聖書のみことば
2018年5月
  5月6日 5月13日 5月20日 5月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月6日主日礼拝音声

 一デナリオンずつ
2018年5月第1主日礼拝 5月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第20章1〜16節

<1節>「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。<2節>主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。<3節>また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、<4節>『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。<5節>それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。<6節>五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、<7節>彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。<8節>夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。<9節>そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。<10節>最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。<11節>それで、受け取ると、主人に不平を言った。<12節>『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』<13節>主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。<14節>自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。<15節>自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』<16節>このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 ただ今、マタイによる福音書20章1節から16節までをご一緒にお聞きしました。1節に「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とあります。
 「天の国は次のようにたとえられる」と始まっていますから、ここでは主イエスが、「天の国、神のご支配」について何事かを譬えで教えようとしておられることが分かります。肝心なのはその中身です。「神のご支配」について、主イエスがどうおっしゃるのかを注意して、この譬えを聞かなければなりません。もしこの譬え話が言おうとしていることを受け取り損ねると、私たちはつまずくかもしれないと思うからです。
 この譬え話には、一人のぶどう園の主人が登場します。主人は朝早く、収穫のための労働者を求人に行きます。普通であれば、朝一番に雇った労働者に一日働いてもらえば済むのですが、この主人は、朝9時にもお昼にも午後にも出かけ、最後には夕方まで出かけて、次々に仕事のない人に声をかけ、自分のぶどう園で働いてもらうのです。そして夕方、一日分の賃金を労働者に支払うという段になって、朝早くから働いてきた人たちから苦情を言われました。不満を言った労働者たちの訴えは、「私たちは夜明けと共にあなたのぶどう園に行って収穫作業をしたではないか。一日中中腰で、日照りの暑さにも耐えて働いたというのに、あなたは次々に労働者を雇い続けた。最後に雇った人などは、夕方の陽の陰った頃に来て、日没までほんの少し働いただけだった。それなのに、あなたはこの労働者にも丸々一日分の賃金を支払っている。朝早くから働いている私たちの賃金には少し色をつけてくれるのかと期待したけれど、私たちもやはり一日分しか貰えなかった。あなたに貢献している度合いから言って、あまりにも不公平ではないか」というものでした。11節12節です。「それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」。
 ここで労働者たちが訴え出た不満は、私たちにもよく分かることではないかと思います。夜明けと共に働き始めた人が仮に12時間働いたとすると、夕方に来て1時間しか働いていない人の12倍の賃金を貰ってもよいのではないかと、普通は考えると思います。この当時、時給という考え方はないでしょうが、時給で考えれば当然の話です。早朝から働いた人と夕方に少し働いた人を比べて、どちらかを選べるならば、夕方から来た人の方が楽だなと思うでしょう。ですからこの労働者たちの訴えは正当な訴えであると、私たちは考えます。

 譬え話はどう進んでいくでしょうか。先を読んでみましょう。13節から15節に「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』」とあります。「一デナリオンの約束」と言っていますが、「一デナリオン」とはどのくらいの金額でしょうか。聖書の後ろに度量衡の表があります。そこを見ますと、「一デナリオンは、一日の賃金に当たる」とあります。ですから、「一デナリオンの約束」は、一日分に相応の賃金を支払う約束だったということです。主人は夜明けに労働者を雇って「一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」とあります。約束通りに支払っているのですから、賃金を減らしているわけではありません。ですから「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と主人は答えました。

 しかし、この説明で労働者は納得したでしょうか。この労働者が問題にしているのは、自分の賃金が減らされたということではありません。そうではなく、夕方から働いた人への扱いが良すぎると言って怒っているのです。自分の賃金はともかく、あの人たちへの対応はおかしいではないか。そうすると、この対話は噛み合っていないと思います。苦情を言った労働者は主人の答えに納得しないまま、平行線で終わるのではないでしょうか。譬え話はここで終わっているのです。
 主イエスは、この譬えを何の譬えとして話しておられるかと言うと、「天の国、神のご支配」の譬えとして話しておられるのですが、一体この話を私たちはどのように受け取ったらよいのでしょうか。仮にこの話を、「天の国の神さまのご支配の中に生きる人は、怠け者でよいのだ。朝早くから働くのは馬鹿馬鹿しいから、夕方になってから働けばよい。神さまに対するあり方は、お付き合い程度でよいのだ」と受け取ってしまうと、これはとんでもなく見当違いな受け取り方になってしまうと思います。
 主イエスがこの話をなさった理由、この話を理解する鍵は、今日の譬え話の一番最後に付け足しのように言われている言葉の中にあります。16節で主イエスは「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言われました。この言葉も、一度聞いただけでは合点が行くような言葉ではありません。ですから、ここを読んでも、つい聞き流したり聞き漏らしたり飛ばして読んだりしがちですが、しかし、この言葉は大事な言葉なのです。どうしてかというと、今日のこの譬え話全体というのは、今日の箇所の直前のところで、主イエスが弟子のペトロと話し合っていたことに関係しており、その直前の話の説明をしているような意味合いの譬え話だからです。そのことに気づきますと、今日の譬え話は少し受け取り易くなると思います。
 直前の19章30節では、20章16節の言葉と同じことを主イエスはおっしゃっていて、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とあります。この言葉もすぐには理解できませんが、この言葉を説明するように、主イエスは今日の譬え話をなさり、その最後に「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのだ」とおっしゃっているのです。そうだとすると、そもそもの発端はどこにあって19 章30節に繋がったのか。どういう文脈の中でこの言葉が言われているのか、確かめたいと思います。

 19章16節で、一人の裕福な青年が主イエスのもとにやって来て、主イエスに質問をぶつけるというところから話が始まっています。青年は主イエスに質問し、答えを聞いて、悲しみながら立ち去りました。青年の質問は「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」というものでした。この質問は、主イエスを試そうとするような悪い思いからの質問ではなく、本心からの問いです。「永遠の命」、それは私たちの感覚から言えば「これで本当に良いと思えるような命」です。青年は、本当に良い人生だと思えるような命を生きたいという願いを持って、主イエスのもとにやって来ました。「本当に良い人生を生きたいので、自分は聖書に書かれている掟を全て守っている。それ以上に良いと思えることは何でもやっている。けれどもまだ自分は満たされている気がしない。どうしたらよいのか」。一生懸命なのに満たされないのは気の毒なことですが、主イエスはこの時、この青年に欠けているものをいち早く見抜かれました。「なせこの青年は、良いことをやっているのか。なぜ自分で正しくあろうとしているのか」。それは、自分の人生はこれで良いと満足したいためなのですが、自分の満足を求めるというところに落とし穴があるのです。
 私たちも自分のことを考えてみますと、自分自身が何かに満足したいと思って満足を求める時に何が起こるかというと、例えば仮に、「あれを手に入れたら幸せだ。これができたら自分の人生は成功だ」と思っていたとしても、実際にそれを手に入れたからと言って満足するでしょうか。手に入れるまでは一生懸命ですが、手に入れた途端に、「もうこれで自分の人生は良かった。今終わってもよいし、この後どんな困難があったとしても、わたしの人生は良い人生だったのだ」と思えるかというと、自分の満足が尺度である限り、私たちの欲求、欲望は底なしですから、一度手に入れてもまたすぐに次のものを求めて行くのです。この青年の場合もそうです。「正しくありたいと願って次々とできる限りのことをすべてやっても、これで良いという人生を送れている気がしない。満足できない。一体本当に、永遠の命を生きるとはどういうことなのか。わたしはこれで良いのでしょうか」と問うのですが、もちろんそれで良いはずはありません。それで、主イエスはこの青年に足りないものを教えようとされました。「それはそもそも、あなたが自分の満足を尺度としているから、いつまで経っても満たされることはないのだ。あなたは全てできる限りのことは出来ていると言っているけれど、そういうあなたの持っているもの、豊かさも富も一旦手放してしまいなさい。財産も全部手放して貧しい人々に施してしまいなさい。そして何も無くなってから、わたしについて来なさい」とおっしゃったのです。「そのようにして、わたしについて来たら、あなたに本当に良いと思える人生がどのようなものかを見せてあげよう。わたしと一緒に生きれば、あなたにも分かるようになるのだから、従って来なさい」と言って、主イエスはこの青年の一生をご自分の側に引き受けようとなさいました。ところがこの青年は、そこまで踏み入ることができませんでした。主イエスの言葉を聞いて、何となくそれは正しいことなんだろうと思ったようです。そう思わなければ、きっと「自分の財産を全部捨てろなんて、とんでもないことを言う」と反発したでしょう。けれども青年は、主イエスのおっしゃったことは正しいのだろうと心のどこかで思っていながら、「でもわたしは、あまりに豊かに恵まれているので、この人生を手放すのは難しい。だから主イエスに従うことはできない」と思って、悲しみながら立ち去りました。

 そういう青年の姿を弟子たちが見ていて、ペトロが横合いから口を出します。27節「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』」。実はこの時、ペトロは、青年と主イエスのやりとりを見ていながら何も理解していませんでした。青年は悲しみながら立ち去りましたから、幾分かは主イエスのおっしゃったことを分かったのですが、決心できませんでした。けれども、ペトロはもっと無邪気で、「あの人は財産をたくさん持っているから手放せないだけだ。でも、わたしは全部手放してイエス様に従った。だから、あの青年よりわたしの方が正しく生きている」という思いです。「わたしは全てを手放して従うことができています。つきましては、イエスさま、私たちは何かいただけるのでしょうか」と聞いているのです。ペトロがここで、「全てを捨てて従っています」と言っていることは、富める青年が「聖書に書いてある掟を全て守ってきました」と言っているのと、ほとんど変わりがありません。
 そんなペトロは、主イエスに叱られるのでしょうか。28節「イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる』」。このように、主イエスは一旦、ペトロの言葉を受け止めてくださっているようにも聞こえます。
 富んだ青年とペトロの間に、どのくらいの違いがあるでしょうか。どちらも、自分が正しいあり方をしていると思い込んでいることには違いがありません。ただ一点、違っていることがあります。富んだ青年は主イエスに従うことができませんでしたから、主イエス抜きのところで自分は正しいと思って生きています。けれどもペトロは「主イエスと一緒にいる」、その一点だけが違うのです。そして、この一点が殊の外重要なことなのです。
 ペトロは全てを捨てて従っていると自分では思っていますが、しかし、実際には従えていないのだということは、この先に起こる出来事によって明らかになります。それは、主イエスが捕らえられてしまう時です。その時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました。ペトロは少しましだったのかもしれません。主イエスのことが気になって遠巻きに主イエスの後を追い、大祭司の官邸の中庭にまで行き様子を窺っています。ところがそこで、ペトロが本当に主イエスに従っているかどうかはっきりさせられることが起こります。「あなたは、あのイエスの関係者ではないか」と繰り返し問われて、ペトロは「わたしはあの人のことを知りません。関係ありません」と言ってしまうのです。このことの直前には、ペトロは「たとえ死ななくてはならなくても、あなたに従います」と言ったばかりでした。ですから、ペトロは自分では「すべてを捨てて従った」と言っていますが、実際には、従い切れているとは言えません。ペトロの服従もまた他の弟子たちの服従も、どこか覚束ないものであって、ある種の情けなさを持っているのです。
 けれどもペトロは、情けなく服従しきれていない者ですが、しかし「主イエスと一緒にいる」のです。これはとても大切なポイントです。そしてこれは、私たちにとっても大切なことです。ここにいる私たちは、主イエスに従う弟子とされているはずですが、ペトロと同じように「すべてを捨てて従っています」と言うかと言えば、多分、「そんなことは、とても言えません」と思慮深く思うかもしれません。けれども、その思慮深さは意味のないことです。「主イエスに従えていない」という意味では、何を言ったとしてもペトロも私たちも同じです。私たちは始終神を忘れ、神なしで過ごしてしまうのです。ですから、ペトロは私たちの代表のようなところがあるのです。
 しかし大事なことは、私たちの気持ちにあやふやなところがあるとしても、「主イエスが私たちに伴っていてくださっているかどうか」ということです。ペトロや私たちが主イエスに従おうとする時に、主イエスが共にいてくださるかどうかが重要なのです。それはどうしてかと言うと、私たちは自分から主イエスに従い切ることは、とてもできないからです。「どんなことがあっても、主イエスに信頼して、辛いことも苦しいことも耐えてみせます」とは、とても言えませんし、もし言ったとしてもできない、そういう弱さを私たちは持っているのです。ところが主イエスは、そのように弱い弟子たちの中に、「主イエスに従う者」を創り出すことがおできになるのです。

 ペトロは、大祭司の官邸で主イエスを3度知らないと言ってしまい、そういう自分でしかないと知って激しく泣き、すっかり落ち込んで、復活の主イエスが現れ、お会いした時には、主イエスを裏切ったという後ろめたい思いだけを持って暗い気持ちでいました。けれども主イエスは、そういうペトロに向かって、「そうは言っても、お前はわたしを愛しているだろう?」と3度聞いてくださるのです。3度知らないと言って裏切ったペトロに、「確かにあなたは、そういう弱さを持っているけれども、では本当に、あなたはわたしを知らないのか?関わりがないのか? わたしのことを愛するか?」と聞いてくださるのです。ペトロはそう聞かれると、主イエスを愛していますから「愛します」と答えるのですが、3度聞かれて最後には、自分が主イエスを裏切ったことを思い出し悲しくなって、「イエスさま、それはすべてあなたがご存知です。わたしがあなたを愛していることは、わたしがそうだと請け合うことではなくて、あなたのほうが知っていてくださることです」と答えるのです。そしてペトロは、その後、主イエス・キリストの教会であればペトロという名を知らない人はいないくらいの使徒となりました。それは、ペトロが主イエスを信じ従い切る力を持っていたからではありません。誰がそのような真実を創り出してくださっているかというと、主イエスがペトロの中にある「主イエスを愛する心」を「あなたはわたしを愛するか?」という問いによって繰り返し確かめてくださり、ペトロが主イエスに従っていくのに相応しいあり方をすることができるように、ペトロの中に「主イエスに従う者」を創っていってくださったのです。
 ペトロの一生の最後は、伝説ではありますが広く知られています。ローマ皇帝がキリスト教を迫害した時に、キリスト者は皆逃げました。ペトロも情けないことに逃げかかるのですが、ローマを出ようとしたところで、ローマに向かって歩いてくる主イエスに出会うのです。そして「あなたが教会のために十字架に架からないのなら、わたしはもう一度十字架に架かりに行く」とおっしゃるのです。ペトロはそれを聞いてローマに戻り、逮捕され、十字架に架けられるのですが、その際にペトロは「わたしは主イエスのように初めから終わりまで神さまに信頼して歩んだわけではないので、主イエスと同じように十字架に架かるのは申し訳ない。逆さまに十字架に架かります」と言って、逆さ磔で死んだのだと言われています。ですから、「ピーターズクロス、ペトロの十字架」というのは、十字架の横棒が低いところについています。ペトロはそのように、情けない部分を持つ人でありながら、最後には本当に主イエスに従う者として生きて行く真実さを持ち合わせた人として一生を終えました。

 16節に「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言われています。ペトロは、富める青年の話を聞いていた時には、自分自身の決心によって主イエスに従っていると思っていました。自分に思いがあるから、主イエスに従えていると思っているのです。けれども実際には、自分の決心では従い切ることはできないのですが、このことにペトロは気づきませんでした。それは「このわたしが従っているのだ」という自負心があるからです。自負心が邪魔をして、「主イエスが自分の中に従う者を創ってくださっている」ということを見つけ出すことができませんでした。そのために、ペトロは「後の者」にされて行くのです。
 19節30節で主イエスが「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とおっしゃった時には、ペトロは「何もかも捨てて従って来ました」と言っていますから、主イエスの一番弟子だと思っています。自分こそ主イエスに一番近しい者だと思っていました。けれども主イエスは、そういうペトロの様子をご覧になって、「そうではない」と言って、行列の一番後ろへと置いてしまわれました。そして、「よく見てごらん。あなたの後から来た人たちは自分のようには従えてないとあなたは思っているけれど、皆、わたしを信じる者としてちゃんと生きるようにされているよ。よく考えてみなさい」と言われました。そのことの譬えが、今日の箇所なのです。「朝早くから一日中、あなたのために働きました。わたしはそれだけ苦労しながら働いたのですから、あなたに対しての功績を認めてもらって、他の人たち以上に賃金をいただけるはずです」と、朝から働いた労働者は主張するのです。ところが主人は「わたしは、最後に来た者にも、恵みが欠けているような支払いではなく、ちゃんと一日分の恵みを与えたいのだ」と答えました。主イエスはペトロを前にしてこう話され、そして「こんなふうに、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるのだ」とおっしゃるのです。

 今日の譬え話で、どうして主人が労働者に苦情を言われることになったのか。その理由は、主人が支払いの順番を、後から来た人からにしたところにあります。もし支払いの順序が、この日働き始めた順、朝早く来た人からであったならば、最初に1デナリオン貰った人は、「ちゃんと一日分の賃金をもらえた」と喜んで帰ったはずで、夕方から来た人にも1デナリオンが支払われたことは知りませんから、何も問題は起こらなかったはずです。むしろ、問題にならないように、先に来た人から順に支払っていればよいという話です。ところが、この話の中心は、主人がわざとこの順番を逆にしたというところにあります。わざと逆にしたために、朝早くから来た人たちには、「自分たちはこんなに苦労したのに」という思いが頭をもたげてきたのです。どうして主人はこのようなことをしたのでしょうか。朝早くから来た人たちに、全ての人が「1デナリオン」、つまり、「人が一日生活するのに必要な賃金」が支払われることを知って欲しいからです。
 ペトロは、今日の箇所の時点では、自分は一番弟子、つまりぶどう園に朝早く一番に来た労働者だと思っています。ところが、主イエスを3度知らないと言ってしまった後には、思いが変えられて、あまりにもはっきりと主イエスを知らないと否定してしまったわけですから、もうこのぶどう園では働けないと思ってしまうのです。夕方一時間しか働かなかった労働者どころか、全く働いていない者のように思ってしまいました。「主イエスに従っている」という点では、そのプライドはすっかり崩れ去っています。ですから、復活した主イエスはペトロのもとに来られて、「あなたは、わたしを愛しているよね」と確認してくださいました。他の弟子たちが復活された主イエスとお会いして喜んでいる中にいて、ペトロは、自分も嬉しい気持ちを持ちながらも、しかし自分はどういう者であったかを思うと「主イエスを裏切った者」でしかないことに気づいて、どこかに隠れたくなるような複雑な思いを持っていたのです。
 けれども主イエスは、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言われました。「あなたは、わたしによって本当にわたしに従って来る真実な者に創られていく。そして、新しい世界になって人の子が栄光の座に座るときには、あなたがたは、あなたがたのために用意された特別な席に座ることになる」と言われ、そしてその通りにしてくださるのです。

 私たちは教会にやって来て、「主イエスが共にいてくださるのだ」と聞かされながら喜んで生活していますけれど、しかし、自分自身に目を向けるときには、つい弱気になってしまいます。自分は本当に惨めな貧しい者にすぎないと思わざるを得ません。そして、それは幾分か正しいことです。私たちは本当に、自分の力で主イエスに従えないところをたくさん持っています。けれども、そういう私たちの中に、主イエスが「本当に主イエスに従っていく真実な者を創り出してくださる」のです。礼拝を捧げ、御言葉を聞かされる中で、私たちは嬉しいと思う。ですから、「また礼拝に集いたい。聖書の話を聞きたい」と思うのです。私たちが教会に来るのは、主イエスが「あなたは、惨めな貧しいところがあるけれども、それでもあなたは、わたしのものだよ。だからあなたは、そこで、わたしのものとして生きていってよいのだよ」と言葉をかけてくださり、実際に私たちの中に信じるあり方を創ってくださる。ですから私たちは、教会を離れず、礼拝を守り続けることができ、また今日もこの礼拝に集わされているのではないでしょうか。

 そしてそうであれば、「わたしの中に主イエスが信仰を創ってくださっている」ということを素直に認めることがよいのだと思います。まだわたしは十分に分かっていないから、洗礼を受ける資格がないと思っていらっしゃる方もいるかもしれません。けれども私たちは、自分の力や自分の努力で「信仰がある」という域に達することができるのかということについては、考えた方がよいだろうと思います。そうではなくて、実は、主イエスの方が私たちの側に信じるあり方を創り出してくださっている。「あなたは全てに先立って、わたしの愛する、わたしの子なのだ」と呼びかけてくださっている。そういう主イエスが、今日も私たちの前に来ていてくださって、「あなたはわたしのものだよ」と呼びかけてくださっている。そのことを分からせるために、先にいる者は後に回らなければならないし、後にいる者は一番最初に主イエスに出会わされるようにしてくださる。そして、「全ての者が一人の例外もなく、今日生きるのに必要な信仰を与えられて生かされている」ということを覚えたいと思います。

 私たちは、自分自身についてそのことを思うだけではなく、主イエスがそのように一人ひとりを覚えてくださることを思い、私たちが覚える近しい家族や友人たちについても同じような期待を持ってよいのではないかと思います。私たちの覚える一人ひとりが、今私たちが願うような形で教会の礼拝に集うことができていないとしても、それでも主イエスがその人を、「わたしの民の一人だ」と呼んでくださるのであれば、私たちはそのことを信じたいと思います。
 そして、「あなたも教会に招かれているよ。イエスさまが一緒に生きてくださる、そういう命を生きるようにとあなたは招かれているのだよ」と隣人に伝える、そういう生活をここから始めたいと願うのです。

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