聖書のみことば
2018年10月
  10月7日 10月14日 10月21日 10月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月14日主日礼拝音声

 仮面をかぶる
2018年10月第2主日礼拝 10月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第23章24〜35節

<23節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。<24節>ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。<25節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。<26節>ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。<27節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。<28節>このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。<29節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。<30節>そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。<31節>こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。<32節>先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。<33節>蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。<34節>だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。<35節>こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。<36節>はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 ただ今、マタイによる福音書23章23節から36節までをご一緒にお聞きしました。23節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」とあります。
 今日の始まりのところでは、大変強い印象を与える批判の言葉が主イエスの口から聞こえてきます。主イエスは、深い嘆きと憐れみとを持って、この言葉をおっしゃっています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉は、繰り返し語られています。25節、27節、29節と4回、同じ言葉が繰り返されます。「偽善者」という強い言葉は、聖書の原文であるギリシャ語で読むと「俳優」という言葉です。またフレーズは翻訳とは言葉の順序も入れ替わっていますので、原文で読みますと「ああ、あなたがたは何と不幸なのか。律法学者たちとファリサイ派の人たち。俳優として役を演じている人たちよ」です。

 では、どうして「俳優」が不幸なのでしょうか。ここで「俳優」という言葉が出ているのは、主イエスの時代に広く上演されていたギリシャ悲劇、ギリシャ喜劇の影響があると言われています。特にギリシャ悲劇や喜劇では、役者たちがお面をかぶって、つまり仮面をかぶって役を演じていたようです。今日、様々な遺跡から仮面が出土しており、博物館に納められています。怒っている顔、悲しんでいる顔、笑っている顔、いろいろな顔が出てきます。俳優たちは自分の素顔を隠して仮面をかぶり、その仮面の表す感情の役どころを演じていたのです。主イエスが、律法学者たちとファリサイ派の人々を憐れんでおられるのは、彼らが本当の自分自身の姿ではなく、仮面をかぶって外に見せるような生活をしているからです。
 彼らのどういうところが仮面をかぶっていると言われるのか、この箇所から聞いていきたいと思います。

 一番最初に言われているのは、彼らの献げ物についてです。23節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」と主イエスは言われました。「薄荷、いのんど、茴香」とは聞きなれない言葉です。「薄荷」はペパーミントのことですから分かる気がします。「いのんど、茴香」は、あまりピンと来ないでしょう。「いのんど」はディルという香草、「茴香」はクミンです。これらの香草やスパイスを、律法学者たちとファリサイ派の人々は献げていました。
 旧約聖書には「十分の一の献げ物」のことは多く出てきます。申命記24章22節23節に「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない」とあります。ここで示されている「十分の一の献げ物」は「穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、そして家畜」です。農家であれば、春に種を蒔いて手をかけて育て秋に収穫する、その家の主要な収穫物の十分の一を献げるようにと命じられています。そうしますと、「薄荷、いのんど、茴香」がこれに当てはまるだろうかと思います。例えば「薄荷」は、地下茎でどんどんと勝手に広がっていく、そういう生命力の強い植物です。ですから、種を蒔いて大切に育てるというようなものではありません。そしておそらく、「いのんど、茴香」もそうだろうと思います。家や畑の周りに自生していて、必要なときに摘んでくる、そういう植物だろうと思います。
 律法学者たちとファリサイ派の人々は、種を蒔かなくても勝手に生えている、庭からちょっと採ってくるような物でも、そういうものを採ったのであれば十分の一を献げなさいと教えていました。そして自分たちも、ちょっと摘んで使う時には余分に採って、それを神殿に持って行って十分の一献げていたのだろうと思います。大変細かく几帳面にそれを行なっていました。それ自体は立派なことだったかもしれません。けれども主イエスは、「律法学者たちとファリサイ派の人々はそういう細かいことに気を遣っていて、例えば貧しい同胞に対しては横柄に振舞ったりするけれど、自分より豊かな相手に対しては卑屈になったりすることがある」と問題にしておられるのです。例えば、ルカによる福音書に「部下を癒してほしいと主イエスに願ったローマの百人隊長の話」が出てきますが、律法学者たちとファリサイ派の人々は、ユダヤの会堂に多額の献金をしてくれた百人隊長に対しては、百人隊長が異邦人であるにも拘わらず、普段敵対している主イエスに癒しを願ったりしています。「相手によって態度を変えるというあり方、それは『正義、慈悲、誠実』という点で問題がある、自分にとって有利かどうかを気にするのではなく、『正義、慈悲、誠実』こそ、交わりの中で大切にすべきことだと主イエスは言っておられます。「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」とは、お茶を飲む時に、小さなぶよは漉し網で漉しているけれど、実はそこには大きならくだが入っているようなものだということです。聖書では、らくだは一番大きな動物として語られます。ですから23節は、本当に守るべき基本的な事柄が崩れているということを、主イエスが指摘しておられるのです。

 小さな薬味すらも献げようとする、上辺だけを飾ろうとする、そういうあり方が、次には洗い物を通して語られます。25節26節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」。
 私たちが洗い物をする場合、大概は内側を丁寧に洗うのではないでしょうか。ところが、律法学者たちとファリサイ派の人たちはあべこべだと言われます。お皿や杯のことが言われていますが、これはもちろん、その人の外と内、その人の外面と内面、心のあり方の食い違いを問題にしておられます。外から見えるところを気にして綺麗にしようと努力するけれど、内側はどうなのか。他人からよく見られたいと思って、自分の外見に気をつけるという行い自体が、人々から良い評判を得たいと思っている虚栄心や、そうでなくてはいられないという衝動を抑えられないことの表れではないかということを問題にしておられます。ですから、単に外と内が違っているということではありません。律法学者たちとファリサイ派の人々の、上辺では厳格に几帳面に律法を守っているようにしている行いは、彼らの内面の弱さの現れなのではないかと問いかけておられるのです。他者からどう見られるかではなく、本当に大切なのは内側で、「あなたは純真に神さまに向かっているか、それが問題だ。だからあなたの内側をきれいにせよ」とおっしゃるのです。
 「きれいにせよ」という言葉は翻訳が難しく、もともとの言葉は「徹底的に、深く根づく」という言葉です。神の前で自分自身を清めるということは、自分の行いを振り返ってみるということではありません。「神さまの中に徹底的に深く根を下ろしていく」ということです。どうしてかと言うと、私たちは、自分で自分を清めることができないからです。神が「あなたは清い」と言ってくださるのでなければ、私たちは清くはなれません。「神に深く根を下ろす」そういう点で、律法学者たちとファリサイ派の人々は「わたしはもう十分きれいなのです」と言い張ってしまう、そう見せようとしているために、本来の願わしいあり方から外れてしまっているのです。

 律法学者たちとファリサイ派の人々が不幸であること、残念な人たちであるのは、彼らが「白く塗った墓のようだから」だと続きます。27節28節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」。「白く塗った墓」は、主イエスの時代にはよく街道沿いに見られたようです。律法では、人の死に触れると、触れてしまった人や物は汚れると教えていました。「墓」はどうしても死体に触れざるを得ない場所ですから、お墓は常に汚れをもたらす危険な場所でした。毎年大勢の巡礼者が過越祭のために街道を登ってきましたが、彼らの多くはエルサレムの街を知りませんから、知らずにお墓を通り抜けてしまったり、お墓に腰をかけてしまったりすれば、その人は汚れた人ということになって、せっかく神殿まで来たのに入れないということになりかねません。それで、お墓の管理者は、過越の祭りが近づくと、お墓を白く塗り立てて、「ここは墓だよ。危険な場所だから気をつけて」と、巡礼者に分かるようにしていたということが、「白く塗った墓」という言葉の背景にあることです。
 ですから「白く塗った墓」は、見た目は綺麗ですが、近づかないようにという拒絶のサインです。主イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々の上辺だけの清らかさを、白く塗った墓のようだとおっしゃっています。実に綺麗で、神の前に全く潔白であるかのように見せているけれど、それは、まじまじと眺められることを拒絶する、見かけ倒しの清さだとおっしゃっています。綺麗な白い墓の中には、死体や骨が入っていて、汚れをもたらしている。律法学者たちとファリサイ派の人々も、自分の中に汚れや醜さをたくさん抱えている。神を抜きにして、自分が自分の人生の支配者だと思っている。神抜きで生きていて、それで良いと思っている。そういう自己中心の罪を日々当たり前のように犯しながら、上辺だけは敬虔そうに見せている。そこがいかにも不幸で残念だと、主イエスはおっしゃるのです。
 本当の清さ、すなわち、どのような状況であっても「わたしはここで生きていってよい」と思える本当の安心や信頼というものは、私たちが自分の手で作り出せるものではありません。私たちを造り、この世界に置いてくださった神、今も一日一日私たちが生きるように支えてくださっている神が、私たちを確かに受け止め、「あなたはそこで生きていて良いのだ。あなたはわたしのものだよ。いろいろな問題があるとしても、それでもあなたはそこで生きて良いのだ」と言ってくださるのでなければ、私たちは、本当に安らかで安心でいられることはできません。
 どれだけお金を蓄えていたとしても、社会的な立場があったとしても、誰であっても私たちは、自分の人生に不安や恐れを抱かずにはおられないところがあります。今の豊かさは将来にわたってのものである保証は、どこにもありません。この時代はどんどん変わっていきますから、先のことは誰にも分かりません。また、今は良い人たちに囲まれて過ごしているかもしれませんが、ずっとその人たちが変わらずにいるという保証もないのです。私たちは、どんな人に囲まれるかによって人生が変わるということを経験します。自力で、安心で安らかに生きることはできないのです。もし私たちが「どんな時にもあなたを支える」と言ってくださる方の御手に支えられて生きるのでなければ、私たちは闇のような恐れをどこかに宿さざるを得ません。
 神にしっかりと結びつき、根を下ろして「あなたは生きて良い。あなたはわたしのもの。この地上でどんなに困難や苦しみや悩みがあったとしても、それでもそこであなたは生きて良いのだ」と言っていただくのでなければ、私たちは安らかに生きていくことはできないのです。
 ところが、律法学者たちとファリサイ派の人々は、もうすでに「自分には清さがあります」と見せてしまっているのです。白い墓のように自分自身を飾り立てながら、しかし、本当の自分自身には誰も近づけようとしません。他の人たちを近づけようとしないのは、実は、自分の本当の姿を見抜かれないための一つの偽装なのです。自分自身の本当の姿を直視しない、そこが律法学者たちとファリサイ派の人々の何とも不幸なところ、残念なところだと、主イエスはおっしゃっているのです。

 自分自身の本当の姿を直視しないとすれば、私たち人間はどうなっていくでしょうか。自分の中に不安や恐れがあることを包み隠しながら、そんなそぶりを見せないで、一廉のような顔をして生きていくとどうなるでしょうか。その結果は明らかです。自分をありのままに見たり感じたり言い表すのではなく、実際よりずっと良い者だと飾っていくに違いありません。
 律法学者たちとファリサイ派の人々は、他の人たちに良く見てもらおうとして仮面をかぶっていましたが、その仮面がどんどんバージョンアップされて、精巧になり立派に見せるようになっていく。主イエスはそうなっていくことを、29節30節で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う」とおっしゃいました。自分を直視しない人たちは、預言者の墓を詣でて、記念碑を飾ったりして、敬意を表します。そしてそのように敬意を表してさえいれば、先祖の犯したような過ちを犯すことはないと思っているのです。けれども、そんなことはありません。
 預言者たちが迫害されて、苦しめられたり殺されたりする。どうして預言者たちは血を流さなければならなかったのでしょうか。それは、歴代の預言者たちがその時代の人たちに真実を告げていたからです。預言者たちが「あなたたちは神さまから離れて、神さま抜きで生活しているではないか。それは悔い改めなくてはならない」と、はっきりと歯に衣着せず言ったからです。神抜きで生きていて良いと思っていた人たちは、預言者たちの言葉を聞くに耐えられませんでした。自分中心の生き方を言い当てられたので、預言者たちは、同時代の人たちから疎まれて命を奪われ、今はお墓に入っているのです。
 そのお墓に詣でて、「わたしは本当は預言者の側につきたかったのです」と、上辺だけで言っても、自分を直視していないならば、結局、その人が実際に預言者に出会ったらどうなるかは明らかなのです。自分の本当の姿を言い当てられ、「あなたはそれでよいのか?」と問われたら、嫌に決まっています。
 主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々をそのように批判しましたが、事態は実際にそのように進んでいくことになります。主イエスは預言者ではありませんが、預言者と同じように、その時代の人たちがどんなに神から離れているかと言うことをはっきりとおっしゃいました。その結果、「とても大事なことを教えてくださって、ありがとうございます」と言って歓迎されたかと言うと、そんなことはなく、主イエスの口を封じるため、陰謀によって捕らえ、十字架に磔にしてしまうのです。32節「先祖が始めた悪事の仕上げ」を、律法学者たちとファリサイ派の人々が、主イエスを十字架に架けるという仕方で仕上げていくのです。

 ですから、今日の箇所は、主イエスがずっと律法学者たちとファリサイ派の人々のあり方を批判しながら、深い嘆きと憐れみをもって、並べて語っておられるところなのです。
 この言葉を聞いて考えさせられることがあります。主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々に対してこの言葉を語られましたが、今日ここで聖書のお話を聞いている私たち自身はどうなのだろうかということです。私たちは、律法学者たちとファリサイ派の人々と、どこか違っているでしょうか。私たちが自分自身を見つめて、自分が悲惨かどうかを考えて見ますと、今日ここで主イエスが批判しておられる律法学者たちとファリサイ派の人々と私たちは、あまり違いがないと感じるのではないでしょうか。私たちが神に対して抱いている思い、それは決して、律法学者たちとファリサイ派の人々の思いに優ったものとは言えないように思います。私たちも、始終、神を忘れて生活してしまっていますし、神抜きで暮らしていることがあるからです。私たちが神を忘れ、自分の思いで自分の満足を求めて生きてしまう、それが当たり前だし、そういうものだと思って生きてしまうということは、どなたにでもあるのではないでしょうか。年齢を重ね信仰生活が長くなれば、天使のようになれるのかと言えば、そんなことはありません。神への信頼は育つかもしれませんが、同時に神に逆らうところも同じように育っていって、私たちはとうとう最後まで、この地上では天使のようになれないと思います。

 ただ、律法学者たちとファリサイ派の人々との違いがあるとすれば、それは一点です。主イエスは35節36節で「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」と言われました。率直に言って、ここに出てくる人物の名前は、よく分からないと思います。聖書の中にも、また聖書と同じ時代に書かれたヨセフスの「ユダヤ古代史」を読んでも、この人たちが主イエスの時代に殉教の死を遂げたらしいということ以上の情報はありません。
 ただ私たちは、アベルとかゼカルヤという人たちのことは分からなくても、「私たちのために、一人のお方が血を流してくださった」ということは、何度も聞かされて知っているのです。けれども、この箇所の時点では、まだこのお方は血を流していませんから、名前が出てこないだけです。アベル、ゼカルヤの後に続いて、血を流される方がおられるのです。そして「その方の血はあなたの上に注ぎかけられているのだ」と、聖書は繰り返し語っています。まさに、今ここで語っておられるイエスご自身が、十字架に上げられて血を流しておられる。その血は、主イエスを信じる者たちの上に注がれて、一人一人清らかにされていることを聞かされています。
 まさにそのように、主イエスの十字架の死を受け取っているかどうかということが、律法学者たちとファリサイ派の人々と私たちの間にある、決定的な、唯一の違いです。

 今日の箇所で、主イエスは、これから十字架にお架かりになるお方として、この言葉を語っておられます。主イエスご自身の側では、律法学者たちとファリサイ派の人々のためにも血を流そうという覚悟を持っておられます。そして、ここにいる私たちのためにも血を流してくださっています。
 主イエスは、人間が本当に主イエスの血を注ぎかけられることで、主イエスに執りなされていることを知り信じることで、神への信頼に生きることができるように、本当に清い者となることができるように、今日のところからゴルゴタの丘に向かって歩んでくださったのです。私たちは、そういう主イエスがいてくださるので、しばしば私たちが神抜きで生きてしまう、その罪を清算されているのだと、聖書から毎週聞かされているのです。
 私たちの信仰が立派で、私たちが神を忘れないから、だから神はわたしを忘れないでくださるのではありません。私たちは、神から離れてしまいがちな心許無く残念な者たちです。けれども、神がそういう一人一人を憐れんで、「あなたはわたしの保護のもとで生きて良いのだ。あなたはわたしのものだ」と、そのことをはっきりさせるために、主イエスを十字架まで歩ませてくださいました。私たちは、その主イエスの十字架を見上げ、十字架の上で確かに「私たちのために血が流された。わたしは主イエスの血によって罪を清算され新しくされたのだ」と知らされ、私たちは、今の命を安堵され「生きて良い」と言われているのです。

 神に結び付けられ、「あなたはここで、もう一度ここから生きて良い」と言ってくださっている。それを聞くときに、私たちには落ち着きが与えられます。「たとえ、今、さまざまなことの見通しが立たないとしても、それでも神がわたしを持ち運んでくださるからには、私の将来には希望があるに違いない」という信仰と、もう一度「今、何ができるだろうか」と考える落ち着きが与えられるのです。
 そして、そのようにして私たちは、自分の内面を神の御言葉に深く根を下ろすことで落ち着いて考えることができ、そこから始まって、私たちの生活の中に、少しずつ、現れてくる新しいものが生まれてくるのです。キリスト者は、そのようにしてキリスト者にされていくのだろうと思います。

 私たちはそれぞれに、今日、神から与えられている落ち着きを持って、この人生を生きていくことができるようにされている、そういう一人一人であることを覚えたいのです。悩みや問題や悲しみや痛み苦しみは、私たちの人生にあるに違いありません。けれども、どんなに悩もうが苦しもうが、どんなに辛かろうが、神がわたしをここに置いてくださって、生かしてくださっている。そうである限り、私たちには、なお、希望と慰めがあるのです。
 神はどんなことがあってもわたしを見捨てられない。わたしがわたし自身の姿で生きていく、そこに神がいてくださって、「あなたは、なお歩んで良い」と言ってくださるに違いない。私たちは、そういう光に照らされて、ここから歩み出す、そういう一巡りを歩んでいきたいと願います。

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