聖書のみことば
2018年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

2月4日主日礼拝音声

 納税問答
2018年2月第1主日礼拝 2月4日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/マタイによる福音書 第17章24〜27節

17章<24節>一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。<25節>ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」<26節>ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。<27節>しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書17章24節から27節までを、ご一緒にお聞きしました。その最後のところ、27節の言葉をもう一度繰り返してお聞きします。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。請求された税金を湖で釣れた魚の口から手に入れた銀で賄おうと、主イエスがペトロに仰っています。少し、悪戯っぽい印象も受けます。本来なら、自分で支払わなくてはならない神殿の税金を、湖の魚に代わりに払ってもらおうというのです。ここには、密やかな主イエスのユーモアがあると語っている説教者もいます(加藤常昭)。主イエスは、ご自身が十字架に向かって行かなくてはならないと告げたことで、気持ちが沈みがちになっているペトロを何とかして慰め、励まそうとしてくださるのです。

 ペトロたち弟子一同が主イエスの告げるご自身の受難と復活の知らせを聞いて深く悲しみ、魂がうなだれていたことは、今日聞いた箇所の直前、23節に述べられています。そこには確かに「弟子たちは非常に悲しんだ」と言われているのです。主イエスはご自身の受難予告をなさる中で、繰り返し死の事柄が最後ではないのだと教えておられました。そのことを教えるために、受難予告が繰り返されたのだと言って良いほどです。ところが、何度主イエスから「死は決して終わりではない。その先には3日目の復活の朝が来るのだ」と聞かされても、弟子たちは分かりません。弟子たちは、十字架の死の先にイースターの甦りの朝が訪れるのだと聞かされても、嬉しい気持ちにはなれないのです。むしろ、復活の一つ手前にある十字架の死の出来事こそ、決して起こってほしくない辛い出来事だという思いで、心が一杯なのです。死の悲しみに心が覆われていて、復活の喜びが弟子たちの心に入り込める余地がありません。それほどまでに死の悲しみと嘆きは弟子たちの心をすっかり塞いで、重くのしかかっているのです。
 そこで主イエスは、一つの具体的な方法を思いつかれるのです。ペトロと家で二人きりになった時に、です。先程の24節には、主イエスたちの一行がカファルナウムに居たことだけが述べられていて、一行が何人だったかは語られていないのですけれども、今日の箇所の直後、18節1節を見ますと、弟子たちが主イエスの一行に後から追いついてきたような口ぶりになっています。恐らく、フィリポ・カイサリアからガリラヤに集結した時に、カファルナウムにペトロの家があり、かつては主イエスもペトロの家に家族の一人のように出入りをしてガリラヤ伝道の拠点となさっていましたから、そんな関わりがあって、一足先にカファルナウムのペトロの家に戻るか立ち寄るかなさったのでしょう。しばらく留守にしていた訳ですけれども、今、帰ってきてカファルナウムの家に居る、そのことが知れて、神殿税を徴収する徴収員がペトロのところにやってきて、ペトロと主イエスの神殿税を取り立てようとしたというのが、今日の記事の発端となる出来事です。

 ところで、この神殿税と言われている税金なのですが、金額で言ってしまえば拍子抜けするほど安い金額です。当時のお金で言うと、半シェケル、即ち、1シェケルの半分が一人の一年分の神殿税でした。半シェケルと言われても見当がつかないという方もおられるでしょう。ざっくり言えば、1シェケルは100円足らずです。ですから半シェケルはせいぜい50円です。実際には、もう少し安いかも知れません。すると、ペトロのところにやってきて、神殿税を取り立てようとしている徴税人が、「あなたたちの先生は神殿税を納めるのか」と尋ねているのは、主イエスの懐具合を心配して言っているわけではないということになります。
 仮にこの税金が1万円とか2万円とかするのであれば、収入がないために支払えないとか、支払いを猶予して欲しいという人もいるでしょうが、この税金に限っては、それこそ子供でも小遣いから支払えそうな程の低額なのです。
 この時の出来事を厳密に考えたがる聖書学者や研究者たちは、恐らくこの時、主イエスの一行の財布を預かって金庫番の役割を果たしていたイスカリオテのユダが不在で一緒にいなかったのだろうと推測したりします。ユダがいないため50円の支払いもできなかったので、ペトロが徴税人に向かって神殿税を支払う意思だけを告げ、実際にはお金を払えないまま帰ってもらったのだろうというのです。ペトロは、わずか50円や100円のことで要らぬ波風を立てたくなかったのかも知れません。そうでなくても、主イエスは今からエルサレム目指して進んでゆき、敵の手に渡され殺され復活するということを告げておられるのです。ペトロとすれば、主イエスがおっしゃる将来は受け容れ難いものです。僅か50円か100円のことで、これ以上、事を荒立て、敵が増えるようなことは避けたいというのが、この時のペトロの偽らざる思いだったのでしょう。ところが家の戸口での徴税人とのやり取りを、主イエスが家の奥から聞いておられたのです。そして、徴税人を帰して自分も家の中に引き上げてきたペトロに向かって、主イエスの方から言葉をおかけになるのです。25節です。「ペトロは、『納めます』と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。『シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか』」。出し抜けに主イエスが税や貢物の話を始められます。「それらは一体、誰から取り立てられるのか?」とおっしゃるのです。ペトロは一瞬、主イエスがどうしてこの話を始められたのか、合点がいかなかったに違いありません。実は、主イエスは50円を惜しんでいるのではなく、ご自身が何者であるのかをペトロにもう一度、はっきりと印象付けようと思って、この問いを発しておられるのです。

 そもそもは、払うか払わないかとペトロが尋ねられた神殿税です。この税金は大変に安いのですが、どういう性格の税金なのかを知ることが、ここでの主イエスのおっしゃっている問いの意味を理解する上で大切になるのです。この神殿税は、どんな経緯で集められるようになったのでしょうか。出エジプト記30章11節から16節に、この半シェケルを献げる習慣の発端となった言葉が記されています。「主はモーセに仰せになった。あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである」。エルサレムの神殿が、できるよりも前、その前身にあたる神様を礼拝するテントが、まだ「臨在の幕屋」と呼ばれていた時代に、神殿税は遡るのです。イスラエルの民で成人に達した男子一人毎に、半シェケルずつを毎年献げる習わしになっていました。イスラエルの人々の人口を調査するというのは、今日で言えば、毎年住民台帳を新しくして、その町々や国全体の人口を数え直すようなことですが、その際に、一人一人、命の贖いとして半シェケルを献げ物として納めることになっていたのです。
 神殿税と言われますと、税金のように聞こえますけれども、元々は、一人ひとりの命が贖われていることへの献金として献げる性格のお金だったのです。「命の贖い」と言われますとピンとこないかも知れませんが、「命の贖い」とは、別に言うと身代金のことです。どうしてそのように、命の贖いを納めるのかと申しますと、人間は皆、元々は神様に造られた者たちであり、神様に属している者だからです。現代に生きている私たちは、こういう感覚は馴染みにくいかも知れません。今日、私たちは、自分の人生の主人は自分自身だと当たり前に思っています。そのために、自由を得るための身代金を神様に献げて自由の身の上を保障してもらう必要など、殆どの感じていないのです。
 しかし本当は、私たちは、自分から生まれてきたのでも、自分で存在しようと思うから存在しているというのでもありません。私たちの人生は神様からの贈り物ですし、命も、私たち自身のものではなく、神様からひと時の間、お預かりしているものです。神殿税は、私たちが神様から命をお預かりして生きていることを思い起こすために、豊かな人もそうでない人も、すべての人が等しく納めるべき献金で、それだからこそ、年間50円という低い額になっているのです。貧しさゆえに、これを納めることのできない人が出てこないためです。
 そして、これはまた「贖いの献金」だと言われています。そこには罪からの贖いという意味合いも込められているのです。神様に50円の会費か手数料を支払ったので、その後1年間は、神様抜きで好きに生きるぞというようなことであってはなりません。神殿税は、神様の民である人々が、神様との結びつきを確認し、神様の者として生きてゆくことを現す献金なのです。

 ところで、そのように神様との関わりの中で生きてゆくことを示す献金だというのであれば、主イエスは当然、これを喜んで納めるのではないでしょうか。ところが、実際の主イエスはそうなさいません。むしろ、神殿税を払うと返事したペトロを捕まえて、議論を仕掛けます。どうしてでしょうか。それは、主イエスは「神様の独り子」でいらっしゃるからです。主イエスは、罪の奴隷ではありません。贖われなくてはならない立場の方ではないのです。
 主イエスがペトロに向かって、「地上の王たちに税金や貢物を納めるのは、どういう立場の人々か」をお尋ねになったのは、そういう地上の王たちの例に当てはめて考えるならば、主イエスは天の父なる神様の独り子なので、神様に税金を納める立場ではないということをはっきりさせるためなのです。25節の途中から26節「イエスの方から言いだされた。『シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。』ペトロが『ほかの人々からです』と答えると、イエスは言われた。『では、子供たちは納めなくてよいわけだ』」。王の子供たちは税を納めなくて良いという特権を、主イエスは確認なさいます。地上の王の子供たち、人間の王の子供たちです。そうなのだから、神様の独り子である主イエスは、神様に対する贖いの税金を納める必要はないのだということを、主イエスは言っておられるのです。
 そして、そのことを表すかのように、主イエスはご自身の神殿税をイスカリオテのユダの到着を待って一行の財布から納める代わりに、ペトロにガリラヤ湖で漁をさせるのです。主イエスご自身はあくまでも神様の独り子なのですから、神殿税を納める義務はありません。しかし、そのことを知っているのは、今のところ、直属する12人の弟子たちだけです。そこで主イエスは、ご自身の神殿税をガリラヤ湖の魚に払わせることになさったのです。ペトロに「ガリラヤ湖に釣り糸を垂れ、最初に掛かる魚の口の中を見ると1シェケルの銀貨があるはずだから、その銀貨を2人分の神殿税として納めれば良い」と、主イエスはおっしゃいました。
 最初に申し上げたように、この時、ペトロの家に居たのは主イエスとペトロの2人きりです。その2人の間でこの会話がなされました。2人分の神殿税の出所は、いわば主イエスとペトロ2人だけの秘密です。湖に行って釣りをするようにおっしゃった時の主イエスは、恐らく、いたずらぽい微笑みを浮かべておられたのではないでしょうか。そうやって主イエスは、ご自身が確かに神様の独り子であることをペトロに印象付け、そして、まさに独り子であられるがゆえに、父なる神様の御心に従ってエルサレムの十字架に向かってゆくのだということを改めて教えられたのです。
 ペトロは、主イエスが神様の御心をよく知る独り子としての働きを果たすために十字架へと向かって行かれたということを思い返す度に、この日の主イエスの少しいたずらぽいユーモアに満ちた命の贖いのお金の出所について思い起こしたことでしょう。そういうペトロの忘れ難い主イエスの記憶が、福音書が書かれた時、このところに書き込まれて、私たちのところにまで知られるようになっているのです。

 神殿税については、最後にもう一つだけ、確認しておくべきことがあります。ペトロが湖から釣り上げた魚の口に含まれていたのは、半シェケルではなくて、1シェケルの銀貨でした。すなわち、主イエスの分の神殿税だけではなくて、主イエスとペトロの神殿税がこれで賄われました。主イエスは神様の独り子なので、命の贖いを納める必要はないのですが、ペトロはそうではありません。すると、湖の魚から出てきた1シェケルの銀貨で神殿税を収めるのは、主イエスの分は良いとしても、ペトロの分まで納めてしまうのはやりすぎではないでしょうか。ペトロは主イエスの神殿税に便乗して、本来ならペトロが納めなくてはならないはずの神殿税を逃れているということになるのではないでしょうか。
 ところが、そうではないのです。何故なら、本来ならペトロ自身が納めなくてはならないはずの命の贖いは、主イエスがご自身の身をもって支払ってくださったからです。50円どころではない、尊い主イエスの血潮と肉によって、ペトロをはじめとした弟子たちは皆贖われて、罪の支配から自由にされているのです。罪の支配から解放されて、もう一度、神様との親しい交わりを与えられて生きるようにされたので、新しく神様を礼拝して生きる者とされているのです。
 ペトロだけではありません。主イエスは私たちにも、ペトロに言われたのと同じ言葉をかけてくださるのです。即ち、「わたしは神の独り子なので、神殿税を納める義務はないけれど、そのことによってつまずく者が出ないように神殿税を納めることにしよう。そしてそれは50円ではなく、わたし自身の肉を裂き血を流すことで、本当の贖いの供物を献げてあげよう。あなたは、身代金をすっかり払ってもらった者として、ここからわたしとセットになって歩んで行きなさい」と招かれるのです。

 私たちが毎週礼拝を献げるのは、そういう主イエスと一つに合わされ、いわばセットにされた人生を生きているからなのです。「あなたとわたしは、贖いによって今や一つとなっている。そのことを信じて、わたしと共に歩みなさい」と語ってくださる主の御声に励まされ、強められて、地上の歩みを辿ってゆきたいのです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ