聖書のみことば
2019年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 3月24日主日礼拝音声

 神の前の裁判
2019年3月第4主日礼拝 3月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章57〜68節

<57節>人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。<58節>ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。<59節>さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。<60節>偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、<61節>「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。<62節>そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」<63節>イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」<64節>イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」<65節>そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。<66節>どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。<67節>そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、<68節>「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

ただいま、マタイによる福音書第26章の57節から68節までをご一緒にお聞きしました。57節に「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた」とあります。弟子の一人ユダの裏切りによって捕らえられた主イエスが大祭司カイアファの官邸に連れて行かれたと言われています。そして、このカイアファの官邸で主イエスはこの晩、裁判をお受けになりました。
実は、この晩に開かれた裁判はとても正しいとは言えないと、昔から多くの人がこの裁判の不公平さを問題にしています。指摘は多々ありますが、まとめますと大まかに6つほどの問題点が指摘されています。その内の3つは、そもそもこの裁判が正式には成立していないという手続きの面、そして後の3つは実際の裁判の進められ方です。

この裁判が正しく成立しているのかという点では、開かれた場所、時刻、手続きにおいて不適切ではないかと言われています。今日でもそうですが、裁判は、裁判所の法廷で開かれて判決が下されてこそ、決するものです。主イエスの時代で言うならば、それはエルサレム神殿の中にユダヤの最高法院の議場があり、そこが法廷です。ところが、この晩の主イエスの裁判は最高法院で行われたのではなく、大祭司カイアファの官邸の中でしたから、まず場所がおかしいということになります。また、時間も問題だと言われます。主イエスが捕らえられ、その夜のうちに開かれていますから、時間帯は深夜です。太陽が沈み暗闇に覆われる夜の時間帯には、最高法院の会議は行われませんでした。明るい太陽が隠れている夜には、神に敵対する罪と死が力を振るって影響を及ぼすことができると考えられていましたから、影響を受けることがないようにと、最高法院の会議は昼間行われるものでした。ところが、まさに暗闇の中で、人目を忍んでという意味もあるのですが、そのような時間帯に主イエスの裁判は開かれたのでした。
さらに、手続きの上でも、この裁判は正当ではないと言われます。特に死刑のように重大な判決を宣告する、そういう裁判では間違いがあってはならない。ですから、少なくとも二度、審議が行われて、しかもそれは別々の日に行われることが決められていました。つまり、一度の裁判で死刑が決まるわけではないのです。必ず賛否を出すことで1回目の判決は無効とされ、二度目の審議で間違いがないことが確認された上で、死刑は宣告されていきました。
 ところが、主イエスの裁判では、昼間の審議が一度もされていません。夜の間に一度裁判が開かれ、そこで死刑が決まっています。ですから、この晩主イエスに死刑を申し渡した裁判は、行われた場所も、時間も、手続きの面でも、とても正式な裁判とは言えないと言われてきたのです。

後の3つの問題は、実際の裁判の進められ方が不公平だという批判です。裁判では、そこで審議が尽くされて、あらゆる可能性が検討されて、有罪か無罪かが確定されます。そうでなければ公平な判決とは言えません。けれども主イエスの裁判には、この点でいくつも問題があるのです。
何といっても、この裁判は開く前から死刑判決を下そうとする意図があった、そういう裁判です。そしてそのために偽証を求めたと書いてあります。「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」。裁判を開く前から死刑にしようという方向が決まっている、これでは裁判に値しないと昔から言われてきましたが、その通りだと思います。
第二に指摘されるのが、言葉によってだけ裁かれているということです。偽証が次々に重ねられ、最後には主イエスの言葉が揚げ足取りのように証拠にされ判決が下っていますが、今日の裁判で考えますと、自白しか証拠のない場合には、その自白は誘導されたり強要される場合があるので、言葉だけでは有罪に決まらないことになっています。裁判は、証言があることと同時に、その証言を裏付ける客観的な証拠が求められるのです。けれども、ここには証拠がありません。60節に「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」とあります。証拠は何もないのに、主イエスは有罪となり死刑が執行されるのです。
 また、この裁判の不当なところは、最後に判決を下すところにも表れています。普通の裁判であれば、審議が尽くされた上で、裁判員たちが誰の影響も受けずに自分自身の信じる評決を下すはずなのです。ところがこの日の裁判はそうではありませんでした。裁判長の席に座っていた大祭司のカイアファが、65節「服を引き裂きながら言った。『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた』」と一人で断定し、その上で目の前にいる議員たちに「君たちはどう思うか」と問うのです。「神を冒涜した」ことが明らかであれば当然死刑に値しますから、裁判長が「神を冒涜した。死刑に値する」と言ったということは、裁判員たちに対しては「どう思うか」と問いながらも同じ判決を迫っているということになります。65〜66節「『諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は、『死刑にすべきだ』と答えた」。

 ですから、夜に行われたこの裁判は、裁判自体が成立しているのか怪しいですし、また実際の裁判の進め方にも非常に問題があると、昔から言われ続けてきたことですが、本当にお粗末な裁判であったと言わざるを得ません。そして、こういう姿というものが、人間の大変惨めな側面を表しているとも思います。様々な裁きが行われる際に、正義に基づいて、愛や慈しみに満ちて評決されるのではなく、大変人間臭い、好みや妬み、憎しみなどによって力づくで判決が確定され死刑が執行される、それが主イエスが受けられた裁判であったのです。

さて、そのような不当な裁判でしたが、その裁判の中で、主イエスはどのように過ごしておられるのでしょうか。主イエスはこういう不当な権力によって、為す術もなくただ居られたのでしょうか。そうではありませんでした。今日の聖書が告げていることは、この裁判が不当なものだったということだけではなく、その中で主イエスはご自身のあり方でこの裁判に向き合っておられたということを告げています。
主イエスはどのようにこの裁判に向き合われたのか。差し当たっては「黙る」ということをなさいました。祭司長たちが、おそらくお金を払って偽証人を立て次々と主イエスにとって悪い証言を語らせた、その間ずっと主イエスは黙っておられました。大変不思議なことですが、主イエスはここで「黙る」ことで、救い主としての御業をなしておられるのです。旧約聖書のイザヤ書53章7、8節に「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」とあります。一人の神の僕について語られている箇所です。不当な裁判を受けて命を取られる、そういう僕ですが、「彼は口を開かなかった」と言われています。しかし、彼が苦しみを受け血を流したことによって、多くの人たちの罪が執りなされ、神に赦された新しい命が与えられたのだと、53章最後に記されています。12節「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。
主イエスは、ご自身の血が流れるということを、この裁判の席では既に覚悟しておられます。かつて出エジプトの際、神が裁きを過ぎ越していく時に羊の血を鴨居に塗るようにとイスラエルの人々におっしゃり、羊の血は流れたけれど、それによって裁きが過ぎ越されイスラエルに新しい将来が与えられるということが起こりましたが、主イエスご自身が、そういう小羊のように血を流すのだということを承知しておられ、黙っておられるのです。ですから、この裁判の席での主イエスの沈黙は、救い主としての沈黙なのです。これは大変不思議なことだと思います。普通は、多くの偽証が立てられる、そうであれば「それは偽証だ」と言って戦わなければなりません。けれども主イエスは、裁判に勝って命が助かることに目的を置いておられるのではありません。この裁判を通して神の御業が行われていく、つまり、多くの人の罪を執りなす血が流され、それによって人々が新しい命を生きるようになる、そういう御業が行われると承知して黙っておられるのです。

主イエスが黙っておられるので、多くの偽証が重ねられていくのですが、今日の箇所にはその最後の偽証が出てきます。二人の人が来て、61節「『この男は、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました』と告げた」とあります。主イエスは確かに、これに近いことをおっしゃったことがありました。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日あれば建てられる」と言われましたが、それは、「あなたたちは神殿を壊している。けれど三日あれば建て直せる」と言って、ご自身の復活のことを語られたのだとヨハネによる福音書で説明が語られているところです。神殿は実際に滅びに向かっています。主イエスの裁判は紀元30年頃ですが、紀元70年にはイスラエルの国がローマ帝国に攻められ神殿が陥落し、それ以来、神殿は建て直されることがないまま打ち捨てられているのです。今私たちは黒服のユダヤの人たちが「嘆きの壁」の前で祈っている姿を見ることがありますが、「嘆きの壁」は、壊された神殿の外側の一部なのです。ですから、この時の祭司長たちは、実は、戦争に向かって進んで行っているのです。国を滅ぼし、それによって神殿が壊される方に向かっています。そのような中で主イエスは、「確かに神殿は崩れていく。けれども、十字架の死と復活によって神への礼拝は三日あれば立て直すことができる」と、かつて弟子たちに語っておられたのでした。

ここで主イエスが黙っておられるので偽証が重ねられますが、偽証ですので証拠がありません。不当な裁判ですが、裁判を行なっている祭司長たちにとっては、証拠がないことは何ほどのことでもないのです。どうしてかと言うと、この裁判は最初から判決が決まっている裁判だからです。つまり主イエスに有罪だと判決を下し死刑を宣告するための形をそれなりに整えているだけですので、証拠が無ければ無罪になるという方向にはならないのです。
 ですから有罪という結論が出ることは確かですが、しかし大祭司にとってこの裁判の中でとても不可解だと思ったことがありました。それは、自分たちが立てた偽証人によって明らかな偽証が重ねられていくのに対して、普通であれば主イエスが反論するはずであるにも拘らず、一切の反論がなく沈黙を守っている。「これは一体どういうことか」と大祭司は考え、そして大祭司は聖書のことをよく知っていますから、「これは主イエスがイザヤ書に出てくる神の僕の姿を取っている、だから黙っているのだ」と気づくのです。そこで、つい、尋ねてしまうのです。63節です。「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか』」。黙って屠場にひかれていく羊のように黙っている主イエスに向かって、大祭司は尋ねました。そしてこれは決定的な問いです。「お前は神の子、メシアなのか」。
 もしこの質問に対しても主イエスが黙っているとすれば、その沈黙によって主イエスは「わたしはメシアではない」と言っていることと同じになります。もしメシアだと主張したならば、それは「神の子だと自称した」ということになり、神を冒涜した罪で主イエスを裁くことができるのです。ですから大祭司はここで逃げ場のない問いを問うているのです。黙っていても否定しても「メシアではない」と言ったことになり、神を冒涜したことになるからです。大祭司は、主イエスが本当にイザヤ書に書かれている神の僕のようであると見られる道を塞ぐために、このような問いをしました。

 ところがこの問いは、大変決定的な問いとなり、ここで主イエスは口を開かれました。主イエスの答えは、大祭司の予想をまったく超えるものでした。ニュアンスを付け加えて言うならば「あなたは遂に、今、これを言った」となります。64節です。「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る』」。この最初の部分は、日本語に訳すのが難しいようです。口語訳聖書では「あなたの言うとおりである」と訳されていました。「それは、あなたが言ったことです」と「あなたの言うとおりである」とでは、日本語では同じではありません。明らかに違っています。どうしてこのように訳がブレるのかと言うと、元々の聖書の言葉の直訳は「あなたは言った」とだけ書いてあるからです。主イエスに向かって大祭司カイアファは「お前は生ける神の子、メシアなのか」と問いました。主イエスはその決定的な問いを聞いて、「今、あなたはそれを口にした。あなたは言った」と言われたのですが、どうしてこんなことをおっしゃったのでしょうか。それはまさに大祭司カイアファが問うた言葉が、事柄の中心、的の真ん中を射抜いているような言葉だったからです。
 「お前は生ける神の子、メシアなのか」という疑問文ですが、明らかにこの時、カイアファは、「主イエスはメシアである、メシアではない」ということを問題にしたのです。

 実はこの言葉は、主イエスが弟子たちに何とか伝えようとしていた事柄でもあります。マタイによる福音書16章16節に「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」とあります。主イエスはこのことを弟子たちに分からせようとして、ずっと一緒に旅をしてこられました。そして、ペトロがこう語りましたから、主イエスはここから十字架に向かって救い主メシアとしての歩みを始められるのですから、この言葉は極めて重要な言葉なのです。そしてその言葉を、今日のところで、大祭司カイアファが疑問の形で語っているのです。
「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」、こう問うことで、カイアファは主イエスを決定的に追い詰めることができると考えていました。それは主イエスを殺して闇に葬り去ろうと考えていたためでした。主イエスがこの問いに対して、沈黙していても、否定したとしても、どちらにせよ「ナザレのイエスはメシアではない」ことを明らかにして死んでいくことになるからです。そしてもし「メシアだ」と言ったとすれば、明らかに神を冒涜したとして殺すことができる。したがって、この問いは主イエスにとって逃げ場のない問いだとカイアファは思っていました。
ところが、カイアファはこの時、一つの大変重大な点を忘れています。それは何かというと、カイアファ自身が投げている問い、目の前にいるナザレのイエスと呼ばれる若者がメシアかどうか、この問いに対する答えは事実上、二つであるということです。メシアなのか、メシアではないのか。イエスかノーか。実際に、答えはどちらかです。もし目の前の若いラビ、イエスがメシアでないのであれば、この男は明らかに偽善者ですから石打ちの刑に値するのです。けれども、カイアファが全く考えていない一つの可能性があります。それは、目の前の若いラビが、本当に神の独り子であり救い主メシアであったらどうなるのかという点です。もし本当に、この若いラビが神の独り子である救い主であるとすれば、そのことを信じない祭司長たちと最高法院の側は、神の独り子である主イエスに出会っているのに、そのことを信じようとしなかった、神に対して相応しい意志を表さなかったということで、逆に裁かれて滅んでしまうということになりかねないのです。
 「あなたは神の子ですか、救い主ですか」と尋ねなければ、そんなことにはなりません。目の前に主イエスがいた、救い主がいたけれど、気づかなかったし尋ねもしなかったので通り過ぎたと、それで収まっていたかもしれません。ところがカイアファは、自分でも予想しなかったことですが、まことに重大なことを尋ねてしまいました。「お前は、神の独り子、メシアなのか」。それに対する返事を聞いたら、聞いた側に責任が生まれてくるのです。
もし「メシアである」ことが本当ならば、主イエスの前にカイアファはひれ伏さなければなりません。けれども、カイアファにはそんなつもりは少しもないのです。カイアファは、今、自分が神の前に立たされているなどとは少しも思っていません。カイアファは自分の方が権力者であり、何でも自分の思い通りになる、こんな若者を殺すことは造作ないと思っていたのです。
 ところが、カイアファが自分で口に出した問いが、実はカイアファ自身を、また裁判に立ち会った最高法院も、その身に裁きを招くような問いだったのです。そして、主イエスはまさに、カイアファがそういう問いを口にした、そこを捕らえて「あなたはそれを言った」とおっしゃっているのです。
それまでは偽証であり、主イエスに直接触れるような言葉ではありませんから、主イエスは黙っておられました。けれども、「お前は本当に神の子、救い主なのか」と問われた時に、主イエスは、「それならば、わたしも言おう」と口を開かれるのです。「わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」。

主イエスはカイアファに、「あなたたちは二つのことを見るようになる」とおっしゃいました。「人の子が全能の神の右に座っている」「天の雲に乗って来る」、これらを見ることになる。そしてそれは「やがて起こる」と言われました。この「やがて」という言葉は、深い意味がこもっている言葉です。カイアファは今、思いのままに権力を振るっています。自分は何でもできると今は思っている、その「今」に対する「それから後」、それが「やがて」です。今はカイアファが横暴に振舞っているけれど、しかしこれから先にはそうでなくなる。「やがての時、あなたたちが見るのは、『人の子が全能の神の右に座るようになる』ことなのだ。そしてその人の子が『天の雲に乗って来る』のを見るのだ」とおっしゃるのです。
 これはどちらも旧約聖書が下敷きになっている言葉です。今日は招詞で詩編110編5節を聞きましたが、その1節に「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」とあります。この後、神の右の座に就く主を軽んじて敵対した諸王たちは、5節で「主はあなたの右に立ち 怒りの日に諸王を撃たれる」ということになるのです。もう一つは、ダニエル書7章13節から14節にかけて「やがて人の子のような者が天の雲に乗って現れ、永久に存続する権威を与えられる」と言われています。この二つの言葉を引用しながら、実は、主イエスはここで「あなたはやがて見るようになる。人の子が神の右の座に座る者とされる様子を。またその人の子が神の権威を与えられる者としてやって来るのを見るようになる」と言われました。

 主イエスが救い主メシアであるということに無理解であって、偽証人が次々に立てられている間は、主イエスは黙って、贖いの子羊としての道を歩んでおられました。しかしそれが神の子救い主としての行いなのかと、決定的なことが尋ねられた時には、主イエスははっきりと「あなたはそれを見ることになる」と言われました。実際、その後に、最高法院も大祭司も滅んでいってしまうのです。今エルサレムには嘆きの壁が残っているのみです。

けれどもカイアファは、こういう主イエスの言葉を信じませんでした。カイアファからすれば、当初の計画の一つの答え「主イエスは神を冒涜する者だ」という答えが出たことになります。そして、主イエスの言葉は暴言だと言って裁判を結審させ、この暴言に対してどう思うかと議員たちに尋ね、死刑という判決を下した上で、乱暴狼藉を働いたと語られています。

主イエスは最初から、不当な裁判を受け、この裁判が主イエスを死刑にするという方向に動いていくことは先刻ご承知でした。そしてその中で、神の僕として、神の御業に仕える者としてどう生きるかということを考えておられます。
先ほどはイザヤ書53章を聞きましたが、同じ苦難の僕について50章7節には、「主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と」と語られています。この日の最高法院の、いかにも不公平な裁判の中で、主イエスは終始、救い主として神の許からおいでになり、そして人々の身代わりに血を流して、それによって信じる者に新しい命を与える方として、神の子羊として黙って、この不当な裁判に臨まれました。ところがその最中に「お前はメシアなのか」という決定的なことが問われたので、「その通りである」とおっしゃって、有罪の判決を受け十字架へと向かって進んでいかれました。まさにこういう主イエスの御業によって、人々の罪は執りなされたと旧約聖書に語られている、その通りのことが起こったのです。

 私たちは、主イエスが十字架に向かって行かれた歩みによって、私たち自身の罪が執りなされているのだということを聞かされています。「主イエスは本当にメシアなのか」、そのことを私たちは一人一人、自分自身に尋ね、そしてペトロのように「あなたは生ける神の子、メシアです」と告白して生きていく者とされたいと願います。

 このレントの時に、私たちに与えられているそれぞれの生活の務めを、主イエスがわたしのために戦ってくださり新しい命を与えてくださっていることを覚えながら、一つ一つ担って歩む者とされたいと願います。
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