聖書のみことば
2018年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月25日主日礼拝音声

 命にあずかるため
2018年2月第4主日礼拝 2月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第18章6〜10節

<6節>「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。<7節>世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。<8節>もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。<9節>もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」<10節>「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

 ただ今、マタイによる福音書18章6節から10節までをご一緒にお聞きしました。6節に「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とあります。聖書が朗読されている間、この言葉はずいぶん厳しい言葉だとお感じなった方もいらっしゃるのではないでしょうか。「大きな石臼」というのは、家庭で使う小さな粉挽き用の臼ではなく、粉屋さんが売り物にする小麦粉を挽くために、ろば2頭、あるいは4頭を繋いで使っていた大きな臼のことです。人間の力では、とても回せないほどの重く大きな粉挽き用の臼です。それを首に縛り付けられ深い海に沈められるということは、簡単に言えば溺れ死んでしまうということです。
 「主イエスを信じるごく小さい者の一人でもつまずかせる人は、死んだ方がましだ」と主イエスご自身がおっしゃっているわけですが、これは驚きの言葉ではないでしょうか。普段私たちは、「主イエスは、私たちに命を与えてくださるため、この世に来てくださったのだ」と思っています。そして、それは正しいことです。主イエスはまさに、本当なら死すべき罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださり、ご自身の苦しみと死によって私たちの罪を完全に清算してくださいました。主イエスが十字架にかかってくださったあの出来事を「このわたしのためのことだった」と信じる人は、例外なく、主イエスゆえに新しい命を与えられて生きてよい者に変えられているのです。そしてそのことを、私たちは、繰り返し繰り返し礼拝の度に聞かされています。
 ところが今、そのように十字架にかかってくださった主イエスの口から、「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」という、大変厳しい言葉が聞かれます。これは一体、どうしてでしょうか。それは、「主イエスを信じる小さな者の一人をつまずかせる」という罪を、主イエスが殊の外、重大に考えていらっしゃるからです。「小さな者がつまずかされる」ということを、主イエスは極めて重大な罪の業だとお考えなのです。ですから、このような厳しい言葉を口になさるのです。主イエスがここで非常に重く考えておられる「主を信じている小さな者をつまずかせる罪」というのは、一体どういう罪なのでしょうか。人をつまずかせる罪、兄弟姉妹をつまずかせる罪とは、どんなことなのでしょうか。

 「つまずき」と、ここには言われています。よく注意して読むと、今日お聞きした箇所では、6節にも7節にも8節にも9節にも、「つまずかせる」とか、「つまずきをもたらす」という言い方が出て来ています。「つまずかせる、つまずき」という言葉は、教会生活の中で、私たちも時おり耳にすることがあるのではないでしょうか。
 今まで熱心に毎週必ず教会に通っていた人が、何かのきっかけで、病気でもないのにぷっつりと糸が切れたように礼拝に来なくなるような時、私たちはよく、「あの人はつまずいている」とか、「つまずかされたのだ」というように取り沙汰します。「教会の人間関係につまずいた」という言い方がされる場合もあります。そういう時に私たちが考えているつまずきというのは、別の言葉で言うなら、おそらく、気持ちの上でのわだかまりのようなことを言っているものと思われます。教会の礼拝に行かなくてはいけないと頭では分かっている、あるいは心のどこかでは分かっているけれども、何かどうしても気になってしまうことがあって、礼拝に出かけることに気乗りがしなくて休んでしまうような状態を、普段私たちは、つまずいていると言うのです。
 主イエスはしかし、そのような、私たちが普段見聞きしたり口に出しているつまずきの中に、更に、非常に深刻なものが潜んでいる場合のあることを見て取って、それを極めて重大なこととお考えなのです。
 主イエスがここでおっしゃっている「つまずき」という言葉は、別の言葉で訳すと、「罠、落とし穴」とも訳せるような言葉です。罠にかかれば、動物はそこから動けなくなります。落とし穴に落ちてしまうと、どんなに目的地に行こうとしても、そこから進むことができなくなり目指す方へ辿り着けなくなります。主イエスは、「つまずき」をそういうものだと考えておられるのです。せっかく主イエスが、「十字架にかかって私たちの身代わりになってくださった。私たちが神様抜きで平気で生きてしまっていた罪をすっかり清算して、神様の御言葉が聞こえ、神様の保護を信仰によって受け止めて生きる、命の歩みへと導いてくださった」のに、また私たちもその気になったのに、つまずきの罠にかかってしまうと、私たちはもはや自由に行動できなくなります。落とし穴に落ちた時のように、本当は神様の御前に出たいと願っているのに、神様の御前に進み出ることができなくなるのです。「兄弟姉妹たちと整列して神様を礼拝し、御言葉を聞きながら生きる」という、何もなければできそうなことが、どうにも出来なくなってしまうのです。それが、主イエスがここでしきりと気にしておられる「つまずき」という事態です。
 ですから、主イエスのおっしゃるつまずきは、私たちの信仰が一時停滞するとか、元気がなくなるというような生易しいことではありません。悪くすれば、ほぼ確実に、兄弟姉妹や教会との交わりを断ち切られ、主イエス・キリストと永久に引き離されてしまう、それが主イエスの気にしておられるつまずきなのです。これは極めて重大なことです。神様と私たち、主イエスと私たちとの関係が完全に断ち切られてしまうほどに断絶してしまうこと、どんなに神様の前に行きたくても行けなくされてしまう、それが、今日のところで主イエスが問題になさっている「つまずき」なのです。
 従って、牧師と馬が合わないので他の教会の礼拝に出席するとか、ある特定の兄弟姉妹と顔を合わせるのが嫌で礼拝をサボタージュしながら、陰では悪口を言っているようなあり方は、ここで主イエスが問題にしているつまずきとは言えません。そういう場合でも、教会に繋がってはいるからです。もっとも、そういう状態が長く続く中で、いつの間にか神様との繋がりも主イエスとの結びつきも、どうでも良いことのように感じられるようになって、本当に神様から切れてしまう恐れもありますので、それも軽く見ることはできません。普段、私たちがつまずいていると噂するような兄弟姉妹については、私たちは真剣にその方を覚えて祈らなくてはなりません。地上のいかにも人間臭い亀裂が、主イエスが心配しておられる本当のつまずきにまで発展してしまう、そういう恐れもあるのです。ですから、兄弟姉妹が滅んでしまわないように、真剣に祈らなくてはならないと思います。たとえ人間的なわだかまりを感じて教会の礼拝や交わりとしばらくの時、距離を置いているように見える兄弟姉妹であっても、教会の群の側が、その方を憶えて諦めずに祈り続けていれば、いつか礼拝に戻ってくる道は、まだ閉ざされてはいないのです。戻ろうと思った時に戻れる場所があること、それが大事です。

 ところで、ここには「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と言われています。この「小さな者」とは、どういう人のことをいうのでしょうか。「小さい」というのは、もちろん、身長や年齢のことを言っているのではないことは、どなたもお分かりでしょう。では、何が小さいのでしょうか? 注解書の説明などを読みますと、ここでの「小さな人」というのは、「貧しく、目立たず、見すぼらしい人たちだ」と説明されていたりします。確かにそう言えなくもないでしょうが、しかし、そういう説明は誤解を招く説明になりかねないとも思います。というのは、貧しかったり、見すぼらしかったりする人は、自分から貧しくなってやろうとか、見すぼらしくなってやろうと思っているのではないからです。目立たないという場合には、自分から望んでそのように振る舞っている人もいるかも知れません。人前で目立ってしまうと、何か頼みごとをされたりして面倒臭かったり、大変になったりする場合があります。出る釘は打たれるという諺もあります。ですので、そうならないようになるべく人目につかず、ひっそりと過ごすようにしたいと考えて、わざと目立たないように振る舞う人というのはいるかも知れません。けれどもそれは、様々な負担や仕事を他の人に回して責任逃れをしているに過ぎません。これもまた、主イエスがおっしゃった「小さな者」の姿とは違っています。
 「このわたしは貧しい者です。見すぼらしい者です」と、もしも自分から言ったり、そう見せようとする人がいるならば、それは実は、そうすることで自分の熱心さ、立派さ、また謙遜さを表そうとしていることになります。そういう人は、実は小さい者ではないのです。厄介ごとに巻き込まれないために目立たないようにするというあり方も、面倒なことに巻き込まれたくないということですから、小さな者ではなく、皆に気づかれないうちにもっと豊かになりたいと密かに願っているあり方です。そう考えますと、貧しかったり目立たなかったり、見すぼらしかったりするという意味での小ささを自分で熱心に求めようとするあり方は、主イエスがここでおっしゃっている小ささとは、少し違っていることが分かるのです。

 主イエスがここでおっしゃっている「小さな者」というのは、「自分には何もない」ということが分かって、「ただ主イエスが共に歩んでくださるということ以外には何も持っていない」と思っているような人のことです。それこそ「主イエスがわたしと共にいてくださる。それがわたしの全てなのだ。もし、わたしから主イエスが取り去られてしまったなら、他人からはどう見えていようと、もうわたしには何も残っていない」と思うような人、それが「主イエスを信じる小さな者の姿」です。ですから、ここに言われている小さな者というのは、聖書に出てくる別の言い方で言うなら、「心の貧しい人」と言い換えることも可能です。「このわたしには何もない。何もないけれども、主イエスがこんなわたしと今日も共に歩んでいてくださる。本当に感謝だ。主イエスがわたしと歩んでくださるので、わたしは今日も生きている」と信じている小さな人がいて、もしその人から主イエスが取り去られてしまったらどうなるでしょうか。それはとても重大なことになるに違いありません。「自分には何もないけれど、たった一つあることは『主イエスが共に歩んでくださる』ということだ」と信じている人がつまずかされてしまうとすれば、主イエスの前に行きたい、神様の前に行きたいと願っているのに、できないようにされてしまうとすれば、そういうつまずきをもたらす人は、本当に罪が重いと言わざるを得ません。
 ですから主イエスは、そういうつまずきを兄弟姉妹にもたらすような人は、「重い挽き臼を首にかけられて沈められた方が、その人にとってもよいのだ」とおっしゃるのです。6節の言葉は大変厳しい言葉だと最初に言いましたが、ここで主イエスがそういう言葉を口になさるのは、実は、私たちが主イエスによって救われ、命を生きる者としていただいた、その命を、本当に大事なものと考えてくださっているからです。そして、ここで主イエスが言われる「つまずかせる」ということは、「主イエスが共に生きてくださっている命を、あなたは一体どう生きているのか」と、私たちに問いかけてくださっている言葉なのです。私たちは皆、主イエスが共に歩んでくださっているという意味が分かれば、嬉しいに違いありません。けれども、「主イエスが共に歩んでくださる命をあなたはどう用いるのか。兄弟姉妹をつまずかせることに用いるのか」と、問われているのです。
 主イエスが私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。せっかく主イエスがそうしてくださって、これまで神様抜きで平気に生きてきた私たちの罪を、十字架上での主の御苦しみと死の償いによって清算してくださり、私たちには、「罪を赦していただいた者として神様に信頼し、神様と共に生きてよいのだ」という生活が与えられたというのに、もしそこで、私たちが神様に信頼して生きようとする小さな者の一人をつまずかせるような生き方をするなら、それは主の十字架によって救われた意味が何もないことになってしまいます。「あなたは決して、兄弟姉妹つまずかせる側になってはいけない」と、主イエスはそのことを心配して、つい厳しい口調で弟子たちを教え、導こうとなさるのです。ここでの主イエスの厳しい物言いは、真剣に弟子たちの命と身を案じ、主イエスにつながって与えられている生活を過ごすようにと願ってくださればこその言い方なのです。

 そして、主イエスがそのようにおっしゃるのには訳があります。この世の生活には誘惑が多く、絶えず主イエスの御業から私たちを引き離そうとする力が働いているからです。7節で主イエスはこうおっしゃいます。「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」。口語訳では「不幸」は「災い」と訳されていました。「災だ、この世は」と、主イエスはおっしゃるのです。どうして災いなのか。それは、「唯一しかない確かな拠り所となってくださる主イエスとの繋がりを断ち切り、他のものに頼らせようとする誘惑」が、この世には常に満ちているからです。「なにも十字架の主イエスなどに頼らなくても、あなたはそのままでも十分、神様に愛される資格のある者だ」と誘惑するささやきが、私たちの耳にすっと入ってくることがあるのです。
 「神様と私たちの間柄を本当に結んでくださるもの」、それは「主イエスの十字架の事実」以外にはありません。私たちがもしも、主イエスの十字架以外のところで神様と結びつけられると思う、そういう場合には、私たちは、自分が死ななければならない時に深く絶望することになります。どうしてでしょうか。私たちは、今は生きていて、自分で何かをできると思っているので、神様と結びつくこともできると思っているのです。けれども、想像もできないことですが、わたしが数日で死ななければならないとして、どんなに家族や友人を愛していたとしても、神様にまっすぐ心を向けていたとしても、全部置いて行かなければなりません。自分の力で神様との交わりをお墓の中まで持っていくこともできません。そのように、私たちは何もかも無くしてしまう時が必ず来ますけれど、そのところにも、神様の方から来て下さったという出来事があるのです。それが主イエスの十字架です。主イエスの十字架の死は、私たちの一般的な死とは違う壮絶な死です。事故死ですらなく、この世から「お前は要らない」と言われ、裸にされ、晒し者にされ、十字架に磔にされ、手足を釘で打たれ血を流し、死にゆく様を見世物にされて死んでゆかれたのです。ですから、私たちがどういう死を迎えるとしても、そこに主イエスが居てくださるために、主イエスはあえて、十字架の死という神様に呪われた死を死んでくださっているのです。そしてそういう死に向かう中で、なお神様に祈っておられるのです。私たちが絶望せざるを得ないところにも、なお神様がいらっしゃるのであり、そこで私たちは祈ってよいし、また神様はその祈りを聞いていてくださるのだということを、身を以て私たちに教えてくださっている、それが主イエスの十字架です。
 そして、「主イエスの十字架は、このわたしのために起こったことなのだ」と信じる人は、神様との交わりから引き離されることがなくなるのです。「主イエスが私たち一人ひとりの身代わりとなって十字架にかかってくださり、その主の死、その主の苦しみが、わたしの罪、神様から離れていても何とも思わないで自分なりにやっていけると思って神様を無視してしまう罪の精算をしてくださった。十字架を見上げる時、私たちの罪は赦され、無くてなっている。そして、私たちがどんなに深い絶望の淵にあるように見えても、そこにも主イエスがいてくださり、神様に祈ってくださっているし、神様がその祈りを聞いてくださっている」、私たちが聞かされている新しい命とは、そういう命なのです。ですから私たちは、どんなことがあっても今日与えられているこの命に信頼を置いて、「神様がこのわたしを先へ先へと持ち運んでくださるのだ」と信じて歩むことができるのです。

 ところが、そういう主イエス・キリストの十字架から私たちを引き離しにかかる力が、この世には絶えず働いているのです。どうしてそういう力が働くのか、どこからそういう誘惑が生まれて私たちの生活の中にまで入り込んでくるのかは謎です。けれども間違いなく、そういう、主イエスの十字架から目を逸らさせようとする力が始終働いているのです。
 かつて主イエスは、そのことを「麦と毒麦のたとえ」を通して教えてくださいました。最初、畑には良い麦だけを播いたはずなのですが、夜の間に、すなわち人々が眠り込んで気づかないでいるうちに、いつの間にか毒麦が畑に播かれてしまうのです。それがこの世です。毒麦がどこから入ってきたかは遂に分かりません。主イエスはそれをただ、「敵の仕業だ」とおっしゃいます。弟子たちが驚いて、自分たちの信仰生活の邪魔になっては困ると考えて毒麦を抜こうとすると、主イエスは「性急に抜いてしまわないように」と弟子たちを戒められました。それは、麦と毒麦があまりに接近して生えていて、その根が絡まり合っている場合があるためです。つまり、自分としては「これは毒麦だ。つまずかせるものだ」と思っても、もしかすると、それをあまり急いで引き抜きますと、すぐ隣の絡んだ良い麦の根までを一緒に傷つけ、育つことができなくしてしまうかもしれません。そうなっては元も子もないので、「あまり軽々しく毒麦を引き抜こうとしないほうがよいのだ。むしろ両方とも、麦がしっかり育って、実を確かに結んで、どれが良い麦か毒麦かがはっきりするまで待つのがよいのだ」と、主イエスはおっしゃいました。
 主イエスの十字架によって罪が赦され、神様との交わりが確かに与えられ、神様に支えられているのだということをしみじみ味わうことのできる、そういう確かな実りが生まれるようになるためには、時間がかかるのです。私たちは分かったつもりになっていても、いつまでも自分は自分だと思っているところがありますから、繰り返し繰り返し、十字架の赦しの許にあることを聞かされ続け、そしてそれが揺るがないほどになるまでには時間がかかるのです。ですから主イエスは「慌てて抜いてはならない」とおっしゃるのです。麦と毒麦の両方ともが完全に成長して、その結ぶ実がはっきりしたところで、初めて毒麦を抜き、つまずきとなる者、不法を行う者どもを、取り除くのがよいと教えられました。
 確かに、この世にあっては「つまずきの芽、毒麦のような芽」は絶えず生えてきます。私たちは何が良い実を結ぶ良い麦で、何がつまずかせて神様との間柄を断ち切る悪い麦なのかを、注意深く見極めなくてはならないのです。良い麦と毒麦とが並んで生えている中で、私たちは、毒麦を無視して生きていくこともできません。けれども、忍耐して辛抱強く一緒に育つ、そのところで、神様の私たちに対する憐れみの深さや神様ご自身の忍耐の大きさ、辛抱強さを知らされ、最後には「私たちは一体、何に信頼して生きて行くのか」ということがはっきりさせられてゆくのです。私たち自身が神様の憐れみゆえに引き抜かれず、良い麦を播かれた者として持ち運ばれているということも、深く味わわせていただけるようになるのです。

 「麦と毒麦のたとえ」について、弟子たちがよく分からずに説明を求めた時、主イエスははっきりと「刈り入れをするのは、人ではなく、天使たちなのだ」と教えられました。マタイによる福音書13章41節から42節です。「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである」。「毒麦とは、兄弟姉妹をつまずかせ不法を行う者である」と、主イエスはおっしゃいます。そして、「終わりの日にそれを抜き集め、炉の中に投げ込むのは、天使たちだけだ」ともおっしゃるのです。「毒麦と麦を見分けるのは、あなたではない。清らかな天使が常に神様と共にいて、曇りのない目で見て、初めて本当に麦と毒麦の見分けがつくのだ。しかもそれは、世の終わりまで、しっかりと育つところまで行ってからのことだ」とおっしゃるのです。
 私たちは、肉眼に過ぎない人間の目で見るのであって、上辺だけは見ることができても、人の心根の全てを見通すことはできません。誰が他者をつまずかせる者で、誰が良い麦なのか、はっきり区別することはできないのです。はっきり区別ができないにも拘らず、あえて誰かを毒麦であると決めつけて、それを抜きにかかるというのであれば、その場合には、私たち自身が「神様に繋がっている小さな者をつまずかせてしまう者になることもあり得る」のです。またそれは、非常に真剣に、また真心から、「毒麦は抜かなくてはならない」と思って、そうしてしまうのです。しかし結果的には、天使のような目を持っていないのですから、行うべきでないことを行って、兄弟姉妹をつまずかせてしまうということがあるかもしれません。そういう意味では、私たちは信仰においても罪を犯してしまう危険を常にはらんでいるのです。

 ですから、主イエスは私たちの手の業、その行いについて厳しく注意するようにと、警告の言葉を発せられるのです。8節「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」。6節と7節のところでは、誰かが他の人をつまずかせるという話でした。ところが8節になると、もうよそで起こっている話ではなくて、「他ならないあなた自身の話」になっています。「あなた」、つまり「この話を聞いている私たちの手や足が、わたしをつまずかせる」という話に変わっています。とても面白い言い方です。誰もつまずきたいなどとは思っていませんから、普通に考えれば、自分の手足が自分をつまずかせることなど起こるはずがない、手足が自分を裏切るはずはないと、私たちは考えます。ところが、主イエスがそういうことが起こると言われました。それは、私たちが隣人のことを気にしてしまうからです。
 私たちはつい隣人のことが気になって、隣人の過ちや誤りには過敏と言って良いほどに反応します。そして近づいて行って、よせばいいのに引き抜いてしまいます。その段階では、私たちはまだ「つまずかせる側」ですが、そのように兄弟姉妹をつまずかせる者は、終わりの日になると、天使たちが「おまえは毒麦だ」と言って引き抜いてしまうことになるのです。ですから、「自分の手足が自分をつまずかせるということがあるのだよ」と、主イエスはおっしゃるのです。しかも、本人は大真面目に、それが信仰者の在り方なのだと思ってやってしまう手の業が、実は自分をつまずかせる、そういうことになり兼ねないのです。「もし、そんなふうにあなたの手や足が先走ってしまい、他者を裁いて引き抜いてしまう、つまずかせてしまうのであれば、そういう手足は、いっそのこと、あなた自身から失われた方がよい」と、主イエスはおっしゃいます。過激な言い方ですから、こう言われると反発を感じる方もいらっしゃるかもしれません。「そんなことを言うなら、本当に手と足を切ってしまうぞ」と、気が立って思う方がいらっしゃるかもしれませんが、主イエスは私たちの体を虐待しようとして、こうおっしゃったのではありません。そうではなく、「せっかく与えられているあなたの手、あなたの足は、兄弟姉妹をつまずかせるための道具ではない。むしろ賢く用いるように」と勧めておられるのです。そしてそれは、私たちが人に対して行う判断、9節では、目についても同じようにおっしゃっています。
 
 私たちが、「神様から愛され、神様に結ばれている兄弟姉妹」を毒麦と見間違える場合には、もしかすると、その人がまだ信仰者として本当に小さな者にすぎないという理由があるかもしれません。先ほど申し上げたように、小さな者というのは、わざとらしい謙遜な態度を示したり、なるべく控え目に目立たないようにと、隣の人の後ろに隠れようとする人たちのことではありません。むしろ、本当に貧しく弱く、そのために自分でも自分自身のことがままならないと思って悲しんでいる人が、小さな人です。私たちは皆、そういうところを持っていますから、出来ないのであれば、それを出来るようなふりをする必要はありません。「神様は、そういう弱い者を生かしてくださるのだ」と弁えて、そういう恵みを味わって生きて行くならば、私たちはいつの日か、神様の役に立つ者にされていくのです。
 けれども、その過程では、周りの人たちが期待するようなあり方をできないかもしれません。そういう兄弟姉妹に向かって、私たちは、「あなたも十字架の主によって赦された者なのだから、これくらい出来るでしょう」と、つい言いたくなってしまうのです。出来ないことを見て、その人には真剣さが足りないように思ってしまったりするのです。ところが、実際のところどうなのかは、私たちには分からないことです。その人は、ほとほと自分自身の小ささに困り果てながらも、仕方なく、それでもそんな自分のために主イエスが十字架にかかり甦ってくださったことを信じて、「いつの日か、本当に、主イエスに従って生きる自分になるのだ」という志を与えられて歩んでいるかもしれないのです。

 そして主イエスは、そういう一人ひとりが「、神様の御前にはべる天使たちに見守られて、一人に一人の天使がついて、その人を支えるようにしてこの地上の命を持ち運んでいるのだ」と教えてくださっています。10節です。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。天で天の父の御顔を仰いでいる天使たちが、同時に自分が担当している一人ひとりのキリスト者がどんなに神様に喜ばれているかということをよく知っています。ですから主イエスは、「あなたがたはくれぐれも、軽々しく兄弟姉妹を裁いてはいけない」と言われるのです。

 今日の主イエスの言葉は、ここにいる私たちに、「自分一人だけではなく、兄弟姉妹が皆共に、十字架の主の赦しに与って生きる者となるようにされているのだから、そのように歩んで行くように」と語りかけてくださっている言葉です。私たちは隣人についても、また自分自身についても、あまりに簡単に裁いたり、絶望したりしないようにしたいのです。隣人について、また何よりも自分自身について、その小ささのゆえに、時にいかにも人間臭い弱さや貧しさが顔を覗かせる場合があります。まさしく、私たちがそういう者であるからこそ、主イエスは十字架に向かって歩んで行ってくださいました。私たちは、兄弟姉妹について、また自分自身について、色々な弱さや至らなさが気になることがあるかも知れません。しかし、そんな私たちのためにこそ、主イエスが十字架にかかってくださっているという、その大切な一点を忘れずに歩む者とされたいのです。
 私たちが兄弟姉妹を見るとき、自分自身を考えるとき、忘れてならないことは、「主イエスがこの人のために十字架にかかってくださった」という、一つの動かしがたい事実です。今生きている者も、また地上の生活を既に終えた者たちも、皆がこの主イエスの十字架の執り成しの下に置かれています。そして、主イエスとの結びつきは、どんなことがあっても破壊されたり、傷つけられてはなりません。私たちは皆、「十字架の主イエスの許で生き、そして永遠の命へと移されて行く」そういう一人ひとりです。今の自分に表せる限りにおいて、その恵みに感謝し、生きる者とされたいと願います。

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