聖書のみことば
2017年9月
  9月3日 9月10日 9月17日 9月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月24日主日礼拝音声

 故郷で敬われない預言者
2017年9月第4主日礼拝 2017年9月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第13章53節〜58節

13章<53節>イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、<54節>故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。<55節>この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。<56節>姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」<57節>このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、<58節>人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 ただ今、マタイによる福音書13章53節から58節までをご一緒にお聞きしました。53節54節に「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう』」とあります。主イエスが「これらのたとえを語り終えられた」と始まっています。主イエスはこれまで「天の国」について、さまざまな譬えを用いながら群衆や弟子たちを教えて来られました。
 「天の国」と聞かされますと、私たちはどこか遠くの場所のように思い違えるかもしれません。この地上の生活の場とは関わりのない、まるでおとぎの国のような所が「天の国」だろうと思うかもしれません。けれども、先週まで聞いたところでは、そうではありませんでした。
 主イエスが教えられた「天の国」とは、「私たち一人一人をこの地上に生まれさせてくださり、命を与え、持ち運んでくださる父なる神が、まさに父であるお方として子供たちを思いやるように、どんな時にも私たち一人一人を顧みて、保護と導きのもとに持ち運んでくださる」ということでした。私たちが生きる一生は、私たち自身には見通すことはできません。人生を歩む中で思いがけないことや、時には思いを超えることも起こります。予想していないことに出会って、まるで運命に翻弄されているように思う、そういうこともあるかもしれません。けれども、たとえそのようなことが起こる時でも、厳しい試練に出会って、「自分の力には及ばない」と自分の小ささや弱さをつくづくと思わされる時にも、「神があなたをしっかり支えてくださる」という、神のご支配があるということを、主イエスは「天の国」の譬えで、弟子たちや群衆たちに教えておられたのです。

 ここでは、そういう譬えを主イエスが「語り終えられた」と言われております。ここから主イエスは、最終的に向かって行く先であるエルサレムの十字架を目指して進んで行かれます。ですから、ただ「話を語り終えられた」と聞いてしまうかもしれませんが、実はここには、主イエスが「十字架を目指して進んで行かれる」ということが隠された形で語られているのです。そして、エルサレムに向かって行く道中に、主イエスはご自分の故郷に帰られた、立ち寄られたのです。
 これは、主イエスにとって郷里の人たち一人一人のことが気がかりだったからに相違ありません。ここには町の名前は出てきませんが、もちろんそこはナザレです。ナザレに着くと安息日になったので、主イエスはいつものように会堂で人々に教え始められます。すると、その主イエスの言葉を聞いた人たちが「大変驚いた」と語られています。54節にナザレの村人たちが「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言ったとあります。大変さらっとした書き方で「人々は驚いて言った」とあるのですが、しかし実は、この時のナザレの村人たちの驚きというのは尋常ではないのです。
 ここで「驚いた」と訳されている言葉は、「圧倒された、心打たれて感動した」と翻訳することもできる言葉です。同じ言葉は、マタイによる福音書では、5章から7章にかけての主イエスの山上の説教で、弟子たちを教え終えられた時に使われています。7章28・29節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。あるいは19章では、金持ちの青年が主イエスに教えを乞うた、その後で、主イエスが、23、24節「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われ、25節「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った」とあります。ここでも、ただびっくりしたというよりも、「そんなことは、あるはずないではないか。らくだが針の中を通るなど有り得ない。一体何を言っているのだろう」と思いつつも、主イエスが権威ある者のように語られたために、圧倒され、受け止めかねているのです。
 そして、こういうことと同じことが、主イエスがナザレの会堂で教えておられた時に起こりました。聞いていた人たちは、「天の国、神の国とは、そんなに力あるものなのだろうか」と言って驚き、またそれほどに、主イエスの言葉は深く心に刺さる言葉だったのです。

 この日、主イエスの故郷の人たちは、まるで予想していなかったようなこと、思いもよらなかったようなことを聞かされました。そしてとても驚かされ、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言い合いました。一体どこから主イエスの知恵と力は来たのだろうかと不思議に思ったのです。主イエスがこの日教えられた知恵と力、これは種明かしをすれば、「天から、神のもとから来た」のですから、人間が普通に聞いている言葉とは全然違う言葉を聞かされて驚いたということです。
 ところがナザレの人たちは、主イエスの言葉に心刺され、驚き、感動したのですが、最終的には、「主イエスにつまずいた」と言われています。57節「このように、人々はイエスにつまずいた」。なぜ「つまずいた」のでしょうか。そもそも、「主イエスにつまずく」とはどういうことなのでしょうか。ナザレの村人は言っています。55・56節「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。
 このナザレの人々の言葉から聞こえてくることは、「この人は大工の息子ではないか」という言葉です。これは、「大工」という仕事が人を教えるのに似つかわしくないという意味で言われているのではありません。主イエスの時代には、神の言葉を人々に教える律法学者やファリサイ派の人たちもそれぞれに世俗の職業を持っていたと言われています。例えば、使徒パウロは、元々エルサレムのガマリエルという有名なラビのもとで学んで律法学者としても一流と言える人ですが、使徒言行録や手紙などから聞こえてくることは、パウロが「天幕作り」を職業としていたことです。今日で言えば、プレハブ作りの建設業者のようなものでしょうか。当時のユダヤでは、肉体労働と頭脳労働、ブルカラーとホワイトカラーというような区別はありませんでした。律法を教える人は、ただ口先だけではなく、身を以て働くということが大事と考えられていました。ですから、主イエスに向かって「この人は大工の息子ではないか」と言ったのは「大工は無学である」と言っているのではありません。そうではなく、「主イエスの父であり大工であったヨセフを、私たちは知っている」と言っているのです。
 ただこの箇所については、様々なことが言われております。ここでは、母マリアの名、弟たちの名も出て来ますが、父であるヨセフの名は出て来ません。名前が出ないで、ただ「大工」と言われているところから、もしかするとヨセフは大分前に亡くなったのではないかというのです。長い間、マリアとその息子たちや娘たちが村人たちにとって身近な存在になっていたために、咄嗟にはヨセフの名が出てこず、「大工」と言われているのではないかと言うのです。
 ナザレの人たちは、主イエスの教えに非常に心動かされました。ナザレ以外の町や村で教えられた時には、その中から主イエスを信じる人たちが出てくるのですが、ナザレの人たちはつまずいてしまったと言われています。「どこからこんな知恵と力が来るのか」と思いながらも、イエスについて自分たちが知っている知識を数えていくのです。「お父さんは大工、お母さんはマリア、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。皆知っている。妹たちも自分たちに嫁いで一緒に暮らしている」。こう村人たちが言っているということは、会堂で主イエスが教えておられた時に、その教えているイエスは、村人たちの予想と違っていたということを言っていると思います。村人たちにしてみれば、自分たちの間から離れて行って、また戻って来たイエスがラビになっている、先生となって律法の話をする。その時に、聖書の話をするとは思っていても、そこで彼らが期待していることは「先生になったからと言っても、イエスは自分たちと繋がっている。どこか似通った者同士のはずだ」と思っていたことしょう。言葉のアクセントや訛りが同じだとか、物事の感じ方や考え方が似ているとか、そういう共通点があれば、聖書の話を聞いていても「ああ、やっぱりこの人は、自分たちのもとから旅立って行った人だなあ」と心安さや親しさを感じ、同族意識が芽生えるでしょう。
 ナザレの人たちはそういうことを期待していたのですが、しかし実際に彼らが主イエスから聞いた言葉は、確かにガリラヤ訛りだったかもしれませんが、語られている事柄は、まるで自分たちがいつも聞いていることとは違う、自分たちとは異質なものになっていた、そのために、心を強く刺されて驚き戸惑ったのです。それで「これは何に由来するのだろうか」と、一つ一つ自分の知っているイエス像を数え上げていくのです。けれども、彼らが数えているのは、父母や兄弟姉妹という自分たちと繋がりのあるものばかりでした。これらがこの日語られた力ある言葉の理由を説明できるかと言えば、説明することはできません。どうしてかと言うと、村人たちが感じた驚きや違和感は、神に由来するもの、聖霊が主イエスのうちに働いて神の言葉を語らせているために起こったものだからです。ですから、地上の人間的な繋がりをどんなに注意深く見つめても、主イエスの言葉のうちにある力と知恵の源を突き止めることはできないのです。天に由来するもの、その源が地上にあると思って地上を探したところで、そこには見つかりません。そこで彼らの結論は、56節「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」となるのですが、これは54節と同じ事柄を言っています。結局村人たちは、とても驚き、「どういうことだろうか」と考え始めた、その初めの問いに戻ってしまっています。そしてそれが、彼らの「つまずき」でした。

 ナザレの人たちのつまずきについて、こういう言い方をしてくれていることで、私たちは考えさせられることがあると思います。普段「つまずき」と聞くと、どう感じるでしょうか。例えば交わりの中で、自分のことを色々言われて嫌になる、そういうつまずきに対しては、対処しながら乗り越えていけるでしょう。けれども、そうできないつまずきもあるのです。それは聖書にはっきりと書かれていることですが、「主イエスの中につまずきがある。主イエスはつまずきの石である」ということです。「主イエスにつまずく」とはどういうことかと考える時に、私たちは「自分では主イエスを信じたいと思うけれど、どうしても信じきることができない。目に見えない壁のようなものがある」と漠然と考えがちです。そして、その壁さえ超えることができれば主イエスを信じることができるのだろうと思い込みがちです。
 ところが、今日の箇所で聖書が伝えているナザレの人たちのつまずきは、見えない壁があったというようなことではありません。そうではなく、そもそもナザレの人たちが見当違いなところに主イエスの力の源を探し求めようとした、その結果、主イエスの知恵と力がどこから来るのかを突き止めることができなかったのだと言っているのです。村人たちにしてみれば、自分たちはイエスという人のことを少年の時代からよく知っているし、家族のことも知っている。だからそのことを辿って考えてみれば、過去の記憶のどこかに現在の主イエスの力、知恵の源を見いだせるだろうと思って振り返るのです。けれどもそこには何一つ、見出せるものはありませんでした。
 ナザレの村人たちのつまずきの原因は何でしょうか。それは、自分たちが知っているイエスの事柄にいつまでもこだわってしまう、そういう在り方をしているからです。「自分たちはイエスを知っている」という自負心、それがつまずきの原因です。そもそも初めから、彼らは見当違いなことを言っています。「この人は大工の息子ではないか」。大工とは、主イエスの人間としての父ヨセフのことですが、主イエスの知恵と力は、このヨセフから受け継いだのでしょうか。そうではありません。ヨセフは普通の人間に過ぎません。もちろん、幼い主イエスを保護して来たのですが、主イエスが持っておられる知恵や力は、ヨセフから教えられたり受け継いだものではないのです。

 マタイによる福音書の1章20節を読みますと、主イエスについて「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』」と言われています。主イエスがナザレにおいて、人々に語りかけ現しておられる不思議な知恵や力はどこに由来するのか。それは、天使がヨセフに「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と言っていることから分かるように、「聖霊の働きによる知恵、力」なのです。このことは、マタイによる福音書には繰り返し語られています。例えば、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時のこと、3章16節には「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。あるいは4章1節には「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。主イエスは聖霊によって身ごもり、洗礼から公生涯を始められた時に天から降ってきた聖霊の御力を受け、またその後、聖霊に引き回されるようにして歩んで行かれると、語られています。
 ところが、ナザレの人たちは、主イエスの上にある聖霊の働きには目もくれません。この若い先生は自分たちの故郷から出た人で、どんな生活をしていたかを自分たちは知っている。今日風に言えば、「目の前にいる先生がどこの大学を出てどんな学位を取り論文を書いて、どんな研究をしているかを知っているから、わたしはこの先生のことをよく知っている」と言っているようなものです。
 しかし、地上の事柄が問題だと考えている限り、主イエスの不思議な知恵と力には辿り着くことはできません。「つまずき」とは、「聖霊が主イエスの中に満ちて、わたしに語りかけてくれている。だからわたしは神の言葉を聞いているのだ」と、そのことに思いを向けようとしないところから起こっていることです。ナザレの人たちが「わたしはイエスのことをよく知っている」と言いながら、つまずいていった姿は、私たちに「つまずき」というものがどこから起こるのかということを教えてくれています。

 そして、そういう郷里の人たちの頑なさに直面して、主イエスは、57節「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。この言葉は、当時、巷で流行していた格言のようなものだったと言われています。ですから、聖書の他の箇所にも同じ言葉が出てきます。主イエスは、「こんなことが言われているなあ」とおっしゃりながら、ここで、ナザレの人たちのことを当てこすって語っているのです。
 預言者が敬われないということは確かにあることです。当時の一般的な考え方からしますと、旧約聖書の預言者たちは神からお預かりした御言葉を、仲間であり同胞であるイスラエルの人たちに心を込めて語り聞かせました。ところが、聞いた人たちは感謝してその言葉を聞いたかというと、そうでない場合が多かったのです。むしろ逆に預言者を鬱陶しく思ったり憎んだり迫害するということが起こります。神からは「わたしの言葉を同胞に伝えなさい」と言われ、語らざるを得ない。けれどもその通り語ると同胞たちからは反発される。旧約聖書を読んでいますと、預言者が行き詰まっているという箇所が幾つも出て来ます。
 例えば、一番最初の預言者はエリヤですが、反発され命を狙われ、逃げ回った末に「彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』」(列王記上19章4節)と言っています。エリヤ以前には、モーセやサムエルなどが、神の御言葉を伝えて預言者的な働きをしてイスラエルの民を導くということがありましたが、専門的な預言者として初めて働いたのはエリヤでした。エリヤは預言者として神の言葉を伝えようとしても、少しもうまく伝わら、むしろ反発され命を狙われますから、このように神に訴えタノでした。
 また預言者エレミヤも、エレミヤ書20章7節に「主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ 人が皆、わたしを嘲ります」と言っています。それだけではなく10節には「わたしには聞こえています 多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて 我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と」とあります。エレミヤは神の御言葉を伝えることで感謝され賞賛されるどころか、弾劾され復讐され、つけ狙われるような立場に陥ったのです。
 このように、「預言者は敬われないことがある」という格言を、主イエスは引用しておられます。ナザレの人たちの頑なさに直面して、「昔の預言者が途方に暮れていた」姿と、主イエスご自身がナザレの会堂で途方に暮れている姿とを重ねて見せているのです。「預言者は敬われない。それは自分の故郷、家族、自分に近しいところでそうである。神の愛と慈しみを何とか知ってほしいと思って語るけれども、耳を傾けてもらえない」と、主イエスは嘆かれました。

 こういう記事を聴きながら、私たちは最後に、私たち自身のことを考えるようにと、この箇所から促されていると思います。
 ナザレの人たちは主イエスにつまずきました。それでは、ここにいる私たちはどうなのでしょうか。マタイによる福音書は、ここで一つの仕掛けを作っています。そして、聞く人たちに考えさせようとしています。どういう仕掛けか。それは、「故郷にお帰りになった」と書いてあるところにあります。
 主イエスがお帰りになった、その故郷の地名は入っていません。どうしてかと言うと、主イエスの人間としての故郷はナザレという一つの村ですが、しかし主イエスは、ナザレに限らず、神の民が住んでいるところ、そこを主イエスがご自身の住まいとなさるからです。実は、主イエスは私たちの只中に住んでいてくださいます。キリスト者が集まっているところ、そこは主イエスがいらっしゃって、共に住み、歩んでくださる場所です。そういう意味で、主イエスの故郷になっている場所なのです。
 ですから、今日の話は何千キロも離れたナザレの話ですが、私たちから遠い話ではなく、ここにいる私たちの場の話がされているとも言えるのです。
 主イエスがこの場に帰って来られて、お語りになったら、私たちは一体その言葉をどう聞くのでしょうかという問いかけが、「故郷にお帰りになった」という言葉の中に込められています。私たちはどうなのでしょうか。主イエスがこの場に来られ、「わたしがあなたと一緒に住んであげよう。あなたはわたしを主と信じて、そのことを公に言い表して生きて行きなさい。わたしは必ずあなたを守る。あなたを導く。この世での務めを全て支えるから」とおっしゃって、主イエスが私たちと一緒に生きようとしてくださる、その時、果たして私たち自身は、どう応じるのでしょうか。「とんでもありません。わたしはまだまだ、あなたに一緒に歩んでいただけるほど、信仰が確かではありません。そんなに立派ではないのです」と返事をするのでしょうか。それとも、「いえ、まだわたしはあなたのことがよく分かりません。まだ早すぎます」と返事をして、「こんなに信仰が弱い、信仰が薄い」と一つ一つ数え上げていくでしょうか。
 しかし主イエスは、故郷の人々に心を込めて神の御言葉を取り次いで、「神があなたをここまで確かに持ち運び生かしてくださっているのだから、その神に信頼して生きていくように。わたしもあなたと一緒に生きる。あなたの信仰生活を終わりまで支えるから、あなたは神に信頼して生きていきなさい」と招いてくださっているのです。「どんなに思いがけないこと、思いを超えることが人生に起こったとしても、決してわたしはあなたを見捨てない。どんな時にもあなたと一緒に生きるから、そのことを信じて、あなたは神への信仰を言い表して生きていきなさい」と、主イエスはナザレの会堂でそう教えられたのです。「神は必ずあなたを守ってくださるお方である。どんな時にもあなたを慈しんでくださる。だから、あなたは悔い改めなさい。これまで神を知らず、神抜きで生きて来たでしょう。何でも自分の思いで、自分の願った通りに生きることが人生の最良のことだと思って生きてきたでしょう。けれども、これまでのことは良いとして、これからは、神があなたを支え、あなたの後ろ盾になって、あなたの人生の裏打ちをしてくださるのだから、その神に自分を明け渡して生きて行きなさい」と、主イエスは招いてくださっているのです。
 けれども、そういう主イエスの招きを聞いて、確かに力ある不思議な言葉だと思いながらも、「この力ある言葉はどうすれば獲得できるのだろうか。どの先生について勉強すれば、こういう言い方をすることができるようになるのだろうか」と、人間的な由来にばかり目を向けてしまうところに、実は、つまずきの源があったということが、このナザレの物語が告げていることなのです。

 神が主イエスを通して招いてくださっている。教会と共にいる主イエスを通して、今日、私たち一人一人に神が招きの御言葉を語りかけてくださっている。「たとえどんなに人間的には困難な状況にあっても、病気を抱えて明日をも知れない不安があるとしても、神はそれでもあなたをここで生かして確かに持ち運んでくださるのだから、それを信じて生きて行きなさい」と、神が招いてくださると信じないで、自分の経験や考えにこだわり続けていってしまう。その時には、主イエスの言葉を信じることができずに、つまずいてしまうことになるのです。

 教会の礼拝の中で聖書の御言葉が朗読され、説き明かされます。もちろんそれは、人間に過ぎない牧師が取り次いでいる人間の言葉ですが、しかしその人間の言葉を通して、神が私たちに語りかけてくださる。主イエスがここで私たちと共に歩んでくださる方として語りかけてくださる。そのことを聞き分けて、「主イエスに信頼し、神に依り頼んで生活を始める」時に、本当に豊かな信仰の実りが、私たちの生活の中に生まれてくるのです。願わくは、私たちはそのような幸いな者とされたいと思います。
 神を信じたからと言って、災いが避けて通っていくわけではありません。ご利益宗教ではないのです。私たちは様々な試練や困難に出会いますが、それでも、「神は決して私たちをお見捨てにならない。どんな時にもわたしと共に歩んでくださる」のです。
 主イエスは、「十字架に向かっていかれるお方」として、間もなく故郷にお帰りになることもできなくなる、そういうお方として、「神への信頼」を何とか故郷の人たちに伝えたいと思って、ナザレに立ち寄られたのです。ところが、故郷の人たちが、神が語りかけてくださることを信じず、受け取ろうとしなかった故に、主イエスは深く悲しまれました。

 私たちは、ナザレの人たちがつまずいたようにではなく、主イエスが礼拝ごとに聞かせてくださる御言葉を信じて、神に依り頼んで、ここからの生活を歩む者とされたいと願うのです。

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