聖書のみことば
2018年5月
  5月6日 5月13日 5月20日 5月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月27日主日礼拝音声

 キリストの飲むべき杯
2018年5月第4主日礼拝 5月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第20章17〜28節

20章<17節>イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。<18節>「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、<19節>異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」<20節>そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。<21節>イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」<22節>イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、<23節>イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」<24節>ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。<25節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<26節>しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<27節>いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。<28節>人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 ただ今、マタイによる福音書20章17節から28節までをご一緒にお聞きしました。その中の20節21節に「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』」とあります。見事に育った二人の息子を従えた母親が、主イエスの前に願い出ています。ゼベダイの二人の息子はヤコブとヨハネです。二人がこの時何歳だったのかを正確に言うのは難しいのですが、おそらく弟のヨハネが十二弟子の中の最年少であったこと、あるいは紀元100年の少し手前まで生きていたと言われていることを考え、主イエスが十字架にお架かりになったのが紀元30年から32年の間と言われていることを考えますと、ヨハネが16歳から18歳くらいで、ヤコブが20歳前後だったのではないかと想像することができます。
 十代の終わり近い男の子、二十代前半の男の子を連れて、その母親が主イエスの前に来て息子たちのために願い事をするというのは、少し不思議な感じもします。もう少し小さな子であればそういうこともあるかと思いますが、ヤコブとヨハネはもう将来のことについて自分で考え始めている年代です。自分たちの将来について母親がだれかに頭を下げる、しかもひれ伏してお願いする様子を見て、反発を覚えなかったのだろうかと思います。けれども、ここでこの二人は従順に母親に従っていますから、あるいは、この願いはヤコブとヨハネ自身の願いでもあったのかもしれません。そうだとすると、三人とも同じ願いを持って主イエスにひれ伏し、母親が代表して願いを口にしていることになります。「イエスさま、王座にお着きになる時に、ヤコブとヨハネの一人を右に、一人を左に座れるように取りはからっていただきたい」という願いです。

 母親は主イエスに向かって「イスラエルの王として王座にお着きになるとき」と言っていますが、実際にはどんな場面を想像してこう言ったのでしょうか。どうも三人はこの時、自分たちが願っていることがこの先どういう形で実現して行くのかということを確かには分かっていなかったようです。22節で主イエスは三人に向かって「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいました。このとき母親が思い描いていた情景は、おそらく、主イエスが王として即位する大変晴れがましい即位式、王冠を頭にいただく戴冠式のような場面だろうと思います。主イエスは今、エルサレムの都に上って行く途上にあり、間もなくエルサレムです。エルサレムでどのようなことが起こるか、母親は大変明るい将来を思い描いています。「きっと晴れがましく王座に着かれるに違いない。その場面に自分たちは立ち会うことになるのだから、二人の子供の一人は右に一人は左に座らせて欲しい」と願ったのです。ですから、母親が願っていることは、「いつかそうなるといいな」という遠い先のことではなく、今エルサレムに向かっていて、もうすぐ目的地に着く、そこで起こるであろうことを想定して願っているのです。
 けれども、実際から言いますと、その見通しは甚だ甘い見通しだと言わざるを得ません。母親の予想は無残に打ち砕かれることになります。主イエスが向かっているのは王座に続く階段ではなく、十字架に続くゴルゴタへの道です。主イエスご自身はそのことを分かっておられますから、今日の御言葉の最初のところではっきりとおっしゃっています。17節から19節のところで、特に十二弟子だけを呼び寄せて、この先の苦難の道について教えられました。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」。
 「人の子」というのは、主イエスのことです。主イエスは、十二弟子だけには「これからどうなるのか」を非常に細かく教えられました。これまでも受難予告は何度かあって、その時には大勢の人が聞いていました。そこでは「人の子が敵の手に捕らえられて苦しみを受ける」と言われていたのですが、今日の箇所のようにはっきりと「異邦人の手に引き渡されて十字架につけられてしまう」と言われたのは、この三度目の受難予告が初めてです。十二弟子はこれを聞いたのですから、「主イエスが向かっておられる旅の果てには十字架がある」ことを知らされているのです。そうであるのに、今、主イエスの前に進み出ている十二弟子の中の二人、ヤコブとヨハネは、知らされた十字架のことを深刻に受け取らなかったということです。
 どうして深刻に受け取らなかったのでしょうか。この二人には、「イエスさまは心配症なことをおっしゃっている」と聞こえたのです。そのようにヤコブとヨハネの気持ちを高揚させていたものは何かと言うと、自分たちと一緒にエルサレムに向かっていく群衆の熱気です。「自分たちは主イエスと一緒にエルサレムに行く。そして主イエスを持ち上げて、本当に清らかな政治をしてくれる王様として立ってもらおう」、そういう思いを持って従っている大勢の群衆と一緒でしたから、「イエスさまは『十字架にかかる』などと気弱なことをおっしゃっているけれど、そんなはずはない。わたしたちがイエスさまの手足となって働いてお助けしよう。何と言ってもイエスさまはダビデの血筋の方なのだから」と思っているのです。
 実は、主イエスのこの受難予告を深刻に受け止めていなかったのは、ヤコブとヨハネだけではありませんでした。二人が抜け駆けしたことが知れると、他の10人の弟子たちも腹を立てたと24節に記されています。腹を立てたのはどうしてかというと、やはり他の弟子たちも「イエスさまは王座にお座りになる」と思っているからです。自分たちを差し置いてヤコブとヨハネの兄弟が主イエスの左右の席を占めたいと言ったので、腹を立てているのです。また、群衆は十字架のことを聞かされていませんから、「エルサレムに行けば、主イエスが本当に王であり救い主である方として自分たちの上に君臨してくださるようになる」と思っています。そう思っていなければ、喜んでエルサレムの町の中へ入って行くはずがありません。もし群衆が主イエスの身に危険があると思っていたならば、「先生、行くのは止めてください」と言って、エルサレム行きを阻止しようとしたことでしょう。
 この先の21章9節を読みますと、実際に主イエスがエルサレムの町に入って行く箇所が語られています。「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。「ホサナ」というのは「主よ、我らをお救いください」という、神に向かって呼びかける言葉です。「ダビデの子」というのは、いにしえの本当に清らかで正しいイスラエルの全盛期の王であったダビデです。そのダビデの子孫から、やがてダビデのような清らかな正しい王が現れるのだと言い伝えられていました。主イエスはダビデの血筋ですから、主イエスに皆、期待をかけているのです。「ダビデの子にホサナ」というのは、「ダビデの子孫であるイエスさま、私たちを救ってください」ということです。「イエスさまがダビデのような王様になって、わたしたちを治めてくれるに違いない。神さまの祝福がその上にありますように」と言いながら、群衆はエルサレムに入って行ったのです。今読んだ聖書の箇所に「群衆には大変熱気があった」と書いてあるわけではありませんが、語られている言葉の端々からは、主イエスの弟子たちも、また群衆も皆、「エルサレムに着いたら、多少の障害があるにしても、主イエスが自分たちを治める清らかな王になってくださる。ダビデの子として即位式が行われる。主イエスは正しい政治的な指導者として立ってくださるのだ」という期待を持って従っていることが分かるのです。

 主イエスご自身が弟子たちに、「エルサレムでは苦難が待ち受けている。そして十字架に架けられる」とまでおっしゃっているのに、弟子たちは違う将来を描いていたというのがこの時の情景ですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
 私たちは、聞かされたこと、知らされたことよりも、実際に今自分たちが目にしていることや肌で触れて感じていることの方が確かだと思ってしまうようなところがあると思います。私たちは、「教会という群れは、主イエスが共にいてくださるから決して滅びない」と聞かされますと、嬉しい気持ちになります。そのように聖書に言われていて、それで日曜日の礼拝に来る人がどんどん増えるならば元気になるのです。けれども逆に減って来ると、「日本の教会はこのまま高齢化を迎えて、滅びへと向かっているのではないか」などと言う人もいて、私たちも多少なりともそんなことを思ったりしてしまいます。「教会の群れは苦難を経験しながらも、終わりの日に向かって持ち運ばれて行くのだ」と聖書から教えられているのに、聞かされていることよりも、目に見えること、肌で感じることの方が確かなのではないか思ってしまう、そういうところは、今の私たちにもあると思います。主イエスの弟子たちも同じでした。

 主イエスは確かに「これから先は苦しみを経験する。そして十字架が待ち受けている」と教えられました。けれども、それで終わりだとは言われませんでした。その後に「三日目に復活する」とも教えられました。主イエスご自身は、受難予告の中で最後に語られているこの一言、「三日目に甦る」というところに全ての希望を持って言葉を語っておられるのです。「確かに、あなたたちは今から深刻な辛い経験をすることになるけれど、しかし、その経験をくぐって行った先に復活の出来事があるのだから、力を落とさないように」と教える、主イエスの受難予告の意図はそこにあるのです。十字架を語ることで絶望させるための受難予告ではありません。「苦しみは起こる。けれどもそれで終わりではない。その先があるのだ」ということを、繰り返し弟子たちに聞かせて覚えさせようと思っておられるのです。主イエスはご自身の将来について、また弟子たちの将来についても、「わたしに従ってくれば苦しみや困難は無くなる」などと請け合ったりはなさいません。「大変なことは起こるに違いない。けれども、それで終わりではないのだ」と教えられました。「苦しみ、悲しみ、辛さをくぐって行った先に、なお、命の喜びと希望がある。あなたはそれを信じてよいのだから、わたしを信じなさい」と主イエスはおっしゃっているのです。

 主イエスの時代から2000年の時を経て、今、私たちは生きています。そして、たとえ、私たちのこの生活の中に深刻な問題があって、苦しみや悩みや痛みがたくさんあるとしても、そういう私たちに主イエスは伴ってくださって、「あなたが今生きているその生活には、それでも将来があるのだよ。信じているからといっても良いことばかりなのではない。苦難は必ずあるけれども、その先には本当に清らかな希望に満ちた生活があるのだ。あなたはそういう生活へと招かれるために、今を生きているのだよ」と教えられています。

 ところが弟子たちは、主イエスの言葉を聞き取れませんでした。「主イエスを王にする」という自分たちのプランの方が大きく思えていたために、弟子たちだけでなく群衆も、自分たちの熱気で主イエスを王座に押し上げようとしたのです。ゼベダイの二人の息子と母親は、言ってみれば、そのような群衆の代表として主イエスの前にやって来ていることになります。
 主イエスは彼らの願いを聞いて、もちろん、ご自身が教えておられる受難予告を全く分かっていないと思われたに違いありません。そして、エルサレムに着いたら、ご自身がどういう形で人々に王として示されることになるのかを考えながら返事をなさるのです。22節23節に「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』二人が、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ』」とあります。
 こう言われても、主イエスが何をおっしゃっているのか、ヤコブとヨハネには分からなかったでしょう。けれども、私たちは聖書の先を知っているので分かると思います。ここでは、主イエスは十字架のことを考えておっしゃっています。よく知られている通り、主イエスが処刑されたとき、ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。主イエスは中央の十字架にお架かりになり、左右には死刑を宣告された犯罪人が磔にされたことが知られています。
 そしてこのとき、主イエスの十字架の頭のところには「ユダヤ人の王」と書かれた一枚の捨て札が打ち付けられていました。この捨て札が打ち付けられたところで初めて、「この人は王なのだ」ということが誰の目にも分かるように公表されることになるのです。「主イエスが王になる時」というのは、その時のことですから、そこで左右に誰が座るかということは、左右の十字架に磔にされる犯罪人が当てはまることになります。主イエスはそのことを考えて、「わたしの左右に磔にされるのが誰かは、わたしが決めることではないのだから」と答えておられます。
 このようにして主イエスが王として明らかにされることは、ヤコブとヨハネの母親が思い描いた王の即位式や戴冠式とは似ても似つかない出来事です。しかしまさに、主イエスはそういう仕方で「ユダヤ人の王」として、つまり「神の民の王」としての務めを果たしていかれるのです。それは、「神の民の身代わりとなって命を落とす。しかもそれは刑罰として死。民全体を救うために、王であるがゆえに王一人が身代わりとなって死ぬ」ということです。主イエスは、ご自身の王としての務めをそのように考えながら、ここで「左右に座る者は誰か」について答えられました。
 ですから注意して聞きますと、左右の席の話になった時に、主イエスは「王座の左右」とは言っておられません。23節に「しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」とあります。「わたしの右と左」としか言われません。どうしてかと言うと、主イエスが王として示されるのは、「王座に座る、王冠を戴く」ということによってではないからです。そうではなく、「民の代表として荊の冠を被せられ、処刑台に立たされる」という仕方で「王」であることが示されるので、敢えて「わたしの右と左」と言っておられるのです。

 さてこのように、主イエスはヤコブとヨハネにお答えになりましたが、話はここで終わりませんでした。この話を他の弟子たちが聞きつけ、腹を立てたと語られています。24節「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」。ここにはっきりと「十人の者」と書いてあります。ですから、腹を立てた人たちというのは、主イエスが十字架に架けられることをはっきりと聞かされた十二弟子のうちの10人ということになります。十二弟子は皆、十字架の受難予告を聞かされていたのに、それが本当のことだとは思わずに聞き流していたということになります。大変興味深いことですが、残りの10人も腹を立てたということですから、その中にはイスカリオテのユダもいたはずなのです。間もなく主イエスを裏切って十字架への手引きをしていく、そういうユダですが、ここではそのユダでさえ、主イエスが十字架に架かるということを深刻に受け止めていなかったということが分かります。ユダはまさか自分が主イエスを十字架の上に磔にする突破口を開くような裏切りをする者になるとは思っていなかったのです。結果的に、ユダは悪い弟子として後世に名が残ってしまいましたが、ユダ自身はそんなことを少しも思わずに、皆と一緒に旅をしていました。
 そして、そういう点では他の弟子たちも同じなのです。ユダの裏切りによって主イエスが捕らえられた時、弟子たちはどうしたかというと、一目散に逃げ出しました。一人でも二人でも、主イエスと一緒に捕まろうという潔い人はいませんでした。いざとなると、皆、我が身が可愛いのです。それでいて、群衆たちの熱気の中では、自分たちが主エイスを王にするのだと息巻いているのです。
 弟子たちは今、肌身に感じて「主イエスが王になる」と期待しているのですが、その熱気は脆さを孕んだものだと言わざるを得ません。その熱気と意気込みは本当だと思いますが、いざ権力者が力を振るって押さえ込まれると逃げ散るしかない、情けない者でしかありません。主イエスはもちろん、そういう弟子たちの情けなさをご存知です。主イエスは「あなたを王さまにします」と意気込む弟子たちの言葉を間に受けたりなさいません。いずれ逃げ散ってしまうと分かっている。分かっていながら、だからといって弟子たちの発言を無責任な発言だと言って怒ったりはなさいません。むしろ、弟子たちの情けなさ、弱さを承知した上で、しかしそういう弟子たちがやがてはどうなっていくのかということを、教えてくださいます。つまり、主イエスに従う弟子たちの群れ、教会の群れがどういう姿でこの地上に成り立っていくようになるのかを、この時、弟子たちに教えられるのです。それが25節から28節の言葉です。
 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」。「神を知らない異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」と主イエスはおっしゃいます。これは別の言い方をすれば、「この世では為政者は力づくで人々を抑えて、言うことを聞かせるものだ」ということを言っています。神を知らない人たちの間では、皆お互いに、自分の思いを押し通そうとする。自分の願い通り、思った通り、自己実現していくことが人生で意味あることなのだと考えて、自分の思いを押し通そうとしがちだと主イエスはおっしゃるのです。けれども「あなたたちの間では、そうであってはならない。教会の交わりは、そういうふうにはなっていかないものなのだ」と教えられました。
 確かに、主イエスのこの言葉を聞くと、そうだろうと思わされます。私たちは、自分の思いを押し通そうとするところで、交わりが壊されるということを度々経験するのです。自分が潰された、あるいは軽んじられた、承服できないと思い、他者に向かって険しい顔を向けたりします。確かに自分が軽んじられる、メンツが潰されることは気持ち良いことではありませんが、人生の中でそのような経験をすることがあります。その時には、驚きもし腹も立ちますが、しかしそういう時に、私たちはどこに向かうようにすべきなのでしょうか。相手に対して憤りをぶつける、相手に向かうということではなく、私たちは、「十字架の上を見上げるように」と招かれているのだろうと思います。
 十字架の上を見上げると、私たちは、お互い同士の間で憤っていることが、その当時には大きいことと思えても、十字架を見上げる時には本当に小さいことだと思えるのです。これから高い山に登らなければならないと思うと大変ですが、しかし、実際に登ってみて空を見上げると頭上に星が瞬いている。まだあんなに高いところがあるのだと思えば、自分が地上で登っている山の高さはたかが知れていると思わされます。
 主イエスは弟子たちに教えられました。「わたしは王として、あなたたちのために、これからエルサレムに行って十字架に架かるのだよ」とおっしゃいました。「十字架に架かってしまえば、今ある生活は終わってしまう。けれども、それで全てが終わるのではない。そうではなくて、あなたがたはなお、わたしを送ってくださった神さまの許で新しい生活を生きるようになるのだよ」とおっしゃってくださったのです。
 主イエスはまさに「十字架に架かるためにエルサレムに向かっているのだ」とおっしゃっていますが、弟子たちはそのことを受け入れようとしません。それは、自分たちの思いによって主イエスを王に祭り上げようとしているからです。けれども、本当に主イエスのおっしゃったことを受け入れたならば、実は自分たちが力づくで相手をねじ伏せようとすることがどんなに愚かなことかを理解できるのだろうと思います。人間同士の事柄であれば、力づくで押さえつけられた人は、決してそのことを忘れません。「自分は酷いことをされた」と執念深く覚えて、今度こそは見返してやると思うものです。そうしますと結局、交わりというものはギスギスと壊れていってしまうのです。
 私たちは、地上の生活の中でそういう失敗を繰り返し繰り返し経験しているのではないでしょうか。けれども、そのような私たちは、「主イエスの十字架によって罪を赦された新しい命に生かされている」一人ひとりです。そして、「神に喜ばれる、神によって受け入れられている交わりを共に生きる兄弟姉妹として」、教会に集められ、共に生きていくのです。
 今私たちは、教会の群れとして集められ、皆で礼拝を捧げ、交わりを持って生きていますが、ここが終点でここが目的地なのではありません。私たちは失敗もするのですが、この地上の生活を全て歩んで、歩みを終えたところに終点があって、そこでは神が私たちを待っていてくださり、「あなたは地上でよく生きた。これからは永遠の命の中でわたしがあなたを受け入れてあげるよ」と言ってくださるのです。そうであるからこそ、「あなたはそのことを知らされているのだから、今この地上を生きている間、少しでもそのことを表わして生きて行くように」と教えられているのです。

 主イエスは、ご自身が身代金として自分の命を捧げるために来たのだとおっしゃっています。その主イエスを見上げながら、私たちは少しでも主イエスに似た者にされていく、そのところに、私たちが「これこそ永遠の命だ。この命で良いのだ」と言えるようになる秘密があるのだろうと思います。「自分の思いは実現するだろうか。自分が大切に扱われ尊敬を受けて終わりまで生きられるだろうか」ということが人生の尺度である限り、私たちは決して満足しない、満たされないのです。周囲の人たちがどんなに大切に扱ってくれたとしても、それでも私たちは不満を持ってしまう、それが人間の姿です。
 けれども、自分のために生きてしまう姿は、私たちの姿とすると「本来生きるべき姿」と違う姿です。私たちは、自分のために生きるために造られたのではありません。そうではなくて、この地上の命を「周囲の人たちと共に、周りの人たちを支えながら生きる」ことを通して、「神の創造の御業を賛美するため」に私たちは命を与えられているのです。「自分のために生きるのではなく、兄弟姉妹のために生きる」、そのように生きてこそ、私たちの命も「生き生きとしたもの、これで良かったのだと言えるようなもの」になっていくのです。

 主イエスは弟子たちに「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」とおっしゃった後に、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と教えられました。この主イエスの言葉は、大変、弟子たちの心を打ったようです。これを聞かされたペトロは、随分後のことですが、自分の手紙の中で、聞かされた通りのことを書いています。ペトロの手紙一5章3節に「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」とあります。自分に委ねられている人がいる場合に、「その人に向かって権威を振り回してはいけない。自分の方が上に立っているのだから従え、と言ってはならない」とペトロは言っています。
 「むしろ、群れの模範になりなさい」とは、「我こそが模範だ」と言って自分を示しても模範にはなりません。私たちの群れの一番頭であり、大牧者である主イエスを指し示すように生活するということです。私たちは主イエスによって救われ、主イエスから新しい命を与えられて生きるときに、少しずつ主イエスに似てくるようになります。そして実は、主イエスに似てくるようになるからこそ、私たちは救われるのです。

 私たちは、自分の思い通りに生きていられると普段思っていますが、どうしても思い通りには生きられないのですから、幸せにはなれません。主イエスは、ご自分の思いを実現するために生きておられたのではありませんでした。「周りの人たちのために生きる」ことを思いながら、たとえ思い通りにならなくても、神に祈って、「どうかここを歩ませてください。終わりまで」と言って、十字架へと歩まれたのです。「この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの思い通りではなく、神さまの御心のままになさってください」と祈られました。そして、その主イエスが私たちにとって近い者になってくださるので、私たちは力を与えられるのです。
 キリスト者が神から力を与えられるのは、魔法の杖のように力を与えられて思い通りにできるというような力ではありません。そうではなくて、私たちはもともと自分中心に生きている険しさがありますから、人間同士の交わりの中で生きていくときには破れはどうしても起こりますが、それでもそこで平らに相手に仕えようという姿勢をはっきりさせるときに、「主イエスがわたしと一つ
になって、一緒にいてくださる」ということを確かに自分の身の上において感じることができるのです。

 ヤコブやヨハネも、他の10人の弟子たちも、主イエスが晴れがましいところに向かっておられるのだと思って、自分たちもその晴れがましさのお相伴に与りたいと思い、主イエスの左右に座らせて欲しいと願いました。主イエスは、「わたしが向かっていくのは王座ではなく、十字架の上だ」とおっしゃった後に、「わたしのもとにいらっしゃい」と招いてくださっています。
 私たちは、「あなたは、あなたに委ねられている人に、家族、兄弟、隣人に対して、力を振り回すようであってはいけない。むしろ、あなたの頭であり救い主である主イエスを模範として生活しなさい」と教えられていることを覚えたいと思います。
 私たちはもう一度、キリストの体である生きた教会の枝であることを覚え、一枝として、ここから歩みだしたいと願うのです。

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