聖書のみことば
2018年8月
  8月5日 8月12日   8月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月12日主日礼拝音声

 神のものは神に
2018年8月第2主日礼拝 8月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第22章15〜22節

22章<15節>それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。<16節>そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。<17節>ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」<18節>イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。<19節>税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、<20節>イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。<21節>彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」<22節>彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 ただ今、マタイによる福音書22章15節から22節までをご一緒にお聞きしました。15節に「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」。一つの陰謀が、主イエスに対して企てられたと述べられています。
 主イエスがガリラヤの地で神のご支配を宣べ伝える伝道を開始されて以来、本当に多くの人たちが主イエスの言葉と業に魅了され、従うようになっていました。主イエスは言葉にも行いにも力があったからです。多くの人々が主イエスを慕い、主イエスの行かれるところにはどこへでも付き従って行きました。ところが、そのことを面白く思わない人たちがいました。ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスが来られるまでは、自分たちが人々を教え導いていました。ですから、主イエスが大勢の群衆を引き連れていることを大変妬ましく思ったのです。そして、何とかして主イエスのボロを掴んでやろうという下心を持って、主イエスがまだガリラヤにいた頃から散々論争を仕掛けてきました。主イエスへの反発は、特に、主イエスがエルサレムの都にお入りになった棕櫚の主日以来、非常に激しくなっていきます。エルサレムに入城した主イエスが宮清めをなさって、神殿の境内に立ち並んでいた多くの両替商や献げ物にする動物を売っていた店を境内から立ち退かせた、そのことが、ファリサイ派の人たちだけでなく、当時エルサレムで権力を持っていた祭司長たちやサドカイ派の人たちまで巻き込んで、主イエスとの対立が鮮明になっていきました。何とかして群衆の前で主イエスに恥をかかせて、主イエスの方に向いている群衆の期待をそいでしまおうと企てます。そのために、誰にも答えることができなかったような難しい問題を主イエスにふっかけ、言葉で主イエスを陥れてやろうと幾つもの議論を繰り広げていったのです。この22章には、そのような論争が4つ出てきます。それで、今日の箇所は、その一番最初のところです。

 ローマ皇帝に対して税金を納めるべきか納めるべきでないか、納税に関する議論です。この議論の中で、罠が仕掛けられている問いの言葉は、17節です。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。ローマ皇帝への納税が正しいか正しくないかが問われています。そして、はっきりと記されているわけではないのですが、この問いが罠です。この問いかけにある罠とは何か。もしローマ皇帝の支配が完全に確立されていささかの揺らぎもないということであれば、税金を納める側のユダヤ人たちは、好むと好まざるとにかかわらず、もちろん税金を取られることは嫌でしょうが、しかし、力づくで取り立てられたとしても何も文句は言えません。
 ところが数日前、エルサレムには「ナザレのイエス」という若いラビ=教師がやって来て、いかにも自分はメシアだという顔をして振る舞っていました。そういう若いラビの行動を見て、「もしかすると本当に、この人物は救い主なのではないか。自分たちにも新しい時代がやって来たのではないか」と期待する人たちが神殿の境内に群がって来たのです。そして、主イエスの教えを皆喜んで聞くという状況になっていました。ここに、本当にもしメシアが統治する新しい国がやって来ているとするならば、もはやローマ皇帝に納税することについて考え直しても良いのではないでしょうか。実はこの時まで、ローマ皇帝への納税は、ユダヤ人たちの名誉を傷つけ怒らせる原因になっていたのでした。

 ローマ皇帝への税金は、一人一年間1デナリオンと決められていました。1デナリオンは私のたちの貨幣に換算すると、7000円から8000円という金額ですから、金額的には我慢できる程度ですが、問題なのは、ユダヤ人全体を辱め、それでいてユダヤ人は何一つ不満を言い表すことができないということにあります。ローマ皇帝への納税は、収入の程度に応じて社会の役割を分担するというような税金ではなく、人頭税、つまりローマ帝国に支配されている国々の人たちは、14歳から65歳まで、毎年必ず一人当たりこの税金を払わなければならないという税金です。ローマ市民にはこの税金はかかりませんから、毎年この税金を支払うということは、言ってみれば、自分たちはローマ帝国に支配されている国民だということを年ごとに確認させられていくような性格の税金なのです。征服された国民は、太陽も水も空気も、暮らしている大地の一角も全部、ローマ皇帝のお情けのもとに与えられているものなのだから納税せよ、と取り立てられていた税金なのです。ですから、ユダヤ人からすれば、これは大変不名誉な税金です。もし今、ローマ皇帝の力の支配が終わって新しい時代が来るのであれば、こんな税金は支払わなくても良いとユダヤ人の誰もが思っているのです。
 皆心の奥底ではそう思っていますが、しかしローマ皇帝が実際に権力を持ってユダヤ社会を統治している間は、このことを大っぴらに言うことはできません。そういう点をファリサイ派の人たちは巧みに利用して、悪意をもって主イエスのボロを引き出そうとして言うのです。問いかけの直前の16節で、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」と言ってから、「ところで、この納税は正しいでしょうか、どうでしょうか」と聞いています。「あなたはいかにもメシアのように振る舞っているし、だれをもはばからない方ですね。だから教えてください。私たちが今ローマに支払っている税金は、払ってもよいものなのでしょうか」と聞くことによって、ユダヤ人の誰もが心の奥底に抱いている言いようのない反発、税金に対する感情を、ファリサイ派の人たちは巧みに利用し、自分たちは手を汚さずに、上手く主イエスを葬り去ろうと企てました。
 そして、この質問に正面から答えたならば、どのみち主イエスは罠に引っかからずにはおれないと、ファリサイ派の人たちは見越しています。あるいは、答えなかったとしても、恐らく主イエスは行き詰まると思っています。どうしてかと言うと、もし主イエスがこの税金を支払うべきだと答えたならばどうでしょうか。「あのイエスは、いかにもメシアらしく、ローマの支配から我々を救い出すかのように振る舞っているけれども、しかしローマ皇帝に納税せよと言うならば、結局ローマ皇帝の手先に過ぎない。民衆の敵だと公言しているようなものだ」ということになります。そしてファリサイ派の人たちが、この答えをユダヤの人たちに触れ回って行けば、あっという間に主イエスへの民衆の期待とか信頼は地に落ちてしまうということが目に見えているのです。しかも、エルサレムの町の雑踏の中には、常日頃から短刀を帯に挟んで町中を徘徊している熱心党と呼ばれる人たちがいました。この人たちは大変強いナショナリズムの持ち主で、ローマの手先だと思う人を片っ端から暗殺していました。ですから、主イエスがローマの手先だということになれば、いずれは熱心党の人たちが主イエスの命を付け狙い暗殺してくれると、ファリサイ派の人たちは思っていたのです。
 逆に、主イエスが「納税すべきではない」とお答えになった場合には、事情は更に単純になります。ファリサイ派の人たちはすぐに、ローマ帝国の当局に駆け込み、「ナザレのイエスが民衆の前で、ローマへ納税しなくてよい」と吹聴していると密告すればよいのです。そうすれば、ローマの守備隊によって主イエスはすぐに捕らえられ、国家転覆罪で裁かれ、あっという間に処刑されてしまうでしょう。
 ですからこの問いは、「納めるべき」とも「納めるべきでない」とも答え難い問いなのです。では、沈黙を守ったらどうなるでしょうか。これは、主イエスの臆病の表れということになります。主イエスは、いかにもメシアだ、新しい時代をもたらすのだという顔で振る舞っているけれど、いざ難しい出来事の前では口をつぐんで、こそこそと群衆の中の一人のようにして身を隠してしまう、そういう人間だということになります。「メシアの時代、新しい時代がこの人によって来るかもしれない」と期待していた人には、明らかに期待を裏切られるということになります。「口先では大きなことを言っているけれど、実際には無力な情けない者に過ぎない」、群衆がそうと知れば、群衆の注目は主イエスから離れ、付き従う人もいなくなるでしょうから、一人きりの主イエスを暗殺することは容易いことでしょう。ファリサイ派の人たちが思い描いたことは、主イエスがどう答えても、あるいは答えなくても、この問いによって主イエスは破滅するだろうという将来です。大変巧妙な罠を仕掛けたのです。

 こういう問いに対して、単に罠を見破って上手く逃れるという以上に、もしこの問いに正面から答えるとすると、どういうことになるのでしょうか。この問いかけについては、教会の中で、もう随分昔から、「これはキリストと政治の問題だ」とか「教会と国家権力の問題だ」と取り沙汰されてきました。そのように受け取る人たちは、今自分たちが生きている社会の政治権力、国家制度というものを、この箇所でのローマ帝国の支配と重ね合わせて考えるのです。そして、そういう社会の中で自分たちは一体どのように生きるべきなのかを考え、行動していきます。今日は8月第2日曜日ですから、今週は原爆投下があり、また来週は終戦記念日がありますので、もしかすると、全国の教会の中には、今日のこの箇所を受け止めて説教するという場合があるかも知れません。
 けれども私たちは、そのようにこの箇所が教会の中で様々に取り沙汰されてきた歴史や論評に、今、踏み入るのではなく、ここで主イエスがどうお答えになっているのかという、その答えの方に目を向けたいと思います。人間の社会が本当にあるべき姿に近づくようにと努力することは大変大事なことで、私たち一人一人もその責任を負っていると思いますが、私たちが今日ここに集っているのは、市民社会の担い手として、この国や住む町をどうやって良くしていくかを議論するためではありません。そうではなく、神の御言葉に呼び集められ、神の御言葉、主イエスの御言葉を聞いてどう生きるかということが私たちにとっての課題ですので、主イエスがこの問いかけに対してどう向かっておられるのかということに心を向けたいと思います。
 主イエスに問いかけた人たちは悪意を抱き、主イエスを破滅させようとして言葉じりを捕らえようとしています。けれども主イエスは、そのような罠を逃れようとすることを第一となさるのではありません。表面的に相手の欺瞞を突いてやろうとするのではなく、本当のメシアとして、救い主として、相手を包み込み、相手を思いやりながら、ここでは逆に問いかけを発せられます。20節です。主イエスはデナリオン銀貨を持って来させて言われました。「これは、だれの肖像と銘か」。
 主イエスの手に渡されたデナリオン銀貨の肖像と銘は、もちろん、ローマ皇帝です。私たちは普段、この章を聞くときには、「ああ、コインにはローマ皇帝の肖像が彫ってあったのだな」と上辺のことしか気づかず、コインを手にされた主イエスが何を考えておられたかまで思い至りません。私自身も主イエスがこの時どのようなことをお考えになったかを全て承知しているわけではありませんが、しかし、コインを手にしながら、今まさに自分に罠を仕掛けようとしている人たちのことを考えておられたということは確かだと思います。主イエスご自身は、主イエスに対して悪意を抱いている人たちのことを深く憐れんで、その一人一人のことを考えておられます。なぜこのようなことが言えるのかと言うと、もし罠を逃れようとするだけであれば、主イエスの返事は「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という一言で足りるのです。けれども、主イエスはそれ以上のことを語っておられます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。主イエスがデナリオン銀貨を手にしてお考えになったこと、それは、日々の生活に追われて自分自身が本当は何者なのかということを見失ってしまっている人たちが、まさにご自分の前にやって来ているということです。

 聖書の中には、人間一人ひとりが本当は何者なのかということがはっきりと告げられている箇所があります。人間一人ひとりとは何者か。それは、神がご自身に似せてお造りになった作品、神の像を与えられて生かされている者たちであると語られています。創世記1章26節、27節です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。「神にかたどって創造された」とありますから、私たちは、神が人間の姿をしていると受け止めることはできないと思います。ここではっきりと、神にかたどって造られた人間は男と女だったと言われています。男性と女性では姿形は明らかに違いますし、感じ方や考え方も違うかも知れません。
 ここで言われている「神のかたち」は、形状のことではありません。神が言われたことは「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と、大変不思議な言葉ですが、唯一の神が「我々」とおっしゃっています。神がご自分の中に交わりを持っておられるのです。そのような神にかたどって人間が創造されているということはどういうことでしょうか。人間は元々、交わりを持って生きるように造られているということです。自分一人だけで完結するのではありません。隣の人との交わりの中に生きて、自分とは違う感じ方、考え方、自分とは違う姿、特徴を持っている人間同士が、お互いに助け合い、支え合って、互いの豊かさを分かち合って喜んで生きていく社会的な存在として造られていること、それが神にかたどって人間が創造されているということです。
 ところが、今主イエスの前にやって来ている人たちはどうでしょうか。互いに違いがあることを思って助け合おうとしている、ということではありません。助け合うどころか、自分と違うので妬み、罠にかけて破滅させようとしているのです。主イエスは、そういう人間のあり方が「本当に惨めだ」と、憐れに思われるのです。自分と違う者を打倒しなければ我慢ならないというあり方をする人は、いずれ一人ぼっちで「わたしが偉いのだ」と言って孤独になって行かざるを得ません。この時、主イエスの前に立っていた人たちは気づかなかったかもしれませんが、誰かを陥れてやろうと思っているその人自身はとても悲惨な姿で生きているのです。「誰かを陥れてやろう」という生き方をする限り、その人は人間に対して信頼を持てなくなります。誰かに対して悪意を持ち、傷つけてやろう、悲しませてやろうと思うならば、その人はきっと、ほかの人も自分と同じことをするだろうと思うに違いありません。そうなれば、いつも安心して周りの人たちと一緒にいられるでしょうか。いられなくなるでしょう。
 私たちがどこでも恐れを持たず、信頼を持って他者と交わることができるのは、私たち自分自身が本当に相手のことを思い、相手と一緒に生きようするからです。そうでなければ、心の底で私たちは誰も信頼できなくなり、いつも不安に駆られ、誰かを憎んで生きざるを得なくなってしまいます。主イエスは、そういう孤独な姿を、目の前に立っている人たちの中に感じておられるのです。

 こういう主イエスの姿を聖書から聞かされますと、思い出すことがあります。主イエスはかつて、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と教えられました。私たちは、このことをしばしば、これは隣人に対してするべきことなのだと思いますが、実は違います。人にしてもらいたいと思うことを人にもするのはなぜか。それは、そういうあり方をしないと、私たち自身が孤独になってしまうからです。周りの人のことを思って生きる人だけが、本当に辛いときには、「周りの人がきっと、わたしを覚えてくれる。支えてくれるに違いない」という信頼を持って、辛い状況を踏ん張って、なおそこを歩んで行くことができるようになります。もし自分に「周りの人を助けよう」という思いが全くなかったら、自分が困難に直面したり厳しい状況に陥った時には、「誰もわたしを助けてくれない。人間というのはそういうものだ。わたし自身がそうなのだから」と思ってしまうに違いないのです。
 主イエスは、「人間は自分一人で生きる者ではない。神さまによって交わりを与えられた社会的な存在として造られているはずだ。だから、あなたがたは自分がしてほしいと思うことを人にもしてあげなければならないのだよ」と教えてくださっているのです。

 今日の箇所で、主イエスは、「皇帝のものは皇帝に」と答えるだけではなく、「神のものは神に返しなさい」と一言付け加えられました。こうおっしゃったときに主イエスが考えておられたことは何でしょうか。「神のもの」とは何か。デナリオン銀貨ではありません。そうではなくて、主イエスの前に集まって、主イエスがどう返事をするかと身構えている一人一人のことを、「あなたがたは神のものなのだよ」とおっしゃっているのです。主イエスがここで本当に問題にしておられることは、主イエスの前に立っている一人一人です。デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていますから、これは皇帝に納めなければなりません。けれども、「あなた自身はどうなのか。あなたは、本当は神のものだ。神さまに造られ、神さまの像が刻まれて、交わりの中に生きる者として造られているはずだ。そうであれば、神のものとして生きていくべきではないか」と教えようとしておられるのです。
 主イエスがここでおっしゃっていることは、「あなたは一体何者なのか」という、私たちへの問いです。神がご自分に似せて私たちをお造りになったからには、私たちは、神に造られ神との交わりに生きる者という像を持っているはずです。ところが私たちは普段、そんなことは何も考えていません。私たちは神から与えられた命を生きているにも拘らず、与えられた命であることも忘れていますし、社会的な存在として助け合って生きるのだということも忘れています。自分の人生は、自分の願いや思いが実現するステージだと思っている人が殆どです。恐らく、学校現場でそう教えられている人も多いことでしょう。自己実現を目指して生きることは、自分一人だけの話です。多くの人が、「あなたの人生は周りの人たちと一緒に生きるためのものだ」ということが大切なこととして教えられずに、「人生は自分のものなのだ」と教えられ育っているのです。
 誰も、自分で生まれようとしたわけではなく、今の自分のようでありたいと思ってそういう姿をしているわけではありません。命を与えられ、支えられて生きているということは、教会の外では殆ど話題にならないでしょう。人生は自分の思い通りになると思っているために、私たちはどうしても不安にならざるを得ません。どうしてかというと、私たちは決して、自分の思った通りに生きてはいないからです。自分の人生は自分の思い通りに生きるべきものなのだということが、人生の成功、失敗の物差しになるならば、私たちは誰一人、成功していません。思い通りの人生を生きた人など、誰一人いません。

 私たちは、神に命を与えられ、命の故郷から送り出されています。「あなたの命を、わたしが祝福しているのだよ、だから、いろいろなことがあるけれど、そのままで生きていって良いのだよ」と知らされ、神との交わりの中に受け止められているにも拘らず、その命の故郷から離れてしまっているために、私たちはどうしても孤独な不安を抱えて生きざるを得なくなっているのです。私たちは、日々の生活を忙しく過ごしている中で、自分が本当は何者なのかをすっかり忘れてしまっている、そういう姿を取ってしまっているのです。
 私たちは、今生きているこの社会の中で、どこに拠り所を感じるでしょうか。自分が周囲からどのように頼られ、求められ、大切だと言ってもらえるか、そんなところに自分の存在意義や価値を見出そうとすることが多いと思います。自分自身がまだ若く働きがあり、頼られている間は、自分が何者かを忘れていても、周囲が「本当にありがとう。あなたに助けられています」と言ってくれるので、私たちはそれでよいと思ってしまうのです。けれども、聖書が私たちに語りかけていること、そして、私たちが本当に知らなければならないことは、周りから頼られ周りから必要とされているところに自分の存在理由があるのではないということです。私たちの存在理由は、人間によって与えられるものではありません。神が私たちに「あなたは生きて良いのだよ」と、命を与えてくださっているのです。神の像が一人一人の上に刻まれている。私たちはどんなに弱っても、どんなに能力が下がっていっても、それでも、互いに支え合う者として生きるという姿勢を持つことが許されていますが、それは、神が「あなたは本当に大切なわたしの作品である」と言って、ご自分の像を刻んでくださっているからなのです。

 ローマで鋳造され、ローマ皇帝に納められたデナリオン銀貨は、1デナリオンという値段がついていますが、本当は、銀にそれだけの値打ちがあったとは思えません。もし銀貨に含まれている値打ちが額面より高ければ、人は皆、銀貨として使わず、宝物として家にしまい込んでおくでしょう。そういう意味で、貨幣というものは、常に、表示されている金額よりも安い材料で作られているところがあります。1デナリオンと言われていますが、実際には1デナリオンの値打ちのないものを1デナリオンとして流通させているのです。そして、1デナリオン銀貨の場合に、それを1デナリオンであると言っているのは誰かと言えば、それはローマ皇帝なのです。ローマ皇帝が1デナリオンと定め、そう刻印するので、1デナリオンとして流通するのです。
 それと同じように、私たちの上にも神の像が刻まれています。私たち自身は、そんな値打ちのあるものではないかもしれません。神の像が刻まれているというのは、何によってその値打ちが保証されているのでしょうか。それは、私たち自身の内実によってではありません。神が私たち一人一人の上に、「あなたはわたしの作品だ。わたしが命を与えた者だ。そういう者として、あなたは生きているのだ」と言い続けてくださっているので、私たちは、一人一人が尊厳を与えられ、かけがえのない者として生かされているのです。そして、それは何のためかというと、私たちが周囲と交わりを持ち、互いを支え合って生きて行くためなのです。

 主イエスは、デナリオン銀貨を手にしながら、目の前にいる人たちに、「あなたがたは、神の像が刻まれている一人一人であるはずだ。本来、あなたのあるべき姿はどのようなものか。人の足を引っ張ったり罠にかけたり破滅させることのために、あなたの人生を使うのではないはずだ。そんなことではなく、神さまにかたどられ、交わりを与えられた中で、互いに支え合う者として生きて行くべきではないのか」、そのことを思い起こさせようと語りかけておられます。

 コインというものは、この世で忙しく流通して行きますが、人から人に渡って行くうちに、いつしか傷ついてしまうということがあります。もともとコインは丸い形をしていますが、何かで傷ついて険しい角がついたりします。あるいはすり減って、皇帝の肖像が薄れたり、汚れて見えにくくなったりします。そういうコインの価値は下がるものかというと、そうではありません。どんなに傷ついていても、10円は10円だと思って流通して行きます。そして、人間もそんなところがあるのではないでしょうか。私たちは、生まれてから生きて行く間に、もみくちゃにされます。様々に傷つき、自分としても、神の像が刻まれていることが隠されてしまうということがあるかもしれません。「交わりを生きなければいけない」と言われてしまうと、とてもそうなれていない自分に気づくことがあるだろうと思います。しかし、主イエスはここでおっしゃっています。「あなたは、そういうコインだけれど、間違いなく神さまによって造られ、交わりの中に生きる人なのだ」と、主イエスはご自身が十字架にかかることによって、このことを確かに知らせてくださるのです。神の独り子の命で贖ってでも、あなたを救わなければならない。それほどにあなたは値打ちがある。「神さまに大事にされている者なのだ」と教えられています。

 私たちは、十字架の上を見上げるときに、どんなに自分が神にとって大事なものとされているのかということを知らされます。傷つき、見る影もないほど傷んでいる、そういうコインでしかないかもしれないけれど、しかし、間違いなく、「あなたはわたしのものなのだ」という神の呼びかけを聞かされます。
 私たちは毎週教会に集まって、何をしているのでしょうか。それは、自分が本当は何者であるのかということを、ここで確かに聞かされているのではないでしょうか。自分が何者かを聞かされているので、どう生きるべきかを考えさせられて、それぞれの生活に向かって行くようにされているのではないでしょうか。私たちが生きる地上の生涯は、全て、生まれた時から地上の生活を終える時まで、神のしるしが刻まれた人間の生涯を生かされているのだということを覚えたいと思います。この恵みを改めて知らされ、ここから新しく歩んで行きたいと願います。

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