聖書のみことば
2017年9月
  9月3日 9月10日 9月17日 9月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月17日主日礼拝音声

 天の国
2017年9月第3主日礼拝 2017年9月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第13章44節〜58節

13章<44節>「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。<45節>また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。<46節>高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。<47節>また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。<48節>網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。<49節>世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、<50節>燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」<51節>「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。<52節>そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」<53節>イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、<54節>故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。<55節>この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。<56節>姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」<57節>このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、<58節>人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 ただ今、マタイによる福音書13章44節から58節までをご一緒にお聞きしました。ここでは主イエスが、3通りの譬えをもって「天の国」のことを弟子たちに教えておられます。最初は「高価な宝が埋まっている畑のようなもの」、次には「滅多に出会えない高価な真珠のようなもの」、そして最後には「地引き網にかかった魚」に譬えておられます。
 最初の譬えと2番目の譬えは、大変似通っています。44節に「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とあります。「畑に宝が隠されている」とありますが、別に言うと「宝の埋まった畑を見つけた」と言えるでしょう。見た目には他の畑と何も違わないように思えますが、実際には他の畑と段違いに値打ちのある畑を見出した、それに気づいた人は、自分の持っているものを全て手放してでも何とかしてその畑を得ようとするでしょう、そういう譬えです。2番目の譬えもよく似ていて、たくさんの真珠の中に、真珠のプロが見れば明らかに違う値打ちの高い真珠が一粒、紛れ込んでいる、それに気付きその真珠の値打ちを理解した人は、何としてもそれを手に入れるために、自分の持っているものを一切売り払ってでも得ようとするでしょうという譬えです。「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ということが、この2つの譬えに共通しています。
 私はこの譬えを初めて聞いたとき、その意味するところが分かりませんでした。大学生の頃でしたが、その時には、「畑や真珠を得ようとして全財産を手放すとは馬鹿げている」と思いました。畑に宝物が埋まっていると気付いたなら、その時点でそのことに気づいているのは自分だけなのだから、誰にも気づかれないように、夜闇に紛れて掘り出せばよいのにと思いました。宝物は自分の物になり、財産も手放さなくて済みます。真珠の話も同様です。その値打ちある真珠は素人目には見分けがつかず、他の多くの真珠の中に埋もれて同じ値段で売られているのですから、全財産を手放さなくても、他の多くの真珠を買うように、普通の値段で買ってしまえば良いではないか。長い間そう思っていたのですが、そういう受け止め方というのは、ここで主イエスがおっしゃろうとした事柄を全然理解していなかったために思っていたことだと、教職になり説教者として語るようになってから気づきました。
 学生時代の私は、常に困窮した生活を送っていて、いつでもお金のやりくりのことが頭から離れませんでした。礼拝中にも「今日はどこで何を食べたら安く済むだろうか」と、そんなことばかり考えていて、そんなことばかりを考えていると、本当に値打ちのあるものが目の前に出て来ても、とてもそれに手を伸ばす勇気は生まれないのです。考えて見ますと、主イエスが譬えに用いられている材料は、畑にしても真珠にしても、もともとかなり高額な商品です。主イエスがこの2つの譬えで教えようとなさったことは、「たとえ高価であっても、本当に価値のあるもの、天の国の神の御支配のもとで生活するという、本当に価値あることのためであったら、あなたは何を手放しても決して後悔しないはずだ」ということでした。もし本当に私たちが、神の御支配、神の保護のもとに生活することができるとすれば、どんなことがあっても、私たちは安心していられるだろうと思います。たとえ生活が困窮しても、あるいは病によって死の床にあるとしても、それでも最後の時まで「今、わたしは主のもとにある。確かに神がわたしを保護し持ち運んでおられる。わたしは今弱り、思うようにならないことがたくさんあるけれども、しかしそれでもわたしは神のものとして、ここに居て良いと言われている。そして地上の生活を終えたならば、神が永遠の御国に迎え入れてくださる」と確信できていたなら、持っているものを何もかも手放しても恐ろしくないのだと、神への信頼を教えようとして、「天の国のたとえ」として宝の隠された畑や高価な真珠の話をされたのです。

 さて、2つの譬え話の後に語られた3番目の譬え話は、前の2つと少し趣を異にしていると思います。47節以下に「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分ける」と言われています。3番目の譬え話には「また、」という接続詞がありますから、前の2つと緩やかに結ばれていることは確かですが、内容を考えますと、2つの話よりむしろ、前の2週に続けて聞いて来た「麦と毒麦の話」の方に近い内容だという気がします。
 場所は湖のほとりですが、「地引網で捕らえた魚を天使たちが良い魚と悪い魚に選り分ける。世の終わりにはそうなる」と主イエスは言っておられます。先週まで聞いたところでは、一つの畑に生えた麦と毒麦について、「良いものと悪いものが選り分けられるのは世の終わりのことであるし、その選別をするのは人間ではなく天使たちなのだ」とおっしゃっていました。「この世の終わりに天使たちが仕分けをするのだから、歴史の途中に生きているあなた方人間は、先走って裁きをしてはならない」と教えておられました。どんなに役に立たなそうな見るからに悪い麦であっても、根を伸ばしている地下では、もしかすると良い麦と根が絡み合っているかもしれない。だから毒麦を抜いているつもりで、良い麦の根を傷つけ駄目にしてしまうかもしれないから、そういうことのないように、あなたがたは決して裁きを行ってはならないと、主イエスは教えておられたのです。教会の群れは、その一つ一つの教会が主イエスの復活によってこの世に蒔かれた良い麦の一粒一粒であるわけです。全てのことが分かっているわけではない人間は、大事な一粒の麦を傷つけてはならない、枯らしてはならない。そうならないように、軽はずみに先走らないように、この世の終わりの時の前であるから、裁くなとおっしゃったのです。
 今日聞いている譬えでも、終わりの時のことが触れられています。49節に「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」とあり、世の終わりにやって来て人を選り分けるのは、天使たちの仕事だと言われています。「世の終わりにもそうなる」と言われていますから、これは決して今ある地上の譬えとして言われている話ではないのです。
 「世が終わる時」というのは、別に言うならば、「この世界が完成される時」と言い直してもよいかもしれません。「完成される」と言うのは、単に終わるということではなく、それ以上のことを言っています。世界が完成されるというのは、今はっきりしないで両方あるものについて、はっきりとした決着がつけられるということです。ここで主イエスがおっしゃっている「世の終わり、完成」とは、この世界が全て駄目なものとして破局を迎えるとか滅亡するということではなく、「良いものが器に入れられて倉庫に納められていく時」だと言われているのです。この世界は、破局に、全てが滅びに向かっているのではない。そうではなく、そこから神の前に役立つ有用なものが得られるように、神が喜んでくださることに向かって持ち運ばれているのだと言っておられるのです。主イエスは、この世界の歴史について、大変明るい見通しを持っておられます。「全ては完成のために、そして、収穫のために持ち運ばれている。今の時はそういう時である」と、主イエスは考えておられるのです。
 教会に来ない人たちの間では、恐らく割と多くの人たちが、この世界の歴史、時間というものを、どこまでも無限に続くものだと思っているように思います。この世界の時間は、絶えることのない繰り返しだと考えるのです。ひと時ひと時を見れば、時間は過ぎ去って前へ前へと進んでいるように見えるけれど、少し長い時間をとって見れば、全てはまたいつの間にか元居たところに戻っている。時の流れとは、一種の円運動のようなもので始めも終わりもない。一切は過ぎ去って生々流転を繰り返すと、時のことを理解している人は少なくないと思います。特に日本人は四季の移り変わりの中に暮らしていますから、そういう説明は分かりやすいのです。
 この世界の時間というものについて「繰り返す」と考える場合には、聖書の言葉で言えば、「コヘレトの言葉」に言われているようなことになっていくと思います。コヘレトの言葉1章9節から11節に「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい」とあります。つまり、「これは新しい」と言っても、それは「元々あったもの、昔からあったものに心を留めないから新しいと思っているだけだ」と言うのです。「私たちが心に思うことも行うことも、一切のことは既にあったことで、誰かがやったことである」、実はこう言っているコヘレトは、1章2節で「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と言っています。どんなに新しい装いをしてみても、一皮剥けば、それは、昔からあったものの装いを変えただけだと言うのです。永遠の昔からあったことであり、この前の時代にもあったことであり、そしてこれからも起こること、皆繰り返していくのだから、空しいと言うのです。
 どんなに新しいことをしてみても、進歩するのではない。人間は初めから自動的に同じように生きるとプログラムされているようなところがあって、世界の歴史は繰り返していくと見切ってしまうと、どんなに努力しても意味がないという空しさに襲われます。確かに、事実がそうであるならば、そこには上辺の変化は起こるとしても、発展するとか、本当に驚くということは無くなっていきます。すると当然の結果として、心をまったく新たなものに入れ替えるとか、悔い改めて新しく出発するということは無くなるでしょうし、今生きている自分の責任としての決断というものも無くなってしまうだろうと思います。だから空しいと言っています。たとえ物事がうまく運んでいるように見えても、「今ここで生きている」ということではなくなってしまう、昔から繰り返されていることを自分も繰り返しているだけだということになるのです。時間の流れが円運動だと考える時には空しくなっていく、それがコヘレトの教えです。

 けれども、主イエスはそうお考えではありません。そして、このコヘレトの言葉も含めて聖書全体を通して言うならば、時間は円運動ではないと教えています。聖書は「時」ということについては、「始めがあり終わりがある」と教えます。神がお造りになった初めがある。ですから聖書は創世記で天地創造の記事から始まるのです。そして、神が一切を完成してくださる終わりの時があると教えます。ですから、ヨハネの黙示録で「もはや嘆きも労苦もない完成の時がある」と語られているのです。聖書が語ること、主イエスが弟子たちに教えられることは、「この世界の歴史は天地創造の時から始まって、ゴールを目指してまっしぐらに持ち運ばれているものだ」ということです。始めがあって終わりがある。しかしそれは、「一切が破綻して終わるのではない。全てが完成されて、天使たちによって天の倉に納められていく収穫の時に向かって持ち運ばれているのだ」と言われています。スタートからゴールに至る間の時を私たちは生きていますが、途中の時を生きている私たちにとって、今生きている世界が破局に向かっているのではなく完成に向かっているのだと聞かされることは、本当に希望なのだろうと思います。
 私たちは決して楽に日々を過ごしているのではないでしょう。幼い時には周囲の保護を受けて幸せに過ごした子供であっても、やがて大人になって自分がこの世の様々なことを背負って、世界の歴史を形作っていかなければならない時が来ます。毎日毎日、辛いこと苦しいことを辛抱しながら、あるいはそれぞれに重荷を背負いながら人生を生き、歴史を先へ先へと繋いで、皆生きているのです。しかし、そのように私たちが懸命に生きたとしても、この世の終わりは破局、滅亡であると言われたら、私たちは空しく甲斐のないことで労苦していることになります。けれども、そうではないと、主イエスは教えてくださいます。私たちが労苦して歩むこの世の歴史は、天の倉に納められることに向かって、ゴールを目指していく営みなのだと教えられます。私たちの日毎の労苦も骨折りも、最後の収穫のために払われている努力なのです。終わりの時には、神の御前に通用する、本当に良いものが収穫されて倉に納められていきます。そして通用しないものは、役立たないものとして取り去られていくのです。神は本当に意味あるもの、御前にあって良いと思うものは、籠や器に入れて天の倉に納めてくださるのだと、「麦と毒麦のたとえ」や今日の「地引網の中の魚」の譬えで教えてくださっているのです。

 ですから、今日聞いている3番目の譬えは、聖書の中の話に留まりません。ここに語られていることは、実際に私たちが今生活しているこの世の完成のことが語られているのです。この世界は最後に完成される。私たちが日毎に労苦してどこにも出口がないように思い、見通しがないと思って悩んでいる、そのところに、神による新しい天と新しい地がもたらされることになる。天使が私たちのところに来て、もはや死もなく苦しみも涙もないとヨハネの黙示録に幻の形で語られていることが訪れてくると言われているのです。ですから、「地引網のたとえ」は、譬えですが、ヨハネの黙示録で語られている幻と、内容的には同じなのです。

 「地引網のたとえ」で主イエスは、ここに広げられている網は、終わりに至る間、ありとあらゆる種類の魚が集められてくるのだと教えられます。そう聞きますと、この網は、まるで教会のようだという気がします。教会の網の中にも、人間を魚に喩えれば、ありとあらゆる種類の魚が集められてくるのです。この魚は良く、この魚はダメということはありません。教会では、最初から締め出されるということはありません。網が開かれて集められている間、教会の門戸はすべての人に開かれています。大人も子供も、赤ちゃんもお年寄りも、男性でも女性でも、弱い人でも頑健な人でも、健康な人も病んでいる人も、この土地の地元の人でも他所から来た人でも、教会として開かれている交わりから締め出されることはありません。どういう人が来ても「ようこそいらっしゃいました」と歓迎されます。どんな理由で来たとしてもそうです。教会の交わりからは誰も締め出されません。皆が網の中に共に集められ、一緒に泳いでいる魚です。教会という網を無視したり破壊したりしない限りは、どんな人も排除されないのです。
 主イエスは教会を喩えて、マタイによる福音書で「疲れたもの、重荷を負うものは誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。「主イエスを信じます。洗礼を受けたいと思います」、そう言える人だけが来るのではありません。「わたしは、なかなか信仰を持つ踏ん切りがつきませんけれど、教会には来たいのです」という人にも、網は開かれているのです。
 ところが、これは地引網ですから、やがて少しずつ手繰り寄せられていきます。これも教会の特徴と似ていると思います。教会の網に中で一緒に泳いでいるうちに、そこにいる人たちは次第にお互いを知り合うようにされ、親しくなって、ついにはお互いを頼り合い支え合うようになります。教会の中で私たちは、当たり前のようにそういう経験をしているので、あまり深く考えませんが、よく考えてみますと、これは不思議なことだと思います。他のところでは何一つ共通点がないと思える人たちが教会に集められている、そのことによって親しく交わっていくのです。これは不思議なことです。けれども、違う人同士が集まるのですから、決して簡単に親しくなるというわけではありません。普通に考えれば、全く違うところで暮らし、違うことを思って生きている人たちが、一つになって仲良くなるなど考えられないことです。
 教会は、人間の持つ趣味に基づいて親しくなったり集まるのではありません。ですから、教会の中で本当に親しくなるためには時間がかかるのかもしれません。単純に、常にお互いに親しくなるということは幻想だろうと思います。親しくなり互いに分かってくると、返って、思っていたのと違って驚くということもあるかもしれません。しかし、そういうことがあったとしても、長い目で見るならば、教会の中ではやはり、お互いの距離は近づいていくようになるのです。網の中で、最初はまばらで距離をとって泳いでいた魚たちが、次第に親しく近づいて、近くで泳いでいても平気になっていきます。そうすると、網に隙間が生まれて余裕が出てきます。するとそこに、さらに新しい魚が入ってきて、やがて網が魚で満ちるということが起こるのです。
 主イエスは今日の譬えの中で「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになる」と言われました。こういう主イエスの言葉を聞かされる時に、私たちは希望を与えられるのではないでしょうか。教会は、どうやって魚を集めてくるかとつい考えてしまいがちですが、それは違います。教会が本当に教会として魚が集まる場であり、互いに親しくなると、そこには他の魚が入ってくる余地が生まれるのです。そして「網はいっぱいになるのだよ」と、主イエスは言っておられるのです。
 今日、この礼拝堂の中にも空席がありますが、やがてその席に座る方々を神が与えてくださるのです。そういう日が訪れることを楽しみにしながら、私たちはお互い同士がさらに知り合い、そして親しく支え合いながら交わるようにと招かれているのです。そして、いつの日にか、この網がはち切れんばかりの魚でいっぱいになる。そうなった時に、網は岸辺に引き上げられことになるのです。

 ここで、網を引き上げるのが誰かということは言われていません。それは人間ではないからです。網は、神がそれを引き絞って持っていてくださるのです。もしそこで人間の力が必要であったなら、主イエスは譬えの中でそうおっしゃるはずですが、そうは言われません。ここに言われている譬えからすると、色々な魚とは明らかに人間です。私たちは、網を引く側の者ではなく、網の中を泳ぐ魚です。これは終わりの話ですから、私たちは全員がゆっくりと望みの岸辺へと引き寄せられて、そしていつの日か、最後の岸辺に達することになるのです。そして獲られる魚が天使の手によって一人一人確かめられて、器に入れて納められる魚とそうでない魚とに選り分けられるのです。しかしそれは、ようやく岸辺に達して初めて起こることなのです。岸辺に着く前、海の中で泳いでいる時に選り分けられるのではありません。ですから、この譬えも、先走って裁いてはならないことを教えているのです。

 主イエスは、「麦と毒麦」「地引き網」の譬えを通して、繰り返し「あなたがたは先走ってはならない」と言われました。なぜこの点が強調されるのでしょうか。恐らくそれは、主イエスが、地上の教会につきまといがちな好ましくない傾向をよくご存知だからです。教会の群れが、今そこに集まっている者たちの好みに任せてサロンのような雰囲気を持ち始めて、それが教会の香りなのだと考えてしまいがちで、自分たちのサロンであれば居心地がよく、自分たちの都合の良い規則づくめになって小さく纏まって行ってしまうようなことが起こりがちなのです。
 前任者、北紀吉牧師の説教集を読んでいますと、繰り返し「キリスト者は信仰や敬虔深さにおいて罪を犯すことが有り得る」と言われています。罪は不信仰な人、神を知らない人だけの問題ではないのです。そしてまさに、主イエスはそのことをご存知で、繰り返しおっしゃっているのです。信仰の事柄に真剣であるが故に、私たちはつい、この世の中で自分たちが聖なる者の群として立っていかなければならない、心から悔い改めた者の群れとなっていかなければならない、そのためには自分たちを選り分けなければならないと考えてしまいがちです。神の前に清らかでいたいという真剣さや志は良いのですが、その思いが強くなりすぎると、「私たち一人一人は主イエスによって救われているけれども、なお救いを必要とする弱さを抱えている者だ」という点が見失われてしまうのです。そして、清らかさに対して真剣であるがゆえに、他者の信仰生活に点数をつけることができるかのように思ってしまうのです。そうすると、早まって毒麦を引き抜こうとする、網から外に出すということが起こってしまうのです。
 今年は、宗教改革500年ですが、最初の宗教改革者マルティン・ルターは「聖徒の交わり、教会の交わりは、目に見える事柄ではない。教会の交わりは、信じられなければならない事柄である」と教えました。私たちが礼拝を捧げながら、教会の群れとして立っていく。私たちは週ごとに教会に集まって「教会がここにある」ということを目の当たりにします。しかし同時に、集まっている人間は救われなくてはいけない人々ですから、「一つの神の群れ」として集められていると同時に、多くの破れを抱えて集まってくるのです。私たちが教会で目にすることは、決して清らかな天使の群れの現実ということにはなりません。良い麦が蒔かれているはずなのに、その間に、私たち一人ひとり皆そうですが、自分の中に毒麦を生やしている、また、味がよく神が喜んで迎えている魚であっても、私たちの中で役に立たないような魚が泳いでいる場合があるのです。けれども、「目に見えるものが教会なのではない」とルターは教えました。私たちが破れを負っていようと、欠けたる者であっても、「神は私たちを終わりの日に収穫するために、良い魚として器に入れるために招かれている」ということを信じなければならないのです。そうでなければ、私たちは結局、誰一人として教会に残れなくなります。皆それぞれに欠点がありますから、そこに厳しい目を向けてしまうと、それはいずれ自分にも向かってきて、「わたしはダメだ」と、自分も駄目になってしまうのです。
 私たちは確かにさまざまに欠点を持っていますが、しかしそういう者が完成されるために一つの網に招かれている、共に生きるようにと招かれていることを覚えたいのです。私たちが、もし、他者の信仰者としてのあり方に相応しくない点に気づいた時には、それをもってその人を裁いたりダメだと決めつけるのではなく、今この網の中に招かれている者として終わりの岸辺に着き、良いものとして器に入れられるようにと執り成しを互いに祈るべきだと思います。全てのことは、岸辺に着いた時に明らかになることであり、しかもしれは天使たちが行うことなのです。他者が良い魚か悪い魚かを決めるのは、私たちではないということを覚えなければなりません。

 主イエスは、岸辺に着いた時に、49節「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分ける」と言われました。けれども、一体「どこが悪いのか」という説明は、ここには一切書かれていません。しかしそれは、それを知らなくて良いからです。私たちが選り分けるわけではないから、そういう基準を知らなくても良いのです。
 けれども、少なくともここに言われている「悪」は、異邦人や道徳的に失敗した人たちのことを言っているのではないことは確かです。悪は、信仰者の中に、正しい人の中にあるのです。「教会の中に、キリスト者の間に悪がある」と言われています。
 ここに言われている「悪い魚」とは、食べられない魚をイメージしていますから、もしかすると、主イエスのイメージとしての「悪」は、兄弟姉妹や隣人のために少しも役立たない信仰者のことを言っているのかもしれません。自分のことしか考えない。自分の心の平安や、自分の成功とか、自分の信仰心だけを重んじているために、隣人への愛を失ってしまっている、そういう人たちが「役に立たない」と言われているのかもしれません。
 いずれにせよ、私たちはまだ海の中を泳いでいる魚なのだということを覚えたいと思います。誰一人、岸辺には着いていません。私たちは、今この海の中を泳いでいるところから、やがて最後には岸に引き上げられ選り分けられる、そういう者なのだと教えられています。
 そうであるならば、この地上の生活を歩んでいる間は、皆で共に業に励み、愛と平和を持ち運ぶという生活へと促されているのではないでしょうか。そのような天の国に招かれていることを知って、私たちは自分の持っている一切を捧げて、神のご支配のもとにある者として相応しく歩んでいくように励む者とされたいと思わされるのです。

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