに伴われ、力を与えられて生きる者とされている」ということは、皆一緒です。まさに私たちは、一人一人が自分の生い立ち、自分の生涯の道のりを辿りながら、そこに主イエスが来てくださり、私たちに出会ってくださり、「あなたはわたしと一緒に生きるのだよ」と呼びかけてくださる中で生きるようにされています。
 もし、主イエスが私たちに出会ってくださったと分かることができ、そして、信仰が私たちの中に与えられているのであれば、そのことをはっきりと形に表して生きることができる人は幸いなのです。「主イエスはわたしの救い主です。主イエスを讃美します。感謝して、わたしはここから歩みます」と、自分の人生を思い返しながら、主イエスに伴われて歩む生活が、私たちの上にも与えられるよう、祈りを合わせたいと願います。

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