聖書のみことば
2017年9月
  9月3日 9月10日 9月17日 9月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月10日主日礼拝音声

 共に育つままに
2017年9月第2主日礼拝 2017年9月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第13章31節〜43節

13章<31節>イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、<32節>どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」<33節>また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」<34節>イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。<35節>それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」<36節>それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。<37節>イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、<38節>畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。<39節>毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。<40節>だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。<41節>人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、<42節>燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。<43節>そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書13章31節から43節までをご一緒にお聞きしました。43節の最後は「耳のある者は聞きなさい」という言葉です。このように聞かされても、果たして私たちは述べられていることをすぐに納得できるでしょうか。特に41節から43節に語られていることを了解できるでしょうか。「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」とあります。何ともすざまじい言葉です。注解書によりますと、この言葉は、主イエスご自身の言葉ではなく、当時の世の中で言い習わされていた表現を主イエスがそのまま用いられたのだという説明がなされます。主イエスがおっしゃったのだとは思えない、それほどに激しい言葉です。
 しかし、たとえ主イエスがご自分からおっしゃったのではないとしても、この激しい表現を少しも手加減せずに主イエスがおっしゃったのだとすれば、私たちは内心穏やかではいられないのではないでしょうか。まるで人類の歴史が終わる時には、こういう事情になると言われているようです。世界が終わる時、一方の者には救いが用意され、もう一方の者には激しい滅びが待ち受けているのだと言われているように聞こえます。「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」けれども、一方で別の人々は「燃え盛る炉の中に投げ込まれて、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」と言うのです。確かにそう書いてありますが、私たちはこれを聞いて、素直に納得できるでしょうか。
 考えてみますと、私たちは、聖書の中にこういう厳しく激しい言葉があるのだということをあまり深く受け止めていないのかもしれません。主イエスは本当に、こんなに惨たらしく冷酷な結末を教えられたのでしょうか。この世のある人たちは天の御国に入れられるけれども、他の人たちは焼き尽くされて灰になってしまう、そういう裁きを教えられたのでしょうか。それとも、私たちは主イエスのおっしゃったことを何か誤解して聞いているのでしょうか。この箇所は、この世界の将来に定められた避けられない未来図のように聞こえますが、そのように聞くことは全くの誤りなのでしょうか。そんなことが気になりますので、今日はここを丁寧に聞いていきたいと思います。

 今日の箇所には確かに、正しい人のことが語られているだけではなく、不法を行う人たちについても語られています。けれども、よくよく注意して聞かなければならないのですが、これは、このようにきっちりと二つに分かれる人間集団があるということなのかと言いますと、そうではないように思います。これは、「わたし」という一人の人間の中に、あるいは同じ一つの集団の中に、正しい者たちと不正を行う者たちという側面が同居しているのだと言えなくはないでしょうか。
 今日聞いているこの言葉は、先週聞きました「麦と毒麦のたとえ」の説明として語られています。この譬え話の中では、種を蒔く人と種蒔きの様子が並んで語られていました。24節には「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた』」とあり、「ある人が良い種を畑に蒔いた」ということの説明が、37節で「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界…である』」とあります。つまり、「良い種を蒔く」という話は、「人の子=主イエスご自身が種を蒔く話である」とおっしゃっているのです。そうであるならば、麦と毒麦の種蒔きの話は、主イエスご自身がなさった御業のことを言っているということになります。主イエスご自身がこの世界の中に良い種をお蒔きになる。主イエスがこの世界の只中でどのようなことをなさったのかが語られているのです。
 主イエスは一体何をなさったのか。「この世界という畑に良い種を蒔いた。そしてそこから天の国が生い育っていくのだ」と教えられました。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた」、つまり「主イエスがこの世界に種を蒔いた」、それが「天の国」に譬えられるのです。ですから、主イエスが譬えの中でおっしゃっている「天の国」は、どこか遠い彼岸にある話ではありません。例えば、死を超えた彼方に美しい草花が咲き乱れる世界があって、それが天の国と言われているということではないのです。ここで主イエスがおっしゃっている「天の国」は、「私たちが暮らしている地上、日常の中に主イエスが種をまかれる。するとそこに天の国が生い育っていく」、そういうことを言っています。
 主イエスは、この世界という畑の上に、飽きもせず種を蒔き続けるのです。それはなぜか。世界という畑は、そこに生きている人間たちが眠っていようが目覚めていようがそんなことに拘らず、あるいはそういうことを含めて、全てが神ご自身の作品であり、神ご自身のものだからです。畑を耕す農家の人であれば、繰り返し繰り返し、自分の畑に種を蒔くに違いありません。神もそうなのです。「この世界は、どんな状況であってもわたしのもの、わたしの畑だ」と思っておられるから種を蒔かれます。そして、実際に種を蒔かれるのが、主イエスなのです。主イエスはこの地上においでになり、私たち人間の間にあって生活をなさいました。そして、そのことの直接の結果として、この世界には変化が生じてきたのです。主イエスが私たちの生きるこの世界の中に共に歩んでくださっている、その結果、この世界は変えられていきます。

 しかしそうは言っても、この世の大方の人は、主イエスが共に歩み、種が蒔かれているということには気づかないかもしれません。私たちが知っている物理的な畑であっても、種が一粒落ちたくらいではビクともしません。しかしそれでも、種が蒔かれた後の畑は、種が蒔かれる前の畑とは明らかに違っているのです。主イエスの到来もそうです。主イエスがこの世界においでになったということによって、この世界は、それ以前の世界とは明らかに変わってきているのです。
 主イエスがおいでになったのはいつか。約2000年ほど前のクリスマスの晩です。あの時から、この世界は根本的なところで大きく変化してきています。そしてその変化とは、主イエスを通して種が蒔かれたということに深く結びついています。主イエスの到来によってこの世界が変わったというのは、宗教的な話だと思われるかもしれません。しかし、宗教的な領域には限りません。他の領域においても、この2000年の間に大きく変わってきていると思います。
 例えば、様々な研究や学問の領域で、多くの点でそれまでと違うこと、それは、「人間そのものに関心を抱き、人間そのものに集中して考察されるようになってきている」という点です。「人が人らしく生きるためにはどうすれば良いのか。人間の生活が好ましくなるためには何が必要か。この地上で多くの人たちが皆仲良く暮らしていくようになるためには何が必要か」、そういう研究や探求の動機は、主イエスがこの世界においでになっていることに関わりがあるのです。
 主イエスがおいでになる前には、人間は皆、自分中心に生きるのが当たり前でした。今でも、主イエスを知らない人はそうでしょう。どうすれば他の人に負けないで自分の思いを実現して生きることができるのか。自分が不利益にならないために、どうすれば力を持つことができるのか。主イエスと関わりのないところでの人間の関心は、そういうところに向かいがちです。
 ところが主イエスは違います。主イエスは目の前にいる一人一人の人間をとても大事になさるのです。傷ついて倒れている人を見かけたら大切に介抱する、良きサマリア人の譬えをお話になります。サマリア人の譬えのきっかけは、ファリサイ派の人たちが主イエスを試そうとして「どの律法が大事か」と尋ねたことですが、それに対して主イエスは逆に「どんな律法が大事か」とお尋ねになりました。ファリサイ派の人たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛しなさい。そしてまた、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と正しく答えるのですが、「では、その通り生きれば良い」と主イエスはおっしゃいました。ファリサイ派の人たちは自分自身を弁護するために「では、わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねました。つまり、尋ねた時点でファリサイ派の人たちの中には、「自分が隣人になる」という思いはありません。隣人というのは、自分にとって都合の良い近しい人だけれども、自分の方から相手に思いを向けて関わっていく、隣人になっていくという発想はないのです。ですから、主イエスは良きサマリア人の譬えを話されて「誰が隣人になったと思うか」と尋ね、「その人に最も親切にした人です」という答えを受けて、「その通りだ。あなたもそうしなさい」とおっしゃるのです。まさに、主イエスのそういう「隣人への関わり方」から、この世界は変わってきているという面があります。人間を本当に大事にする。人間がどう生きることが望ましいことか、そのことに注意が払われるようになる。ですから、宗教の領域でキリスト教が生まれ、教会がこの世界に2000年続いたということだけではないのです。普通の人が普通に暮らしている社会にも、主イエスが種を蒔かれたことによって非常に大きな変化が起こってきているのです。

 そこで考えさせられるのです。では、主イエスが蒔いておられる良い種とは何なのか。私たちは聖書の中で種の話をよく聞きますから、すぐにそれは「御言葉の種」だと考えてしまいます。主イエスが蒔いてくださる御言葉がこの世界を変えたのだと考えたくなるのですが、今日の箇所で主イエスは、今日の譬えの中の種については、38節に「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」と言っておられます。「良い種は御国の子らで、この世界に蒔かれる」と言われます。これはどういう意味でしょうか。
 改めて言うまでもないことですが、人間の中で欠点のない人はいません。私たちは誰しも限界を持っています。私たちは一人一人、陰の部分があって、私たちはそういう陰の部分を引き受けながら人生を生きています。誰から教えてもらわなくても、私たちはそういうことを百も承知です。完全な人はどこにもいません。ところが、そういう私たちでありながら、「あなたは神から愛されているのですよ。神にとってあなたは、本当に掛け替えのない、誠に大切な宝の民の一人として生かされています」と聞かされて、私たちが聞かされたことを信じて、その神の愛を隣の人に持ち運んでいくということが実際に起こり得ます。けれども、神の愛を運んでいるから、私たちは天使になるというのではありません。神の愛を運んでいる時であっても、私たちは、険しく様々に欠陥だらけの人間にすぎません。ですから、しばしば私たちは、教えられた神の愛を運ぶのに失敗することもあります。けれども、「それでも神から愛されている」ことを知らされて、真剣にこの愛を持ち運んでいく時、そのところで私たちは「御国の子ら」とされていくのです。そして、そういう御国の子らがこの世界に実際に生きて働く、御国の子らが蒔かれることで、天の国はこの地上の歴史の中に繰り返し繰り返し芽吹いていくのです。失敗することも多いのですが、それでも「繰り返し種が蒔かれ天の国が生い育っていく」、そういう兆しが現れるのです。
 「御国の子ら」の一人一人は、小さくて取るに足らない、また脆くて弱い者です。そういう者が種として蒔かれても、地面の方は特別なものが蒔かれたとは思わず、砂粒の一つくらいに思っているでしょう。しかしどんなに小さくても、種と砂粒は明らかに違います。種の中には命のエネルギーが満ちています。御国の種には、発芽して伸びていく力、生き生きと命を育てていく力が潜んでいるのです。種にそういう力があるので、世界という畑に蒔かれて落ちた時に、そこで御国の子らは大地に根を伸ばし芽を萌え出させ、生き生きとした生活がそこに育っていくようになります。この世の暮らしの中に、栄養分に満ちた豊かなものが育っていくようになるのです。

 そのように考えてみますと、主イエスがここでおっしゃっている「御国の子ら」というのは、特定の誰かを指しているのではないということです。一体私たちの誰が、自分について「わたしはいつも、生き生きとした生命力に満ちています。栄養分を豊かに含んだものをこの地上に育てていくことができます」と、胸を張って言えるでしょうか。主イエスが「良い種の一粒一粒が御国の子らなのだ」と言われていることに注意して聞きたいのです。38節に「良い種は御国の子らだ」とあります。「種」は単数ですが、「子ら」は複数です。「良い種は御国の子だ」と言われてしまうと、私たちは「御国の子ではありません」と言わなければならなくなるかもしれません。「わたしにはとても、栄養に満ちた豊かなものを担っていく、育てていく力はありませんから、わたしは種ではない」という結論になるでしょう。けれども、ここはそう言われていないのです。「良い種は御国の子ら」、つまり種の一粒一粒は、「地上の教会」のことを言っているのです。私たち一人一人が自分で豊かな生命力を内に宿して、自力で生き生きと伸びていくのではないのです。私たち自身は本当に弱い欠けたる者で、そのために失敗も繰り返す者ですが、しかしそういう一人一人が教会に集められて主イエスの御言葉と聖霊に励まされて皆で生活していく、その時に、私たちの間に豊かな力に満ちたものが育ってくるのです。ですから、私たちは教会に繋がり続けていくことができるのではないでしょうか。
 思えば教会の門を初めて叩いた日から今日に至るまで、「わたしは一度も教会で失敗したことはありません。いつも正しいことができているので、教会生活が続いています」などという人は、どこにもいないはずなのです。むしろ、自分は貧しく弱い者にすぎず、失敗を繰り返し、壁にぶつかり跳ね返されて「もうだめだ」と思ったような時もあって、自分とすれば生きる元気も勇気も失ってしまった時があった。けれども、そんなわたしでも、教会の群れの中で神が生きていく力をお与えくださったので、わたしはここに集うことができています」、これが教会に集う私たちの実感ではないでしょうか。
 主イエスは、良い種の一粒一粒は「御国の子ら」であるとおっしゃいます。一人一人のキリスト者のことではないのです。この世界という畑の中に数え切れないほど教会が建てられています。その一つ一つが皆「種の粒」だと言われているのです。キリストが蒔いてくださった「御国の子ら­=キリストの教会」が、この世界に広がっています。私たち愛宕町教会も、もちろんそういう種の一つですが、しかし、ここで今聞いている話は愛宕町教会という一粒の種の話ではなく、「数限りない御国の子ら、種が、この世界の中に落ちている。キリストの教会はそのようにして神が畑の中で育てていくものなのだ」と言われているのです。いろいろな土地にいろいろな形でキリスト者の群れが存在するようにされている、その一つ一つがここに言われている「良い麦」なのです。

 ところが、そのようにしてこの世界という畑の中に、主イエスから力をいただいて生きている、そういう教会がたくさん育っていきますと、その只中に、それとは違う別の種も生い育ってくるのだと、主イエスは言われます。畑の外にあるというのではありません。同じ畑の中、つまり、私たちが生きているこの世界の只中に、主イエスの力によって生きているのではない、別の種も落ちていて、その種も良い麦と同じように、畑の中で共に育っているのだとおっしゃるのです。
 最初のうち、その別の種は、良い種と取り違えられるほどに似ています。けれども、ある程度育ってくると、「確かに麦に似ているけれども、実際には全然違うもので、とても食用にはならない」、そういうものだということが次第にはっきりしてきます。そういう麦に似て非なる食物、それも同じ畑の中で、キリスト教会の群れの間に混ざるようにして今日も繁り広がっているのだと言われています。このように主イエスの語られている譬えの一言一言を丁寧に読んでみますと、主イエスは、私たちが日頃教会について見聞きしている現実というものを何と見事に言い当てておられることかと思わざるを得ません。主イエス・キリストの教会には、いつもこのようにふた通りのものがあるのです。
 一方には「、主イエスその方から御言葉を聞いて、慰められ、神の愛を持ち運んでいく」、そういう御国の子らの真実な教会があります。しかしそれに対して、「主イエス・キリストの福音を第一のものとして受け止めないで、他のもので纏まり生きていくことができると考えてしまう」、そういうあり方も生まれてくるのです。例えば、「人間の中にもともと育っている人類愛でお互いに仲良くできるのではないかとか、ヒューマニズムや人間の優しさ、その類のもので教会を形作っていけるのではないか。大事なのは人間なのだから、人間第一に考えよう」という考え方も生まれてくるのです。しかしそれは、確かに表面的には優しそうで良さそうに見えますが、真実の力を主イエスから得ようとはしていません。自分たちの中にあるもので事足れりと思っている、そのために、実は、栄養に満ちた豊かな食用にならない、別のものになってしまうのです。「心の底から自分の惨めさを思い知って救いを求めていく」そういう真実の信仰と上辺だけの信仰、あるいは「自分は本当に取るに足りないと知る」真実のへりくだりとただ取り繕っているだけのわざとらしい謙遜、信仰から生まれる確信とそれに対して人前で飾ってみせるにすぎない虚勢に見した落ち着き、真実な愛と白々しい同情、そういうことは、上辺は非常に似てきます。外側から見る限り、取り違えられてしまいかねないほどそっくりに思えるのです。けれども、それが何に根ざしているのか、何から力を得ているのかという点では全然違うのです。

 今日、キリスト教、キリスト教会という看板の下に、随分と色々なものがまかり通っていると思います。取り違えられるほど、どちらも似ているけれども、根本のところで麦と毒麦とは明らかに違います。ですから、つい私たちは、毒麦が畑の中に育っているのを見てしまうと、それを取り除きたいと思ってしまうのです。もしかすると毒麦の方が強くなって麦が負けてしまうかもしれないという恐れを抱くからです。
 しかし、神はそうお考えにはならないのだと、主イエスは教えられます。「麦も毒麦も、共に育つままにしておきなさい」ということが、先週聞いた話でした。今日のところでは、刈り入れをするのは「神の天使」、そして刈り入れの時は「世の終わりの時」だと教えておられます。39節に「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」とあります。刈り入れに従事するのは人間ではなく天使だと言われます。麦の間に生えている雑草を刈り取るのは、人間の務めではありません。主イエス・キリストの教会の畑では、雑草を抜き取ろうとしてはならないのです。
 主イエスはその理由をご存知です。人間には決して、麦と毒麦とを完全に見分けるということはできないからです。茎から上のところを見て、何となく違っていると見分けがつくかもしれません。けれども、麦は地面の下に根を張って、見えないところで栄養を得て生きています。その根のところ、地面の下がどんなに複雑に入り組み絡まり合っているかということは誰にも分かりません。ですから、少し離れたところにあると思って毒麦だけを抜こうとして、良い麦の根がくっついていて、根を痛めてしまうということがあるのです。人間がどんなに注意深くして引き抜いたとしても、毒麦と一緒に麦も引き抜いてしまうに違いないのです。
 そもそも、どうしても麦の間に生えている毒麦を引き抜かなければ気が済まないという気持ち自体が、幾分か怪しげなものを含んでいるように思います。そういう気持ちを抱いてしまうこと自体がすでに、私たち自身の中に危険なものが生い育っている兆候かもしれません。
 教会の歴史を振り返って見ますと、繰り返し繰り返し熱狂的な人たちが出て来ます。自分たちこそ本当の信仰者であって、自分たちと違う人たちは信仰者ではないと胸を張るのです。ところが、そういうあり方をする人たちに限って、自分たちの定めた基準に従って自分たち以外を毒麦だと言い、実際には自分自身が独善的で傲慢になっていることに気づかないで進んで行ってしまった、そういう歴史が教会の中に繰り返されて来ました。どうしても毒麦を抜き集めてしまいたいとか、また兄弟姉妹の内で「あの人は教会を離れてもらって結構だ」と思う居丈高なあり方が私たちの内に生まれてくる時に、私たちはそういう自分自身によくよく気をつけなければなりません。

 ですから主イエスは、弟子たちが毒麦を抜こうとすることに同意なさいません。それは人間の仕事ではない。「終わりの日に天使がすることだから、あなた方はそれに手を染めてはならない」とおっしゃるのです。毒麦が生えてきても、主イエスは落ち着いていらっしゃいます。毒麦が麦の間に育つままにしていらっしゃいます。どうしてか。それは、麦が育っていくのも、究極的には神の保護と恵みのもとの出来事だからです。「神の御前で価値あるものとされ、神が収穫しようとして植えておられる命が、毒麦が生えたくらいで奪われるはずがない」と、主イエスは強く確信しておられるのです。どんなに毒麦がはびこって敵が暗躍しているように見えても、結局は何一つ手にすることはできないまま、麦は収穫され倉に納められることになります。そして、神に歯向かって神から何かを奪い取ろうとする、そういう勢力は敗れ去っていくことになります。
 それは、十字架の出来事を見れば明らかです。十字架に向かうあの晩に、あるいはあの裁きの朝に、主イエスの敵は大変恐ろしい力で主イエスを脅かし、そして、主イエスを亡き者にできたと思ったのです。しかし結果的には、神の御業に指一本も触れることはできていません。主イエスを告発し、裁き、亡き者にしようとする、そういう勢力を使っても、神はご自身の御業をこの地上に成していかれるのです。私たちが信じている救い主とは、そういう救い主なのです。
 教会が向かうところ敵なく連戦連勝で、この世のトップ企業のように成長していくとは、聖書には書かれていないと思います。そうではなく、「人間の罪と絡み合いながら、難儀し、ため息をつきながら、それでも信仰は滅ぼされないし、教会は滅ぼされないで、この2000年の間、地上に生きてきた」そのことを聖書は語っていると言って良いと思います。ですから、私たちも落ち着いて望みを持ち続けたいのです。
 私たち一人一人を見れば、本当に弱々しく頼りない者でしかありません。そういう者でありながら、毒麦の誘いにふわふわと乗ってしまって、つい自分自身が高慢な者になって、「自分の考えでなければ、教会はできないのだ。全く周囲はなっていない」と高ぶってしまうこともある、そういう弱さも持っています。危うさを抱えている枝ですが、しかし私たちは主イエスの御言葉に励まされながら、落ち着いて、きっと最後は神が全てを良く完成してくださるのだという期待と希望とを持ち続けて、それぞれの生活を歩んでいきたいのです。
 私たちの教会は、この世界の中で本当に小さい一粒の種にすぎないかもしれません。しかしここには、キリストの力が満たされているのです。私たちは、神が与えてくださる命の力に慰められ、勇気づけられ、そして与えられているそれぞれの今日の生活に向かって押し出され、豊かなものを形作るためにこの地上に愛を持ち運ぶ使命を与えられています。この地上に、主イエスご自身が私たちの間にあって働き、生きてくださって、私たちを強めてくださるのです。
 ですから、「心配することなく、刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われるのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにする」、それは私たちの教会生活に引きつけて言うならば、私たちが互いをへりくだって受け入れ、また自分も受け入れていただいている者として、教会で御言葉に聴きながら生活を続けていくということになるのではないでしょうか。
 先週の説教でも申しましたが、私たちが終わりの日の完成を待ち望んで、お互いに受け入れあって歩んでいく、それは決して永久にそうでなくてはならないということではありません。刈り入れの日は、いずれ必ず訪れます。神が私たちの上に天使を遣わして、全てのものを刈り取って仕分けしていかれます。しかしそれは、今この時がそれだというのではないのです。そして、だからこそ「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃるのです。

 私たちは今、主イエスによる十字架の赦しのもとに置かれているのだという福音を聞かされています。「あなたは十字架によって罪を贖われ、許されて、新しい命を生かされている。そういう者として、この地上の日々を過ごして行って良いのだ」と聞かされています。十字架の赦しと、神の深い憐れみと慈しみをいただいて、それを伝える良い種の枝としての生活に励む者とされたいと願うのです。
 御言葉を聞き分けて、十字架の赦しによって救われた者として、その恵みを持ち運ぶ器とされたいと願うのです。

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