聖書のみことば
2017年10月
10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月8日主日礼拝音声

 五千人の給食
2017年10月第2主日礼拝 2017年10月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第14章13節〜21節

14章<13節>イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。<14節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。<15節>夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」<16節>イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」<17節>弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」<18節>イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、<19節>群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。<20節>すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。<21節>食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 ただ今、マタイによる福音書14章13節から21節までをご一緒にお聞きしました。13節に「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」とあります。「イエスはこれを聞くと」と始まっています。主イエスがお聞きになったのは「洗礼者ヨハネが首を斬られた」という知らせです。領主ヘロデによって、ヨハネは無残な最期を遂げてしまいました。
 直前の12節には「それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した」とあります。先生であるヨハネが亡くなったことを知ると、ヨハネの弟子たちは、すぐさまヘロデのもとに行き、ヨハネの遺体を引き渡してもらい埋葬しました。葬りが終わった後、弟子たちは先生であるヨハネを失ってしまったのですから、そのことを主イエスに報告しました。「イエスのところに行って報告した」とありますので、私たちは、弟子たちが主イエスに出来事を報告して、その後はどこかに去って行ったのだろうと思ってしまいますが、先生を失った弟子たちにとっては、もはや帰る宛はありません。原文でここを読みますと、「主イエスの元に身を寄せたヨハネの弟子たちが、自分たちの身の上を語った」と書かれています。このことが今日の箇所の始まりに語られていることです。
 ヨハネの弟子たちにしてみれば、斬り殺されてしまった先生の亡骸を、とにかく葬らなければならないと思って埋葬までは済ませるのです。けれども、その後、自分たちの身の振り方について、すっかり途方に暮れてしまいます。それで、主イエスの元を訪ねるのです。そして「先生であるヨハネは斬首されて、もはやいません。残念で仕方ないけれど、私たちの手で葬った以上は、先生の死を否定することはできません」と、主イエスに切々と訴えたのです。
 そういう訴えを聞いて、主イエスはどうなさったでしょうか。文字通り、飼い主を失った羊たちが主イエスの元にやって来ています。すっかり弱り、憔悴し、打ちひしがれている、そういう人たちが主イエスを頼っています。主イエスは彼らを深く憐れんで、慈しんで、ご自身の弟子たちの群れの中に迎え入れられます。そして、「今いるこの場所は、果たしてこの弟子たちにとって良い場所だろか。考えてみると、相応しい場所とは言えない」とお考えになるのです。先生であるヨハネを殺されてしまった弟子たちにとって、領主ヘロデが治めているガリラヤ地方は、そこにいる限り、不安と恐怖を感じざるを得ない場所です。彼らはヘロデの権力の及ばない場所に身を移さなければならない。そういうわけで、主イエスは今日の箇所で、舟に乗って、ガリラヤの地を離れて湖の対岸のヘロデの領土外に移って行こうとなさるのです。

 13節の言葉は、聞きようによっては、ヨハネの死を知った主イエスが臆病風に吹かれて、弟子たちも捨てて、自分一人だけで逃げ出したとも聞こえる言葉です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とあります。「ひとり退いた」とありますから、まるっきり一人で出て行かれたように読めてしまいます。しかしこれは、実際には、主イエスが一人で逃げ出したということを言っているのではありません。先生を失って激しく傷つき怯えているヨハネの弟子たちをも含めて、主イエスご自身の弟子たちを引き連れて、「自分たちだけで」人里離れた寂しい場所に退いたのだということを言い表しています。
 新共同訳ですと、少し訳として良くありません。他の聖書ではどう訳されているかを調べましたら、口語訳聖書でも「自分ひとりで行かれた」と訳されています。なお古い文語訳聖書では「イエス此れを聞きて、人を避け、其処より舟に乗りて去り、寂しき所に行き給いし」とあります。文語訳では、原文に少し近いニュアンスになっていて、新共同訳や口語訳と違って、「ひとり」と言いません。「人を避けて、そこを去られた」とありますから、訳とすれば明らかにこの方が文脈に即しています。
 今日の話の筋を追ってみますと、この後、大勢の群衆が主イエスの後を追って来て、夕暮れになった時、弟子たちが群衆の空腹を心配していますし、また主イエスは弟子たちにパンと魚を配らせておられます。主イエスがお一人で行かれたのであれば、ここに弟子たちがいるはずはないのです。ですから、「ひとりで」という言葉は、「自分たちだけで」と読むのが良いでしょう。
 主イエスが「人を避けようとなさった」のは、弟子たちからも離れようとなさったということではなく、むしろ弟子たちを思いやって、深く傷つき不安を抱えているヨハネの弟子たちの様子をご覧になって、大勢の人がいる雑踏からは離れた方が良いと考えられたからです。静かな場所で、もう一度、「私たちは神の保護のもとにいるのだ」ということを教えようとなさったのです。ヨハネの弟子たちをも抱え込みつつ、そのような意図を持って主イエスが舟に乗ってガリラヤの地を離れられた、そこで起こった出来事が今日の箇所と、次の箇所に記されている奇跡の出来事でした。

 今日の箇所は「五千人の給食」の話、そして次の箇所は「主イエスが湖の上を歩き、弟子たちのもとに来られる」という奇跡の話です。この2つの奇跡の出来事を経験して、弟子たちがどのように変えられていったのかということが先を読みますと分かります。14章33節に「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。これが、主イエスが弟子たちを決定的に力づけられた結果なのです。
 主イエスは弟子たちを驚かせたり、また、自分を崇めさせようとして奇跡をなさったのではありません。今日の始まりのところには、先生であるヨハネを殺されて、すっかり憔悴している弟子たちがいました。主イエスは彼らがそのままの状態で放って置かれないように心を砕いて、何とかして「あなたたちは神の保護の元にあるのだ」と気づかせようとなさっているのです。ヨハネの弟子たちの状況は、大変辛く苦しく厳しい現実ですが、私たちであっても想像することができるのではないでしょうか。「師と仰ぐ先生が殺されて取り去られてしまった。もうあの懐かしい声を聞くことができない」、そういう弟子たちの不安や寂しさを理解できると思います。主イエスは、そういう弟子たちに寄り添って、「あなたたちは確かに、神によって養われているんだよ」と示してくださるのです。
 とても食べ物が足りないと思う状況にあって、間違いなく皆が食べて満腹したという経験、あるいは、大嵐に遭遇してこの小舟では乗り越えられそうにないと右往左往し、恐れや不安を感じる、そういう中で、主イエスが湖上を歩いて弟子たちの元にやってきてくださったという経験を通して、弟子たちは学んでいくのです。たとえ、この世の経験としては厳しい思いをするかもしれないけれども、どうすることもできないと思うかもしれないけれども、しかしそこにも「主イエスが共にいてくださる。来てくださる」という確信を受け取ったので、弟子たちは、主イエスから命じられたからでも求められたからでもなく、「本当に、あなたは神の子です」と言ったのです。このように、2つの奇跡の出来事を通して、弟子たちは変えられていきました。

 主イエスは弟子たちを気遣いながら、ガリラヤを離れて対岸へ向かわれました。ところが、実際に向こう岸に着いてみると、そこは主イエスの予定外の状況になっていたと語られています。主イエスは、人里離れた場所に弟子たちを導こうとなさいました。人との関わりを絶ったところで弟子たちを落ち着かせ、休ませてあげようなさったのです。しかし、主イエスと弟子たちが舟に乗って出かけるのを見ると、大勢の群衆たちが徒歩で岸辺づたいに主イエスを追いかけ、先回りして待ち構えていたのです。このことが、今日の出来事を理解する上では大変大切なことです。主イエスが岸辺に着いた時、そこには既に、主イエスを必要とする大勢の人たちが待っていました。14節に「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。岸辺に着くと、「主イエスは大勢の群衆をご覧になった、そして憐れみを覚えられた」と語られています。それは、この群衆たちもヨハネの弟子たちと似ているからです。飼い主のいない羊のように、世話をし導いてくれる人がいないまま、放置されているのです。そのために彼らはすっかり疲れ果て、憔悴しきって魂が飢え渇いている。そして、そうであるからこそ、群衆は主イエスにしつこく付きまとって来るのです。主イエスによって癒されたい、心の支えを得て元気を取り戻したいと思って、懸命に付いて来るのです。
 主イエスにはそれが分かりますから、舟から降り、群衆を放ってはおけないとお感じになります。ヨハネの弟子たちを自分の弟子の群れに迎え入れたのと同じです。主イエスは弟子たちと休息を取るために舟に乗られたのですが、実際に岸辺に着くと、休むどころか、すぐさま病む人を癒されたと語られています。主イエスは休息など忘れて、猛然と働かれました。

 しばしば「隣人愛に生きるように」と言われます。そうすることが正しいことだと思って、愛の業に励むという方も大勢います。けれども、今日の記事を読んでいますと、主イエスの場合にはそういうこととは違っているということに気づかされます。主イエスの場合には、隣人愛が大切なのでそれに従って行動するという理屈が先にあるのではありません。そうではなく、主イエスの場合には、実際に目の前に助けを必要としている人が現れるのです。そうであれば、そのことのために自分を懸命に用いるということをなさっているだけです。「隣の人を愛しましょう」と教えられたのでそうするという、そういうあり方ではありません。ここには主イエスが「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。主イエスの行動にはいつも、「深く憐れむ」という原理が働いています。隣人愛が大事、正しくあることが大事というような自分の生活信条のようなものではなく、主イエスは出会う人々に憐れみを覚えてしまう、心を寄せてしまうので、その人たちのために手を尽くされるのです。
 主イエスから見れば、人間は神に造られた時のようにいつも健やかで汚れない清らかなものでなくてはならないという思いがおありです。ですから、そうでない事情が見受けられるなら、主イエスは、その人が本来あるべきあり方に立ち戻れるようにと、自ら仕えてくださるのです。私たちの破れ、痛み、疲れをご覧になって、本来の姿に回復しようとしてくださる、つまり救おうとしてくださるのです。主イエスにとっての憐れみとは、そういうものです。「主イエスが憐れまれた」ということは、そこに「救いの御業が現れようとする」兆しだと言って良いのです。でそしてそのことが、この後に続いて起こる出来事からも、大変はっきりと示されてくるのです。

 15節から17節に「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません』」とあります。主イエスが深く憐れんで、人々に教えたり癒したりなさっている間に、時間は過ぎあっという間に夕暮れになりました。主イエスは人々に仕えておられるのですけれども、結果として人々を引き止めてしまっているために、人々は大変な困難に遭うということにもなって行くのです。つまり、人里離れていて食料を調達できない場所に引き止められてしまったのです。日が傾いてきましたから弟子たちは気が気でなく、ついに主イエスに「ここは人里離れた所で、もう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と進言します。すると、主イエスは弟子たちの進言に従うどころか、むしろ逆に「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と弟子たちにお命じになりました。「とんでもないことを主イエスはおっしゃる」と、弟子たちは驚いたことでしょう。とにかく、弟子たちは自分たちの手元に持っているものを確認しました。持っていたのは「パン五つと魚二匹」でした。
 目の前にいる群衆は、男性だけで5,000人だったと言われていますから、女性や子供を含めるともっと大勢です。弟子たちが持っている食料は、一体いかほどのものか。弟子たちは主イエスに「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。「パン五つと魚二匹しか」と言っています。弟子たちは確かに、まるっきり何も持っていないわけではありません。丹念に探した結果、「パン五つと魚二匹」がありました。それはそうですが、目の前にいるおびただしい群衆の数に弟子たちはすっかり圧倒されてしまっているのです。自分たちの手持ちの食料と、目の前の群衆の数を自分なりに天秤にかけて答えを出します。「これっぽっちの食料では、とてもこの大勢の群衆を養えるはずがない」と思って、つい口をついて出た言葉が「しか」という言葉です。この時の弟子たちの気持ちを、私たちは理解できると思います。私たちであっても、この状況では同じことを言うのではないでしょうか。

 けれども、弟子たちは目の前の大群衆に圧倒されてしまって、実は、最も大切なことを見忘れてしまっているのではないでしょうか。つまり、「主イエスが自分たちの只中に共にいてくださる」ということを、弟子たちは忘れているのです。「主イエスが自分たちの間におられることは、よく分かっている。でも、主イエスがいても、こんな場合に何の役に立つのか」と思われる方もいるかもしれません。しかし、弟子たちの間におられる主イエスとは、どういうお方でしょうか。ご自身に力があって大勢の人でも養えるから「どうぞいらっしゃい」とおっしゃる、そういう方ではないのです。そうではなく、目の前に助けを必要としている人がいるならば、その相手のために精一杯自分を用いようとしてくださる、それが主イエスです。ヨハネの弟子たちを迎えた時、ご自分に弟子を抱える余裕があるから弟子に加えてくださったということではありません。あるいは、群衆の数を見て、ご自分の能力からして、このくらいであれば何とかなる人数だから来ても良いとおっしゃったのではありません。主イエスは、ただ、目の前に「救いを必要としている人たちがいる」ことをご覧になって、そうであるならば、この人たちに仕えなければならないと思っておられるのです。途方に暮れてどうして良いか分からなくなっている人に出会うと、決して放ってはおかれません。その人のために手を尽くしてくださるのです。
 ところが、そういう主イエスが自分たちと共にいてくださるのだという頼もしさを、弟子たちは分かっていないのです。「今持っているものだけで、この群衆を養おうとするならば大変なことになってしまう。でも、主イエスがいてくだされば何とかなる」と、弟子たちには思えないので、「パン五つと魚二匹しかない」、つまり「しか」とは「できない」と言っているのです。「こんなに少ない量のパンでは無理だ」と思っているのです。
 けれども、パンが人を救うのではありません。主イエスは、「人はパンによって生きるのではない」と言っておられます。人間の困窮を本当に憐れむことができる人、その相手のために仕えることができる人こそが、実は、困り果てている人を救うことができるのです。おびただしい物資さえあれば目の前の群衆を救えるということではありません。物資を必要とする人が大勢いて、物資がたくさんあっても、それだけでは救われないのです。この場所に救いを必要としている人がいるのだと確かに気づいて、どんな困難があっても物資を届ける、そういう働き人がいて、人間は本当に救われていきます。

 私たちが教会に集まるときに、「救いがここにある」ことを聞いています。もし「良い話を聞いた」と言って、それで終わってしまうならば、それは私たちにはあまり関わりない話です。私たちの周りには、私たちが聞かされているように救いを必要としている人たちが大勢いるのですが、その人たちのところに、私たちが実際にその救いを運んでいくのでなければ、人が救いに与るということは生まれてこないのです。「あの人も教会に来ればいいのに」と思っているだけでは、救いは生まれません。実際に主イエスの救いを伝えようとすると、反発を受けることもあります。そう考えると私たちは腰が引けてしまって、なかなか信仰の話を他者にしづらいということがあります。けれども、何も知らせないということが反発を受けるということよりも良いのかというと、そうとも言えないと思います。反発は無関心に勝るのです。たとえ、その人がその時反発したとしても、反感を持つとしても、それは実は、何も知らないこと、まったく関心を持たないことよりは、はるかに良いことなのです。

 主イエスは今日の箇所で、実は、すっかり尻込みして「自分たちの持っているものだけでは、この大群衆を養えない」と言っている弟子たちを、ご自分の御業の中に巻き込んで、「主イエスがこの群衆を養う」という出来事の中で弟子たちを用いようとなさっているのです。それが、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という主イエスのご命令です。
 旧約聖書の中に、今日の箇所と非常によく似た出来事がありました。預言者エリシャの時代に、イスラエルが激しい飢饉に見舞われ人々が困窮するということがありました。その時、エリシャのところに、ある人が大麦のパン20個を届けました。エリシャは召使いに「それを分けて人々に与えるように」と命じました。ところが、エリシャの召使いは大変戸惑いました。「どうしてこんな僅かなパンを100人の人に分け与えることができるでしょう」と言っています。とても無理だと思っているのです。ところがエリシャは、「問題なのはパンの数や分量ではない。今、助けを必要としている人がいるのなら、その人たちに、持っているもので出来る限りのことをしようとすることが大事である。あなたがたは、あなたがたに出来ることを精一杯果たしなさい。後のことは全て、神さまが配慮してくださる」と答えました。そして、この箇所の結びを読みますと、列王記下4章43節44節に「召し使いは、『どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう』と答えた。エリシャは再び命じた。『人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。「彼らは食べきれずに残す。」』召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した」とあります。この召使いはパンを配りもしないで「行き渡るはずがない」と言っていますが、エリシャはそれに対して「とにかくやってみなさい」と命じています。神が「彼らは食べきれずに残す」とおっしゃっているのですから、その通りになるのです。

 今日のマタイによる福音書の箇所でも、18節から20節に「イエスは、『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」とあります。この時の様子は、大変自然に語られています。主イエスが「五つのパンと二匹の魚がある」ことをお聞きになると、それを持って来させ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られます。つまり、今自分たちに与えられている「五つのパンと二匹の魚」が神からの贈り物であると感謝し、それを裂いて弟子たちにお渡しになるのです。弟子たちは、そのパンを同じように人々に裂いて配ります。
 ですから、この話は、魔法のような話なのではありません。一人でにパンがどこからか湧いてきたという話ではありません。そうではなく、パンを一回一回、「これは神からいただいているものだ」と感謝し、そう確認しながら、人々に配っていきます。そして、そういうことが起こることを、その場にいた人の誰一人として驚いたとは書いてありません。理屈から言いますと「五つのパンと二匹の魚」で大勢の群衆が満腹するはずはないだろうと私たちは思いますから、パンの奇跡とか、魚の奇跡と言いますが、しかし、ここにいた人たちが「驚いた」とか、「驚き怪しんだ」とか、そういう言葉は出てきません。主イエスの奇跡の物語には、時々そういう言葉が出てきますが、ここはそうではないのです。何もかもが自然に行われたように書いてあります。
 パンの奇跡と言いますが、これは分量が増えたという奇跡ではないのです。数的な奇跡ではなく、ここに起こっている奇跡は、「真の憐れみの主が現れていて、私たちと共にいてくださる」という奇跡です。主イエスが、人々の困窮状態を本当に深く憐れんでくださる、その憐れみの姿勢をもって仕えてくださる、それが奇跡なのです。「これは神が与えてくださっている今日の生活である。神がここに今日の命を生かしてくださっている」と、一つ一つ感謝し確認しながら主イエスが仕えてくださる、そうすると、一見出口が無いように思われたところに道が開かれていって困難が解決されていった、そういう奇跡が起こっているのです。
 ですから、ある聖書注解者は今日の箇所を「最初、群衆を困難に立ち入らせたように思えた主イエスの失敗。それは失敗に思えたけれど、不思議なことに、それが主イエスの無限の力を証しする機会になった。主イエスは、信じて従う人たちにとって、精神や心の中だけではなく、身体的・物質的な面においても偉大な助け主であるということが証明された。そういう助け主の姿こそ、今日の記事で最も深く印象付けられることなのだ」と語っています。その通りだろうと思います。ここで主イエスがなさったことは、主イエスが祈って何か呪文を唱えたらパンの数が増えた、そういう奇跡をなさったという話ではありません。そうではなく、ここに与えられているこのパン、今日私たちが生かされていくこの食事、あるいは、今日わたしに与えられている健康、それは誰からいただいているものかということです。私たちは日々に衰えるかもしれないし貧しさを抱え困窮状態にあることを考えると暗澹たる気持ちに捕らわれることがあるかもしれませんが、しかし「あなたは今日、ここで生きていてよい。あなたの命は、今ここにあるのだよ」と言われているのです。
 ここで主イエスは、天を仰いで賛美の祈りを祈りながらパンを分けておられます。そうして分けたものを「あなたがたが人々に持ち運んでいくのだよ」と弟子たちに教えておられる、このことを私たちは決して聞き漏らしてはならないのです。私たちは、神から今日の命をいただいて、ここで生きる者とされています。そして、本当に隣人を深く憐れんでその人のために仕えようとしてくださる主イエス・キリストが、「わたしの主」として、私たちと共に歩んでくださっているのです。
 
 主イエスは私たちに、手ずからパンを手渡してくださいます。「あなたはこれを食べて良い」、そして「これをあなたの隣の人にも持ち運んで行きなさい」とおっしゃっているのです。

 今日の記事の始まりには、先生であるヨハネを失って目当てを失った弟子たちが途方に暮れて主イエスのもとにやって来て、主イエスが、そういう弟子たちを「わたしの群れの中に加わって良い」と招き入れてくださったという出来事がありました。主イエスは、ヨハネの弟子たちに向かって特別に同情したり優しい言葉をかけておられるわけではありません。ただ弟子たちを招いて、そこで憐れみの主としての働きを精一杯なさっておられるのです。その中で弟子たちが、「私たちは今、生かされている。ここでなお生きることができる」ことを知り、力を与えられて歩んでいく、そういう営みが行われているのです。

 弟子たちは最初、「私たちが持っている物はあまりにも乏しい。働きに対してできることは僅かだし、わたしには何もできない」と思って、初めから諦めていました。けれども主イエスは、「あなたが持っているもの、あなたが与えられているものをここに出してみなさい」とおっしゃるのです。「あなたが持っているものは僅かだと思えるかもしれない。しかしそれは確かにあなたが持っているもので、あなたが隣人に与えることができるものだ」と言われ、そして天を仰いで感謝し、賛美の祈りを捧げ、「これをもってあなたが生き、これをもって隣人に仕えなさい」と言って、手渡してくださるのです。主イエスによって祝福された、その賜物をもって、弟子たちが群衆の中に分け入って、ついには、そこにいた群衆も満腹になるということが起こっていくのです。

 今日の記事を通して、私たちは、自分自身が置かれている状況というものを考えさせられるのではないでしょうか。主イエスは弟子たちの上にも、また群衆の上にも深い憐れみの眼差しを向けてくださいます。そして、実は私たちも、その中にいるのです。私たちはまさに、主イエスから憐れみの眼差しを向けられ、与えられているものをもう一度確かにしていただき、「それをもって生きていってよい」と言われている一人一人です。私たちは、主イエスにそのように覚えられた者として印をつけられ、主イエスの御業にお仕えするようにと招かれながら、同時に豊かな顧みの中に包まれて、今この時を生きる者とされているのです。
 行けども行けども荒涼とした地上をさまよって、すっかり疲れ果ててしまう、時にはそういう思いを私たちは持つかも知れません。けれども、そういう私たちを、今日、主イエスが慈愛の眼で見つめてくださっているのです。
 今日この出来事が起こったのは人里離れた寂しい所で、とても食料など手に入れられない場所だと言われていました。しかし、そこで主イエスが弟子たちに与えられているものを確かに確認してくださって、「あなたはここから歩んでいくことができる」とおっしゃってくださっています。

 私たちも、ここから、与えられているものをもう一度確かにされて、自分に与えられているものをもって、この世界に仕えることができる者とされたいと願うのです。主イエスが憐れみをもって私たちに臨み、またこの世界に臨んでいてくださる。その主イエスに仕える者として、私たちも自分自身を精一杯に用いる者とされたいと願います。
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