聖書のみことば
2018年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月7日主日礼拝音声

 栄光のキリスト
2018年1月第1主日礼拝 1月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第17章1〜13節

<1節>六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。<2節>イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。<3節>見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。<4節>ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」<5節>ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。<6節>弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。<7節>イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」<8節>彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。<9節>一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。<10節>彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。<11節>イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。<12節>言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」<13節>そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

 ただ今、マタイによる福音書17章1節から13節までを、ご一緒にお聞きしました。主イエスが3人の弟子を伴って高い山に登り、そこでひととき、主イエスご自身の本来の栄光の姿をお取りになったという出来事と、それから山を下りて来られる時に「山の上で見聞きしたことを、決して誰にも話してはならない」と弟子たちを固く戒められたという二つの出来事が並んで述べられていました。
 まずは前半の1節を繰り返してお聞きします。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」。ペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子たちは、主イエスの身近に連れ添っていた弟子たちです。その3人だけを連れて高い山に登られたと言われています。主イエスがこの時に登られた山は一体どこなのかと気になる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、間違いなくこの山だという特定はできていないようです。直前の16章を読みますと、主イエスは弟子たちを連れてフィリポ・カイサリアという、普段活動しているのとは違う場所に行っておられます。普段はガリラヤ地方におられるのですが、フィリポ・カイサリアはそこから大分北の、あまり弟子たちを連れて行ったことのない場所のようです。ですから、弟子たちも知らない土地で高い山に登ったのです。登るときは、主イエスに付いて行ったので登ったのですが、後から考えると、どこに登ったのかはっきりしないようなのです。
 その山の上で、主イエスの姿がまばゆい太陽のように輝き、着ている衣も光のように真っ白になったと言われているので、この出来事は、しばしば「主イエスの山上の変貌」とか「山上の変容」と言われています。主イエスの姿が変わって栄光の姿を現された、その時その場にいたのは、12弟子全員ではなく、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけだったと言われています。山上の変容の出来事に立ち会ったのは、3人だけです。言うなれば、この記事は3人が証人として経験した目撃談のようなものが最初にあって、それが、マタイ、マルコ、ルカという3つの福音書それぞれに書き込まれているのです。ここで山に登っているのはペトロ、ヤコブ、ヨハネです。福音書を書いているのはマタイ、マルコ、ルカですから、福音書記者は誰一人、直接自分が見聞きしたことを書いているのではないのです。そういう意味では、聞き書き、つまり聞かせてもらったことをそのまま書いているということになるのですが、3つの福音書を比べますと、マタイとマルコには殆どの同じことが書いてあります。聖書学者に言わせると、これは逐語的に同一だと言うそうですが、ルカだけが少しだけ詳しく書いているようなところがあります。今日聞いているマタイには、主イエスが3人の弟子を連れて高い山に登ったことしか書かれていませんが、ルカによる福音書では、山に登った理由が「主イエスが神に祈りを捧げられるためだった」と書かれています。

 恐らくこの時、主イエスは、神に祈りながら、これからどのようにご自身の救い主としての働きを進めていくべきかということを深く思い巡らすという時を持たれたのだろうと思います。
 というのも、この時主イエスは、一つの大変重要な局面にさしかかっておられるのです。16章では、主イエスが弟子たちに大変決定的なことを尋ねています。主イエスの評判はどのようなものかと弟子たちに尋ねた後、主イエスは弟子たちに向かって「それでは、あなたがたは、このわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。
 それに対して、弟子の代表であるペトロが「あなたはメシア、生ける神の子だ」という決定的な返事をしました。つまり弟子たちは、主イエスに招かれて付いて来ているのです。「わたしに従って来なさい」と主イエスがおっしゃる。弟子たちはその招きに応じて付いて来ているのですが、招いてくださった主イエスが一体何者だと思うか。弟子たちは、「主イエスは単なる人間の教師や預言者というのではなく、それ以上の、メシア・救い主です。神の独り子です」という確信を持つまでになって来ているのです。これは、弟子にとっても主イエスにとっても、極めて重大なことが直前に起こっているということです。
 ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った言葉は、今日の私たちにまで繋がってくるような大切な信仰の告白であり、その最初のものが、フィリポ・カイサリアの山の上で、ペトロの口から語られたということになっているのです。弟子たちがフィリポ・カイサリアで、初めて「主イエスはただの先生ではない。ただの預言者でもない。それ以上の方である。神の独り子であり、私たちを神と結んでくださる救い主なのだ」と告白した信仰が、2000年の時を経て、今日の私たちのところにまで綿々と受け継がれて来ているのです。

 去年のクリスマスに、私たちの教会では一人の方が洗礼を受けられました。どうして洗礼を受けるのか。「わたしは、主イエスを救い主だと信じます」と言って洗礼を受けるのです。教会は、主イエスをただの人間としてではなく「救い主なのだ、特別なお方なのだ」と信じる信仰によって結びつけられている、そういう人の集まりです。毎週顔を合わせているので、ただ人間同士の親しみが勝って来て、それで教会の群れがひとりでにできるということではないのです。そうではなく、教会の交わりの中心には、真実に私たちを洗い清めてくださる方、新しい命を与えて、どんな時にも私たちを「あなたはそこで生きて良いのだ」と言ってくださる救い主イエスがおられる。そして、その主イエスに伴われて歩んでいくことができるという信仰が、教会を成り立たせています。そのような信仰の告白の始まりが、16章でペトロの口を通して語られたのです。ですから、これはとても重要なことで、主イエスはまさに弟子たちがそのように信じるようになるために、「わたしに従って来なさい」と招かれましたし、弟子たちと一緒に生活する中で、弟子たちにもそのことが分かり始めたのが16章なのです。

 それで主イエスは、「あなたは救い主メシアだ」と弟子たちから聞かされるとすぐに、救い主としての働きをなさるために、「エルサレムの郊外のゴルゴタの丘で十字架にお架かりになる」というご自身の使命を、弟子たちに教え始められました。それは、弟子たちが主イエスを救い主だと告白したからです。救い主とはいかなる者か。「エルサレムに向かって行き、十字架に架かって苦しみを受けて殺されるのだ」ということを教えられたのです。ところが、実際に主イエスがそう教えられると、その瞬間に、「あなたこそ生ける神の子、救い主です」と告白したペトロが真顔になって、主イエスを脇の方に連れて行き、「そんなことをおっしゃってはいけません」と諌め始めました。主イエスは困られたことと思います。主イエスが与えようとしている救いというのは「十字架を通しての救い」なのだということを、どうやって弟子たちに分かってもらおうかということが、主イエスにとって悩ましい事柄でした。それで、どうしたら良いかを神に尋ね求めるために、高い山に登り祈られる。それが今日の箇所の「高い山に登る」という場面なのです。

 主イエスが高い山に登り真剣に祈っておられると、そこでは主イエスの姿が変わるということが起こったのですが、同時にそこに二人の人物が現れたと語られています。マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書が共通して語っています。3節に「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」とあります。
 モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物です。モーセは出エジプトの時にイエスラエルの民を率いたリーダーです。そして、シナイ山で「十戒」を神からいただいて、それが律法の中心になっていきました。神から律法をもらったのがモーセですので、モーセは律法を表します。
 エリヤは列王記に出てくる人です。北イスラエルと南ユダという国が、もはや神に信頼して安らかに歩めなくなった時代に現れた最初の預言者です。エリヤの後には、エリシャ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルという預言者が続いていきます。ですから、エリヤは預言者の中の預言者と呼ばれる人です。
  主イエスが真剣に祈られた時にモーセとエリヤが現れたというのは、旧約聖書を代表する二人が現れたということです。主イエスの時代には新約聖書はありませんから、旧約聖書も旧約とは呼ばれず、聖書の中では「律法と預言者」という言い方がされます。それが主イエスの時代の聖書の呼び名ですが、その「律法と預言者」を代表する二人が現れたということは、祈りの中で主イエスが真剣に神の御言葉、つまり「聖書と格闘していた」と言っても良いようなことです。少し詳しく書かれているルカでは、モーセとエリヤが現れて、主イエスがこれからエルサレムで成し遂げる十字架について話し合っていたと伝えています。ですから、この時の主イエスの祈りは、やはり、これからエルサレムへと向かっていくことについて真剣に思い巡らしながらの祈りであったことが分かるのです。
 これまで主イエスは、弟子たちを招き、弟子たちを驚かせないように極控えめに、普通の人間の姿で振舞っておられました。ですから弟子たちは、主イエスを普通の人として見ていたのですが、この高い山の上では、主イエスは神への真剣な祈りと対話の中で本来の栄光のお姿を現してしまわれます。すると、ペトロやヤコブやヨハネは、そういう主イエスの姿を垣間見ることになります。ペトロたちは、もちろん、普通の人とは言ってもどこか違うと思っていたからこそ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのですが、そうは言ってもよくは分かっていませんでした。けれども、この栄光のお姿は、普通に祈っている姿とは違うと知り、ペトロはすっかり感激してしまいます。そして、主イエスが真剣に「十字架に向かってどう歩んでいくべきか」と旧約聖書の御言葉に聞きながら祈っておられる時に、横合いから「仮小屋を建てましょう」と提案をします。4節に「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」とあります。
 「仮小屋を建てる」というのは、今日風に言うならば「プレハブを建てる」ということです。ペトロが言っているのは、記念碑や神社のようなものを建てたいということではありません。そうではなく、「ここに家を建てて住みたい。ここで暮らしたい」という思いなのです。「主イエスにもここに居ていただきたいし、モーセとエリヤにも、そして自分たちもここにプレハブを建てて一緒に住みたい」というのが、ここでペトロが語ったことです。御言葉に真剣に取り組んでいる主イエスを見て、ペトロは本当に神々しい清らかさを見い出すのです。そして、主イエスが祈りの中で「神の御心はこうではないでしょうか」と祈る、その言葉を聞いて、「確かに神の御心はそうに違いない。律法と預言者、つまり聖書にそう書いてある」ということをペトロはありありと示されるのです。「本当に嬉しい。こんなに聖書のことが分かるのであれば、わたしは一生ここに居て、神の言葉を聞きながら暮らすようになりたい」という思いを持って、「仮小屋を建てたい」と言い出したのです。
 ペトロの気持ちがそういうものだったと聞かされると、私たちも、ある程度分かるような気がするのではないでしょうか。聖書の言葉というのは取っ付きにくく、読んだだけでは分からないところがたくさんあります。けれども、分かりにくいと思っていた聖書の言葉が、目の前で鮮やかに説き明かされる。そして、言われてみれば確かに聖書にそう書いてあると気づかされる。そして、神がわたしに何を教えようとしておられるのか、分かったような気がする。時々そういうことが私たちも起こることがありますが、そういう経験をする時、私たちは時を忘れて、御言葉の説き明かしに引き込まれるということが有り得ると思います。
 主イエスがこれから救い主としてどのように歩むべきかを旧約聖書の中で神はどう語っておられるかを真剣に祈っておられる姿を見て、弟子たちは真に感動しました。時を忘れるどころか、ずっと主イエスの姿だけを見て過ごしたいと思うほどに、引き込まれているのです。それは私たちにも分かることです。

 ところが、主イエスがここで真剣に祈りつつ考えておられることは何かと言うと、「これからエルサレムの都に行って十字架に架かるという使命がある。それをどう果たしたら良いでしょうか」と祈り尋ねておられるのです。つまり主イエスは、この山の上にずっと留まって、神と聖書について問答して楽しく過ごそうとしておられるのではないのです。主イエスは今から山を下り、十字架に向かって歩んでいかなければならない。けれども、弟子たちには分からない。どうしたら弟子たちに分かるだろうか。救い主が十字架に架かるということ、救いの業としての十字架が分かるようになるには、どう教えれば良いのかと、真剣に考え祈っておられるのですから、主イエスの祈りの方向は、山の上に留まっている話ではないのです。これから山を下って、それからどう歩んだら良いのかと考えておられるのです。
 山を下るとそこには、地上に這いつくばるようにして生きて、毎日、悩み苦しみ、痛みを抱えている人々が大勢いるのです。どうすることもできずに右往左往している、そういう人々が大勢いる。そういう人々のために、悲しみや辛さがこの地上にあふれていたとしても、「本当の救いがここにあるのだよ。そこを歩んでいるあなた自身は神さまのものなのだ。どんな時にも、神さまがあなたのことを知っていてくださるし、どんなに大変な時にも神さまがあなたを支えてくださるのだよ」ということを、弟子たちに分からせるために、主イエスは十字架に向かって行かれるのです。そして、どうすれば弟子たちに分かるだろうかと思って祈っておられるのです。

 主イエスは、山を下ろうとしている。しかしペトロは、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言っています。「高い山の上で神の言葉を聞いていられるのは素晴らしい」と言っているのです。ペトロが感激しているのは、主イエスが切に祈っておられる事柄からすると、少しずれています。ですから、ペトロのこの言葉に対して、光り輝く雲の中から神がペトロに直に語りかけられるということが起こります。5節です。「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」。
 雲に覆われて姿は見えませんが、ここで語っておられるのは神ご自身です。もしペトロが神を直接見てしまうと、神の清らかさに圧倒されて、ペトロの存在自身が消し飛んでしまう、そうならないように神は常に抑制した形で人間の前にご自身を表してくださるのです。旧約聖書の出エジプトの時にもそうでした。イスラエルの民を導いてくださる時に、神は、「昼は雲の柱、夜は日の柱が民と共にあった」と言われています。神が姿を現わすと、人は皆その清らかさに圧倒されて、そこにいられなくなるので、神は雲の中に姿を隠しておられるのです。ですから、ここでも同じです。神はペトロたちへの深い憐れみと配慮をもって、雲の中に隠れながらご自身を現されるのです。

 そして、そこで語られる言葉は、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に語りかけられているのと同じような言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という言葉です。実は、洗礼を受けた時には、最後の「これに聞け」という言葉はありません。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、一体何を示しているのでしょうか。この二つの言葉は旧約聖書に出て来るのですが、別々の箇所に出てきます。「これはわたしの愛する子」という言葉は、詩編2編7節に出て来る言葉に関わると言われています。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」とあります。地上の王たちが思い上がって、この世にあって様々に自分の思い通りのことを行って権勢を振るおうとする。そういう様子を神がご覧になって、人間の王たちを嘲るというのが、この詩編の文脈です。人間の王はいい気になって、自分の権勢はいつまでも続くと思っているけれども、永遠の王は人間の中からは生まれない。人間の王は、全てを永遠に行うことはできない。存在そのものが永遠ではない。神はそういう人間の虚しく力を誇っている姿を嘲って、「ここにわたしが自分の子供を本当の王として即位させる」とおっしゃっているのが、2編7節の言葉です。もちろんこれは預言ですから、詩人自体が実際に目撃したという証言ではありません。そうではなく、神が、地上の儚い王国の攻防の中に本当の王を即位させてくださるに違いないという預言なのです。そして、主イエスはまさしく、そういう神の預言が地上に実現される方として、この地上においでになったのです。ですから、主イエスが洗礼をお受けになって、この地上で公生涯を始められる時に、「お前は、わたしの愛する子」という声が聞こえるのです。
 もう一つは「わたしの心に適う者」という言葉です。これは、イザヤ書42章1節の言葉です。ここでは神が喜んで支えていく一人の僕の姿が語られます。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す」。「神の御心に適う、神が喜んで迎える僕」が立てられることが語られています。そして、この僕についてイザヤ書はこの後、飛び飛びにですが、どのようにこの僕が歩んでいくことになるのかを語ります。この僕は散々に打ち砕かれて歩んで行くのですが、しかし、そのことで却って、悲しんでいる人や辛い思いをしている人に救いをもたらす働きをするようになる。そして一番有名な言葉は、イザヤ書53章の言葉です。4節5切に「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。神が喜んで立ててくださる僕というのは、神の御業に仕えて、私たちを含めた人間たちのために、自分は打ち砕かれて行くことになる、そういう僕である。
 主イエスが洗礼を受け公生涯にお入りになった時に、この二つの言葉が聞かれました。つまり「このイエスは、わたしが立てた王である」と神は言われました。永遠の王であり、人々が振り仰ぐ王である。神が喜んで支える僕、神の心に適う僕であって、神の御心のままに打ち砕かれて苦しむけれども、その苦しみによって人々の傷が癒され、神との間に平和をもって生きるようにされる。そういう救い主が生まれたことを、神は主イエスが洗礼を受けられた時にお告げになったのです。
 そして、そのことをペトロにもう一度おっしゃっています。「わたしが立てた救い主は永遠の王であると同時に、全ての人に打ち砕かれる、そういう僕である者だ」、そしてその後に「これに聞け」と語りかけられました。ペトロは、ただ「主イエスがこの高い山の上にいて、いつまでも永久に聖書の説き明かしをしていてくれたらいい」と思ったのですが、神は、「そうではない。イエスは神の僕であって永久に振り仰がれるべき者だけれど、打ち砕かれるためにエルサレムに向かっていかなければならない。あなたは、このイエスに聞かなければならない」と語りかけてくださったのです。

 主イエスは、こういう神との交わりの末に、再び山を下りてエルサレムに向かうという、神の御心に従う決心をされ、山を下りて行かれるのですが、その時には、主イエスは弟子たちに「恐れるな」と言葉をかけながら下りて行かれました。7節に「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない』」とあります。ペトロたちは、神から直に言葉をかけられるなどとは思っていませんでしたから、この時、大変恐れて、顔を伏せてしまいました。それに対して、主イエスは「恐れなくてもよい」とおっしゃいました。
 地上に建てられた主イエスの教会、その一番発端には、ペトロの語った「あなたこそ生ける神の子、メシアです」という信仰の告白があります。そしてその信仰に従って歩んで行く教会は、地上では常に戦いを経験させられるのです。それは、主イエスが人間の罪を背負って十字架にかかって罪を清算しようとする、そういう主イエスに従って行こうとする戦いです。
 主イエスに従う生活をする中で、つまり教会生活をしながらそれぞれの人生を生きて行く中で、私たちは辛かったり悲しかったり、痛みを感じるという時が必ずあります。主イエスに従ってさえいれば人生が薔薇色になるなどということはありません。
 私たちは、この新しい年も、それぞれに与えられている生活の中で、きっと様々な困難や大変な思いをするということがあると思います。けれども、私たちがそのように大変だったり、苦しんだり悲しんだりするという出来事は、主イエスに従って行く時には、私たちがその苦しみの中で滅んで行くためのものではなく、そういう経験を通して私たちが主イエスに従って行く民とされていくということです。様々な鉱石が火に焼かれて精錬されながら金銀になって行くように、私たちの中で、過ぎ去ってしまうものと、神に信頼して「ずっとあなたはそこにいるのだ」と言われているものと、その二つがふるい分けられて、「本当にこれでよいのだ」という道がはっきりしていく、そういう試練や困難を私たちは経験していくことになるのです。
 キリスト者といえども、この世の辛さと無縁ではない。けれどもキリスト者の場合には、自分一人だけで滅んでしまうという恐れの中に立たされるのではなく、「主イエスがわたしと共に歩んでくださって、わたしのために十字架に向かって歩んでくださっている」ということを示されながら歩む生活が赦されているのです。
 私たちが辛く苦しく悲しいと言って悩んだり嘆く時に、主イエスがそこで私たちの経験する痛みや呻きを共に経験してくださる、そういう人生を私たちは歩んで行くことになります。そして、主イエスがたとえどんなに辛く悲しく苦しいことに出会われても、なお神に信頼をして前に向かって歩んで行かれたように、私たちも、「主イエスが信じて歩んで行かれる神に、このわたしをお委ねしてよいのだ」ということを知らされながら歩んで行くことになるのです。

 本当に深い嘆きや苦しみや辛さ、敗れ、寂しさ、そういうものを私たちは経験しながら、そういうことを経験している自分自身を神にお委ねしてよいのです。私たちが地上の生活の中で経験する様々な苦しみは、私たちを焼き尽くす炎のように思える時があるかもしれません。しかしそれは、私たちを精錬して清める炎でもあることを覚えたいと思います。エルサレムに向かって行かれる主イエスが、私たちに先立って歩んで行かれる。そして、そのことが明らかにされるために、主イエスは山を下ってくる時に、弟子たちに「しばらく黙っているように」と教えられました。
 どうして黙っているのか。それは「十字架と復活の出来事」がまだ起こっていないからです。「十字架と復活の出来事」がまだ起こっていないのに、もし「山の上で主イエスの姿が変わった」という話だけが伝わったならば、「主イエスはやはり黄金に輝く神なのだ」ということだけが強調されることになります。
 けれども、一番大切なことは、主イエスは苦しみと無縁で、ただ輝いている方ということではないのです。私たちのためにこの地上に下ってきてくださって、私たちが悩んだり苦しんだりしている時に、共にいてくださるお方です。そして、「あなたを神に委ねてよいのだ」と知らせてくださるお方として、共にいてくださる、そのことが大事なのです。

 私たちは、新しい年の最初の日曜日から始まる一年の間を、どんな経験をするにしても、いつも主イエスが共にいてくださる中で歩んで行きたいと願います。主イエスが「共にいるよ」と知らせてくださる、この礼拝に、この年も集い、私たち自身が心弱くなったり、主イエスが伴ってくださっていることを忘れてしまっていても、「あなたはわたしと共にいるのだよ」という御声を聞かされながら歩む、そういう歩みをここから歩んで行きたいと願うのです。

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