聖書のみことば
2018年9月
  9月9日 9月16日 9月23日 9月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月16日主日礼拝音声

 メシアとダビデの子
2018年9月第3主日礼拝 9月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第22章41〜46節

22章<41節>ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。<42節>「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、<43節>イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。<44節>『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<45節>このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」<46節>これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

 ただ今、マタイによる福音書22章41節から46節までをご一緒にお聞きしました。主イエスがファリサイ派の人たちに向かって、一つの問いかけをしておられます。41節と42節前半に「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか』」とあります。
 「あなたたちはメシアのことをどう思うか」。「メシア」というのは、「救い主」という意味です。つまり「救い主のことを、あなたはどうイメージしているのか」と尋ねているのです。ここで尋ねられているのはファリサイ派の人たちですが、彼らは、この直前の箇所の34節から40節で、主イエスを試そうとしていました。35節に「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」とあります。また、少し前の22章15節では「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」とあります。ファリサイ派の人たちというのは、主イエスを試そうとしたり、罠にかけようとしていた人たちです。つまり、主イエスに対して素直な気持ちで接していた人たちではありません。むしろ、密かに敵意や悪意を持っている、そういう人たちに向かって、主イエスはここで話しかけておられます。
 彼らは、主イエスの言葉じりを捕らえようとしているのですから、普通に考えれば、そういう相手に対しては、言質を取られないように気をつけるのが当たり前だと思います。揚げ足取りをしようとしている人には、なるべく話しかけないようにする、距離を置いた方がよいのではないかと、普通は考えるでしょう。
 ところが、主イエスはここで、そういう相手に向かってご自分から話しかけておられます。主イエスは、不用意に話しかけたのではありません。ファリサイ派の考えをご存知でありながら、敢えて話しかけたのは、主イエスがここで話そうとされたことが、主イエスにとって決定的に重大な事柄であるからです。「あなたはメシアのことをどう思っているのか。誰の子だと思っているのか」と、主イエスは尋ねておられます。聞いている人たちが、悪意と敵意を隠し持っている、そのことを承知の上で、です。しかも主イエスは、あと二日すると、そういう人たちの陰謀に乗せられるような形で、主イエス自身の弟子の中から主イエスを裏切る人が出てくるということもご存知です。そしてまた、その裏切りによってご自身が捕らわれの身となり、最初から結論ありきの不当な裁判で有罪を宣告されて十字架に架けられ殺されてしまう、そこまで主イエスはご存知です。その上で敢えて、ファリサイ派の人たちに語りかけておられるのは、この問いとそれに対する答えが、今から十字架に向かって行かれる主イエスにとって極めて重大だからに他なりません。
 主イエスは、今ここにいる人たちによって陰謀にかけられ殺されて行きますが、しかし、その出来事が、「救い主・メシアとして歩んで行く、主イエスの御業」であることをはっきりさせるために、主イエスはここで敢えてファリサイ派の人たちに尋ねておられるのです。「メシア=救い主は、一体誰の子か」。

 尋ねられたファリサイ派の人たちはこの時、当時のユダヤ人たちの間でごく一般的に言われていた、そういう返事をしました。ありきたりの答えです。42節後半には、彼らが、「ダビデの子です」と答えたとあります。
 「どういう人物が私たちの救い主か」ということについて、当時のユダヤ人の間では、一つのイメージがありました。それは、今から来る救い主は、1000年も前だが、イスラエルとユダの国の全盛時代の王だった『ダビデ』という人物に重ねて考える、それが当時の多くの人が思っていたことです。「ダビデ王がイスラエルを治めていた時代には、国の中が十分に治っていて、そしてその国は、東西南北のどこにでも伸びていくことができた。ダビデ王国は、当時のパレスチナ地方の盟主のような国だった。今はそうではないが、もう一度救い主が現れるときには、かつての栄光を取り戻すことができるだろう」と考えていました。「今は周囲の異民族に虐げられ、ローマ帝国の属国のようになっているけれども、支配の軛から解き放ってくれる、そういう指導者がいずれ、あの優れた指導者ダビデの血筋から現れるに違いない。その人こそ自分たちのメシアだ」と考えていたのです。
 ですから、ここでのファリサイ派の人たちの答えは、当時のユダヤ人たちの一般的なメシア理解を映し出したものでした。

 けれども、この答えがファリサイ派らしい答えなのかというと、疑問が残ります。ファリサイ派の人たちは旧約聖書を隅々まで読んでいて、そこに語られていることを通して神の御心を考えようとしていた人たちです。「ファリサイ」と言うのは、「分離する、分け隔てする」という意味で、「自分たちは聖書に書かれていることを全部聞き取って行っているのだから、一般のユダヤ人たちとは違うのだ」というエリート意識を持っていた人たちです。ですから、ファリサイ派であれば、聖書に書かれていることを全部理解していて、先週語りましたが613もの掟を実行しているのですから、そのように聖書に精通している人として答えるべきだと思います。
 ところが、彼らの答えは「メシアはダビデの子だ」というありきたりの答えでした。それで主イエスは、彼らに対して「聖書には違うことが書いてあるのではないか?」とお尋ねになりました。43節から45節です。「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで』と」。このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか』」。主イエスは、「あなたがたファリサイ派は、より丹念に聖書を読んでいるはずだろう。それならば、聖書の詩編110編1節の言葉もよく承知しているはずだ。そこでは、他ならないダビデが『主(=神)は、わたしの主(=メシア)にお告げになった』と言っているではないか。つまり、ダビデがメシアのことを『わたしの主』と言っているのだから、そのメシアがダビデの子孫であるはずはないだろう」とおっしゃっています。主イエスは、ファリサイ派以上にファリサイ派的なことをおっしゃっているのです。
 このように主イエスが、日頃から聖書に対して忠実に生きていることを誇りにしているファリサイ派の人たちに対して、ファリサイ派以上に聖書的に答えられましたので、ファリサイ派の人たちは、それ以上何も言えなくなってしまいました。それまで、何とか揚げ足を取ってやろう、言葉の罠にかけてやろうと主イエスへの悪意や敵意を隠し持っていた人たちでしたが、主イエスにそのようにやり込められてしまい、一言も発せず黙り込む以外ありませんでした。46節に「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」とあります。

 このように、この箇所は、主イエスがファリサイ派の人たちに「本当に聖書の隅々まで読んで、そして忠実でありなさい」と言って黙らせてしまったという出来事を伝えています。私たちキリスト者にとっては、ある意味痛快な気持ちがします。けれども、私たちはそのように読んで終わってしまってよいのだろうかと思います。主イエスは、ファリサイ派の人たちをこのようにやりこめるために、この質問をなさったのでしょうか。恐らくそうではありません。どうしてこの時、このような質問をなさったのか。それは、もう後数日で十字架が迫っている、十字架寸前のこの時に、「本当の救い主とはどういうお方なのか」をはっきりさせようとなさった、そういう意図をお持ちでした。
 「救い主はどういう人か」と問われて、ファリサイ派の人たちは「ダビデの子」つまり「ダビデのような人。優れた知恵と力を持って、政治力、経済力、軍事力などの力を全て動員して、その力を上手く操りながら、自分たちを団結させてくれて、ローマ帝国の支配から解き放ってくれる、そして社会も経済もうまく行くように導いてくれる人。それが私たちの救い主なのだ」と答えました。自分たちにとって望ましい救い主の、歴史上に現れた一つのお手本のように考えているのです。ダビデというのは理想的な指導者に当てはまる人物なので、自分たちの救い主はダビデの子孫から生まれるに違いないと言っているのです。ですから、「ダビデの子」だという答えは、ただ単に血筋だけのことを言っているのではなく、「ダビデが王としてイスラエルを治めたように、立派な政治をしてくれる人こそが自分たちの本当の救い主なのだ」と、ファリサイ派の人たちは言っているのです。自分たちを理想的に導いてくれる指導者の一つの像のような思いが込められています。
 ところが主イエスは、ファリサイ派の人たちが自分たちにとって都合の良い理想を言って、メシアのあるべき姿だと思っていることに対して、「本当にそうなのか?」と問いかけておられるのです。多くの人たちは、自分の生活がうまく行くことを願います。理想的な指導者の元で社会や経済が順調で、自分たちの生活が立ちゆくようになって喜んでいられるならば、そういう指導者こそ自分たちの救い主なのだと思っています。しかし、主イエスは「そういうダビデだって、自分より上の救い主を見ているではないか」と言っています。

 実は、主イエスのこの問いは、ファリサイ派の人たちが聞いた問いと、もう一つ別の意味を持っておられるような問いです。二つの事柄が重なっているようなことを問うておられるのです。ファリサイ派の人たちは、理想的な救い主は誰だろうかと聞いて、一般的にメシアとはこういう人だと思って返事をしました。ところが主イエスは、ご自分が救い主、メシアとしてこれから十字架に架かろうとしておられるのですから、「あなたがたはメシアをどう思うか、誰の子か」と尋ねているのは、主イエスはご自分のことを尋ねておられる、そういう問いでもあるのです。主イエスご自身は、ご自分がメシアであるということを伏せておきながら、「あなたはメシアについてどう考えているのか」と、メシア本人が聞いている、そういう問いです。
 そういう主イエスの問いに対して、ここではファリサイ派の人たちが返事をしていますが、少し前には、主イエスの弟子たちが、ファリサイ派の人たちとは別の返事をしている出来事がありました。フィリポカイサリアに向かって行く道すがら、主イエスが弟子たちに尋ねられた問いと、弟子たちの答えです。主イエスが弟子たちに「町の人たちは、わたしのことを何と言っているか」と尋ねたところ、「洗礼者ヨハネとかエリヤとか預言者だと言っています」と弟子たちは答えました。そこで主イエスが弟子たちに「では、あなたたちは、このわたしを誰だと思うか」と尋ねたところ、弟子たちを代表してペトロが「あなたこそ生ける神の子、メシアです」と答えました。主イエスの弟子たちは、メシアとは誰かという問いに対して「あなたです」と、主イエスを指し示しました。「イエスさま、あなたこそメシア、生ける神さまの独り子です」と答えたのです。
 主イエスは今日のところで、十字架に向かって行く直前ですが、弟子たちがそういう返事をしたことを心に留めておられます。その上で、別の人たち、ファリサイ派の人たちに、「あなたに救いを与えてくれるのは何者なのか」と尋ねておられるのです。ファリサイ派の人たちは「それはダビデの子です。自分たちを治めてくれる王です」と答えました。確かに優れた知恵や力を用いて、地上の生活に配慮してくれる、そして、自分たちの生活を良い方向に導いてくれる、そういう指導者が現れるのであれば、それは有難いことではあります。けれども、それが聖書の中に語られているメシアか、神の民イスラエルの民が本当に待ち望むべき指導者の姿なのだろうか、と主イエスはお尋ねになるのです。
 本当の救い主は、人間同士の間柄を上手く調整して、人間社会の状況がうまく立ちゆくように導いていくというだけの人ではありません。主イエスは、人間同士の間柄を調整するということではなく、それ以上の方、「人と神との間を結び合せる」方が本当のメシアだと考えておられるのです。「人間がたとえこの地上で様々な困難を抱えているとしても、それでも『あなたはわたしの民なのだ。わたしがあなたに今日の命を与えて、生きて良い』と神が言って下さっていることを人々に分からせ、神との隔ての壁を打ち砕いて、神との交わりに生きるように導いてくれる、それが本当のメシアだ」とおっしゃっているのです。
 ですから、「あなたはメシアを誰だと思うのか」と問うときに、主イエスが期待しておられる答えは何か。それは「神さまの子です」という答えです。人間同士の間柄をうまく調整して物事を上手く進ませていくのが救い主だと、大方の人は言うかもしれません。けれども、「本当の救い主というのは、人間が地上でいろいろな問題を抱えて悩み、困難に取り巻かれているとしても、なおそこで生きて良いのだと告げてくださる方、『神』へと導く導き手である。それこそがメシアである」、そして主イエスは聖書の光に照らして、「そういう救い主が来ているのだ」ということを伝えようとしておられるのです。

 ここでファリサイ派の人たちは、主イエスに言い負かされ、ひと言も言い返すことができませんでしたが、それでファリサイ派の人たちが主イエスの言葉を聞いて驚いて、心酔したかというと、そんなことはありませんでした。主イエスへの敵意や悪意が消えて、今からは主イエスに信頼する者になったかというと、そんなことはありませんでした。言い負かされて、ファリサイ派の人たちの思いはいよいよ陰険になっていきます。いずれ自分たちの思いのようにすると思っている、そしてそれは数日後、十字架という形をとって表に現れることになります。
 しかしそれならば、この日、主イエスがお尋ねになった「あなたたちはメシアをどう思うか、誰の子だと思うか」という問いは、虚しい問いになったのでしょうか。ファリサイ派の人たちとはすれ違ったままで、結局主イエスは十字架に架けられてしまうのだから、この問いは無駄だったということになるのでしょうか。そんなことはなかっただろうと思います。確かにこの時、ファリサイ派の人たちの心は動きませんでした。しかしそうであっても、この日、主イエスがこういう問いかけをファリサイ派の人たちにして、それに答えられた、そのやりとりを、主イエスの弟子たちは聞いていました。そして、おそらく弟子たちには、ここで主イエスがおっしゃっていることが分かったに違いありません。「あなたは、あなたの救いというものをどう考えているのか。あなたの救いは誰によってもたらされるのか」という問いは、ファリサイ派の人たちだけに向けられた問いではないのです。その場に共に居た弟子たちにも届いていた、そういう問いです。

 主イエスというお方は、救い主、メシアですが、しかしそれは私たちにとっては、いつでも自分たちに都合よく働いてくれる指導者という方ではないだろうと思います。私たちが「どうしたら良いでしょうか」と迷った時、すぐに「こうしなさい、ああしなさい」と背中を押してくれて、「はい、そうします」と言って、私たちが便利に使っていくような方ではないのです。むしろ、それ以上のお方です。
 主イエスというお方によって、私たちは、神との交わりを与えられて、わたしたち自身の方が神の光に照らされた中で、自分自身を示されるようになっていくのです。主イエスは、本当の救い主がそういうものだと明らかにするために、この日、ファリサイ派の人たちにお尋ねになりました。「あなたがたの考える救い主とはどういうものなのか。あなたがたにとって救いとはどういうものなのか」とお尋ねになりました。ファリサイ派の人たちは、当時の一般的な考え方をそのまま語りました。「わたしたちの思いを実現させてくれるようなそういう指導者が現れること、それがわたしたちにとっての救いです」と、ファリサイ派の人たちは答えました。けれども、主イエスは「本当にそうなのか」とおっしゃいました。「あなたは、思った通り、願った通りに人生を生きていきたい。それを支えサポートしてくれるように様々な働きかけをしてくれる者が、あなたにとって都合の良い指導者であることは分かるけれど、しかしそれが本当にあなたにとっての救いなのか」とお尋ねになるのです。「あなたは自分の思い通り、願い通りに生きて行って、そしてその先に、あなたはそれで良い人生だったと言えるのか。自分の思い通りに生きたいと願いながら、しかしなかなかうまく行かなくて、苦しかったり辛かったりすることがあるかもしれないけれど、そういうあなたを上から照らし出してくださっている神さまがいらっしゃるのではないか。その神さまとあなたとの間柄を間違いなく繋いでくださる方、それが本当の救い主ではないか」。自分にとって都合の良い救い主を勝手に思い描くのではなく、聖書の言葉に照らして考えなさいと、主イエスはファリサイ派の人たちに向かっておっしゃったのです。「聖書には、あなたを照らし導いてくださる方、あなたがどんなところを歩んでいても、決して知らないとは仰らないで、いつも持ち運んでくださるお方がおられるではないか。その神さまとの隔ての壁を打ち砕いてくださるお方こそ、救い主であるはずだ」と、主イエスはファリサイ派の人たちに伝えられました。

 そして、私たちにも同じ言葉が、今日、語りかけられているのだと思います。
 私たちも、それぞれに与えられている今日の生活の中で、自分の願った通りに歩んでいきたいという願いを一人一人が持っていると思います。それはそれで構わないのですが、しかし、自分の思い通りになる、願った通りに生きることが最もよいことなのかという問いを、私たちは持っていてよいだろうと思います。
 私たちが、例え思うようにならない事柄を抱えるとしても、不自由さや辛さを抱えることがあるとしても、その時、そのあなたを照らして、「それでもあなたは生きて良いのだ」と言って下さっている、そういうお方が私たちの上におられるのです。絶えず私たちに、御言葉を持って語りかけてくださる方、私たちは、「それでも生きて良い」と言ってくださるお方の語り掛けを聞いて、慰めを与えられ力を与えられて、この地上の生活を歩んでいきたいと願います。

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