聖書のみことば
2019年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月10日主日礼拝音声

 神に希望をかけて
2019年3月第2主日礼拝 3月10日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)
聖書/コリントの信徒への手紙二 第1章3〜11節

<3節>わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。<4節>神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。<5節>キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。<6節>わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。<7節>あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。<8節>兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。<9節>わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。<10節>神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。<11節>あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二第1章の3節から11節をご一緒にお聞きしました。3節に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とあります。「ほめたたえられますように、賛美されますように、わたしはほめたたえます」という言葉が文章の先頭に語られています。「ほめたたえられますように」と言われているのは「神」です。他のものはほめたたえられることはないでしょうか。神以外の存在をほめたたえることは避けるべきでしょうか。ここでなぜパウロは、神がほめたたえられることを願っているのでしょうか。
 それは、ここにありますように、神というお方が「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる」そういうお方だからだとパウロは言っています。

 では、この方がほめたたえられるに相応しいお方だと、どうしてパウロは分かったのでしょうか。なぜ他の、神と言われる存在ではなく、「主イエス・キリストの父」をまことの神だと知ったのでしょうか。それが、パウロの、また私たちの生まれながらの知識ではないことは明らかです。
 生まれながらに神のことを知っている人はいません。どのようにして神を知るようにされたのかは、私たちに神のことを教えてくれた、伝えてくれた人たちがいたからです。その人たちもまた、誰かに教えてもらいました。こうして遡っていきますと、最初に神のことを伝えてくださったのは、主イエス・キリストであることに辿り着きます。キリストが弟子たちに、ご自分の父であられる神のことを伝え示してくださったところから、次々に伝える人が起こされ、各地に教会が建てられ、私たちは今ここで礼拝を捧げています。聖霊なる神の御働きによって、神のことが広く伝えられてきました。この神が正しいお方だ、信頼に足るお方だと分かるのは、神ご自身が、パウロに、私たちにご自身を現してくださったからに他なりません。神ご自身が御子主イエスを通してご自分を現してくださったからこそ、私たちは、神について知ることができるようになりました。神は、「あなたを救うために、キリストを十字架に掛け、罪を贖う」、そういう仕方でご自身を示してくださる、そういう神です。

 私たちは、ありのままの、生まれながらの状態では、自分に罪があることに気付かず、また認めることもできない者です。回心を経験する前のパウロもそうでした。自分は正しいとして、キリスト者を迫害していました。けれども、神がキリストによる救いをお示しくださり、初めて「わたしは罪人なのだ。救われなければ平安を得ることはできない。神をほめたたえることはできない」と知らされました。
 パウロはここで神を「慈愛に満ちた父」と言い表しました。「憐れみに満ちた」という訳もあります。」慈愛、憐れみ深さ」と聞いて、私が思い浮かべるのは、幼子イエスを抱く母マリアの姿です。特に、レオナルド・ダ・ビンチが描いた何点かの聖母子像には、憐れみに満ちたマリアの表情が描かれています。小さい子を持つ母は、小さい人を自分が守るべき尊い人として受け止めることが多いですし、私たち自身も小さい存在、小さくされた人たちを大事に受け止め、見守るということがあると思います。
 主イエス・キリストというお方も憐れみ深いお方、慈しみ深く、慰め深いお方として、私たちに眼差しを向けてくださるお方です。聖書に記される主イエス・キリストのお姿、弟子たちに向けた眼差しというものにそれを知ることもできます。それだけではなく、主イエスは自ら十字架に向かって歩んで行かれ、行動を通しても、神の憐れみ、慈しみ、慰めを示してくださいました。十字架の御業にこそ、神の憐れみが豊かに示されています。

 このように憐れみ深く、慈しみ深く、慰め深い神は、私たちを救ってくださいます。苦しみの出来事を経験する毎日の中で、他の人からは理解されないような孤独の中で、不安や恐れや悩みや思い煩いや失望の中で、神からの慰め、それが私たちの力です。神は私たちを見捨てずに顧みてくださり、あらゆる苦難に際して救ってくださる、解決の光が見えなくても私たちを愛してくださる、罪を赦し、どこまでも味方でいてくださる、ここに私たちの希望があります。
 けれどもこのことは、わたし一人が慰められる、私たちだけが救われるためではなかったのだと、パウロは言っています。4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とあります。教会の信仰とは、自分と自分の周りの人が救われれば、それで終わりだというものではないことが分かります。もちろん私たちは、親しい人たちの救い、その人たちが慰められることを願っています。けれどもパウロは、自分の知り得る狭い範囲の人たちだけの救いではなく、「あらゆる苦難の中にある人々の救い、慰め」を祈り、そして「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる、あなたがたコリント教会の人たちは」と語っています。「救いをいただき、本当に感謝である。けれどもそれで終わりではない。あらゆる苦しみを経験する多くの人たちを慰める、そういう務めも授かっている。救われたのは自分のためだけではなく、他の人たちのためでもある。周囲の人、また遠くの人たちを力づけ、慰め、励ます務めを、私たちは与えられているのだ」とパウロは語ります。コリント教会はもちろんですが、時代を超えて、空間を超えて、今この時、この手紙を聞いている私たちにも託されている務め、それはとても大きなものであることを教えられます。
 自分の幸せを求め、自分のために信仰するというあり方もありますが、それとは随分かけ離れたものだと思います。私たちは、キリストの十字架による罪の赦しを受けて、救われて感謝して、さらに、苦しみの中にいる人たちを慰める、慰め手として立たされています。

 けれども、そういうことはどうしたら可能になるのでしょうか。私たちにはそういう力がないようにも思える中で、どうしたら苦しむ他の人たちを慰めることができるでしょうか。
 ここでパウロは、「それは不可能ではない。あなた方にはできる」と確信し語っているのですが、その理由が5節に語られています。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」。「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。何故ならば、キリストの苦しみが満ちあふれている。キリストの慰めも満ち溢れているからだ」と言っています。一体「キリストの苦しみが満ちあふれる」とは、どういうことでしょうか。泉から絶え間なく水があふれ出るように、キリストの十字架の苦しみが私たちの内に満ちている。同じように、与えられた慰めもまた、キリストのゆえに私たちの内に満ちている。「キリストの十字架の犠牲によって与えられた救いの恵み、主イエスによって罪赦され救われた、そのことが私たちの内に満ちているので、それによって慰めも、また溢れるばかりに満ちている。そしてそれによって、他の人たちをも慰めることができる」、パウロはそのように言います。
 ある伝道者が、キリストの苦しみということについて、「主イエス・キリストの苦しみの土台には、罪人に対する燃えるような愛情がある」と語りました。イエス・キリストご自身は罪無きお方であるにも拘らず、十字架上で犠牲となってくださった。その出来事は、燃えるような愛無しには成し遂げられないものだと言うのです。そしてこの人は、イエス・キリストの苦しみ、そのお姿は、強烈な愛情を含んだ苦しみだと言いました。私たちは、イエス・キリストの燃えるような愛に満たされている。この愛に満たされ、この愛に勇気を与えられて、他の人たちを慰めることができる。キリストの苦しみが、キリストの燃えるような愛が私たちの内に満ちあふれているのだから、慰めも満ちあふれていて、その愛によって他の人たちを慰めることができるのだと、パウロは言いたいのだと思います。「キリストと共に生きる。キリストの苦しみが私たちのための苦しみであり、それによって私たちは誰も奪うことのできない慰めをいただいている。この確信をいただいて、私たちも他の人のために用いていただく者とされる、そうできる」とパウロは語っています。「信仰生活は、イエス・キリストとの交わりの中で持ち運ばれていく」ということが伝えられています。

 先週の水曜日からレント(受難節)に入りました。復活日、イースターに向かって、キリストの十字架の御苦しみを覚えて過ごしますが、キリストの使徒とされたパウロという人もまた、数々の苦しみを経験した人であったということを、私たちは聖書から知らされています。
 8節を見ますと、具体的に「アジア州で被った苦難」とありますが、恐らく、パウロがテモテと一緒にいた時に出会ったのであろう苦難について「ぜひ知っていてほしい」と語っています。今日の小アジアに当たるエフェソでの迫害の出来事について言っているのだろうと考えられています。使徒言行録19章にはそのことが語られていますし、またこの第二コリントには、パウロが、キリストを伝えれば伝えるだけ、苦しみを受け迫害され、数々の困難や悩みに陥っていたことが記されています。パウロはここでは、「耐えられないほどのひどい圧迫であり、生きる望みさえ失うほどだった」と語っています。9節には「死の宣告を受けた思い」、10節には「大きな死の危険」という言葉もあります。ですから、パウロという人は本当に苦しみの伝道者であったと、聖書から伝えられています。激しい、耐えられないほどの痛み、苦しみの中で、パウロは歩んできましたし、手紙を書いている時も、苦しみの生活と無縁の生活ではなかったと思います。

 苦しみを前にして、私たちは「言葉を失う」という経験をさせられます。そして、なるべく苦しみから逃れられるようにと祈ります。そういう時にはどうしても、「どうして苦しみが及ぶのか」と考え込んでしまうこともあります。けれどもパウロは、自分の苦しみの経験について「ぜひ知っておいてほしい」と言ってい」ますが、「なぜだろう」と考え込んでいる様子はありません。また同時に、苦しみから逃れようと奮闘している様子でもありません。むしろ、自分の経験した苦しみについて、明確に意味を見出す言葉を語っていきます。それは、自分が苦しんでいること、自分が悩んでいること、それは、コリント教会の人たちの益となる。自分が苦しむことは、教会の人たちの慰めになる、救いになるという言葉です。6節です。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。
 パウロは、自分たちが悩みや苦しみを経験するとき、それは自分たちだけが負わなければならない個人的なものではないのだと考えているようです。一般的には、苦しみは大変個人的なもの、その人だけが背負わなくてはならないものと考えられ、他の人はどこまでいっても関わることのできないものと考えられています。せいぜい、外側から応援することができるだけだと受け取られがちです。けれどもパウロは、それと反対のことを言っています。「私たちの悩み苦しみは、個人のことではない。私たちがキリストの苦しみに繋がっている。主がご存知でない苦しみ、試み、悩みはないはずである。私たちは、苦しみの中でなお、十字架の主と結び合わされ、主によって支えられる経験をするのだ。十字架の主は、私たちのために十字架を負われるのであり、私たちのために苦しんでおられるのであり、罪を赦し、新しい命をくださるのだから、私たちは、苦しみの最中にあって主から慰めと救いをいただいている。だから、私たちと同じ苦しみに、あなたたちも耐えることができる」。
 私たちの普段の生活で、苦しみに遭うことは、あり得ないこと、運が悪いこと、損をしたこと、気の毒なことと受け止めると思いますが、そういう中で、今日の聖書の言葉は、こうした考え方とは随分違っています。パウロは、苦しみ、悩みに満ちた伝道者の生活の中で、その苦しみの生活が、コリントの教会の人たちを慰め、救う。教会が苦しむ際には、慰めを与えると考えています。
 そして、私たちもそうであるかもしれません。苦しみに遭うことは決して嬉しいことではありませんが、しかしそれによって私たちは、十字架の主イエスに結び付けられるばかりか、他の苦しむ誰かを支え、励まし、慰める、そういう者とされる。聖書の語る福音の不思議さを思いますし、またその福音によって、私たちの心が温かくされているように思います。

 この手紙は、コリント教会に宛ててパウロが記した手紙ですが、そもそもこの手紙を書いたのには、教会の人たちがパウロに対して大変反発していたということがあります。教会の一部の人たちですが、パウロは偽物の使徒であって福音を語る資格がないと考えていました。その根拠は、パウロがあまりに激しい迫害の中に置かれていて、心も体も傷ついているというところにあったようです。
 実際、パウロという人は肉体が傷だらけだったのではないかと言われていますし、精神的にも本当に苦しいところを歩んでいたようです。多くの人たちからの反発、目に見える迫害、中傷にさらされて、弱さの中にあるパウロは、使徒としての権威に欠けているという反発があったのです。
 そうした無理解な人たちに対して、パウロは、時に激しい言葉を持って語っている場面もあるのですが、この7節では優しく語りかけています。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」。パウロは教会の人たちについて希望を持っています。主にあって苦しみ、主にあって慰めを共にする交わりを与えられている、揺るがぬ希望があると、教会の交わりを喜ばしいものと捉えています。「十字架の愛、復活の恵みを共に味わい、互いに赦された者、慰められた者として同じ祝福に与らせていただく」、そのような希望を、私たちもまた、いただいているように思います。

 パウロの苦しみが、8節9節にあるような生死をかけた苦しみ、痛みであったことを知ります時に、パウロはどのようにその苦しみを耐え、信仰生活を続けることができていたのだろうかと考えさせられます。パウロはここでは、自分の受けた苦しみを、教会の人たちに「ぜひ知っておいてほしい」と言いましたが、それは、「神の恵みを受けた信仰者が感謝を捧げ、教会から力を与えられて励まされるのだ」ということです。パウロはここで、自分の信仰生活には耐え難い苦しみがあり望みを失うような状況にあったけれども、「なおわたしは神に感謝を捧げて、忍んでいるのだ」と言いたいのだと思います。
先ほど言いましたように、「信仰生活に苦しみが伴う」ということは、すぐには受け入れ難いことかもしれません。私たちは、苦しみや悩みからの解放、解決、和らぎを求めているからです。けれども、キリストにある信仰生活は、罪との戦いという、私たちの誰もが逃れることのできない罪の問題を抜きにしては歩むことができないものです。キリストを信じるということは、イエス・キリストがとても良い方だと知るということよりは、それ以上に、「キリストがご自分を犠牲にして私たちの罪を背負い、十字架に死んでくださった、そこに込められた神の愛を信じる」ということです。そうであれば、私たちの信仰生活はいつも、キリストの苦しみと共にある信仰生活だということになると思います。死の宣告を受けたほどの激しい痛み、苦しみ、悩みの中で、パウロはだからこそ、すべての重荷を担ってくださった主キリストに、また、死者を復活させてくださる神に頼るようになりました。9節に「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とあります。
 報道番組などでアスリートや芸能人がインタビューに答えて、「自分を信じて頑張る」と言っていることがよく聞かれます。何か自分が力を出さなければならない場面に「自分を信じる」と、自分の可能性を信じるという意味であったり、自分が今まで努力してきた成果を受け止めて自分に自信を持つという意味合いで言っているのを聞いて、この言葉が非常に気になることがあります。自分以外のもの、他の人の存在や他の存在は信頼に値しないという裏のメッセージを受け取る場合もあります。言葉の通り、自分教というか、自分を信じ自分に信頼するという宗教的な意味合いはないかと、危険な香りを感じることがあります。
 パウロは、「自分ではなく、死者を復活させてくださる、キリストを復活させてくださった方、神を頼るのだ」と言います。それは、パウロが自分に失望しているからです。自分の力で自分は救えない、どうにもならないと知ったからです。死の力、罪の力の前に自分は無力であり、お手上げで、自分に期待できないと分かったからです。
 「まず自分自身に絶望することから始めよう。神に望みを抱くために、神に望みをいただいて生きるために」と呼びかける人がいます。私たちは、この呼びかけに応えて、自分自身に絶望するということができるでしょうか。また、死者を復活させてくださる神を頼りにするということができるでしょうか。もし、それを志すのだとすると、その私たちを神は裏切ることはないのだと、10節に続いていきます。「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。大変印象的な言葉です。「過去において、神さまは私たちを救ってくださった。そして今現在も救ってくださっている。未来においても必ず救ってくださるに違いない。私たちは神さまに希望をかけているのだ。これから先の未来に期待するのだ」と、繰り返し、自分にも教会の人たちにも確認するようにしながら、パウロは語っています。「コリント教会の人たち、あなたたちも私たちと共に神に期待しようではないか、神はキリストを十字架にかけ、罪を滅ぼし、復活させられたのだから、感謝をもって全てを神にかけようではないか。希望の根拠などどこにもないと言う人がいるかもしれない。望みは全て消え失せたと頑なに心を閉ざす人もいるかもしれない。けれども、キリストは復活させられたのだ」とパウロは呼びかけています。そして、私たちもこの呼びかけを聞いています。

 こういう信仰生活を語るときに、どうしても欠かすことのできないことが「祈りの生活」です。信仰生活は祈りの生活であるからです。今日の箇所の最後の11節には、祈りについても語られています。「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです」。「あなたがたはどうか、祈りで私たちを助けてほしい」と、パウロが教会の人たちに頼んでいます。そうすれば、「多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれる」、つまり多くの人が神に感謝の祈りを捧げるようになるからだというのです。まるで、一つの蝋燭が灯されて、それが次の人に渡されて、そこからまた一つ、また一つと光が広がっていくように、祈りが他の人の祈りへ、また次の祈りへと繋がり広がっていくような、そのような言葉です。
私たちもこのことは経験しているような気がします。祈られているということでどれほど励まされ、大きな力をいただいていることでしょうか。祈りが本当に大きな援助になるということを知っています。「祈ることしかできなくて」と言いますが、祈りは本当に大きな助けです。祈りは個人的なもの、私だけのものと考えることもありますが、パウロが考えている祈りは、限りなく広い範囲にまで及んでいます。世界にまで広がると言って良いと思います。パウロのために祈る教会の祈りが二重、三重に増し加えられて、どこまでも広がっていきます。
 私たちは、祈りにおいて神と繋がり、またお互い同士が繋がり、さらには知らない人や世界中のすべての人と繋がり、本当に大きな祈りの輪に包まれて歩む、そういう信仰生活を与えられています。

 教会の交わりは、祈り、祈られる、主にある交わりです。教会は長い歴史の中で、祈りの歴史を持って歩んできました。そしてこれからもそうです。私たちは、この祈りの歴史によって支えられ包まれ、この歴史を受け継いでいくという務めもまた与えられています。
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