聖書のみことば
2018年8月
  8月5日 8月12日   8月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

8月26日主日礼拝音声

 生きている者の神
2018年8月第4主日礼拝 8月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第22章23〜33節

22章<23節>その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。<24節>「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。<25節>さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。<26節>次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。<27節>最後にその女も死にました。<28節>すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」<29節>イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。<30節>復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。<31節>死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。<32節>『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」<33節>群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 ただ今、マタイによる福音書22章23節から33節までをご一緒にお聞きしました。23節に「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた」とあります。今日の箇所では、サドカイ派と呼ばれる人たちが主イエスと論争しようとしています。この直前の箇所では、ファリサイ派と呼ばれる人たちが、主イエスに対して罠の仕掛けられた問いを投げかけていました。群衆の前で、主イエスの言葉の揚げ足取りをして行き詰まらせ陥れてやろうとしたのですが、その問いかけに対して主イエスは、まさに一人一人を思いやりながら、救い主として相応しい答えをなさったのでした。ファリサイ派の人たちは、それを聞いて、論争ではとても主イエスに歯が立たないことに驚いて退散したということが起こった、「その同じ日」に、今度はサドカイ派の人たちが来たということです。

 サドカイ派とファリサイ派の人たちは、日頃からライバル関係にあって仲が悪かったために、サドカイ派の人たちにとっては、今自分たちの目の前でファリサイ派の人たちが、主イエスをやり込めるつもりが逆に一本取られる形になったことは、大変痛快だったことだろうと思います。
 ファリサイ派とサドカイ派について少し説明します。エルサレムを都としたユダヤの国には、最高法院という議会と最高裁判所を兼ねたような組織があり、議員は70人いました。その議員の中の主な党派が二つあり、それがファリサイ派とサドカイ派です。ファリサイ派の方が少し多く、サドカイ派は少数派でしたが、しかし非常に力を持っていました。なぜかと言うと、サドカイ派というグループには、エルサレム神殿の一番トップであった大祭司とか、その次の神殿守衛長といった人たちが属しており、また大変お金持ちでしたので、何かを決定する際に、お金の力で逆転させるというようなこともありました。ですから、サドカイ派の人たちの力の源は、お金、権力です。
 当時、エルサレム神殿では毎日礼拝が捧げられていました。そして、全国から巡礼の人たちがやって来て、神殿の中だけで通用するお金を献金したり、動物の生贄を捧げていました。ところが、その献金のための両替とか、生贄のための動物を神殿で買うと、そこでの売買の収入は、最終的にはサドカイ派の人たちの懐に入るような仕組みが出来上がっていたにでサドカイ派の人たちは裕福でした。ですから、議会において、単純に人数だけで考えればファリサイ派の方が多いのですが、サドカイ派が裏で手を回すとサドカイ派が多勢になるようなことがあり、サドカイ派は決して侮れない、不思議な緊張関係が、この二つの派閥の間にありました。

 実は、この二つの派閥は、最高法院の中だけではなく、聖書に対する姿勢も大分違っていました。ファリサイ派の「ファリサイ」は、元々のヘブライ語で「分離する、区別する」という意味です。何を区別しているのかというと、つまり自分たちは他の人たちと違うのだということです。何が違うのか。当時のユダヤ人は、聖書の中の法に従って生活していた人たちです。ただ、聖書に従って生活すると言っても、先祖から教えられたように、「これなら聖書から外れていないだろう」と思って暮らしている一般の人たちと違い、ファリサイ派の人たちは、聖書の中に非常に厳格な言葉を探して、自分の行動を全て聖書に照らして意義づけていくように心がけていました。ですから、ファリサイ派の人たちは、ある意味真面目な人たちです。聖書の教えの通りにきちんと生活したいと思っているのです。
 当時の聖書は旧約聖書だけですが、主イエスの時代に、旧約聖書の中でも中心と考えられていたのは、最初の5冊の本、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記で、誰もがこれが聖書だと言っているものです。その後ろの本は、人によって読んだり読まなかったりしたと言われています。それで、ファリサイ派の人たちは、後ろの方まで全部丁寧に読みました。最初の5冊はモーセ五書と呼ばれる律法ですが、その中には「死んだ人が生き返る」という記事は出てきません。ところが聖書全体を読みますと、「死んだ人が生き返った、復活させられた」という話が時々出てきます。
 例えば、列王記17章では、預言者エリヤがお世話になっていた家の息子を生き返らせた話が出てきます。21節22節です。あるいは、義人ヨブと言われる人がいますが、この人は絶望と病の中にあって、やがて自分が生き返って土や塵に返る時が来るだろうが、その後もう一度神によって復活させられるという希望を持っていました。ヨブ記19章25節から27節です。また大変有名な箇所ですが、エゼキエル書では、預言者エゼキエルが大勢の死んだ人の骨を見せられながら、その骨が復活するという幻を示されています。37章9節、10節です。このように、旧約聖書全体の中に目を向けると、死んだ人が復活させられるという印象深い聖書の言葉は、この他にもいくつかあるのです。それで、ファリサイ派の人たちは、このように聖書に書いてあることはどういう意味なのかと常に考えながら暮らしていました。
 一方、サドカイ派の人たちは、そのようには考えません。当時、エルサレム神殿で読み上げられていた聖書は先ほどのモーセ五書ですから、サドカイ派の人たちが聖書という場合には、この5冊だけです。そして、そこには死んだ人の復活については記されていませんので、サドカイ派の人たちは、「聖書に死者の復活が記されていないのだから、死者の復活などない」と考えています。ですから、サドカイ派の人たちの生き方は、極めてげん現世的になっていきます。「死んでしまえば何もかも終わりだ。楽しみとか喜びとかは生きている間のことなのだから、今この時を楽しまなければ」という考えで、もしかすると、現代日本の多くの人たちの考え方と近いと言えるかもしれません。私たちの感覚からすると、ファリサイ派の方が浮世離れしているような感じかもしれません。
 サドカイ派の人たちについては、新約聖書にあまり触れられていないのですが、同時代に生きていたユダヤ人の歴史家ヨセフスという人が、イスラエルの歴史についての「ユダヤ古代史」「ユダヤ戦記」という二冊の本を書いており、「ユダヤ古代史」の中でサドカイ派の人たちについて記述しています。「サドカイ派は、神による摂理を認めない。この世にはそのようなものは存在せず、従って、人間の営みが神の摂理に支配されることはあり得ない。一切は、人間自身の意思で決まるし、一人一人の幸福は、その人自身が作り出す。不幸に苦しむことも、また自分自身の思慮のなさの結果であると、サドカイ派は主張している」。この世界の上に神のご計画とか、神の見えざる手とか、そういうものは何もないと考えるのがサドカイ派の人たちです。自分の思った通りに人生を送れればそれは良い人生だし、そう出来なかったら、それは自分の思慮のなさ、自分の責任だと考えていたと言っています。また「ユダヤ戦記」では、「サドカイ派は神の摂理を完全に否定する。神は悪を見ることはない。なぜなら、神はこの世界からはるか高みにおられるからである。従って人間は、一人一人が自分で善悪を選ばなくてはならない。幸福も不幸も、それを選ぶのは一人一人の意思だ。サドカイ派はそう主張する。霊魂が死後に存続するとか、陰府において刑罰を受けるとか、報いを受けるという考え方も一切、否定する。ファリサイ派の人たちは、互いに愛し合い、共同体の調和を図ろうとするけれど、反対に、サドカイ派の人たちは無作法であって、同胞である仲間に対しても、まるで外国人に対するように乱暴だった」と書いています。同時代の人からの随分ひどい言われようですが、サドカイ派の人たちは自分が思った通りに生きるのが良いことだと思っていたのです。今日の箇所で、サドカイ派の人たちは「復活はないと言っているサドカイ派の人々」と紹介されていました。まさに彼らは、生きている今だけが全てだと考えている人たちでした。
 ですから、サドカイ派の人たちは、神の言葉を引き合いに出して、自分たちが経験している以外の世界が本当にあるかのように話すファリサイ派の人たちのことを嫌っていました。ファリサイ派の人たちは、事あるごとに「聖書にはこう書いてある。だから人はこうあるべきだ」ということを問題にし、サドカイ派の人たちの自由なあり方を非難するので、癪なのです。ですから、サドカイ派の人たちは、ファリサイ派の人たちが主イエスにやり込められた話を喜びました。そして、日頃ファリサイ派の人たちが真剣に語り合っている「復活」という話を、わざわざ主イエスの前に持ってきて論争を仕掛けました。

 けれども、この論争は、サドカイ派の人たちが真摯な思いで、真面目に議論している言葉ではありません。もともと復活はないと思っているのですから、彼らの問いかけは真面目なものとは思えません。24節から28節です。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」。この問いは、全く真剣な問いではありません。真剣に問うのであれば、例えばの話としてするのであればまだしも、まるで自分の身内か知り合いのことのように話しています。
 しかも、サドカイ派の人たちに限って、このようなことになるわけはありません。もし話を切り出したのがファリサイ派の人であれば、あるいはあり得る話かもしれません。なぜかと言うと、モーセの律法の中に規定があるからです。結婚していた女性が、子がないまま夫に先立たれた場合、夫の兄弟と再婚して後継をもうけなければならないという規定です。ですから、ファリサイ派の人たちであれば、聖書の書いてあるのだからと、このような場合のことを真剣に考えるかもしれません。けれども実際は、結婚相手が7人も次々死ぬようなことが起こるとすれば、この女性は不吉な女と言わざるを得ませんから、この世を自由に生きたいと考えているサドカイ派の人たちであればなおさら、6人もの夫を失った女性と再婚するはずはありません。
 また、この後の成り行きを読んでも、この問いが真剣なものではないことが分かります。サドカイ派の人たちは確かに質問しましたが、しかしその場に最後までいませんでした。33節には「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」とあります。サドカイ派の人たちは面白半分に質問をしておきながら、主イエスの答えを聞いて驚いたのは、そばで聞いていた群集たちであって、サドカイ派の人たちではなかったのです。
 今日ここで問われている問いは、問うたサドカイ派自身は真剣に問うていません。そのような問いを、しかし私たちは、今、真剣に聞いています。どうして私たちが聞いているかと言うと、それは聖書がこのことを真剣に書き留めているからです。しかもこの記事は、4つの福音書の全てが取り上げ、書き留めています。聖書は、このやり取りをとても大切なものだとしているということです。それは、ここに書き留められている事柄が「復活」を巡ってのことだからです。神が主イエスを通して「復活」のことを教えようとしておられるのです。しかも、真剣に問われたのではないことが取り上げられるとは、驚くべきことです。全く真剣味のない人の言葉であったのに、それを用いて、神は「真実なこと」を教えようとしておられるのです。つまり、神は全ての人を用いておられるということです。
 もしかすると、今ここにいらっしゃる方の中にも、「今日は礼拝に来たけれど、でも自分としては神さまを信じているわけではない」と思っておられる方もいるかもしれません。けれども、今日この箇所が語っていることは、そういう一人一人も、神の御支配のもとに命を与えられて生きているし、そういう人の考えることや言葉を用いられることがあるということを、今日の記事は語っています。

 さて、主イエスはこの問いにどうお答えになったでしょうか。真剣味がないのですから無視することもできたでしょうが、そうはなさいません。真面目に答えておられます。29節30節、「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』」。神の摂理や神の支配を信じない人たちに向かって、主イエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」と、非常にはっきりと言われました。そしてその上で、聖書の教えている復活の出来事が、どういう類の事柄なのかを教えておられます。それは「めとったり、嫁いだり」というような、人間の生活を中心にしてそのために起こる出来事ではないのだと言われました。人間の都合で復活が起こるのではない。復活は、そのことによって、神の御名が誉めたたえられる、神が崇められるために起こることだと教えられるのです。「天使のようになる」と言われていますが、復活した人は、神に完全に属する人として神を讃えるために甦らされると、ここで答えられました。
 ですから、亡くなった女性が、何番目の息子の嫁になるのかを争うために復活するのではありません。そうではなく、「7人の兄弟も、その妻となった女性も、復活させられる時には、復活の命が与えられることを通して、神を讃美する者として復活する」と、主イエスはおっしゃいました。そんなことを聞かされても、私たちには、どのように復活するのかは想像もつかないことですが、しかし主イエスは「人間の復活とはそういうものなのだ」とおっしゃいました。

 こういう主イエスの言葉に触発されて、使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、復活について語っています。コリントの信徒への手紙一15章42節から44節です。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」。地上の今生きている私たちの肉体は「自然の命の体」と言われていますが、この肉体を持っている時には想像もできないけれど、しかし、私たちが今は知らない「霊の体」というものが、確かに私たち一人ひとりに用意されていると、パウロは言っています。そして、私たちが復活させられる時には、この肉体を持って再びこの地上の生活に帰ってくるということではなく、霊の体に甦らされるのだと言っています。主イエスは、復活した者は「天使のようになる」と言われましたが、その同じことを、パウロは霊の体と言ったのです。もちろん、私たちは「霊の体」をイメージできませんが、パウロは、47節から49節では「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」と言っています。「土からできた者」と「天に属する者」という対比がここにあります。これは、最初の人間アダムと主イエス・キリストのことを言い表しています。「主イエスを信じるキリスト者は、アダムに似たところもあるし、キリストに似せられるところもある」とパウロは言おうとしています。アダムは創世記の初めに、土くれから造られてその鼻に息を吹き込まれた者、最初の人間で、土から造られたので、また土に帰るとも聖書には書いてあります。私たちは、そのアダムに似たところがあるのです。時に罪に陥り、神を見失い、神なしで生きてしまおうとする時があります。私たちは振り返ると、キリスト者であっても、そんなところがあると思います。主イエスを信じている人は、24時間、主イエスや神を忘れないで生きているのだろうと思っている方がいるかもしれませんが、そんなことはありません。人生の大方の時間は、主イエスや神を忘れて過ごしてしまっています。しかし同時に、主イエスが神によって復活させられたことを信じると告白している人たちは、今はこの肉体を生きていますが、やがて、キリストの似姿となって復活させられるという希望も与えられているのです。
 主イエスは、この地上を生きておられた間、人々から手荒く扱われました。裏切られた悲しみや苦しみを経験され、最後には十字架に磔にされて亡くなられます。けれども、主イエスの生涯として聖書が伝えようとしていることは、それだけのことではなく、死んだけれども三日目に復活させられ、ご自身の栄光の体を持って天におられると聖書は教えます。そして、キリスト者も同じです。地上の歩みにおいて私たちは、様々に傷ついたり悲しんだり、病を得たり、飢えたり、疲れて倒れたりしますが、しかし、そういう中にあっても、主イエスが復活しておられることを信じる人たちは、今のこの大変な生活を通して、しかしその果てに甦りの主イエスに出会わされて、霊の体に合わされるのだという希望を持って生きて行く者なのです。
 主イエスも今日の箇所で、「霊の体があり、霊の生活がある」ことを覚えて、32節で「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉は、モーセ五書の中に出てくる言葉です。サドカイ派の人たちがこの言葉を聞きますと、「ああ、死んでしまった人たちの名前だな」と思うのです。けれども、主イエスの時代に生きていた大方のユダヤ人は、そうは思いませんでした。なぜかというと、アブラハムやイサクやヤコブは自分たちの先祖に当たる人たちですが、その人たちは死んで体はお墓に葬られたけれど、しかし今は復活して、神と共に生活しているに違いないと信じているからです。
 今日は礼拝の中で、地上の生活を終えた方々を覚えて祈る時を持ちます。その時に私たちが覚えている感覚は、このユダヤの人たちの感覚と、よく似たところがあると思います。私たちが信仰の先達たちのことを考える時には、その人たちは地上の生活を終えて天に召されているけれど、それは居なくなってしまったことだとは思わないで、神の御許で神に直接繋がっているような、この地上とは別の領域に移されて、そこにいるのだと思っているのです。神のすぐそばで、神を直接仰ぎ見て礼拝しながら、また地上にいる私たちのことも見ていてくれて、見守ってくれているのだろうという感覚を持ちながら、私たちはここで召された人たちのことを覚えて祈るのです。それは、主イエスがここで教えてくださっている「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということです。「アブラハムもイサクもヤコブも死んでいなくなってしまったのではない。神さまの御許で生かされていると、あなたたちは信じているでしょう。神さまは、死んだ者の神ではなくて、生きている者の神なのだよ」と教えておられるのです。天上で、神の御許で、先に地上の生活を終えたたくさんの人たちが礼拝しているけれど、その礼拝に声を合わせるみたいにして、私たちも今ここで賛美の声をあげ、聖書の御言葉を聴き祈っている、それがこの礼拝の時なのです。

 主イエスが肉体を持ってこの地上に来られ、十字架にかかって亡くなられたけれど、復活しておられる。主イエスの復活が甦りの初穂だと言われています。そうであるからには、主イエスが初穂として、その穂が出ているように、私たちも、この体がどんな形に復活するのかは分からないけれども、「一人一人に霊の体が備えられているに違いない」、そのように信じて生きる者とされたいと思うのです。
 私たちが今生きているところは地上の生活で、お墓の手前の道を歩んでいますが、しかし、いつか私たちも例外なく、墓穴をくぐって行くときが来ます。その先で私たちは、消えてしまうのでも、どこか分からないところに行ってしまうのではありません。「神との直の交わりに入れられ、神の御許で心から神を讃えて生きる」、それが私たちの人生が完成されて行く姿だと、聖書が教えていることを覚えたいと思います。

 聖書が教えていることは、「あなたは、生きるために生まれて来ているのだよ」というです。私たちの命は、生まれてから死ぬまでの時間を、ただ地上を生きて終わってしまうと考える人は多いと思いますが、聖書が教えていることは違います。私たちは、確かに肉体の死を経験しますが、たとえそういうことがあるとしても、「あなたは生きることを通して、この世界は素晴らしいし、あなたの命も素晴らしいし、皆が喜んで生きるために命を与えられているのだし、そのように生きるのだよ」と、聖書から語りかけられています。

 サドカイ派の人たちは、復活を信じないので茶化しました。けれども、ここにいる私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブと共に、神の救いに与って、神から与えられた命を感謝して一日一日を生きる。皆が神に愛されて「本当に生きて良いのだよ」と言われている中で生かされているのですから、自分の思いだけを実現させるために生きるのではなく、皆で一緒に生きるため生きているのだということを覚えたいのです。
 神が、そういう命があることを私たちに信じることができるように主イエスを送ってくださって、十字架と甦りの出来事を起こしてくだ咲いました。教会はそのことを毎週毎週、この場に集まって、聖書の言葉を聴きながら思い出して、わたしも「生きて良い」と神さまから言われているのだということを聞き取って歩んで行く群れです。
 そのような神の愛を賛美し、喜んで、この地上の生活を歩む者とされていきたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ