聖書のみことば
2018年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月11日主日礼拝音声

「キリストを受け入れる」
2018年2月第2主日礼拝 2月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第18章1〜5節

18章<1節>そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。<2節>そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、<3節>言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。<4節>自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。<5節>わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 ただ今、マタイによる福音書18章1節から5節までをご一緒にお聞きしました。主イエスが弟子たちの真ん中に一人の幼な子を呼び寄せて、その幼な子を指し示しながら、主に従う弟子たちのあるべき姿を教えられた有名な箇所です。今日の記事の細かな点まではっきりとは覚えていない方でも、主イエスが1人の幼な子を弟子たちの真ん中に招いて、謙遜であるべきこと、へりくだることを教えてくださった、確かそんな出来事があったと記憶しておられる方は多いのではないでしょうか。主イエスは、弟子たちの一人ひとりに「謙遜に生きるべきこと、へりくだって歩むこと」を教えられ、また、お求めになります。
 私たちは、そのことは重々承知しているつもりなのですが、しかし、気がつくといつも、いつの間にか謙遜さを忘れ、平らに生きることができなくなっている場合が多くあります。それはどうしてでしょうか。今日の聖書の御言を聞きなら、私たち自身が本当に平らな者となって生きるためには、どこに思いを向けて生活するべきなのかということを、一時、ご一緒に考えてみたいのです。

 1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」。「天の国では、誰が一番偉いのだろうか」という問いが発せられています。「いったいだれが」と始まっているのですが、この「いったい誰が」と訳されている言葉は、原文に書いてある文字では、「それならば誰が」と訳すのが良い言葉が使われています。「それならば、天の国では誰が一番偉いことになるのか?」と、弟子たちは尋ねているのです。そうしますと、ここに出てくる「誰が一番偉いのだろうか」という問いは、どうも、この時初めて弟子たちの心に兆した問い、というのではないようです。以前から弟子たちの心の奥深いところにわだかまっていて、何となく気になっていた事柄が、ここで面に浮かび上がってきた、そういう問いです。

 弟子たちがお互いの間で「誰が一番偉いのだろうか」という問いを浮かび上がらせるようにした直接のきっかけは、この直前に語られていた、「主イエスとペトロの神殿税を、ガリラヤ湖で釣れた魚の口から出た銀貨で支払った」という、その出来事でした。先週の礼拝説教でも申し上げましたが、当時の神殿税は、一人一年2分の1シェケルという大変安い金額でした。30円とか50円ほどで、金額的には誰でも払える額です。ところが、この2分の1シェケルという貨幣は当時造られておらず、一番小さい、一番安いコインは1シェケルの銀貨でした。2分の1シェケル、つまり半シェケルを神殿税として納めるのですけれども、コインがないので、二人一組で1シェケルを支払うということになります。先週の箇所の話で言えば、主イエスとペトロと2人分の税金をガリラヤ湖で釣れた魚の口から取り出した1シェケル銀貨で支払った訳です。
 ところが、その1シェケル銀貨の支払いについて、主イエスとペトロの間で、議論が交わされることになります。ペトロは、神殿税は当然支払うものだと思っていました。けれども主イエスは、「税金というものはこの世の王たちや君主の子らが支払うものではなくて、支配を受けている人たちが支払うべきものなのだから、本当のところを言うならば、神様の子供たちである者は支払う必要がないだろう」とおっしゃったのです。つまり、ペトロは徴税人に「あなたの先生は神殿税を払うのか」と聞かれて、「はい、お払いになります」と答えたのですが、そのやりとりを聞いておられた主イエスは、「本当のことを言えば、神様の子である者は払う必要はないだろう。だから、わたしは神殿税を払う必要はないのだ」とはっきり伝えておられます。ただそうは言っても、主イエスの時代の人々が皆、「主イエスは神の子である」と知っていたわけでも信じていたわけでもないので、「人々をつまずかせないように、今回は支払うことにしよう」とおっしゃったのです。ただ、元々払う必要のないものなのだから自分のお財布から出すのではなく、湖の魚の口から神殿税に用いる銀貨をペトロに見つけさせて、ペトロの分も併せて支払わせたのです。

 そういう出来事があった時、カファルナウムの家にいたのはペトロと主イエスの2人きりでしたから、もし、ペトロが誰にも喋らなかったなら、神殿税の話は、その時限りで誰も知らない話として済んでいたことでしょう。ところが、今日のところで他の弟子たちが主イエスの居られるところまで追いついてきた時に、どうやらペトロは、神殿税のことをついうっかり他の弟子たちに話してしまったようなのです。主イエスが湖の魚の口から神殿税を取り出して納めたことが、ペトロとすれば、たいへん愉快なことに思えたのでしょう。つまり、「これまで知らなかったけれども、主イエスというお方は神殿税を払う必要のない方なのだ」ということに気づいて、またその主イエスに結ばれた者として「自分も払わずに済んだのだ」と、ペトロは大変愉快なことと思って話したのです。
 ところが、それは他の弟子たちには非常に羨ましく、また妬ましいことに思えました。神殿税は一人一人が命の贖いとして、命のしるしとして、自分で払わなければならない筈なのに、ペトロは、自分でそのお金を出さずに主イエスに出してもらったような形になったからです。
 しかも、神殿税については、主イエスは元々払わなくて良いのですが、それだけではなく、「神様の子たちは払わなくて良い」、つまり「あなたたちも払わなくて良いのだ」と、主イエスはおっしゃるのです。

 弟子たちが神殿税を納めなくても良い理由は、弟子たちがただ主イエスと知り合いだからということではありません。厳密に考えるならば、神殿税は元々「各人の命の贖い」として神様に納めるものです。人はいつも神抜きで生きてしまうようなところがあって、せっかく神様から預かった命を勝手に生きてしまうので、そのことを神様にお詫びして、もう一度「神様の僕として歩んで参ります」ということを現す献金であるという意味が、神殿税にはあるのです。人がもし、1年間ずっと、天使のように、神様に造られたままに神様のことだけ考えて生きるのであれば、贖われる必要はありませんから、税金を納める必要もないのですが、実際にはそうではないので、全ての人が献げるべき税金なのです。
 では、主イエスの弟子たちがなぜ納めなくても良いかと言うと、主イエスを信じる弟子たちは、自分のお財布から支払わなくても、自分自身を贖う代価を主イエスに払ってもらっているからです。「主イエスが信じる者たちの身代わりとなって、十字架によってご自身の命を差し出し、尊い代償を支払ってくださった」からです。もちろん、今、主イエスは弟子たちと一緒にいらっしゃいますから、弟子たちにはそのことが分からないのですが、主イエスは十字架に架かることを決めておられますから、主イエスは「わたしがあなたがたの命の贖いの代価を支払うのだから、あなたたちは神殿税を支払わなくても良い」と言ってくださっているのです。そして、その先触れのような出来事が、ペトロの身に起こったのです。ですから、ペトロとしては愉快なことだったでしょうが、他の弟子たちにしてみれば、まだ神殿税は自分で支払わなくてはなりませんから、ペトロだけが特別に主イエスに払ってもらったということになったのです。

 ただ、税金は支払うとしても、「自分たちは、主イエスを知らない他の人たちとは違うのだ」という思いはあるのです。自分たちは、「本当は、主イエスによって身代金を払ってもらって自由な者とされているのだ」と聞かされているのですから、同じように神殿税を支払うにしても、「自分たちは他の人たちとは違うのだ」という優越感が弟子たちの心に兆したとしても不思議ではないのです。そして、一旦、そういう得意な気持ちが生じますと、気になることが出てくるのです。自分たちはそれでも自分で神殿税を納めるのですが、ペトロは主イエスと一緒にいて支払ってもらったので、もはや支払う必要がない、これは何とも癪な話なのです。ペトロが自分たちと全く同列であれば、何も問題は起こらないのですが、ペトロだけが主イエスに神殿税をおごってもらったような形になっている、これがマズイのです。ペトロは、内緒にしておけば良いのに無邪気に他の弟子たちに、「ガリラヤ湖で釣れた魚の口から見つかった銀貨で、神殿税を主イエスの分と一緒に納めてしまったよ」と言ってしまいます。それが、他の弟子たちの心の導火線に火をつけることになるのです。羨ましいという思い、妬ましく思う気持ちがメラメラと燃え上がり、それで、主イエスのところにやってきて、「それなら一体、誰が天の国で一番偉いのでしょうか」という問いを発するということに繋がっていくのです。

 直接のきっかけは、ペトロが言わなくてもよいことを、嬉しさ、愉快さのあまり、つい仲間の弟子に告げてしまったことなのですが、しかし、このような妬みが生まれて来る背景には、考えてみますと、もう少し根本的な事柄があります。この時、主イエスは弟子たちに、ご自身の十字架のご受難と復活のことを何としても分かってもらいたいと思って教えておられた最中でした。神殿税の出来事の直前のところ、17章の22節と23節でも、主イエスは、ご自身の受難と復活の話を弟子たちにしておられます。主イエスは「わたしは今から、救い主として、救い主の御業を行うためにエルサレムに上ってゆく。そこで敵の手に引き渡され、殺されることになるけれども、恐れたり、悲しんだりしなくて良い。3日目に復活するのだ」と教えられます。ところが、弟子たちは主イエスの言われることが分からないのです。23節の最後を読みますと、「弟子たちは非常に悲しんだ」とあるように、弟子たちは悲しみに捕らわれてしまうのです。主イエスは、「わたしの受難と死こそが救い主の業なのだ。わたしの十字架の死によってあなたがたの命が贖われる、そういう死なのだ。あなたの罪、あなたが神様から離れて神抜きで生きてしまうという問題は、わたしが身代わりとなって十字架の上で清算するのだから、あなたは新しい命を生きて良いのだ」と教えてくださるのですが、弟子は分からないのです。弟子たちはただ、主イエスが殺され、自分たちの間からいなくなってしまうことばかりに心を奪われてしまうのです。
 主イエスは、「あなたのために、わたしは十字架にかかるのだ。そして、あなたはそれによって贖われるのだ」と教えてくださっているのですから、もし、それをそのまま素直に受け止めるなら、弟子たちは、「こんなわたしのために主イエスは苦しんで死んでくださるのか。本当に申し訳ないことだけれど、しかし、そうしていただく以外に、このわたしが神様抜きで平気であるような罪から清められ、新しい命を生きることができないのなら、せめてものこと、このわたしはその主イエスの御業に感謝して、主を信じ、主に従う新しい者となろう」という、心からの悔い改めが生まれそうなものです。ところが、そうはならないのです。弟子たちにしてみれば、どうして主イエスがエルサレムの十字架を目指し、更には甦りの朝を目当てとして進んでゆかれるのかを悟らないまま、ただ、「今のまま、主イエスの許で安心して歩んでいられる生活が続いて欲しい。このまま主イエスに伴っていただいている安楽な暮らしが永遠に続くと良い」と願っているのです。つまり弟子たちは、「あなたがたの罪は赦された。新しい命を生きて良い」と何度主イエスが教えてくださっても、「自分たちの罪とその赦し」ということについてはよく分からないまま、半分居眠りしているような状態で過ごしているのです。

 「主イエスが知らせてくださったご受難が、このわたしのせいだったのだ。わたしの罪を主イエスがご覧になって、だから十字架に向かって、エルサレムまで歩んで行かれるのだ」ということを忘れてしまうところでは、どんなことが起こるのでしょうか。自分は主イエスを十字架にかけるほど酷い者だと気づいていませんから、自分はマシな者だと、どこかで思っているのです。そしてマシな自分たちの中では、「誰が一番偉いのか」という話に繋がっていきます。
 「主イエスが十字架に架かられた」ということは、この12弟子だけではなく、その後ずっと教会が聞かされ続けていることです。ここにいる私たちも聞かされたのですし、教会に行けば、手を替え品を替えして、いつも十字架の話を聞かされるのだろうと思っているのです。聞かされることは分かっているのですが、しかし、「主イエスの十字架は、わたしのためなのだ」ということを、私たちはついうっかり忘れてしまいます。十字架の話を、どこか自分と関わりない話として聞き流してしまうのです。そうすると、「あの人は弟子として相応しくない、ダメな人だ」という裁き合いが生まれてくる、あるいは、他者にだけではなく自分に向かって「こんなわたしはダメだ。赦されるはずがない」と思ってしまう。しかしそれは、違うのです。主イエスは、「あなたは確かに神様の前には赦されるはずがない、死んで滅びるしかない者だから、だからわたしが身代わりになって十字架にかかるのだよ。それによってあなたの罪は清算されるのだから、あなたは神様を信じて、神様のものとなって生きていきなさい」と繰り返し言ってくださるのです。けれども、弟子たちにはそれが分からず、分からない中で、誰がどうかという不毛な議論を始めるのです。

 こういう議論が生まれることは、裏返しに言うならば、私たちが十字架を忘れて暮らしている中では、気づかないうちに、どんなに自分のメンツにこだわって生きているかということだろうと思います。自分では殆ど意識していないことですが、私たちは普段から、誰が頼りになるか、誰が当てにならないか、
また自分がどう見られるかということを気にしながら生活しています。無意識のうちに他人を仕分けしているのです。この人は立派な人、あの人はそうでもない人、そんなふうに心のうちで密かに思いながら暮らしています。普段からそういう生活を送っているので、神様の許に行って天の国に入れられる時にも、ふと、そうした地上の序列のようなものが成り立ってしまうかのように考えがちなのです。
 しかし、知らなくてはなりません。私たちが普段当たり前のように他人を評価して位置付け考えている、そのこと自体が、果たして神様の前に通用することなのでしょうか。考えなければなりません。「主イエスの十字架によって、私たちが命を贖われる。神様の前に立つことができるようにされている」のですから、逆に、それ以外では、たとえあらん限りの金銀財宝を積み上げたところで、あるいは自分にできる限りの善行や功徳を積み上げたところで、神様の前に立つことはできないのです。私たちはそもそも、自分の持っているものでは、神様の前に立ち得ない者です。ですから、主イエスを抜きにすれば、神様がどこにおられるのかも分からないのです。
 「教会生活を長く続けて少しは修行できたようだけれども、神様のことが少しも分かった気がしない」と思うことがあるかもしれませんが、それは当たり前のことです。私たちの努力や持っているものが認められて神様の前に立つのではないからです。私たちがどうして神様の前に立てるのか。それは「主イエスが身代わりになって十字架に架かってくださったから」です。私たちが到底差し出すことのできないような清らかな生涯を、主イエスが献げてくださっているからです。私たちの罪がどんなに重くても、主イエスがご自身の生涯を献げて、「これが、この人の命の値です。この人の命はわたしの十字架で贖われました」と言ってくださるので、私たちは罪赦され、清められて「神の御国に入れられる」ということが起こるのです。

 弟子たちには、そういうことがよく分かっていません。ところが、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と、自分たちが天の国に入ることを前提にして主イエスに尋ねています。けれども、それに対して主イエスは、「それは違う」と言われました。「あなたがたにとっての問題は、誰が偉いかということ以前に、そもそも天の国に入れるかどうかだ」とお答えになるのです。そして、弟子たちの中央に、1人の幼な子を立たせて言われました。2節3節「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』」。弟子たちは、天の国に自分たちが入れることは当然のことで、その上で、天の国に入った後で、誰が偉いかと話しています。ところが主イエスは、具体的な1人の子供を呼び寄せて、「こういう子供のようでなければ、偉いとか偉くないとか言う以前に、まず天の国に入れないのだ」とおっしゃいました。
 これは、主イエスが弟子たちと子供たちを見比べて、弟子たちは天国に入る入門テストに点が足りないから駄目だとおっしゃっているのではありません。様々に欠けがあり短所があるから天国に入れないのだとすれば、私たちは誰一人、神様の御前に通用するような清さも完全さも持ち合わせてはいないのですから、全員落第、誰も天の国に入ることは出来ません。
 主イエスがここで、なぜ子供を立たせておられるのか。ここで主イエスが教えようとしておられるのは、子供の清らかさとか、可愛らしさではありません。今日、私たちは、少子化の影響もあるかも知れませんが、特に生まれたての赤ん坊の可愛らしさを強調して、子供たちがまるで天使でもあるかのように考えることがあります。子供を偶像のように持ち上げてしまいます。大人は勝手に、子供は悪い思いを抱かないものだと思っていますが、子供は決して天使のように清らかなのではありません。主イエスは、子供は清らかだという意味で、ここで子供を立たせているのではないのです。
 今では考えにくいことですが、主イエスの時代には、子供たちは今日よりもずっと軽んじられていました。大人に比べて半人前と考えられ、ちっぽけで、しばしば後回しにされました。そして、子供自身も、そういう扱いを受けるのは当たり前のように思っているところがありました。ですから、子供のようになるということは、「自分を低くする、自分を軽く見る」ということと同じでした。「自分を低くする」ということは、本心では自尊心を持ちながらあえて卑下して見せるという、見せかけの低さを示すということではなくて、「本当に低く扱われる者だから、自分はそういう者でしかないのだ」と思っているということです。子供は大人とは違います。実際以上に自分を低く見せたりはしません。子供が身を低くするのは、実際に、それ以上ではないからです。自分がどう見られるかということを計算して、わざと小さく見せるのであれば、それは子供らしさよりも、むしろ、背伸びしているあざとさと言うべきでしょう。主イエスは弟子たちに、「身を低くする」ということが大事だと教えておられるのです。

 4節では「子供のようになる」ということが、「自分を低くして、この子供のようになる」と言い換えられています。「自分は軽んじられる者でしかないということを知って、そのように歩みなさい」と主イエスは教えておられます。
 実は、これはよく考えて見ますと、こういうあり方を真実に歩んでくださったのは、主イエスご自身です。私たちのために、自ら身を低くしてへりくだり、子供のように軽んじられる者となって生きてくださったのです。神様と等しいお方が、人間の姿をとってこの地上にお生まれになり、人間と何も変わらない交わりを持って生きてくださる。弟子たちは、そういう主イエスが当たり前だと思っていますから、主が身を低くしてくださっているとは考えないのです。けれども、実際の主イエスは、ただの人間になられたのではありません。そうではなく、明らかに「罪人である」と見られている犯罪人の傍に立って、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」と言って、一緒に十字架で死ぬというところにまでに身を低くしてくださるのです。
 ですから、4節の「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という言葉を聞いて、私たちが主イエスの真似をしてみようと思っても、恐らく上手くいきません。自ら身を低くすることができるのは、元々罪のない主イエスだからお出来になることであって、もし私たちがそれを真似しようとすれば、逆に、元々罪にまみれ神様から遠く隔たった生活しか送れていない自分が、あたかも天使のような者であるかのように見せかけることになり、却って偽善に陥ることになるからです。

 ですから、弟子が主イエスに尋ねた「天の国で一番偉い」というあり方は、私たちには無理なことなのです。主イエスは弟子たちの問いに答えて、「天の国で偉い者でいるのは無理なことなのだ」とまず教えられ、それだけでは終わらずに、その後に続けて、弟子たちのあるべき姿を示してくださいました。それが5節です。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。つまり、「あなたがたは、誰が偉いか誰がそうでないかを考えるのではなく、互いに受け入れ合って生きるように」と教えられています。私たちはとかく、他人を評価したり裁いたりしがちなのですが、その時に、自分自身がまず「赦されなくてはならない罪人である」ことを忘れてしまいがちなのです。
 教会の交わりは、私たち人間の優しさや大らかさで成り立つのではありません。そうではなくて、「私たちの交わりの中心に、十字架に架かり、甦って生きておられる主イエスが立っておられる」のです。そして、その主イエスが私たち一人一人を「ここにいらっしゃい」と招いてくださるがゆえに、私たち自身、教会の交わりに迎え入れられるのです。私たちが問題を抱え、行き悩んでしまう時にも、なぜ教会の交わりの中でホッとさせられるのか。それは、教会には優しい人がいる、ということではありません。主イエスがおられるからなのです。「あなたは確かに辛くて、自分の人生を持て余しているかも知れないが、しかし、わたしはここにいて、あなたと一緒に歩んであげるよ」と言ってくださるから、私たちはホッとさせられて、新しく歩んで良いと教えられて、励まされ、勇気づけられて、自分に与えられている人生にもう一度、向き合おうとするのです。主イエスが教会の交わりの中心におられます。そして、「あなたがたは、わたしの名のゆえに、この子供のような者を受け入れなさい」とおっしゃるのです。私たち自身が隣人を受け容れ、受け止めて生きる者となってゆくのです。
 受け止め、受け容れる側は、新しく群れに加わる人に対して平らに付き合おうとするのですが、受け容れてもらう側の人は、そのことがまだよく分からず、時に険しさを見せたり、ずるかったりすることがあるかもしれません。教会の交わりであってもそういうことはあるのです。私たちは天使でも何でもないのです。けれども、そんな私たちの交わりの中心に主イエスがおられるので、「主イエスがわたしを受け止めてくださっている」ということが分かる時には、その主に仕える者として、あるいは出し抜かれたり裏切られたりすることも承知の上で「他者と生きていく」ということが、教会にはあるのです。

 そうは言っても、騙されるのは癪ですし、酷い目に遭わされれば悔しくなります。そういう時には、どうしたら良いでしょうか。私たちはしばしば、「この人は、無理。わたしの手に余る」と思ってしまいます。ある程度は付き合えるけれど、それ以上は付き合えないと、手放してしまうのです。
 けれども、私たちはそのような時に「十字架の上を見上げなさい」と教えられています。「主イエスの十字架の苦しみによって罪赦され、受け入れられて、神様の前に立つことを許されている」ことを、主イエスは何度も繰り返し、弟子たちに教えてくださいました。弟子たちは、何度聞かされてもそれを理解しませんでしたが、しかし、主イエスは、そういう弟子たちとも共に歩んでくださいました。
 ですから、「主イエスがわたしを受け止めてくださっている」ということが分かる時には、私たちは、自分の手に余ると考えてしまう他者を放してしまう代わりに、十字架の上を思い出すようでありたいのです。私たち自身が主に受け止められ、罪を赦されて新しい歩みを始めるために、主イエスがどんなに苦しまれたか。その苦しみの何十分の一、何百分の一を、私たちも味わわせていただきながら、皆で、主の御体をこの地上に形造り、神様の祝福を受け嗣ぐ者とされていることを感謝したいのです。
 私たちの人生を、主イエスが贖ってくださいました。そのことに感謝して、自分に示され、理解できた限りにおいて、私たちは精一杯、この主に仕え、隣人と共に生きる人生を過す者とされたいのです。

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