聖書のみことば
2017年10月
10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月29日主日礼拝音声

 永遠の命の至る食べ物のために働く
2017年10月第5主日礼拝 2017年10月29日 
 
石田真一郎牧師/東久留米教会(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第6章22節〜35節

<22節>その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。<23節>ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。<24節>群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。<25節>そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。<26節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。<27節>朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」<28節>そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、<29節>イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」<30節>そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。<31節>わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」<32節>すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。<33節>神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」<34節>そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、<35節>イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 この度は、日本基督教団伝道推進室の山梨キャラバンを、愛宕町教会において、山梨分区において受け入れてくださり、感謝申し上げます。また、この礼拝において御言葉を取り次がせていただく機会が与えられ感謝いたします。

 本日は、ヨハネによる福音書第6章の御言葉が与えられております。ご存知のように、明後日、10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革には3つの原理があると学びました。「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」です。「聖書のみ」とは、「御言葉のみ」ということですから、御言葉こそプロテスタント教会の命であると信じます。そして、その御言葉の大切さということが、今日の箇所に語られています。
 6章は大変長い箇所で、最初には、主イエスが男たち5千人に食べ物を与えて満腹させてくださったという奇跡の出来事が記されております。そして、それを見た人々が「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と、主イエスを「王」にするために連れて行こうとしたということが記されています。「主イエスという方を自分たちの王に据えてしまえば、もう食いっぱぐれることはない」と考えて、そういう意味での王として連れて行こうとしたのですが、しかし、主イエスはそれをお受け入れにはならず、一人で山に退かれました。
 そして、その主イエスを追いかけて来た人々がいたわけですが、その人々に主イエスは言われました。26節以下に「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである』」とあります。「朽ちる食べ物」はとても大切で、それを得るために私たち人間の努力の大半が向けられています。食べ物、それを得るためのお金も、地上にあっては必要です。そのことを理解してくださった上で、主イエスは、それでもなお「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と人々に教えられた、このことが大切なことだと思います。
 「永遠の命に至る食べ物」、それは「主イエス・キリストご自身」であり、また「神の御言葉・聖書の御言葉」と言って良いでしょう。「これこそ、人の子が(つまり主イエスが)あなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を(つまり主イエスを)認証されたからである(神の子と認めてくださったからである)」。これを聞いた人々が、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問いました。「何をしたら神に喜んでいただけるでしょうか。ああしたら良いでしょうか、こうしたら良いでしょうか」と人々は問いましたが、主イエスの答えは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。
 私たちは、神に喜んでいただくために、「あれもしたら良い、これもしたら良い」と思いますが、しかしここで主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること」、つまり「主イエスを信じること、それが神の業である。神に最も喜んでいただけることである」と言われました。父なる神が、私たち一人一人の罪を背負わせるために十字架にかけてくださって、父なる神もその辛さを忍んでくださいました。そのようにして私たちの罪が赦される道を父なる神が与えてくださっています。私たちの救いのために神が犠牲を払って、最愛の独り子主イエスを奪われました。それほどまでして私たちを救おうとしてくださった、その心づくしのプレゼントが主イエス・キリストご自身ですから、そのプレゼントを私たちが素直に受け取ることが、神が最も喜ばれることであると信じます。
 私たち日本人は、何かをしていただきますとお礼やお返しをしなければと心を砕きます。それも大切なことですが、時には、相手の心を素直に受けるということも先方に喜ばれることであると思います。そう考えますと、神が与えてくださった最大のプレゼントである十字架と復活の主イエス・キリストを、改めて感謝をもってお迎えすることこそが、父なる神が最も喜んでくださることだと思います。「神を信じること」、それもまた、神が与えてくださる尊いプレゼントなのです。

 30〜31節には「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです』」とあります。ご存知のように、旧約聖書の民は、40年間、マナによって養われました。それについて主イエスは、32〜33節で「すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである』」と、マナから話を進めて、「天からの真のパンが与えられる」という素晴らしい言葉を語ってくださいました。そこで人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言って、「主イエス・キリストこそが命のパンである」と教えてくださいました。
 この言葉を聞きますと、私はどうしても聖餐式を思います。今日の箇所の先になりますが、53節以下に「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる』」とあり、聖餐の本質を教えられる御言葉であると思います。
 「主イエス・キリストという命のパンを食べる者は永遠に生きる」、つまり「洗礼を受け、聖餐を受ける者は永遠に生きる」のです。

 旧約聖書に目を向けますと、イスラエルの民は40年間、マナによって、出エジプトからカナンの地に入るまで養われました。マナは、礼拝の日である土曜日には与えられず、6日目の金曜日に予め2日分与えられました。旧約の民にとっては、土曜日は礼拝に専念し、神の御言葉のパンをいただく一日ですから、その日にはマナを探しに行っても与えられないのです。7日目は、食べ物であるマナを探しには行かず、御言をいただく。御言葉の大切さが示されています。
 主イエスも、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて与えられる」と言われましたが、まず何よりも礼拝を第一とし、そこで命のパンである御言葉をいただくことを、私たちは旧約の民から教えられ、また私たちもこうして礼拝に集まり、心の糧をいただいて新しい一週を始めようとしております。
 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と主イエスが言われ、それを今日の説教題にもしましたが、まさに私たちは「永遠の命に至る食べ物のために働く」ために、神から呼び出されているのです。

 私が洗礼を受けましたのは、1988年10月23日、今年で29年ですが、初めてきちんと聖書を読んだのは、高校一年生の時でした。子供の頃から子どもの教会などに出てはいましたが、国際ギデオン協会が発行している聖書が配られて、自分で聖書を手に取って読んだのは、高校一年生の時が初めてでした。ギデオン協会の聖書をいただいて、私にとっては有り難かったのですが、「こういう時にはここを読みなさい」というガイドが記されていて、試練の時、行き詰まった時などに相応しい御言葉が紹介されていましたので、そこから読み始めて、少しずつ心の糧にしていったように思います。
 例えば、口語訳ですがピリピ人へ手紙4章6節「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」という言葉が示されていたので懸命に読み、暗記し、心の糧として、辛いことがあると乗り越える、そういう経験をしてきたことを思い起こします。神の御言葉、命のパンによって養われ、本格的に求道するようになりました。

 主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。人間の大半の努力は食べ物を得るために費やされるのですが、しかし、そのことの重要さを、主イエスはよくご存知の上で、なお、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働く」という使命を与えられるのです。「永遠の命に至る食べ物」、つまり「主イエス・キリスト」を宣べ伝える、「神の御言葉」を宣べ伝える、そのために働くようにと促され、励まされる御言葉です。
 聖書は全て神の御言葉ですが、例えば、モーセの十戒は、私たちが神に喜ばれる生き方とはどういう生き方かを教えますから、大変大切な、神のくださる「永遠の命に至る食べ物」です。
 また、御言葉によって私たちは、「神を愛する」ことが何よりも大事であるということ、また「隣人を愛する」ことも同じように大事であることを絶えず教えられます。更には、主イエスは「敵を愛しなさい」とまで言われましたから、「敵を愛すること」が神に喜ばれる道であることを、この御言葉から教えられます。もちろん、「敵を愛する」ことは殆ど不可能だと思いますが、しかし、主イエス・キリストがそれをなしてくださり、神に逆らい敵であった私たちのために、主イエス・キリストが十字架についてくださったのですから、主イエスの与えてくださる聖霊をいただいて、私どもも少しでもその主を思いつつ、励んでいくのです。

 聖書には、神の御言葉の大切さが随所に記されています。
 例えば、申命記8章には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。主イエス・キリストも、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられ、「その石をパンに変えたらどうだ」と言われた時に、そうなさることはできるのに、なさらず、「人はパンだけで生きるのではない」と言って、悪魔の誘惑を退けられ、神の御言葉こそが最も大切であることを、身をもって私たちに示してくださいました。
 旧約聖書、エゼキエル書3章には、「神の言葉を食べる」ということが勧められております。神がエゼキエルに言われた言葉ですが、大変印象的な言葉で、神の御言葉の大切さが表されております。1節から3節に「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」とあります。神の御言葉は「蜜のように甘かった」とあり、本当に御言葉が慕わしいものであることが、ここに経験されているのです。

 また、私が御言葉の大切さを思う時に読む言葉として、旧約聖書アモス書8章も思い起こします。11節12節に「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない」とあり、「御言葉の飢饉」ということが示されております。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き。御言葉が失われる飢饉」です。もちろん、食料としてのパンが失われる飢饉も大変なことですが、しかし、更なる危機は「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きである」ということに感銘を受けます。
 神が御言葉をくださるということは、本当に素晴らしい神からのプレゼントであり、それによって、私たちの心、生き方が導かれ、養われるのですから、主の御言葉を聞くことができなくなることは致命的なことであり、どう生きることが神に喜ばれることかということが全く分からなくなってしまうのであり、恐ろしいことなのです。
 「主の御言葉を奪う」ということが、神の最大の裁きであるとさえ言えるのかもしれません。
 神の御言葉である聖書をこうして読むことができるということが、神からの大いなるプレゼント、大いなる恵みであるということを、ここを読みますと、改めて深く教えられる気持ちがいたします。多くの人の努力によって、聖書が日本語に翻訳され、それを手に取ることができるということは、本当に恵み深いことです。宗教改革の3つの原理の一つが「聖書のみ」ですから、「御言葉のみ」と信じて生きていきたいと思うのです。

 与えられた機会ですので、御言葉の大切さについて、もう一箇所ご紹介したいと思います。エレミヤ書36章です。ここにもまた、神の言葉の大切さが示される出来事が記されております。これは愚かにも、神の言葉を人が捨ててしまったという罪深い場面です。ユダの王ヨヤキムという人のことですが、22節から26節に「王は宮殿の冬の家にいた。時は九月で暖炉の火は王の前で赤々と燃えていた。ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった。かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエルの子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえようとした。しかし、主は二人を隠された」とあります。これは本当に罪深い場面で、「神の言葉の記された巻物を全て燃やしてしまった」という出来事でした。
 私たちは、聖書を燃やしたりはしませんけれど、神の言葉をいつも素直に聞き入れてきたかと言いますと、自分を省みて不十分であると思いますし、神の言葉を素通りさせてしまうということはありますので、この箇所を読みますと、ヨヤキム王は罪深いのですが、「自分とてあまり変わらないかもしれない、気をつけなければならない」と思わされます。

 3年ほど前に購入した本に、「小さな抵抗」という歌集があります。これは、「殺戮を拒んだ日本兵」という副題がついていますが、渡部良三という無教会派の方の本で、大変感銘を受けました。私は戦争を体験しない世代ですが、渡部さんは山形県生まれ、若い兵士として中国に送られ、上官から無茶な命令、捕虜を銃剣で突けという命令を下されました。その場面で、この人の信仰が働きます。他の人は逆らえずに次々と突きますが、その中で渡部さんは、懸命に祈ります。けれども思い直し、「祈ることは大事であるが、今は祈ることさえ必要ではない。聖書の言葉によれば、『殺してはならない』と、はっきり、モーセの十戒にあることを、子供の頃から教えられてきた。『殺してはならない』と言われているのだから、ここで『神さま、どうしましょうか』と祈らなくても、もう分かっている。そうであれば、そうするしかない」と思い定めて、「わたしはできません」と上官に言ったそうです。幸い生還され、その後、そのことを話すことはなかったそうですが、言い遺すつもりで書かれた本が、この歌集として出版されました。
 「祈れども 踏みべき道はただ一つ 殺さぬことと 心決めたり」、「殺すなかれ その御教えを しかと踏み 御旨によらむ 惑うことなく」、「鳴りどよむ 大いなる者の声きこゆ 虐殺拒め 命をかけよ」
 子供の頃から聖書の言葉を教えられ、成長してこられた方であるからこそ、できたことだと感銘を受けます。このようなあり方をしたために、もちろん、上官からはいじめられ、リンチを受け、それにひたすら耐えるという経験をされるのですが、それもまた、聖書の言葉によって忍耐したということが証しされております。忍耐を要する時に必死に唱えた言葉は、ローマの信徒への手紙5章3節以下、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」という御言葉であり、自分は何とかその御言葉に従えたかもしれないけれど、それを他の人にもさせることはできなかったので、情けない思いもあったことなどが記されており、大変に貴重な記録であると同時に、御言葉に従うその信仰に励まされました。

 今日の説教題は「永遠の命に至る食べ物のために働く」としました。主イエス・キリストを宣べ伝えるために働き、神の御言葉を伝えるために働く、そのことがキリスト者に使命として与えられていることを思います。イエス・キリストというパンを食し、神の御言葉を読み蓄えて、そして、御言葉のために奉仕させていただくのです。神の御力によって、共々に奉仕させていただく者でありたいと願います。

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