聖書のみことば
2018年8月
  8月5日 8月12日   8月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月5日主日礼拝音声

 婚宴のたとえ
2018年8月第1主日礼拝 8月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第22章1〜14節

22章<1節>イエスは、また、たとえを用いて語られた。<2節>「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。<3節>王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。<4節>そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』<5節>しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、<6節>また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。<7節>そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。<8節>そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。<9節>だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』<10節>そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。<11節>王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。<12節>王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、<13節>王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』<14節>招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 ただ今、マタイによる福音書22章1節から14節までをご一緒にお聞きしました。今日の御言葉を聞いていて、特に終わり近いところで、ある種の違和感を覚えたという方がおられるのではないでしょうか。11節以下のところです。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。王子の結婚式に招かれた人たちの中から、一人の人が外に放り出されています。「結婚式にふさわしい礼服を着ていないから」という理由です。
 こういう記事を読みますと、私たちはつい、外に放り出されてしまった人に同情したくなるのではないでしょうか。この人の中に、今日の地上での様々な場面で片隅へと追いやられ暗闇の中に置かれている無数の人々の姿を重ねて見てしまうためです。表向きは繁栄しているような私たちの社会も、一本路地を入ればそこには暗闇があり、苦しめられ追い詰められ、行き詰まり、心配事で押し潰されそうになっている、そういう人たちがいます。王宮で華やかな婚礼が祝われている時に、そういう華やかさや優雅さとは全く縁のない人が王宮の外で苦しんだり泣いたり、歯ぎしりしながら過ごしている。そのように考えてしまいますと、私たちの心のうちには、ある辛辣な思いが沸き起こってくるのではないかと思うのです。それはやがて非難の言葉に変わります。誰に対する非難か、この譬えで言うならば、平然と一人の人を外に放り出した王ということになるのですが、今日の記事を読んでいますと、この王がどなたを指しているのか、おおよそ分かると思います。「王」は「神」を指している、そういう譬えです。
 そうだとしますと、この譬えを聞いて、王に対して不満や非難を抱くということは、実は、神に対して不満や非難を抱くということになるのです。そして、私たちは困ってしまうでしょう。「どうして神さまはこんなに冷淡なことをなさるのだろう。人間を外の暗闇に放り出してしまうような神さまは、果たして自分が今まで聞かされてきた慈しみ豊かな神さまと同じ方なのだろうか」と思うかもしれません。その結果、私たちは往々にして、聖書の中の厳しい言葉が書かれているところはなるべく聞かないようにして読み飛ばしてしまう、そして分かり易い言葉に心を向けるということが多くなるのではないかと思います。例えば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」、「神さまはあなたのために独り子を惜しまれなかった」とか、「誰でも苦しんでいる人は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、そういう言葉により心を向けるということがあるのではないでしょうか。
 今日聞いている箇所には、間違いなく、私たちにとって簡単には受け入れ難い、つまずきともなるようなところがあると思います。そしてそれは、王が一人の人を外に放り出したということだけに留まりません。前半の7節にも「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」と語られていて、この点でも私たちはつまずくと思います。日々生活している町が軍隊によって焼き払われる、それがどんなに酷く恐ろしいことかということは、戦争体験のない人にも察しがつくでしょう。私たちの住む町が軍隊によって焼き払われるなど、決してあってはならないことです。軍隊を送って来た王の理不尽さに怒りがこみ上げると思います。しかし、この王も先ほどと同じように、神を表しているのです。
 そうなりますと、今日の箇所を私たちはどう受け止めたら良いのか、困り果ててしまいます。しかも、焼き払われた町というのは、人殺しが住む町だったと書かれています。まさか町中の全員が殺人犯だということはないでしょうから、この町は、人殺しが密かに潜伏しているということでしょう。しかし、殺人犯が潜伏している町というのなら、私たちの社会にも、もしかするとこの甲府の町にもそういう人が隠れ住んでいるかもしれません。それを私たちが知らないだけで、普段は何とも思わずに暮らしているとすれば、そういう町が神から裁かれて焼き払われ滅ぼされてしまうのかと考えてしまうと、たとえ僅かでもそういう気持ちが芽生えること自体が不気味です。今日の箇所は一体、私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。私たちを不安な気持ちに陥れ、苛立たせ、怒りに駆り立てようとする、そういう神の言葉なのでしょうか。しかし、そうではないのです。

 今日の譬えの中で語られている神は、今すぐここで決着をつけて裁くとか、怒りをもたらそうとしているとか、そういう神ではありません。今日の譬えに語られている神は、怒りや憎しみとは全く違う逆の事柄、「喜び」をもたらそうとする神です。譬えの中の王は、自分が覚えている喜びを、家来も国民もなるべく多くの人に一緒に喜んでもらおうとして招待しようとしている、そういう王だということが分かります。
 2節に「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。神が天の国を王として支配する有様を、主イエスは、一つの婚礼の宴のようなものだと話し始められました。そして実は、「神が、自分の喜びに皆を与らせようとしている」ということが、聖書全体を通して語られている「喜びの知らせ」でもあるのです。神がこの世界の上に大きな喜びをもっておられる。そして、この世界に生きている全ての人をその喜びに与らせて、共に喜ぼうとしておられる。そしてそれはすでに、旧約聖書の時代からそうなのです。
 旧約時代の人たちは、自分たちの上に真の王がおられるということを聞かされている人たちでした。旧約聖書の中には、サウル、ダビデなどの人間の王も登場しますが、人間の王というのは、その人自身が頂点に立つのではありません。この世界の上に人間を支配し人間を治め、支えて持ち運ぼうとする、そういう神がおられることを指し示しながら、皆がその神の許に生きるのだということを伝え、そのように生きるように人々を導く、そういう役割を与えられていたのが人間の王でした。ですから、旧約時代の人たちは、人間の王の支配を受けながら、しかしそれでいて、人間の王を頂点だと考えず、王の背後におられる本当の王、神の支配下に生きていると考えました。ですから、そういう人たちは、様々な困難に直面して嘆き苦しまざるを得ない時にも、なお、自分の上には真の王である神がおられるのだから、そのご支配に信頼して、喜んでいるようなところがあるのです。
 例えば、旧約聖書の詩編49編を著した詩人は、自分の命が危険にさらされている中で、16節「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」と謳いました。この詩人は命の危険にさらされていますが、「真の王の支配は、死を前にしても揺らぐことはない」と、神を賛美しているのです。死や陰府が自分の支配者なのではない、真の王がどんな時にも立っていてくださる、そのことを知って詩人は、真の王を賛美しているのです。

 そして、そのような真の王である神が、独り子を送ってくださって結婚式の用意をなさっている、それが今日の箇所の譬えです。この結婚式はものの譬えですから、誰と誰が結婚するという具体的なことは書かれていませんが、婚宴を通じて、言葉では言い尽くせないほどの大きな神の喜びが皆に告げ知らされていくということが、この譬えの中心の事柄です。真の王である神が、ご自身が喜んでおられる喜びの出来事を、ご自身の支配のもとにある全ての人に伝えたいと思っておられるのです。神は自分だけで喜ぼうとするのではなく、「あなたたちも一緒に喜んで良いのだよ」と言ってくださる。そのために、王の元から使いの者たちが送られて、喜びの宴、婚宴へと招くのです。

 この招きについて、まず3節に「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」とあります。早くから、前もってこの婚宴に招かれていた人たちがいたことが分かります。いよいよ集まるようにと呼んだのですが、彼らは来ませんでした。繰り返し招きの言葉がかけられるのに来ない。そこで王は、また別の家来を送るのですが、それでも来ないのです。4節「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」』。しかし、人々はそれを無視し、」。これは一体どういうことでしょうか。この譬えをどう理解したら良いのでしょうか。
 そもそも王から召されるという場合、その国の国民は王の招きをあっさりと袖にしてもよいものでしょうか。王に対して大変失礼な態度です。その上、この王は繰り返し低姿勢で使いをやって招いていますが、そんなことがあるでしょうか。そもそも王の大きな喜びへの招きを誰一人受け入れようとしないなどということがあるのか、理解し難いことです。けれどもここには、繰り返し招いても誰にも応えてもらえない、そういう王がいるのです。それでもなお、身を低くして招き続ける王、つまり神とは一体どういうお方かと思います。
 この神の姿については、旧約聖書の中で預言者イザヤが言った言葉を思い起こします。イザヤはまず「お前たちは一体神を何者だと思っているのか」と聞き、そして40章26節「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方 それぞれの名を呼ばれる方の 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」と言いました。「夜空を仰いで見なさい。天の川に瞬く星、万象の全てを数えて引き出した方、創造されたお方、それが神。その一つ一つの名を呼び、存在を与えているのが神。神は全てをご存知であり、全てを動かすことがおできになる。その神にあなたたちも名を呼ばれ覚えられている。何と光栄なことか」と言って、イザヤは人々を諭しています。その上で、27節28節「ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい」と語りました。
 「どうぞ、この喜びの食卓に来なさい」と招いてくださる神、その神の招きとは、「神が私たち一人一人を造ってくださっている。この世界の全てを造り、私たち一人一人の名前を呼んで、今日ここで生きることができるようにしてくださっている。あなたの名前を呼び、どうぞ、ここに来なさいと招いてくださっている」、そういう招きだと考えられているのです。神は何度でも繰り返し、倦むことなく名前を呼び、一緒に喜ぼうと言って招いてくださる。ですから、この婚宴に招かれてやって来た人たちは、たとえ後から遅れて来たとしても、その人は、来る予定など無くたまたまひょっこり来た、という人ではありません。招く側の王、神は、一人一人のことを良くご存知でいらっしゃるのです。今日この礼拝に初めて来られた方がいらっしゃるかもしれません。その方も、ご自身としては、初めて来た場所だから誰も自分を知っているはずはないと思うことでしょうが、神はご存知であって、ここに来るようにと招いてくださったのです。

 ところが今日の話は、そのようにして神が招いてくださったのに、招きに応えて来ようとする人は誰一人いなかったという話です。招きに応えないどころか、神の招きが度重なると、それを煩わしく思って、使いの者を捕らえて殺してしまったということまで起こります。どう理解すればよいでしょうか。
 主イエスはここで、非常にあっさりと説明しています。この神の招きは大変大きなことですが、しかし、招かれた一人一人にとっては、さほど値打ちのあるものと思われていないと言うのです。王の招きよりももっと重要で、はるかに大事に思えることが、招かれた人々にはあったのだと説明されます。5節「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあります。王を嫌っているから招きに応えなかったということではない。ある人は畑でせっせと働かなければならないと思っている。別の人は商売にせいを出さないといけないと思っている。
 こういう説明を聞かされますと、私たちはふと気づかされるのではないでしょうか。王の招きに応えなかった人たちは、それだけを考えますと大変失礼な、良くない人物のように思えますが、しかし実際に一人一人を考えてみますと、そうではない、逆に大変勤勉で、毎日毎日忙しく働いている人たちです。畑を見れば、今日は草取りを今日は水やりをと心を砕いている人たちです。そういう日々の忙しさゆえに、神の招きに応える時間が無くなっているのです。
 実は、今日の譬え話では、このことが一番深刻で恐ろしいこととして語られているのだと思います。神の招きがあるのに、私たちは、日々の暮らしに追われてしまっているということです。
 私たち自身の日常を思い返しますと、私たちも、日々の忙しさに押し流されてしまっているということがあるのではないでしょうか。本当なら、神の招きに応えて神のために用いるべき時間を、私たちは、忙しさのために作り出せないでいるということがあるかもしれません。もちろん、私たちは神が自分たちの上におられるということを分かっているはずです。そしてまた、神にお仕えするべく感謝して生活すること、自分の生活を通して神への感謝を表すのだということも分かっているはずなのです。ですから、日々に考え、正しいと思うこと、良いと思うことを実行しているということもあるのです。ところが、それでいて、「神が今ここで、わたしと共にいてくださるのだ」ということを受け止める力が弱くなっているということがあると思います。
 いつも忙しくしていることが当たり前の私たちです。その結果は、神の前にやってきた時でさえ、私たちは、心を鎮めるということがなかなかできなくなっているのです。礼拝に来て、ここで聖書の御言葉の前に立ち止まって静かに神を思う、そうあるべきなのに、教会の中であっても自分がやるべき事柄のあれこれに心を忙しくしているので、神の喜びへと招かれていることを思うことが不得手になっているようなところがあるのです。

 日曜日はどういう日か。礼拝を捧げる日であると、私たちは良く心得ているつもりです。けれども、あまり考えないことは、ではなぜ一週間に一度、日曜日が回ってくるのかということです。どうして日曜日が他の曜日と区別されて、主の日と言われるのか。どうしてこういう日が一週間に一度与えられているのか。それは、私たちの人生の日々、日常の日々が何のために与えられているのかということを私たちが忘れないためです。そのために繰り返し、主の日は巡ってくるのです。
 もし私たちが「主の日」を失ってしまったら、曜日として日曜日が回って来たとしても、私たちが本当に神に喜ばれているのだという御言葉に耳を傾けて、神の喜びを一緒に味わうということが、私たちの生活からすっかり抜け落ちてしまいます。そうなると私たちは、「神さまはいる」と知っていても、それでも自分の忙しい生活が全てになってしまい、あっという間に人生の日々が過ぎ、地上の時が終わってしまうということになってしまうでしょう。
 けれどもまさに、私たちがそのように忙しく過ごしている、その私たちの上に、神が真に大きな喜びを置いてくださっているのです。自分の思うようになってもならなくても、様々な問題や痛みを抱えていても、「そういうあなたが生きていることが、わたしは本当に嬉しいのだよ」と、神が言ってくださっているということを、私たちは忘れてしまうのです。神は、それを忘れさせないように、繰り返し繰り返し私たちに語りかけようとして、「この日は、わたしの日なのだよ。この日はわたしの言葉を聞く日なのだよ」と、日曜日を与えてくださっているのです。週ごとに日曜日が与えられて、私たちは、「神さまが本当にわたしを愛してくださっているのだ」という御言葉の光の許に引き出され、神の光に照らされて、「あなたは、わたしの光の下に生きているのだよ。あなたがわたしを忘れている時にも、わたしはあなたを覚えて喜んでいるのだよ」と聞かされるのです。そのようにして、神は繰り返し、神の喜びの婚宴へと私たちを招いてくださるのです。
 私たちがどんなに大事な一人として神から覚えられているか、どんなに大切な存在として扱われているか、どんなに配慮して神が私たちの一生を支えようとしてくださっているか、そのことを知るために、私たちは、日曜日に教会へと招かれるのです。

 神は、どれほど私たちを大事に思ってくださっているのでしょうか。神は、ご自身の最愛の独り子を十字架に磔にして犠牲を払っても構わないとおっしゃるほどに、私たちを大事に考えてくださっています。ですから私たちは、神のその本当に深い私たちへの思いを聞かされ、私たちの体の隅々まで神の喜びに満たされるために、この礼拝へと招かれているのです。「わたしの喜びの宴に、あなたも集って来なさい。そして、わたしの喜びに満たされて、もう一度ここから、わたしの国の民として生きていきなさい」と教えていただくために招かれているのです。
 そして、今日の婚宴の譬えは、そういうことを伝えている譬えです。ですから、この婚宴に招かれている人たちというのは、どこかよその誰かではなく、ここにいる私たちです。私たちは、神の婚宴に招かれて、そして「わたしの喜びに与るために、あなたはこの地上を生きているのだ。あなたの人生はそういう人生なのだよ」と呼びかけられているのです。

 ところが、そのように招かれている一人一人が、自分の生活の予定が忙しく、それにかまけて、つい招きを袖にして出かけてしまっている。今日の譬えの中で本当に不気味だと思うことは、自分の思いを先立たせて神の招きに応えない人たちが、元々王と関わりのないところにいた人たちではないということです。「婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」とあります。教会や礼拝にこれまで関わりを持たなかったため、神を知らなかったために、神の招きを軽く考えているということではないのです。そうではなくて、ずっと前からこの王と関わりがあって、婚宴があることを聞かされていた、そういう人たちが、婚宴に呼ばれたのに来なかったのです。ずっと神との関わりの中で生きて来た人たちです。神に顧みられ、神の配慮の中で支えられていたはずの人たちが、今日の譬えで問題になっている人たちなのです。
 そしてその人たちは、自分としては神のことをよく分かっているつもりなのです。「わざわざ毎週繰り返し聞かせてもらわなくても、神がわたしと共にいるなんてことは十分承知している。わたしは神のものとして生きようとしている」と、自分としては神のことを分かったつもりでいるのです。しかしそうでありながら、実際には自分の生活のことであれば時間を使っても、神の喜びを共に味わうためには時間を用いようとしなくなっているのだということが、この譬えで語られていることです。

 さて、話は進みます。王がせっかく、「この喜びを一緒に味わって欲しい。日頃、あなたがわたしの民として生きていることを、わたしがどんなに喜んでいるか、そのことを一緒に喜びたい」と招いているのに誰も来ないのですから、それで、王は更に多くの人を婚宴に招こうとするのです。「往来で見かけた人は、善人も悪人も皆招かれる」、それは、実は、今現在の教会の姿なのです。主イエスがこの話をなさった時に、最初に語られた相手はユダヤ人たちでした。イスラエルの人たち、彼らが旧約の時代からずっと、神の招きの許に置かれていた人たちです。ところが、彼らが主イエスを通しての神の招きに応えなかったので、聖書の中で異邦人と呼ばれる人たち、ユダヤの血筋でない人たちにも、神の招きが語られるようになったのです。
 旧約聖書の中だけで考えれば、今ここにいる私たちの中にユダヤ人はいませんから、誰一人、神の民ではないのですが、にも拘らず私たちが教会にいるのは、後から私たちが呼び集められたからです。教会の礼拝にやって来る時に、私たちがまず呼びかけられることは、「ようこそ、いらっしゃいました。あなたが今日ここにいらっしゃることを嬉しく思います。あなたも神さまに招かれているのですよ」ということでしょう。そして「よろしければ、続けてまたお出でください」と招かれるでしょう。どうしてかというと、この神の喜びの宴は、集まる人たちによって左右されるものではないからです。どんなことがあっても、この婚宴は祝われます。招かれた人たちが来なくても、神はそれでもご自身の喜びの宴を開き、喜びを共にしようとなさいます。最初に招いた人が来なければ、その人たちを抜きにしても、この宴は開かれます。そして、どんな人であっても、ここに来ることができた人は、「ここで一緒に喜んでよいのだよ」と言っていただくのです。

 さて、そういう婚宴であったにも拘らず、今日の最初に話しましたが、この婚宴にやって来た人の中で、一人、外に放り出されてしまった人がいるのです。王が婚宴にやって来た人たちを見ようとしてやって来ると、そこに婚礼に相応しくない格好の人、礼服を着ていない人がいたのです。どうしてこの人は礼服を着なかったのでしょうか。あるいは、ほかの人たちはどうして礼服を手に入れたのでしょうか。
 王から咎められ追い出されてしまったこの人の話を聞く時、私たちは、ついこの人に同情してしまいたくなるだろうと思います。大通りを歩いていて急に呼び止められ、「王さまが婚宴に来るように招いていますから来ませんか」と言われて来ただけですから、礼服など持っているはずがないと思う、それが普通だと思います。けれども、同じようにしてこの婚宴に呼ばれた人たちは一人ではありませんでした。最初に呼ばれた人たちは皆断って来なかったのに、結果として大広間はいっぱいになっているのですから、そこにいる人たちは全員、往来で呼び止められ、招かれてやって来た人たちなのです。そうであれば、皆どうして礼服を着ているのでしょうか。その礼服は一体、どこから手に入れたのでしょうか。一人の人だけが礼服を着ていないという理由で非難されるのはなぜでしょうか。
 聖書の中では何度か同じようなことが言われているのですが、当時のユダヤの裕福な人たちが何か祝宴を催す時には、招かれた客人のために、新しい服が用意されました。とても貧しい人が祝宴を催す場合であっても、足を洗う水くらいは皆にあげて、足を洗って、ぜひこの祝宴にお入りくださいと言いました。裕福な人であれば、足を洗うだけではなく、「どうぞこの場に相応しい晴れ着を差し上げますから、これを着て、席に座ってください」ということをしていました。ですから、王宮に集められた人たちの着ていた礼服というのは、王が準備しておいたものです。
 そうなると、この礼服を着ていない人というのは、どういう人でしょうか。それは、王から礼服をもらっておきながら、それを着ていないということになります。どうして着ないのでしょうか。明らかにそれは、「そんなもの、気なくていい」と考えたからでしょう。この人は、図々しくも、王の祝宴に呼ばれているのに、身なりを整えないで喜びの場に入り込んでいるのです。そして「自分はこれで構わない。来てやったんだからいいだろう」と思っているのです。これは、大変王を見下したことになるではないでしょうか。この人は、王の招きがどんなに途方もない大きな出来事かということを理解していません。この人は、自分に声がかかったのは当然のことであって、王の恵み、招きがあったからだと思っていません。招きは当然の権利であるような顔をして、「わたしは呼ばれて当然だし、来る資格があるのだから、わざわざ着替えなどしなくてもよい」と言って座り込んでいるのです。
 けれども、そういうやり方では果たして、この人は、王が喜んでいる喜びを皆で喜び味わうということに参加できるのでしょうか。「あなたのことも喜んでいるよ。あなたにも一緒に喜んで欲しいと思っているよ」という招きに対して「ありがとうございます。わたしも参加させていただきます」という気持ちではなく「来てやったのだ」という姿勢で参加しているのであれば、本当に王が喜んでいる喜びを、この人は共に味わうことができるだろうかと考えますと、恐らく、そうはならないと思います。

 ここで言われている「礼服」とは、何を指しているでしょうか。お気付きの方もいると思いますが、実は、「主イエス・キリストの十字架と復活」のことです。「主イエスの十字架の出来事は、あなたのためにも起こっている。あなたは、主イエスの十字架の苦しみによって赦され、新しくされている。あなたも新しい命を生きてよい。そう招かれているのですよ」と呼びかけられているのです。私たちは、そういう主イエスを着せていただくことで、実は、神の喜びを本当に味わって生きる、そういう者にされていくのです。

 私たちは、自分自身の強い思いとか、神への強い愛とか、あるいは自分自身の精進とか、そういうことで神の民に加えられる資格を身につけるのではありません。そうではなく、神の方から私たちに、「あなたはわたしのものだよ」と言って晴れ着を手渡していただいて、そして、その晴れ着を着ることで、本当に神のものであることを知って喜ぶことができるようになるのです。
 私たちがここに集って、神の喜びに与るところでは、どうしても、「主イエスが私たちのために十字架にかかって血を流し、私たちの身代わりとなって、私たちの汚れや過ち、罪を清めてくださった」ということを抜きにするわけにはいきません。主イエスの御業によって私たちが包まれ、神からの呼びかけに応えて、ここで一緒に喜ぶ。その時に私たちは、神が喜んでくださっている喜びを自分でも喜ぶ者とされます。
 私たちは、そういう者としていただいて、今ここで生かされ、その恵みを覚えてここから生きていくようにと招かれていることを覚えたいのです。

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