聖書のみことば
2018年10月
  10月7日 10月14日 10月21日 10月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月21日主日礼拝音声

 アカンの罪
2018年10月第3主日(CSとの合同)礼拝 10月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/ヨシュア記 第7章1〜5節

7章<1節>イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。<2節>ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、<3節>ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」<4節>そこで、民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。<5節>アイの兵士は、城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した。民の心は挫け、水のようになった。

 今日は、教会学校の子供たちと大人たちが一緒に礼拝を捧げます。それだけではなく、バザーのためにダルクの方々も来て下さって、皆で礼拝を捧げますし、もしかすると今日初めて教会においでになった方もいらっしゃるかもしれません。皆で一緒に礼拝できることを心から嬉しく思います。

 今日は、旧約聖書のヨシュア記を開きました。ヨシュア記について少し説明します。エジプトで奴隷暮らしをさせられていたイスラエルの人たちを、神さまが、モーセをリーダーに立てて助け出してくださいました。エジプトを出るときの話は出エジプト記という本に書いてあるのですが、ヨシュア記は、エジプトを出てから40年の間、ゴツゴツした岩だらけの荒れ野を彷徨ったイスラエルの人たちが、モーセの跡を継いだヨシュアに導かれて、神さまが用意して下さった約束の地に入っていくというお話です。
 神さまが用意して下さったのは、ゴツゴツした岩だらけの土地ではなくて、豊かで、美味しい実をつける葡萄やイチジクやザクロがたくさん生っている土地でした。種を蒔けば麦も良く育つ、そういう良い土地を、神さまは用意して下さって、イスラエルの人たちがそこで暮らせるように導いて下さったのです。神さまが用意して下さった約束の地に入って行った時に、一番手前にあった土地は、エリコという町です。エリコの町は、頑丈な石の壁に囲まれた強そうな町でした。
 けれども、神さまは、そのエリコの町をイスラエルの人たちにくださいました。教会学校では先週、その時のお話を聞きました。イスラエルの人たちに神さまが、「皆黙って、一週間の間、エリコの町の周りを回りなさい」とおっしゃったので、イスラエルの人たちはそうしました。「7日目には7回、回って、それから鬨の声を上げなさい」とおっしゃったのでそうしたところ、わっと声を上げた途端にエリコの城壁が不思議なことに崩れて、そこから町に入ることができたという話です。

 城壁が崩れたという話は、とても心に残ります。けれどもそれだけではなく、もう一つ、とても大事なことが言われていました。その時イスラエルの人たちは、神さまと一つの約束をしていました。その約束のことが、今日読んだ箇所の始めのところにも書かれていました。1節です。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった」。「滅ぼし尽くしてささげる」と書いてあります。これは、元々あったエリコの町を全部、神さまにお献げするという意味です。
 私たちが自分自身をお献げするという時に、一番最後までお献げするということに関係すると思います。自分自身をお献げすることを「献身」と言いますけれども、その時には「自分の元気な時、良いところだけをお献げする」と、私たちは考えてしまいがちです。けれども私たちは、最後まで自分をお献げするようにと神さまに言われています。形あるものは必ずいつか壊れます。私たち人間も、今は生きてそれぞれに生活していますが、一番最後には、地上の生活を終わって煙になっていきます。その時まで、神さまにお献げするということです。
 つまり、エリコの町はそこで終わってしまうのですから、「その町の人たちは全部、神さまに献げられる。それだけではなく、エリコの町にあるものは全部、神さまにお献げする」という約束を神さまとして、イスラエルの人たちはエリコへ入って行きました。火で燃やせるものは燃やして、神さまに香りをお献げするのですが、金銀鉄のように、燃やしても燃えないものもあります。燃えないものもみな、神さまにお献げするという約束をして、イスラエルの人たちはエリコの町に入って行ったのです。
 ところが、そのようにしてエリコの町で新しい生活をするように言われた人たちの中に、正直でない人たちがいたことがここに書かれています。それが始まりのところです。アカンという人が約束を守れませんでした。1節の続きに「ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた」とあります。アカンは、本当は神さまに献げるべきものを献げないで、盗み取ったのだと言われています。今日読んだところより後の方を読みますと、アカンがどんなものを盗み取ったのかが書かれています。金や銀の延板があったので欲しくなったり、綺麗な洋服もあったようで、それも自分の物にしてしまいました。誰にも見られていなかったら大丈夫だと、アカンは思ったのです。今日の説教題は「アカンの罪」ですが、アカンがそんな失敗をしたことがここに書いてあるのです。
 今日のお話は、アカンがそんな失敗をしたので神さまが怒り、間違いに気づかせようとして次の戦争に勝てないようにされたのだと、そう思っている方は多くいると思います。確かにそういうこともあるのですが、それだけではないのだよということが、ここには書かれています。

 エリコの町で暮らせるようになった人たちは、次に、アイという小さな町を討ち取ろうと思いました。アイはエリコに比べるとずっと小さく、住んでいる人も少なかったので、簡単に勝てるだろうと思って、攻めて行きました。ところが驚いたことに、イスラエルの人たちはアイの人たちに全然敵いませんでした。こてんぱんに負けて、36人もの人が死んでしまい、命からがら逃げ帰って来て、「民の心は挫け、水のようになった」と書いてあります。
 どうしてイスラエルの人たちは負けてしまったのでしょうか。ヨシュアから命令されてアイの町を探りに行った人たちは、3節「ヨシュアのもとに帰って来て言った。『アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません』」と報告しました。ですからヨシュアは、この報告を聞いて、そのようにしました。
 ところがこの時、ヨシュアも探りに行った人たちもすっかり忘れていたことがありました。それは、自分たちがエリコの町に勝つことができたのは「神さまが一緒にいてくださったからだ」ということを忘れてしまったのです。エリコの町に勝った時、イスラエルの人たちがしたことは何でしょう。神さまに言われた通りのことをしました。「エリコの町の周りを、黙って回りなさい」「7日目には7回、回って、鬨の声を上げなさい」、そうすると、町の城壁が崩れました。イスラエルの人たちの努力によって壁が壊れたのではありません。神さまが「わたしが壁を壊してあげるから、こうしなさい」とおっしゃって、その通りにしたら、そうなったのです。
 ところが、次のアイに偵察に行った時には、行った人たちもヨシュアも、「エリコを攻め取ったのは、自分たちが強かったからだ。努力したからだ」と思ってしまいました。「自分たちの力でエリコに勝てた。アイはエリコより小さいのだから、簡単に攻め勝てるだろう」と思ってしまいました。けれども、アイの人たちも懸命に町を守ろうとしました。イスラエルの人たちは、簡単に勝てると思って油断したために、勝てませんでした。
 今日読んだ箇所の先には、イスラエルの人たちがすっかり挫けてしまったところで、ヨシュアが神さまにお祈りしている箇所があります。「どうしてこんなことになったのでしょうか」と、ヨシュアが神さまに尋ねています。それに対する神さまの返事は、11節12節「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない」でした。つまり、神さまがイスラエルの人たちと一緒に戦ってくださったから勝つことができました。ところが、イスラエルの人たちはいつの間にか神さまを忘れて、自分たちの力で勝つことができたのだと思ってしまいました。もともと奴隷だった人たちです。とても苦しい思いをしていたのですが、神さまがモーセを用いて救い出してくださったのです。

 私たちは、いろいろな思いに囚われて、自分の思い通りにならない、辛い思いをしながら生活しなければならない時があります。そういう生活から神さまが救い出してくださって、「あなたには生きていける場所があるのだよ。わたしが守ってあげるから、ここで生きていくのだよ」と、おっしゃってくださるのです。そのようにして、イスラエルの人たちはエリコの町で暮らすことができるようになったのです。ところが、いつの間にか自分の力でエリコの町に住むことができるようになったと思っていきました。そして、そのために、アイと戦う時に頑張れなくなってしまいました。

 私たちは、「頑張る」というのは、自分の願いや自分の思いに正直に生きる時に頑張れると多くの人が思っています。けれども、そのように思っている人は、自分の願いや自分の意思を、実際よりずっと大きく強く思いすぎている人たちです。私たちの心は、いつも目まぐるしく変わっています。風が吹いているみたいなところがあります。私たちの心は、いつも同じ調子で同じ思いで流れているわけではありません。私たちの気持ちは、ちょっと嫌なことがあったり、辛いことがあると、すぐに挫けるし、逃げ出したくなったり、思っていたことがすっかり変わるということもあります。「わたしの思いは絶対です」という人に限って、絶対、絶対ではありません。絶対だと思っている人は、自分の気持ちが分かっていないだけです。
 私たちは、「あなたには将来があるのだよ。あなたは、元の奴隷暮らしに戻るのではなくて、新しく、わたしが与えてあげる町があるのだから、そこで生きていってよいのだよ」という神さまの言葉を信じて、励まされて、だからこそ私たちは頑張ることができるのです。そうでなければ、ちょっと辛いことがあると、もうどうでもいいと思って、めちゃめちゃなことをしたり、挫けてしまうことがあるのです。それでも神さまが「大丈夫。そんなあなたでも、間違いなくあなたには将来があるのだから、あなたは、わたしが示す町で生きていきなさい」とおっしゃってくださるのです。
 よろよろ、ふらふらしながらでも、私たちは、神さまが「あなたには明日があるのだよ」と言ってくださるので、それを信じて「神さま、どうか、わたしを先へ先へと行かせてください」と祈り、神さまに導かれて生きていくのです。

 今日聞いた聖書の箇所を、もう一度よく読んで欲しいと思います。ここには、神さまの言葉がどこに書いてあるでしょうか。実は、神さまは黙っておられます。何もおっしゃっていません。イスラエルの人たちはどうでしょうか。「神さま、あなたはどうお考えですか」と聞いたかというと、それも無いのです。イスラエルの人たちは神さまを忘れてしまっているので、お祈りできませんでした。「アイは小さな町だから、簡単に攻め取れる」と、自分たちの力だけで行ってしまったのですが、上手くいきませんでした。それで、心が挫けてしまいました。
 私たちは、自分の思い通りにできると思っていたのにできないと、すぐに心が挫けてしまいます。それは戦争の話だけではなくて、誰もがそんなところを持っていると思います。どうしてそうなるのかと言うと、私たちに真実に将来を与えてくださる神さまの言葉が聞こえなくなっているからです。
 神さまが「あなたは今日、ここで生きていってよいのだよ。わたしの言葉を聞いて生きていきなさい」と呼びかけてくださっていることを覚えたいと思います。
 私たちは、どんな人でも、最後には地上の生活を終えていきますけれども、「神さまに献げられた一生を生きました」と、そのように終わりまで生きていきたいと願います。

 神さまが一人一人に、明日を与え、本当に必要なものを全て備えてくださる、そのことを信じて、ここからまた新しい一週間に向かって歩み出したいと思います。

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