聖書のみことば
2018年9月
  9月9日 9月16日 9月23日 9月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月30日主日礼拝音声

 背負いきれない重荷
2018年9月第5主日礼拝 9月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第23章1〜13節

23章<1節>それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。<2節>「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。<3節>だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。<4節>彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。<5節>そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。<6節>宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、<7節>また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。<8節>だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。<9節>また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。<10節>『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。<11節>あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。<12節>だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。<13節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

 ただ今、マタイによる福音書23章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。1節から4節に「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない』」とあります。
 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」という言葉を聞きますと、主イエスが律法学者たちやファリサイ派の人たちを非難していると感じ取れると思います。「あなたたちは、言うだけで、実行しない。言行不一致な人たちだ」と聞こえますが、ここに注意が必要です。それは、主イエスがこの批判の言葉を誰に向かって語っておられるかということです。1節に「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」とあります。主イエスが話しかけておられるのは、律法学者たちやファリサイ派の人たち、つまり主イエスの敵である人たちではありません。今日の御言葉は、主イエスが相手をやり込めようとして語っておられるのではなく、群衆や弟子たち、つまり主イエスに聞き従いたいと思っている人たちに「信仰者としてのあり方」を教えようとして語っておられるのです。
 そうであるならば、私たちがこの箇所を聞く聞き方は、主イエスと同じ気になって「律法学者たちやファリサイ派の人たちは言行不一致な人たちだ」と非難して溜飲を下げるというような聞き方ではないのではないかと思います。主イエスは「彼らは困った人たちだ」と言っておられるのではなく、律法学者たちやファリサイ派の人たちをいわば反面教師として、「あなたたちは、あのようであってはいけないよ」と言っておられるのです。ですから、私たちはこの箇所を「私たちへの勧告、警告のメッセージ」として聞くべきではないかと思います。私たちの中にも、もしかすると律法学者たちやファリサイ派の人たちのような傾向がどこかにあるのかもしれません。そして、主イエスがそれを敏感に感じ取って、「そうであってはならない」とおっしゃっている言葉を聞き取りたいのです。

 では、主イエスは一体何を教えようとしておられるのでしょうか。「言行不一致」ということ以上の何が述べられているのでしょうか。律法学者たちやファリサイ派の人たちのどういう面が反面教師として取り上げられているでしょうか。
 2節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」と言われています。「モーセの座」は、6節の「会堂の上席」と同じ意味を指している言葉です。当時のユダヤには、町々にシナゴーグと呼ばれる会堂がありましたが、その礼拝堂の前の所には、集まって来た会衆と向き合って座る、特別な石造りの椅子が用意されていたそうです。その椅子が「モーセの座、上席」でした。そしてそこには、一般の会衆が礼拝を捧げるのとは違う目的を持った人が座るのです。その椅子に座る人は何をするのか。一つには「律法や預言書の巻物を朗読する。神の言葉である聖書を読み上げる」、そういう役割です。またもう一つは、その日集まって来た人たちに向かって「聖書の言葉、メッセージを語る」ことです。そういう役割を持った人が座る席でした。つまり、「モーセの座」は、そこに座って聖書が読まれたりメッセージが語られるときには、その言葉が神の出来事として聞かれる、そういう席です。会衆と向かい合ったその席で語られている言葉は「神の言葉である」という権威が、普通に認められていました。
 律法学者たちやファリサイ派の人たちは、いつもそういう席に座りたがって、聖書を朗読したりメッセージしたりするのですが、主イエスは、そういう律法学者たちやファリサイ派の人たちのあり方を批判するのです。「彼らが、あの席に着いて、聖書を朗読したりメッセージをする。それは神さまの言葉だから聞かなくてはならない。けれども、彼らが実際に行っていることは、言っていることと違うのだから、見倣ってはならない」と言われる。つまり、「彼らは、礼拝で語られた通りの生活をしていない。だから見倣ってはならない」とおっしゃるのです。
 自分が読み上げる言葉、語る言葉の通りに本人が生活するつもりがないのであれば、礼拝の中で語られる律法の要求は、いくらでも厳しくなって行くことができます。主イエスの時代には、「こうするべきだ、こうしてはならない」という徳目や禁止事項が613もあったと言われていますが、口先だけであれば、何とでも言えます。けれども、それは口先だけであって、誰も守らないで終わってしまうことになる。教える本人ですら守っていない。そういうあり方は見倣ってはならないのです。主イエスがここで彼らを批判しておられるポイントは、彼らが語っている教えではないということに注意したいと思います。語っている教えは聖書の言葉ですから、できる限り行えた方が良いし尊重しなければならない。けれども、彼らの行いは言葉通りではない、欺瞞的な態度であり、それは神の前では通用しないのだから真似てはならないと言われるのです。
 口で教えておきながら、それを行えないとすれば、それは結局、律法の厳格さを失わせることになります。行いえないことを教えているとすれば、全てが茶番劇になってしまいます。例えて言えば、信号の真ん中に立ち、「これは青だ、これは赤だ」と指導しながら自分は動かない、そんな様です。律法学者たちやファリサイ派の人たちはまさに、信号の赤と青を教えながら、自分は信号を無視している、そういうあり方をしているのです。

 守るつもりもない掟を頭の中で考えて、より精密にしようとすれば、そこに語られる言葉はいたずらに厳しくなります。そして結局どうなるか。「誰も果たすことのできない重荷になってしまうのだ」と、主イエスはおっしゃいました。4節「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」。本当に正しいこと、非常な重荷を他人には背負わせて自分は手を貸さないとは、まことに冷酷な人のように聞こえますが、恐らく、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、そのことに気づいていません。どうしてか。もともと、自分が教えていることを自分も守らなければならないと思っていないからです。
 どうして神の言葉を取り次いでいながら、自分は守らなくて平気でいられるのでしょうか。それは、「わたしは神の前に命を与えられて歩んでいるのだ」という自覚が薄らいでしまっているからだろうと思います。「自分の日々の生活というものは、実は神がご覧になっている生活であって、神がわたしの思い、行いの全てをご存知なのだ」ということを、つい忘れてしまっている。「神さまがわたしをお造りになった。わたしを生かし歩ませてくださっているのは神さまなのだ」ということは、分かりきった当たり前のことだと思っていますが、実際の生活の中で、そのことを忘れてしまう。そして、そういうことは、私たちにもあることではないでしょうか。
 順序よく理屈を追って聞けば納得します。私たちは誰一人、自分の意思で生まれてきた人はいません。気づいたときには、生まれ落ちていたのです。ですから、自分の命は自分で調達してきたものではないことは、誰にでも分かるのです。「わたしの命、人生は、神が贈り物として与えてくださった命、人生であり、様々な人と出会わせてくださり、様々な困難や試練もありながら神が守り導いてくださってここまで持ち運んでくださった結果、わたしは今日ここに生きている」、そう説明されれば分かるのです。
 ところが、それでいて私たちは、自分がそういう存在であることをつい忘れてしまうのです。自分の人生は、まるで自分の手で獲得して来たもののように思ってしまいます。自分の命は自分の思いを実現するためのステージであるし、自分の人生の主人公は自分だと思ってしまいます。この命を贈り物として下さった方がいつも見守っていてくださるなどということは、いつの間にか忘れて、抜け落ちてしまうのです。
 けれども、私たちが忘れてしまったからと言って、わたしの命は神からの贈り物でなくなってしまうのでしょうか。そんなことはないのです。私たちがどう思い込んでいようとも、私たちの命が神からの贈り物であることにいささかの違いもありません。そして、神は私たちに命を与えて下さった方として、私たち一人一人の人生をいつも注意深く配慮を持ってご覧になっておられ、私たちの生活を御心にかけて下さっているのです。

 私たちが誰かに親切にしたり、誰かから親切にされて喜ぶとすれば、神はそのことを我が事のように喜んでくださいます。それはどうしてでしょうか。神が私たち一人一人に命をくださったのは、私たちが辛い思いをして、この世の生活を嘆くためではないからです。神は、私たち一人一人を良い者として造ってくださいました。私たちがこの地上で「素敵な命を生きている、感謝だ」と喜びながら生きることを通して、この世界は喜びに満ちた世界なのだということに満ちる、そのことのために私たちは生かされているのです。
 そして、神は御言葉を通して、そのことを教えようとしてくださるのです。その一番はじめは「十戒」でした。この十戒を人間に与える際に、神は驚くべきことをモーセにおっしゃっています。出エジプト記19章4節から6節に「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」とあります。神は、私たち一人一人を「わたしの宝、宝の民の一人」とおっしゃっています。そして「宝の民」として相応しく生活できるように「十戒」を与えて下さったのです。そしてそれが、会堂の中で律法学者やファリサイ派の人たちが読み上げる律法の中心になっている事柄です。
 どうして私たちに聖書が与えられているのか。どうして十の戒めが与えられ勧められるのか。それは、私たちが神の宝物だからです。一人一人が「人生を感謝して生きるようになるように」と十の戒めをお与えくださったのです。
 ところが、私たちはその神の御心を忘れてしまいます。そしてその結果、私たちの信仰生活の中から神が姿を消すことになり、信仰生活は人間同士の事柄に変質してしまうのです。
 わたしの前任者であった北紀吉先生が繰り返しおっしゃったことで、わたしも印象深く示されたことは、「信仰者は信仰において罪をおかす」という言葉でした。これは本当に深い言葉だと思います。私たちは信仰を与えられていますが、信仰において罪をおかしてしまいます。信仰が無いことが罪なのではないのです。
 私たちには聖書の言葉が与えられています。それは、神が本当に私たちの存在を喜んで下さって、喜んで生きることができるようにと語って下さった「神の愛に裏打ちされている言葉」です。私たちも、信じ、従って生きようと努力するのですが、そのような心がけの最中にあって、しかし神を忘れてしまうのです。「神がわたしを愛して下さっている。だから聖書の言葉が語られているのだ」ということが、いつの間にかすっと消えてしまいます。そうすると、神の愛への感謝として御言葉に聞き従おうとするのではなく、ただ、「自分は聖書の言葉に従っていられるだろうか」と、御言葉がまるで戒律のようなものに変質してしまうのです。私たちの信仰生活が、周りの人に見せるためのもの、あるいは、自分が「これで良い」と満足するためのものに変質してしまうのです。そして、そういうあり方は、信仰があるから生まれてくるのであり、いつの間にか神から隔たってしまう、信仰者はその信仰において罪をおかすというようなあり方に陥るのだろうと思います。

 律法学者やファリサイ派の人たちは、長い間、神の律法を受け継ぎ守ろうとして、ところがいつの間にか、「神がわたしを喜んでくださっている」ということが分からなくなってしまったために、「律法は守れる限り守らなければならない」という思いが薄らいでしまったのです。それは、神との生きた交わりに生きているということが見失われてしまった結果です。「神さまがわたしを愛してくださっている。一日一日の生活を喜んでくださっている。苦難の時には支えようとしてくださる。そういう神さまがいつもわたしの背後にいてくださるのだ」という感謝と信頼と喜びが薄らいでしまうところでは、神の言葉をないがしろにしてしまうということが起こってしまうのです。
 ですから、そういう律法学者やファリサイ派の人たちは、もはや「人々を神に導く」ということができなくなっています。自分自身に神の恵みが分からないのですから、せいぜい言えることは、「これは正しい、これは正しくない」と、神抜きの、人間同士のルールのようなことだけです。それでは「本当の神さまとの交わりに人々を導く」ことにはなりません。

 ですから主イエスは、ここで、「律法学者やファリサイ派の人たちを見倣ってはならない」とおっしゃいました。彼らを見倣っていると、いつしか神抜きで生活するようになってしまうからです。「神の愛の中に生かされている」という、真に大きな真実が抜け落ちているのですから、そういうところでは、人間同士の間で、自分がどのように見られているか、高く見られているかどうかということが問題になります。神から見てどうかではなく、人間同士の中で、人から見てどうか、尊重されているかどうか、それが律法学者やファリサイ派の人たちの関心事でした。それで彼らは、6節7節で言われているようになります。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。
 「先生」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ラビ」です。「ラビ」はもともと「偉大なこと」を表す「ラブ」という言葉から派生した言葉ですので、そのニュアンスまで含んで言えば、「ラビ」は「わたしの偉大な方」という意味です。日本語ではただ「先生」ですが、実は、大変な敬愛の念の込められた呼びかけの言葉なのです。ですから律法学者やファリサイ派の人たちは、ことさらに「ラビ=わたしの偉大な方よ」と呼ばれることを喜ぶのです。「神さまがわたしを愛してくださっている」という感覚が薄らいでいるところでは、人がどんなにわたしを重んじてくれるかということが喜びの中心に変わってしまうのです。

 そういう彼らに向かって、主イエスは続けて言われました。8節9節「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。「あなたたちの本当の先生は誰か。あなたたちの本当の父は誰か。人間ではない。キリスト一人だけ、天の父おひとりだけである」と、ここでは「神さまと主イエス」の両方が挙げられています。「あなたがたにとって何より大事なことは、人間同士の間で『先生』と呼ばれて尊重されて満足することではない。本当の神の前で生活できることが何よりも大事なのであり、その神の愛を教えてくれる主イエス・キリストに導かれることなのだ」と言われています。

 そして、そのように教えてくださる主イエス・キリストのあり方として、11節12節、身を低くすべきことを教えられます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これはいわゆる金言として語られているのではなく、主イエスがご自身のあり方を指し示すように教えておられる言葉です。そしてこの言葉は、これまでも事あるごとに、主イエスが弟子たちに繰り返し繰り返し教えて来られました。20章25節から28節では「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」とあります。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」というのは、「十字架」のことをおっしゃっています。この言葉を聞いたときに弟子たちは、すぐに十字架のことを思いませんでした。これからもずっと、主イエスと旅を続けていくと思っていたからです。しかし、主イエスは、「人々の身代金としてご自身が十字架にかかる」ということを頭においておっしゃっています。「わたしはあなたがたに仕えるために、わたしの命を用いている。本当に神の前で大きくなりたいと思う者は、人々の僕となるのだ」ということが、今日の箇所で「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と、再び語られているのです。

 ただお一人の主イエスが、私たちの誰にとっても「先生」です。では、私たちは先生である主イエスの前では、どういう存在なのでしょうか。「兄弟姉妹」だと教えられます。8節「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」。主イエスは私たちの身代金として十字架にかかってくださり、その身を捧げてくださいました。そして、「独り子さえ惜しまず、『あなたが大事なのだ』と言ってくださる神が、あなたがたと共におられるのだよ」と教えてくださっているのです。
 私たちは、その言葉を、週ごとに礼拝に集まって聞かされ教えられています。私たちは、神の恵みのもとに置かれている者であることを繰り返し繰り返し聞かされる中で、だんだんと「神さまに愛されている自分」というものを知るようになっていくのです。そして少しずつ、神の愛と恵みのもとに置かれている者として相応しい生活を送るように変えられていくのです。

 律法学者やファリサイ派の人たちは、聖書の中の613もの掟を取り上げ、人々にそれを守るようにと「背負いきれない重荷」を突きつけ、あとは、自分では指一本動かさずに突き放しました。そういう彼らのあり方に対して、主イエスは、「もし本当に神さまに喜ばれる者として生きようとするのであれば、いつも神さまのことを覚えていられなくて忘れてしまう自分のことを思うと重荷だろう。そういう重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしの軛は軽く、わたしの荷は軽いのだ」とおっしゃいます。
 主イエスは、私たちを掟から解き放って聖書のことなど関係なく自由に生きれば良いとおっしゃっているのではありません。私たちにも「背負うべき軛はある」とおっしゃいます。けれども、その軛は軽くなっている。主イエスが十字架にかかってくださることを通して、私たちの重荷を主イエスが共に背負ってくださっているからです。
 私たちは始終、困ったり戸惑ったりしながら、自分が生きるというのはどういうことかが分からなくなって、どうでもいいから自分の思うように生きてみようと思って無茶苦茶に行動してしまうこともありますが、またそれが自分の重荷になり、自分に降りかかってくるのです。私たちは、自分の思い通りに生きたら人生に悔いはないと思いがちですが、そうではありません。必ず振り返って後悔することでしょう。けれども主イエスは言われます。「あなたは、自分の思い通りに生きることが良い人生を生きることではないのだ。あなたの軛を背負って生きていくことが、あなたの人生だよ。けれども、その軛は律法を守って生きていくということではない。わたしがあなたの人生に伴って、あなたの重荷を一緒に負ってあげる。だから、あなたはわたしの言葉を聞いて生きて行きなさい」と、私たちを招いてくださるのです。
 ですから私たちは、毎週教会に来て、聖書の御言葉を聞いて、「主イエスがわたしのために十字架にかかってくださり、復活して今わたしと一緒に歩いてくださっているのだ」と聞かされて、心からほっとさせられて、「もう一度、ここから、与えられている一週間の生活を歩んで行こう」という思いを新たにさせられるのです。

 主イエスが十字架の上で、私たちのために、私たちの重荷を代わって引き受けてくださいました。その主イエスに伴っていただいて、私たちは、ここからそれぞれの一週間の歩みに送り出されていくのだということを、今日もう一度覚えたいと思います。「わたしの主はイエスさまです。イエスさまに従ってまいります。主イエスと軛を共にして、ここからわたしの一週間を歩み始めます」と、共にいてくださる主イエスに感謝し、新しい歩みを始める者でありたいと願います。

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