聖書のみことば
2018年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月28日主日礼拝音声

 神の栄光を語る
2018年1月第4主日礼拝 1月28日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/出エジプト記 第14章10〜18節

14章<10節>ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、<11節>また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。<12節>我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」<13節>モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。<14節>主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」<
15節>主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。<16節>杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。<17節>しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。<18節>わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

 ただ今、出エジプト記14章の10節から18節までをご一緒にお聞きしました。10節11節に「ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか』」とあります。
 エジプトでの奴隷暮らしから救い出され、自由な身の上となって歩み出したはずのイスラエルの民が、ここで騒いでいます。主に向かって叫び、またモーセには喰ってかかるのです。どうして自分たちを安全だった過去の生活から、今このような危険の中へ導き出したのかと言って怒っているのです。この時、イスラエルの人々は「非常に恐れて」と言われているように、恐怖に捕らわれていました。イスラエル人たちの恐れと苛立ちの原因は明らかです。背後にエジプトの軍勢が迫っているからです。今の彼らは、例えて言うならば、法律の保護の外に置かれて山賊に襲われている難民の群れのようなものです。誰にも守ってもらうことができないまま不当な扱いを受け、全てを奪い取られて、むごたらしく殺されるかもしれない、そういう不安が彼らを支配し、苛立ちへと駆り立てています。
 こういう苛立ちは、私たちにも理解できるのではないでしょうか。実際に今、イスラエルの人々は命の危険に晒されているのです。そして考えます。「どうしてこんな目に遭うのか。モーセさえ現れなければ、こんな危険に遭遇することはなかったし、数百年も先祖たちがエジプトで暮らして来た暮らしを今も続けていたはずだ」と思って、モーセに喰ってかかっているのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」。こんなふうに喰ってかかる彼らは、長い間過ごして来たエジプトでの生活が、奴隷の暮らしであったことなどすっかり忘れてしまっているかのようです。しかしまさに、この忘れているという点、これまでのエジプトでの生活が単調で過酷で、無意味で自由を奪われていた奴隷の暮らしだったことを忘れているというところに、彼らが今、本当にそういう生活と決別して自由の道を歩き始めた民とされているということが現れています。神様は、イスラエルの民の置かれていた状態があまりに厳しく、また辛く苦しいものであったのをご覧になって、モーセを送ってくださり、イスラエルの人々をエジプトの奴隷暮らしから解放してくださいました。神様は、ご自分の民の叫び声に耳を傾けてくださり、彼らを奴隷の境遇から確かに間違いなく、導き出し救い出してくださったのです。

 今、イスラエルの人々は、何百年も続いてきた奴隷暮らしから、モーセに従って導き出され、新しい自由な生活を生きる暮らしへと招き入れられようとしています。ところが、そこに追っ手が掛かるのです。今までイスラエルの人々を捕らえ支配していたファラオが、再びイスラエルの人々の自由を奪い奴隷の暮らしに逆戻りさせようと、力づくでイスラエルの人々を奪い返しにやってきます。エジプトの軍隊と自分たちを見比べてみると、とても対抗できそうにありません。イスラエルの人々は悲鳴をあげて神様に助けを求め、また、自分たちをこんな境遇に導いたモーセに対してはその責任を問い、不満をぶつけます。
 ここに描き出されているイスラエル人々の姿は、私たち人間が経験する根本的な矛盾を大きなスクリーンの上に映し出して見せてくれているようなものです。親元を離れる時、私たちはそれまで感じていた窮屈さから解放されます。何かとお節介を受け、監視されていた煩わしさから自由になります。清々します。ところが、親元を離れる時には、同時に、これからは、どんな場合にも自分で生きていかなければならない不安や危険もついて回るようになるのです。私たちの人生には、いつも、この世という不安定な事情の中を新たに先へと進んで行かなくてはならないようなところがあります。そして、この世の中には、常に危険が満ちているのです。ちょうど今、イスラエルの人々の背後が敵に押し寄せ、命を脅かしているように、私たちにも最後の最後までを生き延びることが要求されます。そしてやがて、もうこれ以上はいやだ、もうこれから先へは進めないと呟く時がやってくる、それがこの世での生活なのです。
 そういう時がやってきますと、私たちは、身を隠して引きこもりたくなります。もう何も聞きたくない、自分では何も考えたくないと思い、できれば元の親元の生活に立ち戻りたいと思うようになります。危機的状況に置かれて、元々の失われた生活に郷愁を感じる時、私たちには、かつての生活がさも良い暮らしであったかのような錯覚が生じるのです。親元にいた頃の息苦しさなどは、すっかり忘れています。それどころか、昔は何もかも平穏で落ち着いていた、安らかであったとさえ思い込んでしまうのです。けれども、かつての苦しさをそんなふうに忘れてしまうというのは、まさに今、その苦しさから解放されているからなのです。ここでイスラエルの人々には、ちょうど、そんなふうに、モーセに喰ってかかっています。12節で「我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と言っています。ここでの民の言葉は、恐らくは交わされなかった会話をでっち上げています。大体、エジプトで奴隷となっていた頃のイスラエルの人々は、自分たちが荒れ野で死ぬなどという将来を予想できよう筈がないのです。奴隷だった当時の彼らの苦しみ、嘆きは、今の自分たちの暮らしがあまりに過酷であり、単調であり、無意味だというものでした。その嘆きを神様が聞きあげてくださったからこそ、神様は、モーセを送ってイスラエルの民を脱出させてくださったのです。
 今、彼らは確かにエジプトの軍勢に追いすがられて危険な境遇にはありますけれども、その身分はもはやエジプトのファラオが直々に解放を宣言した自由民です。ファラオが「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい」と宣言した以上、イスラエルの民は奴隷生活に引き戻される謂れはありませんし、また、どのようにして神様が彼らを奴隷暮らしから救い出してくださったかを思い返すならば、奴隷生活に引き戻されてはならないのです。エジプトのファラオの行っていることは自由民に対する不当な干渉なのです。

 しかし、今日の箇所を少し丁寧に聞いて見ますと、驚くべきことが述べられています。実は、ファラオの心を頑なにさせ、イスラエルの民の後を追わせるように仕向けているのは、神様そのお方だというのです。17節に、そのことが述べられています。「しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る」。ここにはっきりと語られています。神様がエジプト人の心を頑なにする。それで「エジプトの軍勢があなた方を追いかけることになる」と、そう言われています。これは一体、どうしてでしょうか。
 イスラエルの人々は、エジプトの奴隷暮らしの過酷さに閉口して、神様に向かって叫びました。神様はその叫びを聞きあげてくださり、モーセを送ってくださいました。ところが、神様から送られたモーセがファラオと散々交渉を重ねた挙句、ようやく、エジプトの国を去ってよいという宣言をファラオがして、イスラエルの人々が自由の身の上にされたのに、神様はエジプトの人々の心を頑なにして、せっかく自由にしてやろうと思った思いを変えさせてしまわれるのです。どうして神様はそんなことをなさるのでしょうか。
 神様は、せっかくイスラエルの人々を自由の身の上にしてやろうとなさったのに、途中で考えを変えてしまわれたのでしょうか。もう一度、エジプトでの奴隷生活にイスラエルの人々を連れ戻そうとして、ファラオとエジプトの人たちの心を頑なになさったのでしょうか。そうではないのです。むしろ神様は、イスラエルの人々が心の底から神様に信頼し、どんな時にも神様の保護に身を委ねて安らかでいられるようになるために、こんなことをなさっているのです。
 親元を離れて独り立ちしてゆく子供に例えるならば、今のイスラエルの民は、窮屈な暮らしを離れて、生まれて初めて一人暮らしを始めた時のようなものです。自由とされたことを喜んではいますけれども、しかし、少しの危険や困難に出くわすと、すぐに不平と不満を募らせ、元の奴隷生活の方が良かったと、つい思ってしまうような脆さ、弱さを宿しているのです。新約聖書ヘブライ人への手紙12章6節に、主なる神様が愛する子らを鍛えるため、厳しい経験をお与えになる方だという言葉が記されています。「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。ここでの神様は、まさしくこういうお方として行動しておられるのです。ご自身の子らが神様からさまよい出さないよう、鍛錬を与えようとしておられるのです。

 イスラエルの民が追っ手をかけられた時、「エジプトの生活の方がマシだ」と、つい口走ってしまったことは先ほど見ました。イスラエルの民にはそんな弱さがあったのですが、しかしそれなら、彼らを導くモーセはどうだったのでしょうか。
 モーセは、これまでの経験から、神様がお決めになったことはきっとその通りに持ち運ばれるのだということを知っていました。そこで彼は、敵に追いつかれそうになってうろたえている民に、不平を並べ立てて騒ぎ回るのではなく、むしろ静まって神様のなさる御業に心を向けて行動するように教えました。13節、14節です。「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい』」。「恐れてはならない。まずは落ち着くように」とモーセは勧めます。イスラエルの人々がエジプトの軍勢を恐れて騒げば騒ぐほど、今度は怯えて騒いでいる自分自身の言葉によって不安が掻き立てられ、恐怖に捕らわれてしまうからです。
 恐怖に捕らわれてしまう人々は、目の前に立ちはだかり、害を及ぼそうとしているエジプト人ばかりに心が向いてしまっているのです。これは致し方のないことです。私たちは、普段は自分について、なかなか気づけないのですが、自分でも驚くほど、我が身の安全に神経質なのです。それこそ指先をちょっと傷つけただけでも、一日中、その痛みを感じてしまい、ふとした拍子にかばうような動きをしてしまいます。ですから、迫り来る敵が武器を取って追ってこようとする姿に気がついた時点で、自分はまだ実際は何も傷つけられていないにも拘らず、大変に悪い結果を想像してしまうものなのです。
 そのように、敵の姿は大変大きく見えるものですが、その敵の脅威に心を奪われるあまり、全く私たちの眼中に入らなくなるものがあるのです。それが、私たちを命ある者として重んじ、自由な者として生かそうとするために戦ってくださる主の姿です。モーセは不安に襲われるイスラエルの兄弟姉妹たちに向かって、敵であるエジプト人にばかり目を注ぐということを止めさせ、むしろ、イスラエルの民のために戦ってくださる神様に目を向けるように勧めます。敵の脅威に心を向けるのではなくて、あなたのために戦ってくださる主に心を向けるように勧めるのです。13節14節に「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい』」とあります。この言葉は、今から三千年も昔にモーセがイスラエルの民に語った勧めの言葉ではありますけれども、私たちが聞くべき言葉でもあるように思います。週報に記しましたけれども、昨日、私たちの兄弟の一人が地上の生活を終え、神様の御許に召されました。まさに死の力が及んできて、私たちの群れから、また地上の生活から愛する者を連れ去ってゆきました。こういう時にこそ、私たちは、自分が聖書の福音をどのように受け止め、またどのように信じているのかということが問われます。即ち、聖書の福音を、自分の心を束の間爽やかにしてくれる一服の清涼剤のような言葉と思って聞いているのか、それとも、それ以上のものと思って聞いているのかが問われるのです。
 一服の清涼剤のような話だと思うことが悪いというのではありません。実際に聖書の福音には、私たちの心を落ち着かせ、和ませ、清らかにして喜びを与えてくれる力があります。けれども、もしも福音が単なる話にすぎないのだとしたら、それ以上の力は持たないことになります。
 死の現実は、単なる話だけの事柄ではありません。実際に私たちの生活に重くのしかかってきて、私たちの命と人生を脅かし、破壊してしまいます。けれども、神様は、人生を嘲笑するかのように破壊する死の現実に、真っ向から立ち向かわれるのです。まさしくモーセが告げている通り「主があなたたちのために戦ってくださる」のです。

 モーセが、「イスラエルの人々のために戦ってくださる神様が確かにおられる」という現実を伝えようとした時に、彼が用いたのは「言葉」でした。モーセだけではありません。教会が福音を伝え、神様が力を持って死の勢力と真っ向から戦ってくださる現実を指し示すのも、言葉によって指し示します。すると、その言葉はただのお話ということになるのではないでしょうか。
 神様は、ご自身の福音が単なる言葉以上のものであることをお示しになります。単なる良いお話の中にいる主人公というのではなく、実際に苦境の中に置かれ、命を脅かされ、不安と嘆きに身を持って行かれそうになっているイスラエルの民を、ご自身の側に、即ち命の側に置いて守り、持ち運ぼうとなさいます。そのためにモーセにお命じになります。ここから更に、イスラエルの民を先へと導き、歩ませようとなさいます。15節に「主はモーセに言われた。『なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい』」とあります。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」と神様はおっしゃいます。
 神様に向かって、盛んに叫び、悲鳴をあげていたのはイスラエルの人々でした。イスラエルの人々は、間近に現れた死の使いの姿を見て動転し、すっかり訳がわからなくなり、ただ闇雲に叫んでいたのです。神様に叫んでいましたけれども、自分ではどこに向かって叫んでいるのかすら、もはや分からなかったかもしれません。エジプト軍に追いかけられ、死の勢力がまさに背後から追いついてきて、今にも自分の命が奪われるのではないか、自分はこのまま失われてしまうのではないかという恐怖の思いに捕らわれ、あるいは、もはや逃げようとしても無駄だ、どうせ皆、いずれは死ぬに決まっていると絶望し、すっかり諦めかかっているイスラエルの人々を、神様は、なお奮いたたせ命の道に導こうとなさいます。神様には、それがおできになるからです。人間にはできなくても、神様にはおできになります。死の力に脅やかされ、今にも失われそうになっている人たちのため、死のただ中に命の道を開いて、人々を安全な命の岸辺へと渡らせることがおできになるのです。
 けれども、モーセは戸惑ったに違いありません。「イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と神様はお命じになります。しかし、一体、どこに向かって進めば良いのでしょうか。後ろからは死の勢力が追いかけ迫ってきています。しかし、前に進もうにも前方には海が広がっています。このまま進めば、海の深い水に飲み込まれて、溺れてしまうのではないでしょうか。再び神様の声が響くのです。16節「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」。この場所に留まるのではありません。全てを観念して諦め、懐かしい昔だけを思って後戻りするのでもありません。前になお、進むのです。そこに神様が道を開いてくださり、海の中の乾いた道を通ることができると神様はおっしゃるのです。
 モーセは神様に命じられた通り杖を差し上げ、さらにそれを海に向かって差し伸べ、実際に海の中に道が切り開かれてゆくのを見ることになります。危険に満ちた海のただ中に乾いた道が生じ、兄弟姉妹たちがそこを通って、命の道へ、神様の伴ってくださる新しい生活へと歩んでゆく様子を目の当たりにすることになります。いわゆる紅海横断と呼ばれる出来事です。
 敵から見れば、これは、モーセが海の上に手を差し伸べて海を二つに切り分け、道を通したように見えたことでしょう。そして、そんな力あるしるしを行うモーセの言うことだから、その言葉は信じるに足るのだと思った人もきっといるに違いありません。
 しかし、まさにここが大切な点なのですが、モーセ自身は、自分で考え自分から道を開いたのではないのです。そうではなくて、モーセとしてはただ、自分に語りかけてくださった神様の言う通りに行動したにすぎないのです。神様がモーセに、「お前の持っている杖、その民を導くための羊飼いの杖を高くあげよ」とおっしゃるから、モーセは杖を高く掲げます。そして、「その手を海の上に差し伸べよ」とおっしゃるから、そうするのです。海が二つに分かれたことについては、モーセ自身、驚きをもってその光景を眺めたに違いありません。海を分けたのは、実際はモーセではなく、神様ご自身なのです。

 神様は、イスラエルの民が考えている以上に、イスラエルの民のことを思っておられます。どの一人も欠けることなく永遠の命を受け継ぐ者の道を歩ませようと、自らが力を持って働いてくださるのです。
 はっきり言ってしまえば、恐らくこの時、モーセという人がいなかったとしても、神様は道を開いて、イスラエルの民が死の海のただ中を通ることができるようにしてくださったに違いありません。モーセが杖を高く掲げさせられた理由は、その杖に何かをさせようというのではなく、「神様の御業がたった今ここで行われる、今から行われる、今行われれている」ということを表すためです。
 そして、私たちが捧げる礼拝も、モーセの杖と同じような一つのしるしなのです。礼拝の行いや所作それ自体の中に魔法の力が宿っているのではありません。また、礼拝の所作は、その一つひとつが神様の御業を表そうとして形と姿を与えられていますけれども、私たちは人間ですから、時には、やろうとした所作に失敗している場合もあります。しかし、それだからといって、この礼拝に力がなくならないのはなぜかと言うと、私たちが力を出すのではなくて、この礼拝に共に臨んで私たち人間の賛美を受けてくださる神様が、私たちに力を与え、道を切り開き、人生の歩みを先へ先へと進めるようにしてくださるからなのです。

 今日お聞きした聖書箇所が、今から2年間の年間聖句の案として、午後の教会総会に提案されています。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」という聖句です。静かにするということは、じっとして何もしないことではありません。この場に留まって、天使が向こう岸まで担いで飛んで行ってくれるのを待つのではありません。海の中に、私たちの中に開かれた道を、実際に歩いて渡って行くのです。
 私たちは、自分自身の気がかりや心残りに翻弄されて、しばしば神様が自分たちの側に共にいてくださることを忘れがちになります。その度に、神様を見上げるようにという招きの声が、私たちにかけられます。
 神様は、主イエス・キリストを通して救いの御業を行ってくださるのです。私たちは十字架の主を見上げ、神様の救いの御業に心を向けながら、この時、謹んで道を辿ってゆく者とされたいのです。

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