聖書のみことば
2020年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月17日主日礼拝音声

 恵みのうちにある出立
2020年5月第3主日礼拝 5月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第15章36〜41節

<36節>数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」<37節>バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。<38節>しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。<39節>そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、<40節>一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。<41節>そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。

 ただいま、使徒言行録15章36節から41節までをご一緒にお聞きしました。36節に「数日の後、パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか』」とあります。
 使徒パウロは生涯に3度、いずれもアンティオキアの教会から送り出されて大掛かりな伝道旅行をしました。今日の箇所は2度目の旅行に出かける発端のところです。パウロの3度の伝道旅行には、いずれもそれぞれに意味があったのですが、その中でも今日から聞く2度目の旅はとりわけ意義深い旅だったと言われます。そして、そう言われる理由があります。それは、この旅の最中にパウロが小アジアの一番先端の町トロアスから船出して、海を越えギリシャに渡り、そして福音がヨーロッパに伝えられるということが起こったからです。
 2度目の旅では、パウロはギリシャから引き返していますが、ヨーロッパに足掛かりが築かれたということで、福音が宣べ伝えられていく視野というものが一気に広がりました。キリスト教の教会は、一番最初はエルサレムに誕生しましたが、その時には祈りを合わせていた120人ほどの集まりに過ぎませんでした。その教会が聖霊に励まされながら、迫害のような困難もありましたが福音を宣べ伝え続け、やがて、遠く離れたアンティオキアの町にエルサレムとは違う形の新しい教会が誕生していきました。
 エルサレム教会はメンバーが全員ユダヤ人でしたから、どうしても「ユダヤ人」の境を越えることができませんでした。しかしアンティオキアでは、その土地に住む異邦人たち、元々聖書の神については無関係で、主イエスのことも何も知らずに歩んでいた、そういう人たちにも主イエスの福音が告げ知らされ、今や主イエスの御業を知り、主イエスを愛し、主イエスに従う、そういう生活が生まれてきました。それがアンティオキア教会の新しい信仰生活です。
 そして、アンティオキア教会がさらに多くの人たちに主イエス・キリストの福音を伝えたいと願って、祈りをもって送り出した伝道旅行の第2回目で、とうとう福音がアジアの境を超えてヨーロッパにまで伝わって行きました。まだ2回目ではギリシャまでですから、ヨーロッパでも東から中部までですが、しかしその地域に、例えばフィリピ教会、テサロニケ教会、コリント教会が建設されて行き、そのことで福音はさらに西を目指すことができるようになりました。

 ローマの教会は、パウロ自身が最初に福音を伝えたわけではありませんが、しかしやがて当時の世界の都と呼ばれたローマにも、主を信じる教会の群れが誕生するようになり、パウロはローマの教会に宛てた手紙の中で「いつかはローマの教会を訪ねて、互いに信仰を励まし合い、その上で、ローマから送り出されて、さらに西にあるイスパニアにまで福音を宣べ伝えたい」という希望を述べるまでになりました。当時の世界は、東はインドから西は地中海までしか知られていませんでした。ところが、その世界全体に福音を伝えようという視野が、この第2回目の伝道旅行で福音がアジアからヨーロッパに伝わって行ったということによって始まっていくのです。
 当時の世界は今と比べれば狭い領域ですが、しかしその後、新大陸が発見されたり、アフリカの南端まで探検され、世界地図がどんどん大きくなり、今日私たちが知っているような広大な地図が出来上がりました。しかし実は、教会は、第2回の伝道旅行の時から、その有り様は変わっていません。世界の果てにまで主イエスの福音を伝えようという思いが第2伝道旅行が行われたことによって芽生え、あとは、世界地図が広がれば、その広がった先の土地に何とか主イエスの福音を伝えようとして宣教師が送られ福音が語られるということが繰り返されていくだけです。そしてそのようにして、私たちにも福音が伝えられてきているのです。
 ですから、もしかすると、パウロの第2伝道旅行が行われなかったとか、あるいは違う形、狭い領域にとどまるような形で終わっていたならば、私たちは今日、福音に出会えなかったかもしれません。そういう意味で、第2伝道旅行がアジアを出てヨーロッパまで行ったということが極めて大きな結果をもたらしていて、私たちは今日、その恩恵に与っているようなところがあるのです。

 さて、この第2伝道旅行ですが、始まりのところで思わぬつまずきがあったことが今日の箇所に語られています。この旅行に誰を同行させるかということをめぐって、パウロとバルナバの間で意見が一致せず、とうとう分裂して2チームに分かれて出かけることになったのです。37節から40節に「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」とあります。
 ここに名が記されているマルコは、ヨハネとも呼ばれ、バルナバの従兄弟に当たる人物です。第1回の伝道旅行の時には、パウロとバルナバに付いて一緒にアンティオキアから出かけて行きました。ところが、まずバルナバとマルコの故郷であるキプロス島まで行ったところまでは良かったのですが、パウロとバルナバがそこからさらに進んで小アジアに渡り、パンフィリア州ペルゲまで行ったときに、マルコは突然一行を離れてアンティオキアに戻ってしまったのでした。
 今また伝道旅行に出かけようとする時に、パウロは第1回目の時のことを話題にします。もしかするとパウロにはこの時、「鋤に手をかけてから後ろを返り見る者は、神の国にふさわしくない」という、かつて主イエスが言われた御言葉が去来していたかもしれません。パウロは、一緒に祈りと心を合わせて伝道旅行していく、困難の中を共に過ごしていかなければならない旅行の道連れの中に、容易く転んで逃げてしまいそうなマルコが連なるということに難色を示しました。マルコには、まだ伝道旅行に一緒に行けるだけの準備が十分に整っていないのではないかと疑って、マルコの同行を思いとどまらせようとしました。
 ところが、このパウロの姿勢がバルナバを怒らせてしまいました。マルコはバルナバにとって気心の知れた従兄弟で、子供の頃からマルコのことを見ていて知っていますから、確かにマルコにはまだ幼い若いところ、弱点があることを分かっていたと思いますしパウロの危惧も理解したと思いますが、同時に、マルコは弱さを持っていたとしても、神に対してはまっすぐな純真な思いを抱いていると、バルナバは考えていました。若さや弱さを理由にして伝道の働きに付いていくことができないとすれば、マルコは憔悴し、この先、伝道への意欲を失ってしまうかもしれません。

 一方、パウロからすれば、伝道者としての覚悟がまだできていない人は、無理に付いて来なくて良いと考えました。そういう人は、アンティオキア教会に残って、そこでその人にふさわしい良い働きができるに違いないのだから、無理をして旅立つ必要はないと考えました。しかしバルナバからすると、なんとかしてマルコに自分と同じ伝道者として歩んでほしいという願いがありました。パウロとバルナバは、このことでかなり話し合いを重ねたようですが、結局、話し合いは決裂しました。平行線の話し合いを続けても埒が明かないとバルナバは考え、マルコを連れて、パウロを置いたまま、さっさとキプロス島へ出かけて行ってしまいました。
 もしかすると、アンティオキア教会の指導者であるパウロとバルナバが、あまり長い間一致できないと、教会の中に動揺が起こるかもしれないという配慮からかもしれません。しかしそれにしても、バルナバとマルコがキプロス島に出かけたというこの旅立ちは、アンティオキア教会の人たちにとっては思いがけない出来事だったようです。39節には「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出した」ということだけが語られていて、この二人の旅立ちについてアンティオキア教会の人たちが特段の見送りをしたと記されていないことから窺い知れます。
 バルナバとマルコのチームは、最初の計画通り、第1回伝道旅行の際に訪れた町や村を忠実になぞるような仕方で回ったのだろうと思います。ただ、その足取りは、もはや使徒言行録には記されず、バルナバとマルコの名もでてきません。けれども、この二人については、パウロが書いている手紙の中にその消息が出てきます。パウロの手紙によりますと、二人は元気に働きを続け、やがてパウロとも和解し、共に主に仕える者になっていったようです。

 しかし今日の箇所では、バルナバがマルコを連れてさっさと出かけましたので、アンティオキアにはパウロが一人、取り残される形になりました。パウロは一人、置き去りにされたように見えますが、 当のパウロ自身はそのことをあまり気にしてはいないようで、間もなく行動を開始しました。エルサレムからアンティオキアに来ていたシラスを、パウロは同行者に選び、バルナバたちが出かけて行ったのとは逆のコースで、シリア、キリキア、ガラテヤ州に向かっていくような方向へ伝道の旅に出かけました。
 取り残されたパウロが一人で出かけるのではなく、バルナバに代わる同行者を選んで出かけて行ったのは、当時の社会の風習によることだろうと言われています。当時、本当に正しい事柄は、ただ一人が言葉を尽くして説明しても不十分だと考えられていましたので、本当に正しいことを説明し、その後に一人か二人「それは本当に正しい」と証ししてくれる証人がいて初めて、それは信頼に足ることだと受け止められました。ですからパウロは、一人で出掛けたのではなく、もう一人の同行者を必要として、それがシラスになったのです。

 それにしても、この時期にエルサレムからやって来ていたシラスが、エルサレムに戻らず、パウロの同行者になってくれたということは、後から考えますと本当に幸いなことでした。というも、シラスは元々エルサレム教会のメンバーでユダヤ人ですが、ユダヤ教的な生活スタイルに拘ってそれを有り難がるような頑迷な人ではなく、むしろ、エルサレムのメンバーでありながら、パウロの語る福音の言葉に耳を傾け、主イエス・キリストの十字架と復活こそが人間の救いになるのだと、はっきり信じていた人だからです。
 シラスと比べますと、バルナバには少し弱いところがありました。バルナバは優れた信仰の指導者でしたが、異邦人たちに対する考え方、あるいは信仰の受け止め方の面では、使徒ペトロと似たところがあり、時折、十分に相応しく行動できない時があったようです。パウロの手紙の一つ、ガラテヤの信徒への手紙2章11節から13節に「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」とあります。ケファとはペトロのことですが、ペトロがエルサレムからアンティオキアを訪ねていたときに、最初はユダヤ人も異邦人も一緒に食事をしていました。ところが、エルサレムのヤコブの元から、割礼を受けている人でユダヤ教的な生活が良いと思っているエルサレム教会の人たちがアンティオキアに下って来たら、ペトロは気弱にも、エルサレム風の生活を送ろうとしました。そして何人かがそれに同調するようになり、そこにはバルナバも含まれていたと、パウロは語っています。
 このことについては、先週聞きました使徒会議で、エルサレム教会とアンティオキア教会の間での一致を見ており、「信仰とは律法の行いによるのではなく、主イエスの十字架と復活を信じるところにある」ことがはっきりしたのですが、しかしエルサレム教会には、信仰をはっきりさせるために律法の行いが必要だと思っている人がいたのです。それはその人の信仰の表し方ですから自由なところがあり、その人はそうであっても良いのですが、そういう人と面したときに、ペトロもバルナバもそちらに同調するような格好をしてしまいました。バルナバは温厚でバランス感覚に優れた人物として敬愛されていましたが、穏やかであろうとして争いを避けようとするあり方が、時に、ユダヤ教の生活態度に従うべきだと主張する人の前では、流され迎合してしまうような弱さとして現れました。

 ところがシラスは、同じくエルサレム教会から来た人ですが、全然違っていました。シラスはパウロと一緒に第2回、第3回の伝道旅行に同行しますが、この人はキリストの十字架と復活だけを宣べ伝えることに、この上ない喜びを持っていた人です。そして、十字架と復活の福音を伝えるためならパウロと一緒に進んで鞭打たれても構わない、というような勇気を持っていました。シラスのような同行者が与えられて、第2回の伝道旅行は当初予定した領域を遥かに超えて、ヨーロッパにまで渡っていくということが起こるのです。
 今日はその始まりのところを聞いていますが、16章9節で、パウロが夜、幻を見ます。「主イエスの十字架の福音を聞かせてほしいと、マケドニアの人たちがパウロに必死に頼んだ」という幻を見たときに、同行していた人たちは一も二もなく賛同し、海を渡って行ったことが、16章9節10節に記されています。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」。これがヨーロッパに行くきっかけになった出来事です。
 もしも、この時の同行者がシラスではなく、バルナバやマルコであったらどうなっていただろうと思います。様々な思い煩いに心が向いて、福音はヨーロッパに渡らずじまいで終わったかもしれません。キプロス島からペルゲに渡っただけで帰ってしまったマルコがいて、そのマルコに気を遣うバルナバがいて、パウロがその3人でチームを作って伝道旅行に出かけたとしても、ヨーロッパに呼ばれれば、それは全く違う場所に踏み入ることですから、マルコがそれに耐えられるか、またバルナバが板挟みになってどういう判断を下すか、パウロがそこで一人になってしまっては、パウロの語る福音を証言してくれる人がいなくなってしまいますので、旅を続けることができなくなったでしょう。

 ところが、第2回の伝道旅行は、バルナバではなくシラスが同行していますので、どんどんと先に進みました。このヨーロッパへの伝道からキリスト教の世界伝道の精神が生まれてくることになりました。そして、今日の私たちにまで信仰が伝えられていることを考えますと、バルナバとマルコがパウロと仲違いをして先に二人で出かけてしまったこと、そしてパウロにシラスが与えられ、シラスと一緒の伝道旅行が始まったということ、それは誠に感謝すべきことだったと言うべきだろうと思います。
 アンティオキア教会の兄弟姉妹は、この二人の伝道者の出立に対しては、町外れまで見送ってくれて、「聖霊の助けがいつもこの二人の上にあって、二人が主イエスから離れないように。御言葉に励まされながら旅を続けられるように」と祈りをもって送り出してくれました。40節に「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」と語られています。
 「主の恵みに委ねる」ということは、「二人がいつも、主イエスが共にいてくださるという信仰のもとに歩めますようにと祈った」ということだろうと思います。「伝道の旅に出かけて困難に出会うとき、試練の道をゆくとき、いつも主イエスが共にいてくださるように。その歩みがどこに行こうと、どんな状況に置かれようと、どんなに途方に暮れるようなことがあろうと、十字架と復活の主イエスがいつも一緒に歩んでくださる。その主に信頼して、二人が恐れず福音を語り続けることができるように」とアンティオキア教会の人たちは祈って送り出し、また日々に二人を祈りのうちに覚え、主の助けと導きを願い求めていたに違いありません。そういう祈りに覚えられて、パウロとシラスの伝道旅行が始まり、そして、世界中に福音が告げ知らされていくようになり、そのような祈りの末に日本の国に福音が届けられ、私たちも福音を聞き、信じる者とされています。

 そうであるならば、私たちは今の時代に、自分たちだけが信仰を与えられているメンバーであるというような、メンバー制のサークルに参加しているのではないと思います。私たちは今の時代に、福音が届いていない場所に福音を届ける、そのような教会の祈りの中に覚えられて、今日ここで礼拝を捧げ、ここからまた私たちはそれぞれの生活へと送り出されて行きます。
 教会は、特に伝道によって建てられた伝道地の教会は、自分たちのためにそこに存在するということもありますが、それ以上に、私たちを超えてなお働いていかれる主の御業のためにこの場所に存在し、そのことに励まされ勇気を与えられながら、一人一人が「主が甦っておられる」ことの証し人として生活していくのだろうと思います。
 教会の祈りに支えられて、パウロとシラスには「主が共にいてくださる」という信仰の備えがありました。そのような信仰の装いを持って道を進み、出会う先の隣人を励まし、慰め、勇気を与えながら、二人の旅路は進められていきました。私たちもそうだろうと思います。ここにいる私たちがどんな困難な事態のうちに置かれるとしても、甦りの主イエスが共にいてくださり、「神さまの慈しみがあなたがたの上にあるのだ」と常に語りかけてくださる、そのもとで私たちは生きていって良いのです。
 たとえ、この世の人から「お前など生きている資格はない、値打ちがない」と言われるようなことがあるとしても、人の言葉と神の言葉のどちらが強いかと言えば、神こそ私たちの命の源ですから、私たちはそのことに信頼して、なお生きて良いのです。

 神を信じるということは、すべてが都合よく運ぶということではないかもしれません。他の人たちが皆苦労して生きているように、キリスト者であっても、この世の生活の中で様々な問題に直面して苦労することがあるかもしれません。けれども、私たちは自分一人だけで生きるのではないということを聞かされているのです。「主イエスが甦られ、いつも私たちと一緒である。わたしが覚えているあの人、うまくコミュニケーションが取れないあの人とも、主イエスは一緒に歩んでいてくださる。皆、生きるようにと招かれている」、私たちはこの福音を聞かされ、福音を携えて、ここから歩み出すようにされています。

 パウロとシラスが慰めを受け、勇気を与えられ歩んだ、その同じ主が私たちの歩みの上にも共に伴ってくださり、私たちを支え、主にある平安のうちを辿らせて下さいますように、祈りを捧げたいのです。

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