聖書のみことば
2019年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月17日主日礼拝音声

 キリストの捕縛
2019年3月第3主日礼拝 3月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章47〜56節

<47節>イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 <48節>イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 <49節>ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。<50節>イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。<51節>そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。<52節>そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。<53節>わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。<54節>しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」<55節>またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。<56節>このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 ただいま、マタイによる福音書第26章の47節から56節までをご一緒にお聞きしました。47節に「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」とあります。主イエスがイスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられていくという出来事がここで起って行きます。
 その時、「主イエスは何事かを弟子たちに向かって話しておられた」と語られています。何を話しておられたのか、直前の46節47節には「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た』」とあります。裏切られて逮捕された時、主イエスは捕らえようとする人たちから逃げようとはなさいませんでした。むしろ、主イエスの方からイスカリオテのユダの方に向かって歩んで行かれました。「立て、行こう」という言葉がそれをよく表しています。イスカリオテのユダは、主イエスを欺いたつもりで、捕り方の人々をゲツセマネの園へ案内しました。ところが主イエスは、ユダの裏切り、その行いを最初から全てご存知でした。主イエスはユダの裏切りを知っておられただけではなく、十二弟子たち、さらに踏み込んで言うなら、主イエスに従おうとする全ての弟子たちの心の弱さ、脆さを、よくご存知でした。
 今日のこの箇所を弟子たちの姿に注目して読んでみますと、とても興味深いことが述べられていることに気づかされます。

 まず幕開けでは、イスカリオテのユダが主イエスを裏切ろうとして近づいて来ています。ユダの裏切りは覆すことのできない事実ですが、47節でユダがどう紹介されているかというと「十二人の一人であるユダ」と紹介されています。「十二人の一人であるユダ」とありますけれども、12人が皆で結託して主イエスを裏切ったわけではありません。ユダ以外の11人の弟子たちにとっては、ここで起こる裏切りと主イエスの逮捕は、全くの想定外だったことでしょう。敵の手に主イエスを売り渡す、そういう仕方で裏切ったのは、ユダだけです。
 けれども他の11人の弟子たちも、ユダのような仕方ではありませんが、結局主イエスを見捨てて逃げ去るという仕方で主イエスを裏切るのです。そのことが、今日聞いた箇所の最後、56節に語られています。「『このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである』このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」ということが、この箇所の結びの言葉です。つまり、今日私たちが聞いている箇所は、十二弟子の一人であるユダの裏切りによって幕を開け、最後には、残った十一人の弟子たちの裏切りによって幕を閉じていくのです。このような語り方で、主イエスに従おうとしていた弟子たちのうち、誰一人として主イエスを裏切らなかった者はいなかったということが語られています。「弟子たちは皆」と言われている通りです。マタイによる福音書はまことに冷静に冷徹に、全員が主イエスを欺き裏切るということを書き記します。
 主イエスが十字架への道を辿って行こうとなさるその時に、弟子といえども人間は、とても主イエスに付いて行くことはできないのです。一人一人姿形は違いますが、誰一人の例外もなく、主イエスに従いきれず主を裏切る、主を捨てて逃げる、そういう弱さを持っていることを、今日の記事ははっきりと書き記しているのです。

 もっとも、結果として主イエスを裏切る弟子たちが最初から自分たちの思いとして裏切ろうとしていたのではありません。この出来事が起こる僅か数時間前、主イエスが弟子たちと最後の過越の食卓を共にしておられたとき、主イエスは、26章21節「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」、また31節「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」と言われました。その時に弟子たちが何と返事したかというと、35節「ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」と、ペトロだけではなく、弟子たちは皆、その思いからすれば「まさかわたしが主イエスを裏切るなんて、大それたことをするはずがない」と思っているのです。心の上ではそう思っているのですが、しかし実際にはどうだったかと言うと、聖書に記されている通り、弟子たちは主イエスを捨て去り、置き去りにして、一人で死なせてしまうのです。

 弟子たちは、自分では裏切るはずはないと思っていますが、実際には裏切ってしまいます。ところがこのことは、イスカリオテのユダにとっても似たようなことが起こっています。私たちは、イスカリオテのユダが主イエスを裏切った特別の弟子だと思っていますけれども、イスカリオテのユダ自身は、まさか自分の行いによって主イエスが十字架に架けられ命を落とすなどとは思ってもいなかったようです。
 ですから、マタイによる福音書の先を読みますと、ユダは、この後、事がとんとん拍子に運んで主イエスが十字架に架けられ処刑されてしまいそうだと気付いた時に酷く狼狽して、祭司長たちや長老たちのところへ出向き、「主イエスを裏切る報酬としてもらった銀貨30枚を返すので主イエスを釈放してほしい」と申し出ています。ユダは銀貨30枚を得ようとしましたが、しかしまさかそのことで主イエスが殺されることになるとは思っていませんでした。そういう意味でユダは、自分がどんなに酷いことをしているかを思わないまま主イエスを裏切っています。つまりここに語られていることは、12弟子の一人のユダ、それと残りの11弟子も、自分が何をやっているのか分かっていないということです。自分が行なっていることがどんなに重大なことを引き起こすのか、どんなに悲惨な結果に繋がるのか、どんなに罪深い行いをしているかということを弁えないまま、ユダも他の11人の弟子も主イエスを欺き裏切り、十字架へと追いやり一人で死なせてしまうのです。主イエスに対して自分がどうであるかを知らないまま、実際には酷いことをしている、主イエスに従う者たちは皆そうだったのだと、今日の箇所には語られています。

 こういう弟子たちの無理解はこの箇所の最初と最後に出てくるだけではありません。真ん中の51節にも、起こっている事柄を弁えずに行動する惨めな人物が登場しています。51節「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」。「イエスと一緒にいた者の一人」というのは、恐らく弟子の一人に違いないのですが、主イエスが捕方に囲まれているこの場面でも、自分がまだ何かしてあげられると思い違えています。剣を抜いたとありますが、果たしてこの剣一本で捕方全員を切り捨てることができるのでしょうか。47節には「祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」とありますから、剣一本で何ができるはずもありません。突然の成り行きに逆上して剣を抜いてしまったのでしょうか。この弟子の行動は、主イエスのお考えとは明らかに違うことです。ですから主イエスは言われました。52〜54節「そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう』」。
 剣を抜いた弟子、ヨハネによる福音書ではペトロだったと記されていますが、誰であれ弟子たちは主イエスに、「お前はこの状況を完全に誤解している」とたしなめられています。どう誤解しているかというと、この弟子は、この時主イエスが完全に行き詰まってしまったと思っているのです。捕えられ手も足も出ない、だから自分が助けようと考えました。けれども主イエスは「わたしは決して弱者ではないよ」と言われました。主イエスが欺かれ捕えられていくのは無力だからではなく、主イエスは全てをご存知で、その気になれば逃げることもお出来になるのです。けれども主イエスは、ご自身からこの道を選んで進んでおられるのです。「立て、行こう」と、イスカリオテのユダがやって来た時、そうおっしゃいました。主イエスの逮捕は、主イエスが逃げ回った挙句にとうとう捕えられるということではありません。自分からユダの前に進み出て、裏切りと分かっていてユダの接吻を受け止め、そして捕らわれて行くのです。どうしてでしょうか。主イエスがこうして捕えられていく先に実現するべき事柄があると、主イエスが思っておられるからです。主イエスが何を実現しようとしておられるのか。それは、神のご計画が実現されるということです。
 主イエスは、弟子の一人に守ってもらわなくても、その気になれば遥かに強大な軍団を呼び寄せることがお出来になるとおっしゃっています。しかしそうはなさいません。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。主イエスが身を守るためにここで助けを呼んでしまったら、「必ずこうなる」と言われていることが実現しなくなる、だから助けを呼ばないとおっしゃるのです。けれども、「必ずこうなる」と主イエスがおっしゃる、それが弟子たちには不吉に思える、ですから剣を抜いて、何とか阻止しようとしたのです。しかし、阻止できないと分かると、皆そこから逃げ去ってしまいました。

 「必ずこうなる」、しかしそれは本当にそうなのでしょうか。主イエスは必ず死ななくてはならないのでしょうか。主イエスは神の独り子です。もしただ単に「神の独り子である」というだけならば、クリスマスの晩に生まれ、この地上で一人の人間として生きる必要はなかったはずです。そしてまた、十字架への道をたどる必要もなかったはずです。主イエスご自身は、この世にお生まれにならなくても、人にならなくても、十字架にかからなくても、神の独り子であるのです。けれども主イエスは、「神の独り子である」ということに拘るのではなく、「人となり十字架に架かる」という道をお選びなりました。私たちすべての人間と同じ「人」となることを望まれ、そして「人として、人と同列な者」として死ぬことを望まれました。どうしてでしょうか。それは主イエスが神の独り子であって、父なる神の御心をよくご存知だからです。神の御心を知っておられるが故に、十字架への道のりを敢えてお選びになったのです。神がこの地上を生きる一人一人の人間をどれほど深く強く愛しておられるか、神の愛がどれほど大きいか、そのことを知っておられて、その神の愛が主イエスを十字架へと駆り立てていくのです。
 神の御前で、自分がどんなに惨めな存在であるかを、人は知りません。自分は裏切ろうなどとは思っていない、けれども実際には裏切ってしまう。自分ではもはや大事なものを守ることも出来ないのに、まだ自分にはできると思って剣を抜いてしまう。それが人間の姿です。私たちは自分で何かを守ろうとして「剣を抜く」というようなことがあります。この地上の生活の中で大切なものを守るために自分の力を行使しようとする、そういうことは、誰にでもあるのではないでしょうか。そしてそれはどういう結果をもたらすか。お互いがお互いを傷つけあい、辛くて生きていけないと思うほど惨めになるのです。ところがそうでありながら、私たちは、自分の惨めさになかなか気がつかない。自分が酷い目に遭わされて辛い、大変な人生を生きているということは分かるのですが、しかしそれがどこから生まれているのか、それは分からないのです。人が苦しむならば、苦しめているのも人間です。そしてそれは、特別に悪い人間がいて周りを苦しめているのではないのです。私たちは皆、お互いにお互いを傷つけ、お互いを苦しめ、辛さの中に追いやっていく、そういう生活を過ごしているのです。それなのに自分はまだ何かを守れると思っている、そういう人間を神が真に真剣に愛し、それ故に御心を痛めておられるのです。惨めな中に生きている、そういう人間たちが何とかして真実に生きることができるように、神から愛され大事にされている存在として、「生きていってよいのだ」ということを知ることができるようにしようとしてくださる、それが主イエスにとっての「必ずこうなる」ということなのです。
 主イエスは、弟子たちをはじめ全ての人間が、厳しい囚われの惨めさの中にあることをご覧になります。私たちが日々に様々な事柄に死ぬほどに脅かされている様子をご覧になります。そうだからこそ主イエスは、そういう人間一人一人を救おうとして、急いで御業へと向かって行かれるのです。私たちの困難な事情を主イエスはよくご存知で、御心を向けてくださっています。そして何をなさるのか。人間の困難な険しい事情を全てご自身の側に引き取られるのです。人間の悲惨な状況というものを全てご自分のものとなさいます。そのために「必ずこうなる、こうならなければならない」と主イエスはおっしゃるのです。そうして主イエスは、私たち全ての人間の身代わりとなってご自身を差し出されました。それが、十字架に向かって行かれる主イエスの道です。

 今私たちは、レント(受難節)を過ごしています。多くのキリスト者は、今が受難節だと思う時に、どこに心を向けるでしょうか。「主イエスが本当に辛く厳しい十字架に向かって歩まれた。だから私たちは主イエスに同情しなくてはならないのではないか。本当に気の毒なことをしてしまった。主イエスに申し訳ないと思って過ごさなければならないのではないか」と思うことでしょう。けれども、本当にそうなのでしょうか。たとえ私たちが主イエスに同情したとして、主イエスに何かをして差し上げることができるのでしょうか。
 実は、私たちはこの受難節の時に、主イエスの十字架を思うその思い方で既に剣を抜いた弟子と同じようなあり方をしているようなところがあるのです。今日の箇所で、主イエス自身は、暗い運命に流されるようにして死に追い詰められていくのではありません。どうしようもなく仕方なく死んで行かれるのではありません。そうではなく、主イエスはまるで、敵を見つけ出し、それを討ち滅ぼす兵士のように十字架の死に向かって進んで行かれます。そして主イエスは実際に、「死」を滅ぼされるのです。十字架の御業によってです。ご自身が酷く苦しめられ、敵によって倒され命を奪われるのですが、しかしまさにそのことによって主イエスは、敵を討ち滅ぼされるのです。主イエスは捕らえられ、そして鞭打たれ縛られ、十字架に釘付けにされ、死んで行かれます。けれども、その主イエスの御受難によって初めて、主イエスの救い主としての行動が明らかになっていくのです。
 主イエスは、この世の人間の惨めさをご覧になって、そこで傷つき倒れる人の姿をご覧になって、単にそれに同情なさるのではありません。身をもってそこに飛び込まれ、ご自身の側に全ての痛みを引き受けて、そして罪の険しさを滅ぼされます。主イエスが死と戦うべく向かっておられるお方だということは、ここで主イエスが語っておられる言葉を聞く時によく分かります。イスカリオテのユダに対する主イエスの言葉がけ、あるいは主イエスを剣で脅し縄で縛ろうとやって来た捕方たちに対する語りかけから、主イエスがどのようなお方かを知ることができます。
 イスカリオテのユダに対してどうであったか。よく知られているように、ユダは偽りの接吻をもって主イエスを捕らえようとやって来ました。そこで主イエスは何と言っておられるでしょうか。50節「イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた」とあります。主イエスは、ご自身を裏切ろうとしているユダのことを「友よ」と呼んでいます。主イエスは本当にユダを「友」だと言い、ユダの友になろうとしておられるのです。そして「しようとしていることをするがよい」と言われました。ユダが何をしようとしているのか、主イエスはご存知なのです。「偽りの接吻などしなくても、お前のしようとしていることは分かっている」とおっしゃっているかのようです。「あなたは本当に惨めで悲惨なことをしようとしている。わたしは、そのあなたを受け取って、わたしのものとするから、お前は思う通りすれば良い」とおっしゃるのです。
 捕方たちに対しては、55節「またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった』」と言われました。「あなたがたの目の前で、わたしはいつでも座っていた。どこにも逃げないし歯向いもしない。剣や棒を持ってくる必要はないのに」とおっしゃるのです。主イエスはご自身を守るのではなく、却って敵方に自分を捕らえさせ、そしてご自身が苦難を受ける側に回られるのです。そのようにして十字架の上で亡くなられるのです。
 「主イエスの死」、それはただ虚しく、死にたくないのに殺されて死んだということではありません。ご自身の血が流れることによって、この世界が何とか神と和らぐようにしようとしておられるのです。ご自身が死ぬことを通して、全ての人間の険しさを神が受け止め、受け取ってくださろうとしている。そして、そういう仕方で本当に、全てのものが一つに交わりを回復されるようにしようとなさっているのです。
 私たちがどうして互い同士を傷つけてしまうのか、守ろうとしているのに破壊してしまうのか、それは互いが自分を守ろうとして衝突するからです。険しい思いになり、自分を守ろうとして周りを攻撃してしまうことは誰にでもあるのですが、その時に、相手が「分かった。それでいいよ」と言って受け止めたら、そこではもはや対立や破れは起こらなくなります。人間が神に背いて自分中心の思いで生きている、そういう悲惨さ、罪があり、皆それを持っているのですが、神は何とかそれを乗り越えさせてやろうとしてくださるのです。どのようにして乗り越えるのか。「あなたのその険しさ、あなたの棘を全てわたしが受け止めるから、だからあなたは、それを受け止めてもらい、受け止めてもらった者としてもう一度そこから生きていきなさい」とおっしゃるのです。

 人間の悲惨さ惨めさ、嘆き悲しみ痛みを、神が一度ご自身の側に引き取ってくださる。そしてそこでもう一度生きることができるように、「新しくそこから生きて良い」とおっしゃってくださるのです。互いに傷つけあい、自分で自分を守らなければならないと思って生きてきた人間が、もう一度交わりを修復された形で「あなたは生きて良いのだ」と呼びかけられる、それが主イエスの十字架です。主イエスが進んで、イスカリオテのユダにご自身の身を委ね、捕方の手に委ね、十字架に向かって行かれる。そのところで真実に神の恵みの御業が果たされていくのです。そのようにして、前代未聞の救いの御業が行われます。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、主イエスがかつて弟子たちに教えられたことが、まさにこの地上に実現するのです。

 ユダの裏切り、弟子たちの裏切り、さらに弟子たちの無理解、そういう人間の諸々の険しさ、惨めさの中にあって、主イエスはここでただ一人、神の愛をもたらす兵士として行動なさるのです。神とこの世界をもう一度結びつける、そして神に受け止められている一人一人としてもう一度人間が落ち着きを持って生き始めることができる、そういう道を開く働きを、主イエスはここで心を込めてなさっておられるのです。
 こういう主イエスの執り成しがあるからこそ、私たちは、今日を生きることができるようにされています。どんなに辛い時も、どんなに暗くどんなに惨めな道を辿らされる時にも、主イエス・キリストによってわたしは確かに受け止められ、神と固く結ばれているのだということを覚えたいのです。

 もちろん、主イエスが十字架に架かったからと言って、人間が急に天使になるわけではありません。最も近しい者に最も心ないことを言ってしまったりして、私たちの交わりが悲惨に破れてしまうということがあり得流のです。けれども主イエスは、それを全てご存知で「友よ、しようとしていることをするが良い。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はないのだ。あなたは今、この神の愛に支えられ満たされて生きる者とされているのだよ」と語りかけてくださるのです。
 私たちは、そういう主イエスの御業の上に立てられて、今日を生かされていることを感謝したいと思います。そしてここからもう一度、私たちがそれぞれに自分の身をもって果たすべき務め、自分に行える自分の成すべき役割を覚えて、一つ一つ与えられている務めに打ち込む者とされたいと願います。

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