聖書のみことば
2018年9月
  9月9日 9月16日 9月23日 9月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月9日主日礼拝音声

 敬神愛人
2018年9月第2主日礼拝 9月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第22章34〜40節

22章<34節>ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。<35節>そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。<36節>「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」<37節>イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』<38節>これが最も重要な第一の掟である。<39節>第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』<40節>律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 ただ今、マタイによる福音書22章34節から40節までをご一緒にお聞きしました。ここでは、主イエスがファリサイ派の人から、「聖書の中で何が最も重要な教えなのか」と質問されています。36節に「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」とあります。「律法の中で」とは「旧約聖書の中で」と言い換えることができます。
 質問したのはファリサイ派の人たちですが、主イエスの時代のファリサイ派の人たちは、旧約聖書を詳しく読み込んでいて、そこから613もの掟があると教えていたと言われています。613のうち、禁止命令は365あり、積極的にすべき掟は248です。こんなに多くの掟があると、普通の人であれば覚えきれないと思いますが、ファリサイ派の人たちはそれを丹念に覚え込んで、自分たちはそれを守っていると主張していました。ファリサイ派の「ファリサイ」は、当時のヘブライ語で「分け隔てする、分離する」という意味の言葉ですので、ファリサイ派の人たちは613の掟を守っているというところで、「自分たちは大変敬虔な生活を送っているので他の多くのユダヤ人たちとは違う」という意味でファリサイと名乗っていたのです。ですから、ファリサイ派の人たちにしてみれば、ファリサイと名乗る、あるいはファリサイ派と呼ばれることは大変誇らしいものであったのです。
 当時のファリサイ派の人たちがどんなに自分たちの有り様を誇らしく思っていたかを、主イエスが譬え話の中で語っておられる箇所があります。ルカによる福音書18章9節から12節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」』」。いささかファリサイ派の人たちの姿をデフォルメして風刺的に語っているのかもしれませんが、しかし、ここに語られている姿が、当時のファリサイ派の姿だったのだろうと思います。ここでファリサイ派の人は祈っていますが、この祈りは、まず「やってはいけない禁止の掟を守ってやってはいけないことをしないで済んでいる」ことを感謝し、また「積極的にやるべきだと教えられている掟を守って行っている」ことを誇っている、そういう祈りです。自分は聖書の613 もの教えに対して、いささかも後ろめたいところがない。むしろ、良いこと、賞賛されるべきことを積極的に行っていると、自分自身に対して自信を持っていたのです。
 そのようにファリサイ派の人が自分でそう思っていただけではなく、当時のユダヤの民衆も「ファリサイ派の人たちは敬虔で立派な人たちだ」と思って尊敬していました。使徒言行録5章には、人々から尊敬され愛されていたラビの一人が名指しされて、「民衆全体から尊敬されている律法の教師でファリサイ派に属するガマリエル」と出てきます。ですから、ファリサイ派の人たちというのは、今日、私たちの間にいれば「立派な人たちだ」と思われると思います。ファリサイ派の人たちの在り方の根底には、懸命に聖書の言葉を行って生きたいという思いがあって、それを実行に移しているのです。

 ところが、主イエスはそういうファリサイ派の人たちの在り方について、当時の大方の人たちが考える考え方とは違う観点からご覧になるのです。当時のユダヤ人たちがファリサイ派の人たちを立派だと思って尊敬していたのはなぜか。それは他の人と比べて立派だからでした。皆「わたしには、とてもファリサイ派の人たちのような行いはできない」と思うから、ファリサイ派の人たちを立派だと思うのです。ところが主イエスは、人間同士を比べて優劣をつけるという観点ではご覧になりません。主イエスはどのように人間をご覧になるのでしょうか。人が一生を生きた一番最後、終わりの時、神の前に立たなければならないその時に、「その人が何の罪も過ちも犯さなかったと言われるくらい正しく清いのか」という観点でご覧になるのです。
 主イエスが人間一人ひとりをそのようにご覧になるのには、理由があります。それは、主イエスというお方が、「私たち人間のために十字架におかかりになるために地上にやって来られた」ということに関係しているからです。「主イエスが十字架にかかり、復活なさった」ということは、主イエスが十字架にかかられた以降、2000年もの間、ずっと教会が毎週毎週言い続けてきていることです。私たちが2000年もの間、毎週の日曜日に言い伝え続けていることですが、「十字架」とは、一体何が起こったことでしょうか。それは、「私たち人間の罪を主イエスがその身に背負って、私たちの罪と過ちの身代わりとなってくださるために起こったこと」です。私たちが自分の罪や過ちの報いを受けて滅んでしまわないように、主イエスが私たちの身代わりになって十字架にかかってくださっているのです。
 ですから主イエスは、ご自身の十字架によって人間の罪を赦され清められるということをとても大事にお考えになるのです。私たちが主イエスの十字架をよそにして、「自分は正しい。赦される必要はない」と言い張り続けて、もしそのまま主イエスと関わりなく生きてしまえば、私たちは滅んでしまいますから、主イエスはそれを憐れまれるのです。

 ローマの信徒への手紙3章23節から25節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」とあります。すぐには腑に落ちないかもしれませんが、まず言われていることは「人は皆、罪を犯している」ということです。「人は皆、罪人である」、こういう言い方に、ファリサイ派の人たちは大いに反発したと思います。「あなたも罪人だ」などと言われれば、「冗談じゃない。わたしたちは613もの掟を守っているし、聖書に照らして、間違いない、正しく清らかなあり方をしているはずだ」と反論したでしょう。けれども主イエスは、そうはお考えになりません。ファリサイ派の人たちが確かに聖書の言葉に忠実に生きようとしていることは、その通りだとおっしゃるでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、何も悪くないとしても、それでは「その人には罪がない」と言えるのかといえば、そうではないとお考えなのです。「人は皆、罪を犯している」と、ここに言われています。
 2000年もの間ずっとそうなのですが、この言葉につまづくという人がいらっしゃいます。「あなたは罪人だ」と突然言われれば、驚く方がおられるのも当然です。「なぜ、そんなことを言われるのか。教会では罪、罪というので、もう行きたくない」という方もいるようです。
 けれども「人は皆、罪人である」ということは、本当のことです。どうしてそう言えるのでしょうか。私たちの命を考えてみたいと思います。私たちは誰も、自分で生まれて来ようとして生まれてきた人はいません。生まれさせられ、この地上を生きるのです。ですから、命は、自分で手に入れたものではありません。神から贈り物として私たち一人一人に与えられているものです。「あなたはそこで生きて良いのだよ」と、神から命を手渡されて、生まれてきたのです。
 けれども、ではなぜ神は、命を私たちに与えてくださったのでしょうか。なぜ自分に命があるのか、あまり普段考えないことで、「わたしが生きているのは当然のこと」と思っているうちに終わってしまうのですが、そう思ってしまっていると、私たちの罪は、分からずじまいになってしまいます。
 神が命を与えてくださり生きるということは、私たちの満足のためではありません。神が私たちに命をお与えになるのは、私たちがこの命を生きることを通して、喜んで生活し、神に感謝して、隣人のことを思いやりながら懸命に互いに支え合い助け合って生きて、互いに喜びを分け合い、その喜びがだんだん大きくなって行く、そのことのためなのです。私たちはこの人生を何のために用いるのか。自分の満足を求めて生きる人は大勢います。けれども本当は、自分の喜びを隣人と分け合って、命の素晴らしさを共に喜ぶために与えられているのです。神はご自分がお造りになった世界に喜びが満ち溢れるようになるために、私たち一人一人に命を与えてくださっているのです。
 ところが、私たち人間は、どういうわけか命をそのように考えず、命は当たり前にあるものだと思っています。命を自分の持ち物だと思うならば、自分のために命を用いようと考えます。あり得ないことですが、この世界に生きている人間が一人だとすれば、自分本位のあり方もあり得たかも知れません。けれども私たちは一人で生きるのではありません。神ご自身が、人をお造りになったときに「人は、ひとりでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃいました。そのようにして、私たちの隣人は造られているのです。私たちは互いに互いを助ける者として造られています。皆が皆、同じ考え方をしないのは、そのためです。皆同じであれば、落ち込んだ時は皆落ち込み、浮かれた時には同じように浮かれてしまいます。私たちは浮かれるときには浮かれ、失敗したときには、もう終わりになってしまいます。様々な感じ方、考え方があり、違いがあるのは、皆それぞれに持っているものを生かして互いに支え合うためです。
 けれども、現実の私たちは、どうしても自分の思いに拘ってしまい、自分の思いが実現するかどうかが自分にとっての人生の意味なのだと思ってしまうのです。思いが実現しないのなら、そんな人生は生きていても仕方ないとすら思うこともあるのです。今生きている命が神からの贈り物であることを忘れてしまって、いつの間にか自分自身が人生の主人公になってしまいます。神抜きで生きてしまおうとすると、その結果、私たちは例外なく、自分の人生は思うようにならず、つまらない、嫌だという思いに捕らわれてしまいます。神が、本当に「良いもの」として、「そこを生きてよい」と与えてくださった命を、私たちは無視して、自分の思いで計ってしまうのです。私たちは、特別なエゴイストでなくても、誰もが当たり前に、自分の人生の主人公は自分だと思いながら生きています。けれども、そういうあり方がまさに、「与えられた命」という観点から考えると、倒錯したあり方と言わざるを得ません。聖書はそのことを大変重々しく「人間は罪を犯している」と語ります。
 ですから、私たちは犯罪を犯しているのではありません。犯罪を犯すのでなければ罪ではないと大方の人は思いますが、悪い行いをしなければ全く罪はないということではないのです。神を抜きにして、「自分の命は自分のものであって、自分の満足のために生きている」、そう思うところに罪があるのです。

 主イエスは、神から離れて彷徨うように生きている、そういう私たちのあり方をご覧になって、そこに罪があることを憐れんでくださるのです。私たちが自分の思いを中心に生きてしまう結果というのは、実は深刻なものです。どうしてか。神が、私たちが生きられるようにとこの世界を用意してくださり、その中に私たちを生まれさせてくださって、私たちもその中で互いに助け合い、支え合って、世界を喜びで満たすための働き人として置かれているはずなのに、その働きに向かうのではなく、皆が同じように自分中心に生きてしまうと、私たちは自分の人生を感謝できないし、喜べなくなるからです。
 「この世界が神のものであり、神に仕えるために自分は生かされている。この命も神に仕える者として生きるならば、わたしの小さな働きも神が用いてくださる」と思って生きるならば、多少困難なことや難しいことに遭遇したときにも、「神さまが責任を持っていてくださる。わたしを支えてくださるに違いない。神さまが生きてよいと言ってくださるのだから、わたしは生きることができる」と、神に感謝して、喜んで生きていけるに違いありません。ところが、自分の思いが実現しないと嫌だと思っていたら、そうはなりません。せっかく与えられている豊かな人生を、とても惨めな人生として過ごしてしまうことになるのです。
 主イエス・キリストというお方に出会わないならば、私たちは、自分自身の思いを形にしようとして生き、最後には、思うようにならなかったと言って一生を終えて行くほかありません。たとえこの世界で、どんなに成功を手にしたように見える人であっても、私たちの欲望は底なし沼のようなものですから、欲望は尽きず、最後には、自分の思うようにならないで終わることになります。なぜならば、私たちの肉体は不死身ではないからです。必ず衰え、必ず地上の命を終えます。自分は衰えても、周りでは新しく成功を手にする人がいるのを見なければなりません。神は、そのように私たちが、神抜きで生きるならば最後には惨めになってしまうということをご存知で、深く憐れんでくださって、自分中心ではない別の生き方があることを、何とかして知らせようとしてくださるのです。
 旧約聖書の時代には、モーセに十戒を示し「あなたの生き方は、わたしが教える教えに従うように」と律法を与えてくださいました。ファリサイ派の人たちは、それに従おうとして、613の掟を見つけ出して生きようとしましたが、どんなに掟を守っても、どうしても自分に安心を得ることはできませんでした。どうしてかというと、「神に信頼する」という根本が失われているからです。正しいことができていることを誇るだけでは、私たちは真の平安を得ることはできません。
 神は、人間に律法を与えるだけでは人間が本当には神のものとして生活できないのをご覧になり、そのためにご自身の独り子である主イエスを私たちのためにこの世に送ってくださいました。私たちと同じようにお生まれになっただけではなく、「飼い葉桶から十字架まで」と言われるように、この地上において、底辺と言ってよいようなところを歩んで行かれました。私たちが思うようにならない辛さ、不自由さを抱えていると言うのであれば、主イエスはさらに低いところを歩んでおられるのです。どんなに自分が恵まれない境遇だと思う人でも、主イエスより低いことはないのです。主イエスは私たちのために低い道を歩んでくださいました。主イエスはその道を、神への信頼によって生きられ、私たちに「どんな道であっても神さまに信頼してよいのだ」と教え続けながら、十字架までを歩んでくださったのです。主イエスは、そういうお方として、この地上に来られました。ですから、神抜きでよいというあり方を敏感に感じて、反発なさるのです。

 マタイによる福音書に戻ります。「律法の中でどの掟が一番重要か」と尋ねられて、主イエスは二つの答えをなさいました。まず一つ目は37節です。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」と主イエスがおっしゃるのは、「あなたに与えられている能力や感受性、感性の全てをあげて神さまを愛すること、神さまに感謝して生きて行くこと、それが人生にとって大事なことだ。あなたの命はそのために与えられているのだ。それこそが、神さまの光に照らされて、あなたの一生を明るく生きるということだよ」ということです。
 ファリサイ派の人が問うたのは「最も重要な掟」ですから、一つ答えればよいのですが、主イエスはもう一つあると答えられました。39節です。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。私たちにとって、「命を与えてくださった神に感謝して、精一杯、神にお仕えして生きること」が大切なのですが、それは実際には、「隣に生きている隣人を愛する」という生活の中で実現されて行くことになるのです。どうしてでしょうか。神は私たちを愛してくださいますが、それは、「わたし」だけを愛してくださっているということではないのです。神は人間一人一人に命を与えてくださっているのですから、「わたし」のためだけに神の愛があるのではありません。神は全ての人を愛してくださっているのです。ですから、隣の人を愛せるのは「わたし」なのです。「隣人を愛するために」、私たちは命を与えられているのです。

 「神を愛し、隣人を愛しなさい」、それが「敬神愛人」という言葉になります。そしてこれは、十戒の二枚の板に書かれていること、そのままです。十戒の一枚目の板には、「神に対して人間はどうあるべきか」が書かれ、二枚目の板には、殺すなかれと始まる「人間同士の交わり」について書かれていました。
 ただ、「敬神愛人」というこの言葉を知ってさえいれば、私たちはそういうあり方をすることができるのかと言えば、なかなかそうはいきません。どうしてかというと、何度も言いますが、私たちは自分中心だからです。「敬神愛人」と聞いた当座は、「そうしよう」と決意しても、私たちはすぐに忘れてしまって、気づくと、神抜きで生きてしまうのです。「隣人愛」を頭では理解していても、実際には、隣人が必ずしも自分にとって都合の良い人ばかりとは限りません。自分を愛してくれる人を自分が愛し返すということなら、楽にできるかもしれません。けれども、自分を攻撃するような人が隣に来てしまって、傷つけられるということもあるかもしれない。そうなれば「とてもわたしには愛せない」、そういう現実があるのです。私たちの中にもともと蓄えられている愛というものは、とても貧弱なものでしかないのです。

 けれども主イエスの愛は、十字架にかけられたその所でも、ご自身を十字架にかけた相手を思って「彼らの罪をお赦しください」と祈られる、そういう愛ですから、私たちのもともと持っている愛とは違うものなのです。そして、もし本当に「隣人を愛して生きる」のであれば、私たちの持っている愛だけで事足りるはずはないのです。私たちは、十字架の上を見上げて、「どうかわたしに、愛する勇気を与えてください」と祈りながら、愛するところまでいかないにしても、何とか関わりを絶たないで、交わりを保っていって、いつかまた愛せるようになって交わりを回復できればよいなと思いながら寄り添っていく、そういうあり方が精一杯かもしれないにしても、それにもエネルギーが必要なのです。そのエネルギーはどこから得られるのか。それは「この人も、神さまが愛しておられる人だ。主イエスはこの人のためにも十字架にかかってくださったのだ」というところからです。ですから、私たちが「愛せない」と思う相手に向かって行くときには、私たちは、主イエスの後ろから恐る恐るついて行くような感じで、その人に近づいて行くようなところがあるかもしれません。私たちは、そういう仕方であっても、互いを愛して生きるのでなければ、簡単に交わりを放棄して、互いに孤独になってしまうのです。

 神は、私たちがなかなか、「神を敬えない、また隣人を愛せない」ことをご存知だからこそ、主イエスをこの世界に送ってくださったのです。主イエスは飼い葉桶から十字架までの低い道をたどって、私たちの間に、「神さまに信頼するということがどういうことなのか」、その姿を示してくださいました。
 また、徴税人や遊女など、当時、罪人と呼ばれた人たちと関わってくださいました。このように社会からつまはじきにされた人々と関わるということは、実は、簡単なことではないと思います。もともと疎外され傷ついた人たちですし、また社会の外で生きなければならないアウトローのような人たちですから、法を犯すということもあったかもしれません。そういう中に入って行って、仲良くすることなど、なかなかできることではありません。けれども、主イエスは実際に、そういう人たちと関わりを持ち、愛してくださいました。聖書には書いてありませんが、裏切られるということもあったことでしょう。私たちは、ある程度の豊かさがあるので礼節を守っていられるようなところがありますが、本当の底辺にいれば、それが出来ないで生きてしまうということもあるでしょう。しかし主イエスは、そういう中に入って、十字架に至るまで関わりを持ってくださいました。そういう仕方で、「交わりを生きることができる」ことを、私たちに示してくださっています。
 そういう意味では、主イエスのご生涯は、人間の罪に対しては喧嘩腰で挑んでおられるようなところがあります。「人間は罪人だから、神さまから捨てられる」などということは決してない。どんな生き方をしている人にも出会って行かれ、「あなたは神さまに信頼して生きることができるのだよ。隣の人を愛して生きることができるのだよ」ということを、地上のどこにでも実現して行こうとして歩んで行かれました。

 私たちは、そういう主イエスの歩みを聖書から聞かされています。とりわけ、最後に十字架に架けられて、私たちのために「父よ、この人たちの罪をどうかお赦しください。この人たちは何をしているのか分からないでいるのです」と執りなしてくださっている主イエスの祈りを聞いて、たとえどんなに苦しく辛い状況に立ち至っても、そこでもなお神に信頼して生きて行くことができるし、最後に私たちが死ぬときにも、神に自分自身を委ねて一生を終えることができるのだということを教えられています。
 私たちが、「十字架の上を見上げ、神が主イエスの祈りに応えて甦りの朝を十字架の先に備えてくださっているのだということを覚えて生きて行くこと」、それが神を心から敬い、また隣人を本当に愛して生きて行くことのできる一番の秘密なのだと思います。

 「敬神愛人」は、ただの為すべき崇高な理想として教えられているのではなく、主イエスご自身がご自分のことを指し示しながら語ってくださっている言葉だと聞くべきだろうと思います。そして、今日私たちは、その主イエスから、「あなたたちも、わたしについて来なさい。あなたの人生が、この地上でどんなに困難に出会うとしても、それでも、『この人生を生きて良かった。大変な人生だったけれど、神さまが常にわたしを支えてくださった。導いてくださった』と、神さまに感謝しながら生きるのだよ」と、そういうあり方へと招いてくださっていることを覚えたいと思います。
 私たちは十字架の上を見上げ、復活の朝を見上げながら、この地上で与えられている今日の私たちの生活を、それぞれに精一杯歩む者とされたいと願います。

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