聖書のみことば
2018年10月
  10月7日 10月14日 10月21日 10月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月7日主日礼拝音声

 災い
2018年10月第1主日礼拝 10月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第23章15〜24節

23章<15節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。<16節>ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。<17節>愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。<18節>また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。<19節>ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。<20節>祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。<21節>神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。<22節>天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。<23節>律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。<24節>ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

 ただ今、マタイによる福音書23章15節から24節までをご一緒にお聞きしました。15節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」とあります。
 先週から23章に入っていますが、23章は25節まで続いていく主イエスの一連の教え、説教集と言ってよいような箇所です。マタイによる福音書には、主イエスの教えがまとまって教えられていくというような、書き方の癖のようなものがあります。まとまった説教ですが、もともと主イエスは一息にこれらを語られたわけではなく、様々な場面で語られたのだろうと言われていて、そういう説教集が5つあります。そして、今日聞いている23章から25章にかけての説教集は、5つのうちの一番最後に当たるものです。
 因みに、一番最初の説教集は、5章から7章にある「山上の説教」と呼ばれる箇所ですが、この始まりのところには、「こういう人々は幸いである」という、「幸いの教え」が8つ語られていました。今日の23章では、その正反対のことが語られています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」とあります。「不幸」は、元々の言葉だと「災い」です。
 「不幸だ」という言葉は、23章では何度も出てきます。13節が最初で、15節、16節、23節、25節、27節、29節と、まるでこの言葉は、スタンプのように出てきます。最初の説教である「山上の説教」では、「幸い」で始まっていましたが、対照的に、最後の説教集では「不幸」で始まっているのです。
 主イエスが「不幸だ」とおっしゃっているところを少し注意深く読んでみますと、主イエスが、「律法学者やファリサイ派の人たちは不幸だ」と腹立ち紛れに悪口をおっしゃっているのではないということが分かります。我こそはユダヤ人と思っている人々の典型として、「律法学者やファリサイ派の人たち」を挙げているのですが、彼らが主イエスに対して、大変頑なであるということを嘆いておられる思いが表されています。福音書の中で彼らは、主イエスの敵として登場することが多いのですが、しかしその彼らを主イエスがどのようにご覧になっていたのか、どう思っておられたのかが、ここでは窺われます。大変貴重な言葉がここに書き連ねられています。

 主イエスは、「山上の説教」の時には、「幸いな者」の姿を語られました。そこで主イエスが「幸いだ」とおっしゃっていた人の姿は、「主イエスご自身に向かっていく」ような、そういう人の姿です。主イエスに重なるような、そういう人たちが「幸いだ」と言われていました。主イエスは弟子たちに、また大勢の群衆に向かって繰り返し語られましたが、その始まりのところで、主イエスご自身の姿を表しながら、「本当に幸いな者とは、こういう者だよ。だからわたしについて来なさい」と招いておられました。そういうところから、第2、第3、第4、第5の説教集へとたどり着いています。
 ある説教者は、主イエスの最初と最後の説教を比べながら、「主イエスは、ご自分の説教を弟子や群衆にお語りになった時に、始まりのところでは、救い主メシアに従う幸いな者たちの姿を告げ知らせられた。その時以来、長い旅をして、大勢の人たちの前で救い主としての御業を行い、神の御支配、神の国がやって来ていることを告げ知らせて、主イエスに従ってくるようにと招いてこられた。ところが、そういう救い主の一生をかけた招きに、遂に応じようとしない人たちがいた。それが律法学者やファリサイ派の人たちに代表される人たちで、救い主の招きに応じようとしない彼らの不幸と災いを、今日の箇所で嘆いておられるようだ」と語っています。確かに、律法学者やファリサイ派の人たちは、とうとう最後まで主イエスに従おうとしなかった人たちです。陰謀を持ち、主イエスを磔にしてしまうことに加担してしまう人たちです。主イエスとどこまでも平行線で歩んで、決して交わろうとしない。そして最終的には決裂してしまう、そういう人たちがここで「不幸だ」と言われているのです。主イエスがご自身の一生をかけて、「わたしに従って来なさい」と招いてくださったのに、とうとうその招きに応えることがなかった、そういう人たちには、主イエスを通して差し出されている「幸い」とは正反対の「不幸」しか残らないということになってしまうのです。
 ですから、今日の箇所は、「不幸」について主イエスが繰り返し教えておられるところですが、ここは私たちが単に知識として聞いていればよいという箇所ではないと思います。主イエスはここで、とうとう主イエスに従わなかった頑なな人たちに向かって不幸だとおっしゃりながら、主イエスの言葉を聞いている人たちに向かっても、「あなたがたは、こういう不幸な者にはならないように」という思いを持っておられます。主イエスの警告の言葉として語られている、ですから、私たちは心して聞きたいと思います。

 主イエスの5つの説教集、教えの固まりがあるのだと聞きますと、主イエスの同時代のユダヤ人たちはすぐに、旧約聖書に記されている「律法」を思い浮かべました。「律法」は、もともと一つの書物ではなく、5つの書物です。旧約聖書の一番最初に置かれている5つの書物「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」は、モーセが与えてくれた書物という意味で「モーセ五書」と呼ばれますが、その「モーセ五書」が「律法」なのです。ですからユダヤ人たちは、「律法」は5つの書物だと当たり前に思っています。そして、マタイによる福音書を書いたマタイの思いからしますと、「主イエスは新しい律法を、新しい神の民である教会の人たちに与えてくださった」と考えて、説教集を5つに分けて載せているのです。
 そうしますと、最初の「山上の説教」は創世記に重なります。そして、「主イエスこそは、古いイスラエルの民をエジプトから導き出してくれたモーセのような救い主だ」と考えているのです。エジプトで奴隷暮らしをしていた同胞のイスラエルをモーセは救いへと導きました。出エジプト記の前半のクライマックスは、エジプトを脱出したイスラエルの民がエジプト軍に海まで追い詰められたとき、モーセが紅海に道を拓いて横断し救われた出来事です。紅海を前にして、奴隷生活に戻るか、海に飛び込んで溺れるか、戻るにしても進むにしても絶望的な将来しかないと思える状況から、モーセが道を拓いて救い出してくれました。ですから、イスラエルの民は「私たちは、あの出エジプトから始まった」と思っています。
 同じように、マタイによる福音書が主イエスをモーセとして表しているのは、「十字架によって、私たちに新しい道を切り拓いてくださっている」と、モーセと主イエスを重ねて考えているからです。モーセがイスラエルの先祖たちを生きながらえさせてくれた、死の中に命をもたらしてくれた出来事が、主イエスの十字架と復活の出来事に相当するのです。イスラエルの民の場合には、死にそうだったところを助かっただけですが、主イエスの場合には、実際にご自身が十字架で死んでくださり、死の中に道を切り拓いて甦りの命をもたらしてくださった、その甦りを見せられて、主イエスの弟子たちは新しくされていくのです。「主イエスが十字架にかかり甦ってくださった出来事は、わたし自身に関わることなのだ。主イエスが復活してくださったから、わたしは、今ここで、神さまに新しく命を与えられた者として生きているのだ」と考えて、暮らしているのです。

 「死を超えて、なお命が与えられる」、そういうことを指し示す出来事として、大昔のモーセの紅海横断があるのですが、注目すべきことは、モーセが与えてくれた5つの書物、律法の書物の中で、一番最後の申命記の中で、モーセが語っている言葉です。申命記は、モーセが死ぬ前にイスラエルの人たちに語って聞かせる告別の説教ですが、その30章で、モーセは「幸い」と「災い」という二つのことを並べて聞かせています。15節から19節です。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにしなさい」。イスラエルの人たちをエジプトの奴隷暮らしから救い出したモーセは、死に際して、「幸い災い」「命と死」「祝福と呪い」という言葉をイスラエルの人たちの前に置き、「あなたはどちらを選ぶのか。心して考えなさい」と勧めます。「神さまを愛し、御言葉に聞き、神さまに従って歩むならば、あなたがたはどんなことがあっても生きるようになる。生きながらえ、増えていくことができる。反対に、神さま抜きで生活し、この世の勢力に屈してしまうならば滅びる。そういう不幸な生き方をしないように。幸いを生きよ」と勧めるのです。そういうモーセの最後を踏まえながら、第二のモーセとして描かれている主イエスも、今日の箇所で私たちの前に「幸いと不幸」「祝福と呪い」というものを置いておられるのです。
 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と嘆くという形ですが、実は、この話を聞いているところに律法学者たちもファリサイ派の人々もいません。話を聞いているのは主イエスの弟子であり、主に従ってきた群衆たちであり、主イエスは、主イエスに対して頑なになった人たちのようにならないように、命の道を進むようにと招いておられるのです。

 では一体、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、どんなところで間違っているのでしょうか。何が災いなのかということが、私たちにとって気にかかることです。主イエスがここで考えておられる彼らの過ちは、彼らのあり方そのものに向けられています。主イエスは13節でも既に嘆いておられますので、そこから聞き直してみたいと思います。13節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。律法学者たちとファリサイ派の人々の不幸なところ、それは「人々の前で天の国を閉ざす」ところにあると言われています。自分が入れないばかりか、それ以上に、人々を入らせないようにすることが何とも不幸なことだと、主イエスは嘆いておられます。
 ところで、「人々の前で天の国を閉ざす」とは、どういうことでしょうか。当時、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、天の国の道案内をする人たちだと思われていました。聖書の御言葉を厳格に教えていましたから、大方の人は、「自分たちが敬虔であるためには、彼らのように生きれば良い」と思っていたのです。ところが、そういう彼らのあり方が、実は天の国を閉ざしていると、主イエスは言われました。
 この箇所だけではどういうことか分かりづらいのですが、同じことを別の言い方で教えてくださっている箇所が、ルカによる福音書にあります。11章52節です。「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」。ルカ福音書では、「知識の鍵を取り上げる」という仕方で、天の国に入らせないと言われています。つまり、鍵となる知識さえ持っていれば、天国の門を開けることができるけれど、その鍵を、律法学者たちやファリサイ派の人たちが取り上げてしまっているというのです。「天の国に入るため、神のご支配のもとで安らかに生活するためには必要な知識がある」と、主イエスはおっしゃっています。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人たちはそれを教えようとしませんでした。その知識とは何でしょうか。誰よりも聖書に精通していると思われていた律法学者たちやファリサイ派の人たちが教えてくれない知識とは何か、考えてみたいのです。

 その前に一つ、考えたいことがあります。それは日本人の宗教性ということです。日本人は宗教を考える場合に、あまり知識を重要視しないと思います。日本人の宗教心は、知識よりも情緒を大事にします。日本では、自分は仏教徒だと思っている人は、自分はキリスト者だと思っている人より多いでしょう。けれども、仏教徒だと言いながら、自分がどのような救いに与っているかという教理に関しては無頓着だと言えます。日本人の多くは、「信仰や宗教は、その内容や知識よりも、信じる気持ちが大事なのだ」と思っています。「信じている」という心の姿勢、あり方が大事だと思っています。死の出来事や様々な困難に直面すると、「相手は誰だか分からないけれど、とにかく一切を委ねたい」、そういう思いでその時を過ごすことが大事なのだと思っている日本人が多いと思います。「鰯の頭も信心から」という言葉があるように、信心する心さえあれば、その対象が鰯でもよいのです。つまり、信じている相手に対する知識はあまり重要ではありません。信じる心があれば良いのです。
 けれども、キリスト教は明らかに違っています。キリスト者は、誰を信じているかを知らない訳ではありません。全部を分かっている訳ではありませんが、「聖書に出てくる神、主イエス・キリストをくださった神が私たちの神、それを信じるのがキリスト教だ」と承知しているでしょう。キリスト者には、「誰を信じているのか」が大事です。「この世界を造ってくださり、私たち一人一人を喜んでくださる神は、私たちが滅んでしまうことを良しとせず、ご自身の独り子さえ惜しまず私たちの救いのために送ってくださった」、そういう神が私たちの神だと信じています。
 キリスト者が信じている事柄は何か。「わたしを造ってくださったお一人の創り主がいて、わたしを真剣に愛してくださっている。独り子を犠牲にしても差し支えないと思うほどに、わたしのことを真剣に考えてくださっている。それほどに私たちのことを慈しみ、配慮し、生かそうとしておられる」、そういう知識を、私たちは教会に来るごとに聞かされ、いつの間にか知識として持っているのです。そういう神がいてくださることを知っているので、私たちは、思うようにいかなかったり苦しかったり、辛くて悲しくてどうにもならない時にも、なお「神さまに支えられて、ここで生きていける」と思えるのです。体が弱り、死の床に横たわるようになる時にも、「神さまが、わたしを愛してくださっている。たとえ今、息が止まったとしても、神さまが持ち運んでくださっている」と信じることができるのは、なぜか。「神さまが、わたしを愛してくださっている」と知っているからなのです。そしてそれこそが、私たちにとって大事な根本的な知識なのです。

 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、そういう神が律法の背後におられるのだということを知る知識を取り上げてしまうのです。「聖書に書かれている律法からは、613の教えを見つけることができる。それを守ることこそが、あなたの生き方であり、それを守ってさえいれば、神さまに喜ばれる」と教えるのです。「神を喜ばせる」という意味では、どこが違うのかと思いますが、決定的に違います。律法を守ることによって神を喜ばせると思っている時には、自分自身の愛を神に向かって表しているだけです。「わたしが愛を行っている。だから神さまは認めてくださる」というあり方になるのです。
 けれども、主イエスは、それは違うとおっしゃいます。「あなた方はこれまで、神さま抜きで生きてしまったかもしれない。でも、神さまの方は、あなたを大事だと思っている。あなたが神さまの方に向き直して、神さまに従うようにと新しい生活を始めるなら、独り子である主イエスを十字架につけても、それでも構わない」と、それほど真剣に、神が私たちのことを考えてくださっているのだということを、主イエスは伝えてくださっているのです。
 主イエスが教えてくださっている神は、「人間一人一人を本当に愛し配慮して、造られた命が喜んで生きるようになることを望んでくださっている神」です。律法学者たちやファリサイ派の人たちが教える神は、「あなたはこの決まりを守らなければならない。守らなければ、神さまには喜ばれない」というものですが、大方の人は613もの決まりを守ることなどできません。キリスト者である私たちも、日常の中でいつも、自分の至らなさを思わされています。ですから、もし私たちが律法学者たちやファリサイ派の人たちに導かれて生きるならば、私たちは自分の至らなさにいつも責められて、自分は神に捨てられるかもしれないと思わざるを得ないでしょう。そういうことでは神の国に生きることはできないので、主イエスは、「律法学者たちやファリサイ派の人たちの教えは天の国の門を閉ざすようなあり方であり、何とも不幸なことだ」とおっしゃるのです。
 神に喜ばれたいと思って生きている人に対して、律法学者たちやファリサイ派の人たちができることは、「あなたはまだまだ、神の国には入れない」と言うばかりです。天の国に入るハードルを高くする、誰も入れないようにすることが神の御心なのでしょうか。そうではありません。神は何とかして、神に従えない人間を、「わたしのもの」として生かそうとしてくださるのです。

 主イエスはさらに、15節で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」と言われました。律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分たちの教えを伝えようとします。けれどもその教えは、「律法を守らないと救われませんよ」という教えです。男性で言えば、割礼を受けなければならないというところから始まり、日常の細々とした613の決まりを教え、守らせようとするのです。そのようにして神に出会うならば、その人はどうなるのでしょうか。その人は、教えてくれた律法学者たちとファリサイ派の人々よりも、もっとゴリゴリに律法を行わなければならないと思うでしょう。そして、そういう人は、決して人間を受け入れてはくれない神、どんなに人間が頑張ったとしても、「ダメだ」と言って人間を撥ねつけてしまうような神を信じることになるのです。神から遠い地獄の中に捨てられてしまうような、そういうあり方を、律法学者たちとファリサイ派の人々の教えは作ってしまう、ですから主イエスは、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」とおっしゃるのです。

 私たちにとって本当に大切なこと、それは、「神が主イエスを与えてまでして、わたしを神さまのものにしようとしてくださった」ということです。「神の慈しみ、愛を知っている」ということが何よりも大切なことなのです。そして、それを信じるならば、私たちは神の民となることができるのです。
 聖書に書かれていることの全てを私たちが分かっていなかったとしても、全部分かるまで洗礼を受けられないというような話ではありません。全てを分からなくても、本当に大切な一つのことを、私たちは知らなくてはならないのです。それは、「わたしは神さまに受け入れられ、愛されて生きているのだ」ということを知ることです。そのために、神は主イエスを十字架につけてくださいました。私たちは、そのことを知って生きるようにと、主イエスから勧められていることを覚えたいと思います。

 主イエスを通しての神の招きを知らないで生きる人は不幸だと、主イエスは嘆いておられます。私たちは、主イエスが救い主としてご自身の身を捨てて、神の慈しみと愛をこの世に知らせてくださっていることに支えられて、たとえ自分が至らない者であるとしても、それでも「わたしは神さまの愛の許に置かれている」ということを表しながら、この地上の生活を続けていく者でありたいと願います。
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