聖書のみことば
2018年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月21日主日礼拝音声

 苦難と復活
2018年1月第3主日礼拝 1月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第17章22〜23節

17章<22節>一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。<23節>そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。

 ただ今、マタイによる福音書17章22節と23節をご一緒にお聞きしました。主イエスが弟子たちに向かって、今から進んで行かれるエルサレムにおいて「敵の手に渡され、殺される。そして三日目に甦る」ということを予告しておられます。この内容から言って、ここは「受難予告」と呼ばれる箇所です。
 主イエスは、ご自身の十字架の予告を繰り返して弟子たちにお語りになりました。私たちは今、マタイによる福音書を聞いていますが、マタイによる福音書には、この17章の他に16章21節、20章17節から20節にかけての2回、受難の予告をなさったことが語られています。これはマタイによる福音書だけではなく、マルコにもルカにも、3回、主イエスがご自身の十字架を予告したところが出て来ます。それら3度の受難予告の記事を聞いていて気付かされることですが、主イエスはご自身の十字架について、同じ言葉でおうむ返しにおっしゃったのではありません。どの福音書を読んでもそうです。言い方は違うのですが、しかし内容は、ご自身が「エルサレムで敵の手に渡され、苦しめられ、命を落とすが、3日目に甦るのだ」と、教えておられ流のです。
 このように、いろいろな言い方をされていることを考えますと、主イエスは折に触れて、ご自身の十字架のことをお語りになったのだろうということが分かります。マタイ、マルコ、ルカで3回ずつ受難予告の記事が書かれますが、しかし実際には、主イエスは、もっと回数多く機会を捕らえては、手を替え品を替えしながら、ご自身の受難と復活を弟子たちに教えられたものと思われます。何度も繰り返し主イエスが弟子たちを教えられたという記憶が、福音書では3度の受難予告の記事という形で表されているのです。

 けれども主イエスは、弟子たちを最初に招かれた時から、ご自身の受難予告をされていたわけではありません。福音書を読んでいると分かるのですが、主イエスは、弟子たちとの共同生活の最初のうちは十字架の話は一切なさいませんでした。これはマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書では、非常にはっきりしています。福音書の前半部分を読んでいると、主イエスが弟子たちに「わたしについて来なさい」と言って招いて、弟子と先生という形で共同生活を始めます。その最初のうちに教えておられたことは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉に要約できるようなことです。「神のご支配が、今、あなたたちの上にやって来ている。だから、それを信じて生きなさい」と教えておられました。「神の国、天の国」についてよく分かっていない弟子たちに、教えながら共に過ごされました。そして、「本当に神が共にいてくださるのだ」ということを、「癒し」の出来事を通して弟子たちと人々に教えていかれました。そのようにして過ごすうちに、弟子たちは「ああ、私たちを招いてくださったこの方は、言葉で教えるだけの、口先だけの人ではない。本当に神の力を持って、私たちの間にいて共に歩んでくださる特別な方、救い主メシアだ」と気づくようになります。そしてやがて、弟子を代表するようなペトロが「あなたこそ、メシア。生ける神の子です」という決定的なことを告白するようになっていくのです。
 「主イエスを本当の救い主だと弟子たちが信じるようになる」、そこまでがマタイ、マルコ、ルカ福音書の前半に語られていることです。弟子たちの集団は、ただの知識を得て行くだけの集団なのではなく、主イエスを通して「神が確かに私たちの間に来てくださっている。神の力によって私たちは守られ、持ち運ばれて行く。そういうことが確かに起こり始めている。これは決して作り話ではない。主イエスこそ、神さまと私たちを繋いでくださる特別な救い主、メシアである」という信仰がまず生まれる。主イエスは最初にまず、そういうところにまで、弟子たちを導いていかれるのです。

 そして、シモン・ペトロが「あなたこそ、メシア。生ける神の子です」という決定的なことを告白するようになると、主イエスはそこから更に、「救い主としての働きとはどういうことか」ということを、弟子たちに教え始められました。ですから、福音書に語られている、主イエスが弟子たちを教えられる姿というのは、例えて言えば「二段ロケット」のようなところがあります。最初は、弟子たちを招いて「主イエスは本当に特別なお方である」ことを分からせるようにする。そして、弟子たちがそれに気づいて「あなたこそメシアです」と信じるようになると、今度は二段目のロケットが点火して、「主イエスが救い主であるということの内容、救いとはどういうことか」を更に丁寧に、弟子たちに教え始められるのです。弟子たちがこれまで聞かされたことのないようなこと、「救い主が十字架にかかって苦しめられ、命を取られる。しかし復活する」ということを語り始められるのです。
 しかも、この時にはその「救い主の御業」が繰り返し繰り返し弟子たちに教えられるようになります。二段ロケットの二段目のロケットに火が点くと、今度は目的地に向かっていくロケットに切り替わって、主イエスが弟子たちを教えていかれる。その繰り返し教えられた教えの記憶が、3回の受難予告と呼ばれる記事に表されているのです。
 ですから、今日の聖書箇所はいつもと比べて短いのですが、大変大事なことを主イエスが語っておられる箇所なのです。

 主イエスが折に触れ、手を替え品を替えしながら何度も弟子たちに教えようとなさった、それは、この聖書の中では3つの福音書それぞれに3回だけですが、実際には数えきれないほどなさったと思います。弟子たちは最後まで、「主イエスは十字架に向かう救い主である」ということを理解しませんでしたから、もっと多く書かれていてもおかしくないのですが、しかし逆に考えますと、何度も繰り返された教えが3度にまとめられたとも言えます。どうして3回に要約されているのでしょうか。この3回の受難予告が、主イエスのご生涯のどういう時点で述べられているかということを注意して見ますと、3回の予告はいずれも主イエスが十字架に向かっていく道のりの鍵となるところで教えられていることに気付かされます。
 1回目は、ペトロが主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した直後でした。マタイによる福音書16章21節に「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。「このときから」と言うのですから、逆に言えば、それ以前には言っておられなかったということです。
 このように、最初は「弟子たちが主イエスを信じた」その時ですが、では、3度の受難予告の3回目は、どういう場面で語られているでしょうか。これは20章に出て来ます。17節から19節に「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」とあります。主イエスが「エルサレムに上っていく途中」に教えられたと書かれていますが、ここは、エルサレムが段々近づいて来て、いよいよエルサレムに入る最後の道に立ったところです。つまり、いよいよエルサレムに入って十字架の出来事が起こるという、最後の道行きに入ったところでの受難予告なのです。そうしますと、最初と最後の受難予告は、主イエスのご生涯の中で、鍵になる場面であることが分かります。

 そして、その最初と最後の予告に挟まれているのが、今日聞いている第2番目の予告です。第2番目の予告がされている時というのは、最初と最後に比べると、いささか地味な印象を受けるかもしれません。この時の状況は、さほど劇的ではないようです。最初と最後に比べると、つい読み過ごしていってしまいそうな、そういう箇所ですが、しかし、改めて考えてみなければなりません。なぜここで主イエスは、受難予告を弟子たちに教えられたのか。そのことを知るためには、ここで主イエスがおっしゃっている言葉を丁寧に注意して聞く必要があると思います。
 今日の箇所の主イエスの言葉は、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」です。「人の子」は「主イエス」のことです。大変シンプルに受難の内容が語られています。主イエスがこう言われたのは、いつだったのでしょうか。「一行がガリラヤに集まったとき」とあります。この言葉は、実は大変重い意味を持っています。注解書によっては、ここで「集まった」とある言葉は、不思議な言葉が使われていると言っているほどです。何が不思議かというと、これは「結集する、結束する」、もっと言えば「軍隊が一つの駐屯地に集結する」という言葉なのです。ですからここは「一行がガリラヤに集結したとき」と言い換えて良いのです。
 ただ「集結する」と言っても、そこに集まっているのは、主イエスと12弟子ですから、全部で13人です。しかもこの13人は、これまで別々の場所にいて、この時ここにそれぞれの場所から集まって来たのかというと、そうではありません。先々週は、主イエスが3人の弟子と共に山に登られたという箇所を聞きましたから、この時は他の9人の弟子たちとは別々でしたが、別々だったのはそのくらいで、ここで「集結する」というのは、いかにも大げさに聞こえる言葉です。
 けれども、ここにわざわざこの言葉が書かれているということに意味があります。意外に思われるかもしれませんが、まさにここは、「軍隊が集結して、これから戦いの場に出ていくのだ」ということと同じような重大な決意がある、だからこう言われているのです。ここは、何となく集まっているということではありません。重大な決意を持って、「さあ今から、一つの戦いを戦い抜いて行くぞ」という思いを持って、13人が集まっているのです。「いよいよ計画を実行する日が来た」、そういう思いが、「ガリラヤに集まった」という言葉に込められています。
 「一行がガリラヤに集まった」ということを、私たちは何気無く読み過ごしてしまいますが、しかし、この直前までは、主イエスも弟子たちもガリラヤにはいません。ガリラヤではない別の場所に出かけていました。どうして出かけていたのか、それが大事です。なぜガリラヤの外に出たのか。
 これは少し前からの話ですが、主イエスの噂が広まって、やがて、当時のガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスの耳に届きました。14章に出て来ますが、主イエスの噂を聞いたヘロデ・アンティパスは、この噂の人物は、自分が首を切った洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという思いに囚われます。2節に「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」というヘロデの言葉が出て来ますが、ヨハネの首を切ったのはヘロデ自身ですから、ヘロデにしてみると、これは大変恐ろしい話です。ヨハネが生き返ったのであれば、当然自分に恨みを持っているに違いない、それでヘロデは、もう一度、この噂の主を捕らえて殺してしまおうと考えました。
 このようにヘロデが言っているのを聞いて、主イエスがガリラヤを出られたと言われているのが、14章13節です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」とあります。「舟に乗ってそこを去り」というのは、ガリラヤ湖上を渡ったということですが、ガリラヤ湖の対岸は、もはやヘロデ・アンティパスの領地ではないのです。ですから、主イエスはヘロデが自分の命を狙っていると聞いて、一旦、ヘロデの領地から抜け出すのです。湖の西から東に渡り、更には、そこから北上して、フィリポ・カイサリアという場所に出かけて行かれました。今日聞いている箇所の直前まで、主イエスはヘロデ・アンティパスの影響の及ばない場所に避難しておられるのです。

 ところが、そういう主イエスが「ガリラヤに戻って来られた」というのが今日の箇所です。「一行がガリラヤに集まった」という言葉の裏には、非常な緊張感が隠れています。この時、ヘロデはまだ健在ですから、ガリラヤでの危険が去ったわけではありません。ヘロデの殺意が失われたわけでもありませんから、一行が見つかれば捕らえられて、命が奪われる危険がありました。それを承知で、主イエスはガリラヤに戻って来られたのです。危険に満ちたガリラヤに戻って来たのは、なぜでしょうか。
 それは、故郷が懐かしくて戻ったということではありません。
 もう一度振り返ってみますと、ガリラヤの北、フィリポ・カイサリアで、弟子たちが主イエスを救い主だと信じるようになるということが起こり、そこから救い主としての働きを始めるということになります。主イエスはガリラヤに戻られましたが、今度は、そこから更にガリラヤを通り抜けてエルサレムまで行き、「エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架に架かるという仕方で、神の御心に従って救い主としての御業を行って行かなければならない」、正にそういう道にお立ちになったというのが、今日の箇所なのです。ガリラヤまで入って来られ、そして更にはガリラヤから南下してエルサレムまで向かって行く、その道の、いわば突端に立たれたのです。この道はもはや、後戻りのできない一方通行の道です。まさに、ガリラヤからエルサレムに向かう最後の道が、ここから始まっていくのです。
 ですから、ここで主イエスはもう一度、「十字架」のことを弟子たちにはっきりとお告げになっているのです。
 久しぶりにガリラヤに戻って来られた主イエスは、かつて「ガリラヤの春」と言われた弟子たちとの楽しい生活を再び送ろうとして戻って来られたのではありません。そういう意味では、主イエスが弟子たちの間で教えたり、人々を癒されたという華々しい出来事は、ここで終わりを告げると言っても良いのです。もう二度と、主イエスは、この土地の人たちがよく見知った肉の姿でこの地に戻って来られることはありません。
 今日の箇所は、エルサレムへの距離という点では、まだ手前ですが、主イエスがガリラヤからもう一度「エルサレムに向かって行くのだ」という思いを新たにしておられる、そういう地点なのです。軍隊が集結地点に集結して、そこからいよいよ戦いの場に向かって行く、そういう思いを持って、主イエスはガリラヤに戻って来られました。それは大変厳しい道ですが、しかし主イエスは、神の御心に従って、この道を自ら選び取って、エルサレムに向かって歩んで行かれるのです。

 そしてそれは、「十字架の先に命がある」からです。主イエスは、このことをこそ弟子たちに教えなければいけないと思い、繰り返し繰り返し、何度も教えておられるのです。「私たちがこれから歩んで行く道は、死出の道である。わたしはエルサレムで敵の手に引き渡され、苦しめられ、十字架につけられ、殺されてしまう。けれども、それで終わりではない」ということを、弟子たちに何とか分からせようとしておられます。
 受難予告というのは、「苦しめられる」ということを訴えている言葉ではありません。苦しめられるけれども、「必ず3日目に復活する」という言葉が付いています。主イエスは、何としても弟子たちに教えようとして、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」と言われたのですが、これを聞いた弟子たちは理解せず、「非常に悲しんだ」と語られています。
 主イエスが教えられたことは、3つです。「人の子」は、「人々の手に引き渡される」「殺される」「三日目に復活する」です。原文を読みますと、「三日目に復活する」という文章は、「する」という能動態ではなく、「復活させられる」という受け身で書かれています。つまり、主イエスが弟子たちに教えようとしておられることは、「これから、わたしは死に向かって行かなければならないけれども、あなたたちには是非知っておいて欲しい。わたしは『引き渡される』、そして『復活させられる』のだ」ということでした。自分の思いではなく、持ち運ばれて行くのです。「引き渡される」、けれども「復活させられる」。その間に入っているのは「人々が主イエスを殺す」という言葉です。
 主イエスが強い決意を固めて弟子たちに教えておられる理由が、ここにあります。今からエルサレムに向かって進んで行く主イエスの死出の道は、もちろん甘いものではないけれども、しかし主イエスは、ただ死ぬのではない。残念がられ悼まれて死ぬのでもなく、敵の手に渡され、嘲られ、悪意の的とされながら殺されて行く、「人々が殺す」という出来事がある。けれども、主イエスはそれを承知で歩んで行かれる。どうしてか。それは、ご自身が嘲られ、憎しみを受け、罵られても、冷淡な死を経験するとしても、「その先に、神さまが必ず、命を用意してくださっている」からです。そして、「あなたがたは、このことを決して忘れてはならない。あなたがたはどんなに辛い目に遭うとしても、間違いなく、『復活させられる』このわたしに従う者なのだ」と教えておられるのです。主イエスを救い主と信じた人たちには、何度でも繰り返して教えなければならないと思っておられるのです。信じていない人には、こんなことを何度言っても何の意味もありません。「主イエスをメシアであると信じている」からこそ、「あなたが救い主だと信じているわたしは、人々に引き渡され、大変無残な形で殺されてしまうけれども、落胆してはいけない。わたしはそういう仕方でこの地上の生活を終えていくけれど、しかし、甦らされるのだよ。神さまがわたしを甦らせてくださる。そういう者として、今ここに生きているのだよ。このことを知っておいて欲しい」と言って、教えておられるのです。

 先ほどから「死出の道」と散々言っていますが、この一方通行の道は、死に向かって行って、死が終わりにあるという道ではありません。「死を貫いて命へと甦らされる道である」ということを、主イエスは弟子たちに教えようとしておられるのです。
 そして、私たちは、主イエスのこの言葉を聞き取るようでありたいと願います。弟子たちは、主イエスの十字架と復活の出来事が起こるまで、主イエスが盛んに教えてくださったこの言葉を理解できませんでした。主イエスの復活が起こって初めて、「ああ、主イエスがおっしゃっておられた言葉は、こういうことだったんだな」と分かるようになりました。
 私たちの場合には、主イエスが甦らされたことを既に知らされているのですから、そのことを信じるならば、今この地上の生活の中で受け止めることができるようにされているのです。そうであるならば、私たちは、このことを心から信じる者とされたいと願います。

 私たちの人生には、様々な形で死の現実が刻まれていると言ってよいでしょう。私たちの地上の生活はいつか終わる時がきます。あるいは、息が止まってしまうという前にも、色々と、自分にはできると思っていたことができなくなって行くという不自由さを持ったり、あるいは、自分が大事に扱って欲しいと思っている相手から大変冷淡な扱いを受けて辛い思いをしたりするような、私たちは日ごとに少しずつ、小さな死を経験しているようなところがあるのです。けれども「あなたは、そこで終わるのではないよ。あなたは、神さまがここに生かしてくださっていて、たとえ死の床に横たわることがあるとしても、そこでもあなたは神さまが守ってくださっていて、命に歩むことができる者とされているのだ。そしてそれだけではない。あなたが肉体の死を迎えた後にも、神さまが永遠の命を備えてくださるのだよ」と、主イエスが何度も繰り返して教えてくださっているのです。
 私たちは、自分自身にがっかりするということが、この地上の人生の中ではあるかもしれません。思うように歩めなくて、苛立ったり、悲しい思いや辛さを感じることがあるかもしれません。自分の人生とは、こんなに砂を噛むようなものだったのかと、しみじみと思わされる時があるかもしれません。周りの人と一緒にいれば元気に過ごしているように見せていても、一人になった時に、自分は何者なのかとふと考えてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時にこそ、主イエスはおっしゃっているのです。「そのあなたは、神さまに生かされているのだよ。神さまがあなたに命を与えて、今日そこで生きなさいとおっしゃってくださっている。そして、神さまが生きるために必要なものを備えて、たとえあなたが不安を感じて、自分の人生は灰色で砂を噛むようだと思うとしても、そんなことはないのだよ」とおっしゃっているのです。「主イエスの十字架の死と甦り」が、そのことを私たちに証ししてくださっています。

 主イエスは弟子たちに、「わたしは十字架に向かって行くのだ」ということを繰り返し教えられました。そして私たちは、まさに、今日この時、主がそのように言葉をかけ、真剣に私たちを持ち運んでくださっている一人一人であるということを、もう一度新たに覚える者とされたいと願います。私たちは、ここから、自分の力で生きるのではなく、自分の力が潰えるとしても、破れを覚えて辛い思いになることがあるとしても、「主がこのわたしを支え、持ち運んでくださる」、そのことを信じて、「主イエスは、わたしの救い主です。主イエスが与えてくださる救いを、わたしも頂戴して歩んで参ります」と言い表して、ここから歩み出す者とされたいと願うのです。

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