聖書のみことば
2018年5月
  5月6日 5月13日 5月20日 5月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月20日主日礼拝音声

 恵みにより強められ
2018年ペンテコステ礼拝 5月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/ヘブライ人への手紙 第13章7〜17節

13章<7節>あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。<8節>イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。<9節>いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。<10節>わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。<11節>なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。<12節>それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。<13節>だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。<14節>わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。<15節>だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。<16節>善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。<17節>指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。

 ただ今、ヘブライ人への手紙13章7節から17節までをご一緒にお聞きしました。その中の9節に「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」とあります。ここでは、「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです」とお教えられています。「恵みによって心が強められる」とは、一体どういうことを言っているのでしょうか。今朝はペンテコステの礼拝を守っていますが、「恵みによって心が強められる」ということについて、しばらく思いを巡らせたいと思います。

 「心が強められる」と言われていますが、一体「心」とは何でしょうか。私たちの心はどこにあるのでしょうか。手や足であれば、「手はここ、足はここ」と、はっきり示すことができます。心臓や肺などの内臓でしたら、レントゲン写真やエコー検査の画像によってこれを確認することができます。しかし、心はどうやって確認するのでしょうか。脳波を測定すれば心が見えるようになるのでしょうか。
 「心」というのは、体の中のどこか一部分というのではありません。私たちの自分自身そのもの、あるいは、私たちが生きて行く上で生活を成り立たせている有り様そのもの、そういう意味で、私たちは「心」と言うのでしょう。聖書の中でも「心」という言葉が用いられる時には、およそそのように、その人自身を表すような意味で使われます。
 ただ、もう少し丁寧に言いますと、聖書の中で「心」という言葉が使われ考えられる時には、特に2つの面から人間の心を問題にするようなところがあります。すなわち、聖書が「心」について語る時、まずは、私たちの内にあって私たちの内面を形作っているものですが、しかしそれでいて、どうやっても最も深い奥底のところまでは覗き込むことができない部分があるものだと、「心」を理解しています。まさに心の中には底知れない深みがあります。そして、心の奥深いところから自分でも全く予想しなかったような衝動というものがしばしば頭をもたげてきて、私たち自身をびっくりさせるようなこともあって、どうも心には得体の知れないところがあると、聖書はそのように理解しています。
 ですから、ギリシャ哲学では「自分自身を知れ」、あるいは「自分を知って、度を超すな」とよく言われますが、そういう言い方や考え方は、キリスト教信仰の立場からすると、大変難しいことを要求されていることになります。「自分を知れ」と言われても、私たちの心の中には自分でも探り知ることができないような深みがあるのです。どんなに頑張って修行して自分の心を探り知ろうとしても、到底叶えられないところがあるのです。これは、聖書を信じる人と信じない人とで、非常に考え方が異なる点だろうと思います。他の宗教であれば、例えば修行によって自分の体や心を十分にコントロールすることができると教える人たちもいるのです。けれども、聖書ははっきりと、人間の心は自分でも思うようにならないところがあることを認めています。
 そして、聖書が「心」について語る第二のことは、心に底知れないところがあるために、心は自分自身のものであっても人間の手に余るところがある、自分で自分の心を完全にコントロールしきることはできない、そういうものだと教えます。体をよく訓練して常に同じように動くようにする、それはスポーツ選手などがそうでしょう。それと同じように、私たちが心を訓練していつも同じようでいられるかというと、そうはなかなかならないのです。「平常心が大事だ」と言われますが、心を常に変わらないように保つことなど私たちにはできないことを、聖書は率直に認めるのです。
 ですから、例えば箴言21章1節には、「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」とあります。何千何万という人間に指示を出して治めることができる王様であっても、自分自身の心はままならないのだと書いてあります。「心の中に既に水路が掘られているかのように、王の心は自分の思いではなく、神の導きの通りに流れて行ってしまう。どんなに権力を持っている人でも、心というものは思い通りにできないのだ」と語られています。

 けれども、「人間の心とは、そういうものです」とはっきり言われてしまうと、実のところ、私たちは大変困ってしまうのではないでしょうか。それは、最初に言いましたように、「心」は体の一部分ではないからです。まさに、私たちの自分自身こそが私たちの心だからです。自分の心が自分でもままならないことは言われてみれば思い当たる節があるのですが、しかし、はっきり言われてしまいますと考え込んでしまいます。ですから、そのような「心」が「強められる」ということがあるのであれば、それはとても願わしいことだろうと思います。もし、私たちが誰かとても近しい人の誕生日に、その人のために心を込めて願ってあげるべきことがあるとしたら、それはまさに、「わたしの愛するこの人が強められますように。そして、この人が願うような人生を送れますように」と願うことでしょう。

 さて「心を強める」ということについてですが、どうすればよいのでしょうか。今日の聖書箇所であるヘブライ人への手紙には、「恵みによって心が強められるのはよいことです」と言われています。「恵みによって心が強められる」とわざわざ言っているのですが、ということは、裏返しに言えば、恵みによってではない別の仕方で心を強めようとする場合が人間には多くあるということだろうと思います。世の中には、「自分の心を強く持ちたい」という人は大勢います。そして多くの場合、そういう人たちは、ここに言われていることとは違った仕方で自分の心を強めようとするのです。殊に、真面目な人ほどその傾向が見られると思います。
 例えばその一例を言いますと、「普段から、自分を甘やかすのではなく自分自身を厳しく律し鍛えることで、思いがけない出来事に遭遇しても動じない心を手にしようとする」、そういう人は割合と多くいるのではないでしょうか。そして、時にはその鍛錬の跡を目に見える形で積み上げたいと思う人たちもいるかも知れません。自分に厳しくして質素に生活するとお金が貯まり、貯蓄を確かめることで自分の頑張りを肯定して、「自分はこれで良い」と自分を納得させ、またそういうあり方を強めようとする人もいるかも知れません。けれども逆に、何らかの理由で銀行口座がマイナスになってしまうと、今度は大変心細くなってしまうということもあるかも知れません。
 私たちには、自分の経験や自分の目に見えるもので自分を強めようとするところがあると思います。テレビドラマなど見ていますと、重い決断を迫られる政治家などが占いに頼るなどという場面も出てきます。自分の決断は揺らいでしまうので、占いに頼るのです。また、カレンダーによく記されている「六曜」、これは最も簡単な占いで、江戸時代には全く人気がありませんでしたが、人気もないので禁止されることもなく今日でも使われていて、そういうものに頼りたいところがあります。私たちは、様々なものに心を強められたいと日常的に思っています。これが正しいと信じて決めるというよりは、何かに決めてもらって、それで良いのだと思いたがるようなところがあるのです。

 けれども、よくよく考えなければなりません。そのように様々なものに支えられ頼って強められた心というものは、本当に強いのでしょうか。考えてみなければなりません。確かに、一見すれば強められているように見えますが、しかしそれは「しなやかに、粘り強く、強いか」というと疑問があります。自分の決断が不安なので何かに決めてもらう、あるいは自分の人生経験に頼って頑張る、自分の内側や外側にあるものに支えてもらって心が強められること、それで良い時は良いでしょうが、思うようにならないことに遭遇した場合には、ポキンと折れてしまうような弱さを持つ強さでしかないように思います。
 けれども、そういうことと比べますと、聖書が今日の箇所で教えている「心が強められる」ということは、脆さを抱えているものではなく、むしろ「大変しなやかで、そして粘り強い強さ」です。「恵みによって心を強められる」ということは、鋳物の硬い強さというものと違って、よく鍛えられた鋼のような強さだと言ってよいと思います。
 そして、私たちが本当に心強められるのは、「恵みによること」だと聖書は語っています。この「恵み」は、生まれつきということではありません。あるいは、私たちの修行によって手に入るものでもありません。そうではなく「神の御業として、私たちの上に起こること」なのです。
 私たちが真から心を強められたい、強くなりたいと願うならば、実は私たちは、わたしという自分自身を、まず神の御手に委ねるということでなければなりません。自分自身の存在を自分の手の内に保とうとしている限り、自分の一生は自分で責任を取らなければならないと考えている限り、私たちは、頑固にはなるかも知れませんが、決して強くはなれないのです。どうしてかと言うと、私たちには決して全てのことが分からないからです。神ではないのに、自分の考え方を正しいとして、その自分の考えを支えるために修行や占いを頼ったとしても、本当には分かっていないことを分かっていると言い張るだけのことですから、私たちは本当の意味では強くなれないのです。
 「本当の強さに満ちた心」というものは、「神の御手によって私たちの内に備えられて来るもの」です。神が私たちの内に、新しい心を作り出してくださるのです。そして、神が私たちのあり方を新しく作り出してくださるということを素直に受け取る心こそが、実は、私たちが本当に強められた心になっていくということだと思います。ですから、本当の意味で心を強くする第一歩というのは、私たちはとても不慣れですけれども、「自分が自分の主人であることを止める」ことです。あるいは、「自分が自分の人生の演出家であって、自分の人生は自分が最後には決めるのだと考えることを止める」ことです。

 主イエスは弟子たちと共に歩まれて、最後に十字架にお架かりになりますが、主が十字架上で最後におっしゃった言葉は何だったでしょうか。それは、主イエスご自身の言葉ではなく、聖書の御言葉でした。詩編31編6節の言葉を主イエスは十字架上で口ずさまれました。主イエスは十字架上で、一番最後の時に、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と言って息を引き取られました。ルカによる福音書23章46節に、そのことが語られています。
 主イエスは終わりまで生きて、最後に、自分で自分の人生を全て決着させようとはなさいませんでした。「わたしは、生きてきた全てをあなたにお委ねいたします」と神に向かい、そしてご自身の死と向き合われたのです。
 けれども、これは臨終の時にだけ唱える言葉ではないと思います。「神さま、御手にわたしの霊をゆだねます。わたし自身をお委ねします」という言葉は、私たちが一生を終えるときだけではなく、日々に、朝起きた時にも唱えてよい言葉だと思います。朝目覚めて今日の生活に向かっていこうとする、その時に、「神さま、あなたの御手にわたしを委ねます。どうかこの一日をわたしにお与えください」と祈って、歩み出してよいのです。
 もしかすると、私たちが人生のとても苦しい場面を歩む時には、朝目覚めても自分でその日一日の生活に向かっていく勇気が持てないという時があるかも知れません。本当に大変で、どのように歩んで行ってよいのか途方にくれてしまう、自分で歩んでいかなければならないと思うと嫌で嫌で仕方ない、いっそのこと布団をかぶってじっとしていたい、そんな時にも、私たちは、主イエスが十字架上で祈られた祈りを祈って、一日の勤めに出かけて行ってよいのです。「今日一日、わたしはどうなるか分かりません。けれども神さま、わたし自身をあなたの御手にお委ねいたします。どうか、あなたがわたしに与えてくださる今日一日の生活を、わたしに歩ませてください」と祈って出かけていくことが、私たちには許されているのです。そしてそれこそが、実際問題として「私たちの心が強められていること」だろうと思います。キリスト者の姿とは、そのようにして恵みによって心を強められ、「その日一日を神からいただいて、今日の生活に向かっていく」、そういう姿なのです。

 しかし、神は一体どうやって私たちの心を強めてくださるのでしょうか。今語ったことを呪文のように口に出しさえすればよいというものではないでしょう。「神さまがわたしを強めてくださる」ということを、私たちが信じることができなければ、「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という言葉は、私たちの中で空虚なものになってしまうでしょう。では、どのようにすれば信じることができるのでしょうか。
 神が私たちを扱ってくださる道というものは、千差万別です。「どうすれば神を信じられるのか」と問われて困ることがあります。型通りに、「こうしなさい。そうすればあなたは信じられます」と言えるようなマニュアルはないので、神に信頼できるようになる道筋というものは、一人一人、様々だと思います。ですから、「こうだ」と簡単に言うことはできません。けれども、そうであっても、二つくらいのことは言えるのではないかと思います。
 一つは、「神は私たちに対して慈しみと愛と真実をもって常に出会ってくださるお方である」ということを、私たちが知識として知らされているということです。そのことを誰からも、どこからも聞いたことがない人は、神を信じる術がないと思います。「神があなたの前におられる。そして、あなたはその神さまに信頼してよいのだよ。どうしてかというと、それは、神が本当にあなたを愛してくださっているから、慈しみ豊かに真剣にあなたのことを取り扱って、あなたを生かそうとしてくださっているからだよ」ということを聞かされなければ、まず、私たちは信じることができないだろうと思います。
 これは、私たち自身の生い立ちや人間同士の交わりというものを考えても、そうだろうと思います。他の人との交わりに信頼を置いて生活することができない、そういう方が時々いらっしゃいますが、多くの場合、それは、子供の頃に「あなたは大事な人だよ」と言ってもらえない境遇の中で育ち、自分の中で自分の評価が低くなってしまった結果だろうと思います。そして、そういう人は、周りの人に対しても評価が低くなりがちなので、周りの人に信頼を置いて交わりを結んで生きていくということも不得手になっていくのです。大事にされて来なかったために、誠実に育ててもらえなかったために、他の人を大事にできない、あるいは嘘をついてしまう、そういうことがありがちなのです。ですから私たちは、「神さまは本当に真実な方で、あなたを大事にしてくださっているのだよ」ということを、繰り返し繰り返し聞かなければなりません。もちろん、にわかには信じられないかも知れませんが、それでも私たちは聞き続けなければならないのです。
 聖書の中には、神はそういうお方であることが繰り返し語られています。
 神は人間をお造りになったその時から、その存在を喜び、良しとされました。天地創造の時から、神は、ご自身が良しとされた世界の中に人間をお造りくださいました。そして、お造りになった全てを「良い」とされた喜びを、人間と共にするために、わざわざ安息日を定めてくださり、安息日ごとに「あなたがたはわたしが造ったもの、良い者なのだ」という言葉を聞くようにしてくださいました。
 ところが人間の側では、神が良いと言ってくださっていることよりも、自分の判断を優先させて、「食べてはならない」と言われていた木から実を取って食べてしまい、その結果、神の御言葉ではなく自分の判断で物事を考えるようになってしまいました。そこから、人間の様々な悩みが始まったことが聖書には語られているのです。
 けれども、そういう人間に対して、神はアブラハムを選び、「わたしはあなたたちを、わたしが愛しているということを現す民とするよ」と言って持ち運んでくださいました。そして、イサク、ヤコブと繋がりイスラエルの民となるのですが、イスラエルの民は何度も何度も神に背を向けてしまいます。しかしそれでもなお、神は人間を全て滅ぼすのではなく、更に先へ先へと持ち運んでくださいました。そのようにして、本当に神が真剣に人間を大事に扱ってくださるということが、聖書の中には繰り返し繰り返し語られているのです。それはどうしてかと言うと、私たち人間が、そのことを繰り返し聞かされなければならない者だからです。人間は、自分で修行して聖書を読んで理解すれば、あとは悟りを開いて、「いつも神がわたしを愛していることが分かる」というような者ではありません。私たちは「本当に神さまに愛されているのだ」ということを、繰り返し繰り返し聞かされなければならないのです。
 ですから、私たちが幼い人たちに接する時に伝えるべきこと、それはまず、「あなたは本当に神さまに愛されているのだよ。神さまはいつも真実に、真剣にあなたのことを顧みてくださっているし、あなたはそこで、神さまに愛されている者として生きてよいのだよ」ということです。

 ところで、「心が強められる」ためには、ただ「神の慈しみがあってそれを味わう」ということだけでは足りません。それだけでは、心が大きくはなっても、強くなっていきません。ですからそれに加えて、私たちには、神が私たちを鍛えてくださるという厳しい経験、神が私たちを鍛えるために与えてくださる火をくぐるという経験も必要なのだと思います。
 一方に神の愛があることを繰り返し聞かされながら、もう一方のこととして、私たちがこの地上の人生を生きていくため、必要な働きをなしていくために、神が私たちを鍛えてくださるのだということを覚えたいのです。試練の火をくぐってこそ、私たちは「本当に神に信頼する」ということをしみじみと教えられていくのです。
 もし、人生に何も辛いことが無く楽しいばかりだったら、私たちは「神さま、ありがとう」と言いながらも、自分が楽しいことに熱中して、神がおられるということがどこかに消し飛んでしまうでしょう。つまり、信頼すべき相手を見失ってしまうに違いないのです。
 神は私たちを強めるために、様々な試練を人生の上に置いてくださいます。そして、そういう試練に遭遇しながら、私たちは「大変だな、辛いな」と思いながら人生を生きていくのですが、そのことを通して教えられることは、「辛い出来事の背後にも、やはり神さまがおられる。そして、この越えなければならない山の向こうに、なお神さまは道を備えてくださっている。今は山があるために見通しが利かないけれど、きっと神さまがわたしを持ち運んでくださるのだから、神さまに信頼してここで生きていってよいのだ」ということです。
 神が人間に試練を与えるというのは、私たちにとってはもちろん嬉しいことではありませんが、しかしこれは恐らく、神にとっても一つの賭けのようなところがあるかもしれません。試練の火の中で、私たち人間が壊れてしまわないかどうかということは、最初から壊れないという前提があるわけではないでしょう。絶対壊れないと分かっていれば、それは、試練ではないのです。そうではなくて、「本当にこれで大丈夫なのだろうか」と思うような出来事であるから、試練なのです。
 「試練とは、陶器を作る職人が懸命に形を整え釉薬をかけて作ったものを、完成させるために、炉の火の中に入れるようなものだ」と言った人がいました。どういうことかと言うと、「炉の中でどのようなことが起こり、どういう姿で炉から出てくるか、それは、炉を開けてみる時まで分からない。もしかすると、懸命に作ったものでも弱いところがあって、炉の中で割れてしまうということもあり得る。しかし職人は、そのように割れてしまったものを必要無いものとして捨ててしまうかというと、決してそうではなく、もう一度すっかり壊して土に戻して、再び丹念に何度でも作り直す」、そして、「神が人間に出会ってくださる出会い方とは、そういうものなのだ」と言うのです。確かにそのようにして、私たちの心は強められていくのだろうと思います。私たちは、一方で神が愛してくださっていることを聞かされながら、また一方では試練に遭い人生の大変な経験をくぐり抜け、あるいは乗り越えながら、「心が強められていく」ということが起こるのだと思います。

 神は、私たちを真剣に鍛えて強めようとしてくださっている、だから試練が与えられるのだということを覚えたいと思います。親は、自分の子供だから叱ります。どうでもよい相手であれば、叱って嫌な思いをすることもないのです。私たちは、神から試練を与えられているときには、本当に、神から鍛えられているのだということを覚えたいと思います。ですから、私たちの人生に試練が与えられるということも、神の真実な愛と慈しみが注がれていることであり、神が私たちを真剣に持ち運んでくださっていることの現れだということを覚えたいのです。

 今日はペンテコステの日で、神の霊、聖霊が私たちの上に注がれたことを覚える記念の日です。私たちは、主イエス・キリストの贖いの業を聖書から聞かされながら毎週礼拝を捧げています。「主イエスという独り子をくださるほどに、神が真剣に私たちのことを愛し、持ち運んでくださっている」、私たちがこの恵みを聞かされながら歩む人生の中で、まさに神が主イエス・キリストに出会わせようとしてくださっていることを覚えたいのです。
 聖霊降臨の出来事というのは、「主イエス・キリストの御業は、本当にこのわたしのためのものだった」ことを知り、「自分の人生の見通しは利かないけれども、何が起こるか分からないけれども、でも、神さまがきっと、この小さく貧しいわたしを持ち運んでくださるに違いないと信じます。わたしは主イエスについて行きます」という思いを新たにされていくことです。
 ペトロをはじめとした弟子たちは、周りの人たちを恐れて自分たちだけで引きこもっていました。ところが、その弟子たちに聖霊が降ったときには、驚いたことに、往来に出て「あなたがたが十字架につけた、あの主イエスこそ本当の救い主なのだ」と、世の中に伝えて回るようになりました。聖霊降臨の前の弟子たちが語れなかったのは、主イエスを救い主だと信じていながら、しかし、自分で自分の人生を上手く立ち回らせなければならないと思っていたからです。神は、そんな弟子たちに、「どんなに大変な思いをするとしても、わたしは神さまのものなのだ。神さまがわたしを主イエスに結んでくださったのだ」と信じることができる霊を与えてくださいました。
 まさに神が「恵みによって」、私たちの中に新しい心、新しいあり方を作り出してくださって、そして、そういう者として生きることができるようにしてくださる、それがペンテコステの出来事なのです。

 私たちは、神が私たちに聖霊を送り、私たちの中に主イエスに従う思いを作ってくださったことを感謝したいと思います。そして、今日もまた、私たち自身の中に「恵みによって、新しいあり方を作り出してくださるように」と心から祈り、願いたいと思います。

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