聖書のみことば
2017年10月
10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

10月22日主日礼拝音声

 信頼しつつ、歩み
2017年10月第4主日礼拝 2017年10月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第14章22節〜36節

14章<22節>それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。<23節>群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。<24節>ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。<25節>夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。<26節>弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。<27節>イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」<28節>すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」<29節>イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。<30節>しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。<31節>イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。<32節>そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。<33節>舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。<34節>こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。<35節>土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、<36節>その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 ただ今、マタイによる福音書14章22節から36節までをご一緒にお聞きしました。福音書全体について言えることですが、ここに述べられていることは、元はと言えば、聖書が読まれた当時の人たちに向けて書かれた言葉です。ですから、およそ2000年前に暮らしていた人たちに向かって書かれた言葉だということです。その時代の人たちに向かって、「ナザレのイエスというお方こそが、本当の主であり救い主である」ということを告げ知らせているのが新約聖書です。2000年前の人たちに向かって語られていますから、当時の人々の間でごく普通に語ったり聞いたりしていた、そういう表現が使われています。当時の言い方によって、主イエスを救い主であると宣べ伝えている、それが福音書です。

 ところが、福音書の中の当時の言い方には、今日の私たちは戸惑いを覚えるような言い方も多く出てくるのです。例えば2000年前には、様々な誇張した言い方や奇跡の話があちらこちらで言い伝えられていました。ですから、当時の人たちは、形にあまり惑わされることなく、そこに語られている内容をよく理解することができました。ところが、今の時代の私たちはそういう事柄に慣れていないために、聖書に語られているいくつかの話や言葉については、その形に気を取られてしまって、肝心の内容を受け取ることができなくなってしまう場合があります。ですから私たちは、今の時代の物の考え方に置き換えながら、聖書の語っていることを受け取るという作業をしなければならない場合があるのです。

 今日ご一緒に聞いた箇所で言えば、まず、弟子たちが無理やり舟に乗せられて湖の向こう岸に先に渡るようにと、主イエスから申し渡されています。主イエスご自身は弟子たちと一緒に舟に乗り込まれないで、一人、後にお残りになるのです。弟子たちは、主イエスを残したまま、自分たちだけで舟を漕いでガリラヤ湖の真ん中あたりまで行くのですが、そこで逆風が吹き始めて、なかなか舟を先に進めることができなくなって困ってしまいます。ところが、その弟子たちのところに「主イエスが湖の上を歩いて行かれた」と語られています。24節25節には「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」とあります。
 「水の上」というのは、本来人間が歩ける場所ではありませんから、私たちはここを読みますと、どうも腑に落ちないという気持ちになるのです。しかしそれは、弟子たちも同じで、弟子たちはこれを見てショックを受けたと書かれています。26節に「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」とあります。ところが、このように驚き、叫び声をあげている弟子たちに、主イエスが声をかけてくださるのです。27節「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」。怖がって叫び声をあげている弟子たちに、主イエスが声をかけてくださって、落ち着かせてくださいます。すると、その声に励まされて、ペトロが答えるのが28節です。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』」。それで、主イエスが「来なさい」とおっしゃったので、ペトロは舟を降り、湖の上を歩いて主イエスの方に近づいて行きます。ところが、主イエスにだけ信頼して歩いている時には良かったのですが、途中でふと、風が激しいということに気を取られる、するとペトロの体はたちまち沈んで溺れそうになったので、「助けを求めて叫んだ」とあります。29節30節「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」。ペトロが助けを求めて叫ぶと、主イエスがすぐに手を伸ばし、ペトロを捕まえて、31節「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われ」ました。そして、主イエスとペトロが舟に戻ると、すぐに嵐が静まったと続いて行きます。32節33節に「そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。
 今日の箇所をなぞるように申し上げましたが、改めて言うまでもなく、これはやはり、今日の私たちからすれば異様なことが言われていると思わざるを得ないと思います。噛み砕いて少し丁寧に読んでみれば分かるかと言えば、すぐには分からず戸惑ってしまうような、そういう箇所です。

 では、他の福音書では、この出来事はどう語られているでしょうか。ルカによる福音書には、この話は出て来ません。おそらくルカは、この話を自分の身近なこととして知らなかったのだろうと思います。
 マルコ福音書とヨハネ福音書には、「主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのもとに行かれた」という話は出てきます。ところが、「ペトロが舟から降りて、水の上を歩いて主イエスの方に向かって行った」という話は出てきません。ペトロの話は、今日のこのマタイ福音書にだけ出てくるのです。マルコやヨハネが知っていた元々の主イエスの話、つまり舟まで主イエスが湖の上を歩いて行かれたという話が先にあって、その話の中に、マタイはペトロの話を挟み込んだのだと思います。それがこの出来事についてのマタイによる福音書の特徴ですが、他にも特徴があるかどうかと読み比べてみますと、3つの福音書は皆それぞれに特徴を持っていることが分かります。
 例えば、マルコによる福音書には、主イエスが湖の上を歩いて来られたので「弟子たちが大変驚いた」と書いてあり、それは弟子たちが無理解だったからなので、最後は「弟子たちの心が鈍くなっていたからだ」と結ばれています。マタイによる福音書では「本当にあなたは神の子です」と言って、弟子たちは主イエスを拝んでいますから、随分と終わり方が違っています。ヨハネによる福音書では、マルコのように弟子の無理解ということは何も言われません。けれども、主イエスが舟に乗り込まれたらすぐに舟は目的地に着いたのだと書かれており、これもマルコやマタイにはない言い方です。
 このように、3つの福音書が違った個性、特徴を持ってこの話を伝えているということから分かることは、もともと同じ出来事を語っていたはずですが、4つの福音書を書き記した著者たちが、それぞれの状況の中で意識的に話を書き換えているということです。聞き手としての教会の群れがあり、それぞれの群れに福音書記者は語っているのですが、自分たちの責任において、その教会に伝えるべきこととして伝えていったことによる違いがあるということです。
 この点に気づくことは大変大切なことです。どうしてかと言うと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書がありますが、ここに語られていることは、単なる歴史的な出来事を新聞が伝えるように伝えているのではないということが分かるからです。福音書は、「主イエスが湖の上を歩いた」という同じ出来事を伝えながら、「主イエスとはどういうお方なのか」ということを、福音書記者が銘々の責任において語り伝えようとしている、そういう言葉なのです。別の言い方をすれば、福音書とは、誰が書いても同じことを言っているという言葉ではないということです。マタイによる福音書には、マタイが伝えようとした主イエスについてのはっきりした福音理解が現れているのです。そのことを踏まえて、では、このマタイによる福音書が何を言おうとしているのか、この福音書を通してどのような福音が語られているのかということについて、少し踏み込んで考えてみたいと思います。

 先ほども言いましたように、この福音書の一番の特徴は、ただ「主イエスが湖の上を歩いて舟の方へ来られた」ということではなく、この出来事に応えるように、「ペトロが、距離は短いながらも水の上を歩いて主イエスの方に向かって行った」という出来事が挟まれていることです。私たちからしますと、どうしても、主イエスやペトロが水の上を歩いているという不思議さの方に心が惹かれます。「本当にそういうことがあったのだろうか」と、ついそのことばかりに気が取られて、「もしかしたら人間は、いやこのわたしでも水の上を歩けるのだろうか」とまで考えてしまうかもしれません。けれども、これは古い時代の書き方なのです。聖書に限らず、古い時代の伝説や宗教的な本を読んでいますと、これに似たような話はたくさんあります。ですから、ペトロが水の上を歩いたということが特にキリスト教的な話として、ここに語られているわけではないのです。キリスト教以外にも、水の上を歩く人の話は、世界中至る所に伝えられていると言って良いのです。
 しかしそれでは、水の上を歩く人の話であっても、この福音書に特徴的な点は何かと言いますと、3つほどのことを挙げることができます。
 一つは、弟子たちが主イエスのことを「本当にあなたは神の子です」と言って拝むほどの驚きようです。弟子たちはここで、主イエスに向かって「まるで神ご自身に出会ったかのように驚いている」、これが一つの特徴です。
 二つ目は、ここで主イエスが弟子たちにかけている言葉です。弟子たちは最初、主イエスを幽霊だと思って怯えるのですが、その時、主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。この言葉は昔から、神がご自身を示す時におっしゃる言葉です。聖書で一番最初に出てくるのは出エジプト記ですが、神とモーセが出会った時に、「あなたのことを同胞のイスラエル人に何と伝えたら良いでしょうか」と尋ねた際に、「わたしは在って在る者である」、英語で「I am」と言われましたが、その言葉と同じ言葉がここで使われています。「安心しなさい。わたしだ」というのは「I am」です。これは人間が言う言葉ではなく、神がおっしゃる言葉ですから、ここで主イエスはご自身を神と等しい方として語っておられると言うことが、非常にはっきりした特徴なのです。
 三つの目のことも他には類例がないのですが、弟子たちが主イエスに向かって「本当にあなたは神の子です」と言っている、この言葉です。この言葉も、他の伝承で語られる水の上を歩く話では語られない言葉です。
 従って、今日の話の中心は、誰かが水の上を歩いたという出来事にあるのではありません。そうではなく、主イエスがおられず弟子たちが怯えていたところに、主イエスが「安心しなさい。わたしだ」と言って、ご自身が神と等しい者として現れてくださっている、そしてそれを見た弟子たちが非常に驚いて「本当にあなたは神の子です」と言って拝んでいる、それがこの話の中心にあることです。そして、これが極めてキリスト教的なことなのです。他では決して語られないようなことが、ここに語られているのです。

 初代教会の時代、福音書が一番最初に書かれた時代、その時代は、考えて見ますと今の日本社会に少し似たところがあるかもしれません。1世紀の社会はどのようだったか。一方ではギリシャ哲学を始めとする進んだ学問的な知識があり理知的な装いをしているのですが、また一方ではギリシャ神話の神々がたくさんいる社会です。大方の人はギリシャ哲学的な理知的な装いをしながら、しかし自分好みの神を礼拝したり、気に入らなくなれば別の神に変えたりする、自分の思いに任せて、様々な神を選びながらフラフラと過ごしている、そういう世界です。今の日本も似たようなところがあると思います。宗教と聞くと古めかしいと思う人が大勢いますが、しかし、自分は無宗教だと言いながら大変宗教的というか囚われた生き方をしている人がいるように見受けられます。自分好みの神を神として拝んだり捨てたりしながら、気ままに暮らしている。いわゆる神々が世の中に溢れている。気づいていないだけで、私たちの社会も同じで、多くの人が自分好みのものに心を向けて、捕らえられて過ごしているようなところがあるのです。
 ところが、そういう中にあって「あのナザレのイエスこそが、本当の神の子なのだ」と言い表している、それが今日の箇所で語られている主イエスに対する弟子たちの姿です。そしてそれは、今の時代の中で、主イエスを礼拝し神を礼拝して、日曜日ごとに集まっている私たちとも共通なのです。
 弟子たちは、「聖書の神を通して自分に出会ってくださるこの方こそが本当の神さまなのだ。他にどんなにたくさんの神々がいても、本当に力ある、生きている神さまはここにしかいない」という信仰を、一つの奇跡物語の形を借りて言い表しています。そして、そのことを言い表すために、マタイはここで「水の上を歩いて主イエスの方に歩んで行くペトロ」という一つの伝説を差し挟んでいるのです。
 このペトロの話は伝説ですから、主イエスが水の上を歩かれたのと同じようにペトロも歩いたということを言っているのではありません。信仰さえあれば人間は水の上を歩けるというようなことを話しているのではないのです。ペトロが水の上を主イエスの方に歩いて行った、これはマタイの創作といっても良いような話です。けれども、このような創作の形をとって、マタイは、キリスト教信仰のとても大切な点を言い表そうとしています。ここに言われている重要な点は何でしょうか。
 実は、このペトロの話と非常によく似た話が仏教の説話の中にあります。ある晩、一人の仏弟子が仏陀のところに行こうと思い立ちます。何とか夜のうちに行き着きたいと思うのですが、あいにく仏陀がいるのは川の向こう岸です。あたりを探しても渡り舟がありません。それでこの仏弟子はどうしたかと言うと、仏陀を信頼して水の上を歩いて行ったというのです。まるでペトロの話に似ています。ですから、洋の東西を問わず、こういう話はあるのです。まるで固い地面を踏みしめるように、川の中ほどまでこの弟子は進んで行きます。ところが、仏陀を信頼する法悦の状態が解けて、ふと我に返ると、この弟子の体はズブズブと川の中に沈み始めました。それで、どうしたでしょうか。この弟子は、また改めて一生懸命仏陀に帰依して、その結果、その帰依の力によって川の向こう岸に渡ることができた、そういう仏教の説話なのです。
 話の作りはそっくりです。ただ、話を聞いてみて、明らかに違う点があることにお気づきだと思います。仏教の説話では、仏弟子はどうやって川を渡ることができたかと言うと、仏陀にどれだけ自分が帰依するか、仏陀にどれだけ自分が集中しているか、その集中力によって川を渡れたのだと教えています。ですから仏教の説話では、この弟子を支えたのは何かと言えば、この弟子自身の努力であり、帰依する力であると教えています。
 ところが、聖書の場合には、強調点が全く違っています。弟子たちが嵐にあった時、主イエスを思い出して自分たちの信仰によって落ち着いていられたと書いてあるのではありません。弟子たちはどうしようもなく取り乱しているけれど、それをご覧になった主イエスが、すぐに「恐れることはない。わたしだ。安心しなさい」と声をかけてくださって、落ち着かせてくださったのだと、まず言われています。そのように落ち着くことができたので、その上で、ペトロが自分も主イエスと同じように歩けるかと思って水の上を歩き出したのです。ところが、ペトロはすぐに風に気を取られて、湖の中に沈んでしまいそうになるのです。そこでペトロが気を取り直して、主イエスをもう一度信じて浮き上がることができたとは書いてありません。ペトロは沈んだままです。
 けれども、主イエスがそういうペトロに手を差し伸べてくださって、引き上げてくださる。そして、主イエスが確認しておられるのは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」ということでした。ペトロは自分の信心の力で浮き上がったのではありません。そうではなく、主イエスがペトロに手を差し伸べ、沈まないように守ってくださったのです。ここに言われていることは、「主イエスこそが私たちを救ってくださる方である。この方が御言葉をかけてくださることによって、私たちは支えられるのだ」ということです。

 主イエスの御言葉は私たちを支えてくださいます。けれども、それは耳障りの良い言葉だけとは限りません。ここで言われているように「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と明からさまにペトロの弱さを指摘するような言葉でもあります。けれども、そういう主イエスが私たちを真実に支えてくださるお方なのだと、ここに教えられているのです。
 たとえ、深い落とし穴にはまって底なしの深みに沈んで行きそうな時にも、私たちが八方ふさがりの状況になって自分ではどうにもならないと思う時にも、自分の弱さ脆さをしみじみと思う時にも、「主イエスがあなたを捕らえ、救ってくださる」と、聖書は告げています。主イエスに依り頼む時、助けを求める時にこそ、今日の聖書の表現を借りるならば、「水の上を歩いて行くことができる。死の大波を超えて、なお先へ先へと歩んで行くことができる」と伝えています。
 この言葉を聞いて、私たちがどう受け取るのか。それは、人によって様々かもしれません。他人事のように聞いて、脇を素通りしてしまうかもしれません。けれども聖書は、繰り返し繰り返し、こういう言葉を語ってくれているのだということを知る者とされたいと思います。

 今日は、ペトロの話のその先の短い話も聞きました。主イエスと弟子たちが湖を渡った先のゲネサレトという土地に着いた時の話です。土地の人たちが、主イエスが来たと知って付近にくまなく触れ回った、そこで、本当に助けを必要としている人たちが主イエスの元に連れられて来るのです。そして、主イエスに助けを求めた人たちは、皆、癒されたことが語られています。
 これも実は、話とすれば、ペトロが溺れそうになった時に主イエスに引き上げていただいたことと同じことを言っているのです。
 私たちは病んでいる者かもしれない。溺れ死にそうになっている者かもしれない。けれども、「主イエスは、あなたを間違いなく水の中から引き上げ、病を癒し、生きることができるようにしてくださる方なのだ」ということを、マタイは繰り返し繰り返し、自分の教会の人たちに伝えなければならないと思って、このような話を書いたのです。世界中至る所にある伝説のような話ですが、そのような形を取って、しかし、「主イエスこそが、あなたを本当に支え生かしてくださる方なのだ」と伝えているのです。
 私たちは、それから長い時間を経て、言葉の装いからすると様々な違う形をした言葉が横行しているような社会の中に生きていますが、しかし、聖書が語っている通り、私たちを本当に支え助けてくれる主イエスの御言葉があるのだということを知らされて、今日を暮らしていることを覚えたいと思います。
 この御言葉に繰り返し与りながら、支えられている者として、私たちは、この地上を歩んで行く者とされたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ