聖書のみことば
2016年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

5月22日主日礼拝音声

 義のために迫害される者
2016年5月第4主日礼拝 2016年5月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章1節〜10節

5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。<4節>悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。<5節>柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。<6節>義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。<7節>憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。<8節>心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。<9節>平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。<10節>義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 ただ今、マタイによる福音書5章1節から10節までをご一緒にお聞きしました。10節に「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とあります。
 主イエスが譬えを通して様々なことを弟子たちに教えられる中に、すべての国の人たちが、羊と山羊とを分けるように選り分けられるのだと教えられた箇所があります。マタイによる福音書25章31節以下です。すべての国の人が、終わりの日に、右と左に選り分けられる。左側に分けられた人たちは永遠の滅びに入ってしまうけれども、右側に分けられた人たちは聖徒が受け継ぐように御国を受け継ぐのだと教えられています。
 この譬えで特に注目させられることは、左右に振り分けられる当事者たちの反応が実に意外であるということです。神の裁きによって左右に分けられる時、神の裁きが自分たちの予想と大分違っているということに、一様に驚いています。それは、呪われた者として左側に振り分けられた人たちだけではなく、祝福された者として右側に振り分けられた人たちも、自分たちがどうしてこのような身に余るほどの扱いを受けるだろうかと言って、驚きます。終わりの日の審判について、私たちは、誰が滅びに定められ、誰が救われて御国を受け継ぐのか、この地上では確かに分かるということではないようです。
 この羊と山羊の譬えに限らず、神の裁きということについて、主イエスが譬えで教えられる時には、いつもこのような驚きや戸惑いがあることに気づかされます。例えば、ルカによる福音書14章7節から11節のところには、自分では上座に着けると思っていた人たちが下座に座らされ、逆に自分は当然下座に座るべき人間だと思っていた人が、上座へと案内されるという話が出てきます。また、マタイによる福音書25章1節から23節に出てくる10人の乙女の譬えでは、自分は当然、結婚式の祝いの席に入れてもらえると思っていた愚かな5人の乙女たちが、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言われて、締め出されてしまう場面が出てきます。また、譬えではありませんが、主イエスが弟子たちに繰り返し教えられた有名な言葉で、「先の者は後になり、後の者は先になるのだ」という教えもあります。

 今示しました聖書の箇所はすべて、終わりの日における神の裁きが、普段私たちが思っているのとは違う基準で行われるのだということを教えています。ということは、更に考えますと「主に属する者、永遠の御国に入れられる者」というのは、私たちが普段当たり前のように考えているような、「キリスト者だけ」ということではなく、もしかすると、そうでない人たちもそこに含まれるかもしれないということに他なりません。
 私たちは今、主イエス・キリストの十字架によって救われるのだと信じて生活していますけれども、しかし、最後の裁きという点について言うならば、この「救い」という事柄を、キリスト教徒だけの特許のように、教会的な感覚で狭く限定して考えることは危険です。聖書には「終わりの日の裁きについては、私たちの思いを超える」と教えられているのですから、この事実を背景にして、今日の箇所、幸いな教えの8番目の事柄を考えたいと思います。

 ここには「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とあります。何気なく読んでしまいますと、キリスト者が迫害を受け、その人たちだけが天の国を受け継ぐのだと思ってしまうかもしれません。しかしここは、よく考えてみますと「義のために迫害される人々」とあるのであって、例えば「教会に通っている人々」とか「毎日熱心に祈っている人々」とか、そういう特別な条件を付けられているわけではありません。もちろん「義のために迫害される人々」の中にキリスト者は入っているでしょうけれど、しかし、それ以外の人たちのことも考えられているかもしれません。そうしますと、人間が生きるために相応しい生活環境をもたらすために懸命に努力し闘っている人たち、あるいは、人間の尊厳を守るために努力し耐え忍ばなければならない人たち、そういう人たちは教会に通っていないかもしれません。けれども、そういう人たちもまた、終わりの時には、「義のために迫害される人々」に入れられるかもしれません。
 主イエス・キリストは、社会や国の不正と闘い、何とかして正義を来らせようとする、そういう人たちの努力を軽んじられません。しかも、「義のためには迫害がある」と言われます。裏を返して言えば、「この地上では、正義ということは成り立ちにくいのだ」と、主イエスは言っておられるのだと思います。

 実は、「義」ということについて、主イエスはこの幸いの教えの4つ目のところで、既に教えておられます。数週間前に聞いたところですが、6節に「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とあります。このところでは、「神はご自身が与えられる本当の正義、真実な正義がこの地上に成り立つことを願っておられる」ということを聞きました。
 私たちは普段、人間中心に物事を考えることが当たり前になってしまうようなところがありますから、正義と聞くと、どこか人間中心的に考えてしまいます。その場合、正義というものは人の数ほどあるのだという意見に傾いてしまうかもしれません。皆一人一人、その人なりの立場を持っているし、その人なりの生い立ちを持っているし、その人なりの正義を持っているのだから、それを主張するのは当然だと考えるかもしれません。
 聖書の中にも、そういう自分中心の正義を振りかざす人々が所々に現れます。例えばその一例は、若き日のモーセです。彼は、同胞のイスラエル人がエジプト人から過酷な仕打ちを受けている様子を見て我慢がなりませんでした。モーセの正義感は燃え上がって、イスラエル人を酷使したエジプト人を憎み、殺してしまいます。それは、モーセなりの正義感から出た行動でした。ところが、神がそういう力ずくの正義を本当の正義とはお認めになりませんでした。モーセは荒野へと追いやられ、彼の犯した過ちを、身を持って償うようにされてしまいます。
 こういう神のなさり様は、神が、ご自身のお造りになった世界に本当の正義を来らせようとしているということを表しています。確かにこの地上には様々な不正が横行していて、正義というものが成り立ちにくい現実があるのですけれども、だからと言って、人間が自分の思いや考えに任せて、自らの復讐心を満足させるようなやり方で、力ずくで来たらせる正義というものを、神はお認めにならないのです。本当に真実な正義とは、力で相手を黙らせることで、もたらされるようなものではありません。そうではなくて、真実の正義とは、この地上で正義が失われているために生じる思わしくない事柄や罪の結果の破れ、それを相手の所為にしたり攻撃するのではなく、その代わりに、それら様々な問題を自分の側に引き受けて、耐え忍びながら担っていくことで、そこに本当にあるべき望ましい姿が生まれてくる、そういうものです。主イエスがもたらしてくださった正義とは、まさしくそういう正義でした。
 罪を犯した者は当然その罪を自ら負えばよいということであれば、主イエスは十字架にかかられる必要はありませんでした。主イエスは、人間の様々な罪、破れ、問題、それらを皆ご自身の側に引き受けてくださって、そこで「わたしが、あなたの死ぬべき命を死んだのだから、あなたは、ここからもう一度生きて良いのだ」と言ってくださり、新しい命を与えてくださったのです。主イエスは、人間の罪を非難し攻撃し、罪ある人を黙らせ抑えつけることで、正義を来らせたのではありません。むしろ、ご自身が十字架によって罪の結果の苦しみと死を背負ってくださり、ご自身の十字架でそれらを滅ぼしてくださるという仕方で、私たち人間を罪から贖い出して新しい清らかな命を生きることができるようにしてくださったのです。
 主イエスが十字架にかかり甦ってくださっているからこそ、「義に飢え渇く人々は満たされる」のです。それは、「主イエスが確かに、このわたしのために、神の正義をこの地上にもたらしてくださっている」からです。十字架の上で私たち人間の罪を滅ぼし、清らかな新しい生活を私たちに与えてくださる。私たち人間はそれを受けることができるゆえに、「義に飢え渇く者は満たされる」のです。

 ところで、もし私たちが「主イエスから手渡され生きることを許された新しい生活を、神に喜ばれる本当の正義に従って生きようとする」と、そこでは必然的に、私たちは「圧迫されたり脅かされたりする迫害に直面するようになる」のです。まさしく「義のために迫害される」ということが起こってくるのです。ですから、「義」ということについては、4番目の「義に飢え渇く人々の幸い」ということだけで終わらずに、続いて今日語られていることが教えられるのです。
 しかし、神の真実な義を知り本当の正義に従って生きようとすると、どうして迫害されるということになるのでしょうか。それは、地上に生きている人間すべてが、十字架の上で成し遂げられた主イエスの御業を信じているわけではないからです。主イエス・キリストを信じるとはどういうことか。ナザレのイエスと呼ばれる人が、今から2000年前にユダヤのガリラヤ湖のほとりや、ヨルダン川の川岸を歩いていたのだろうと思っているだけでは、厳密に言いますと、まだ主イエスを知ったことにはならないと思います。
 ただ「キリストがいた」と思っているだけではなくて、その主イエスが成し遂げてくださった十字架の御業によって、「私たちの抱えている自己中心の罪が精算されている。主イエスの復活によって新しい命の希望が与えられている」そのことを信じて、甦りの主イエスに導かれ、その御言葉に慰められ、教えられ勇気付けられ、励まされながら生きる、それが「主イエス・キリストを信じて生きる人の姿」なのです。私たちは、主イエスの御言葉に導かれながら、私たちのあるべき本当のあり方ができるようにと変えられていきます。そして、そういう生活の中ではもはや、地上に正義が乏しいことを周りの所為にしたりはしません。何とかして今ある所で、そこにある不和や破れを食い止めようとします。そして「互いに共に生きていけるようなあり方をしていこう。命を感謝し賛美して、神の御栄を、この地上において私たち自身が照り返すようにしよう」、そういう生活が生まれてくるはずなのです。

 ところが、そういう神の正義、義を理解しない人たちからは、キリスト者の歩みは愚かな歩みに見えてしまうものなのです。どうして愚かなのでしょうか。
キリスト者たちが、自分の思いやあり方を強く主張する自分の正義を、一旦封印して、仕舞い込んでいるように見えるからです。
 主イエスを知らない人たちでも、それぞれ自分なりに「正しく生きよう、生きたい」と思って過ごしています。「正しく生きたい」ということは、キリスト者の専売特許なのではありません。どんな人でも、自分なりに正しい人生を生きたいと思っていますし、また「正しいのだ」と思って生きています。もしかすると、時に、そういう正義感は偏ったもの、また自分本位なものであるということもあるかも知れませんし、また別の場合には、周りに生きている人たちへの配慮の行き届いた、とてもバランスの良く見える正義感かも知れません。けれどもとにかく、キリスト者である無しに拘らず、一人一人がその人なりの善悪の尺度を持って生活をしています。そしてまさに、その人間の持っている善悪の尺度の中に、その人が良いと思っているその尺度の中に、その人自身の人となりや有り様が現れてくることになります。早く言ってしまえば、その人がやりたいことをやる、こうしたいのだと思ってように生きる、これが正しいと思って生きる、それが、一人一人が持っている正義なのです。
 ところがキリスト者は、まさにそのところが他の人たちと違っています。キリスト者は、「2000年前に主イエス・キリストがいた」とただ信じているのではなく、「主イエスが十字架の上で、私たちの罪のために執り成しをしてくださって、死の苦しみを耐えてくださった」と信じています。逆から言えば、「主イエスがあの十字架の上で苦しみ死ななければならなかったのは、私たち人間の側に本当の正義が無かったためである」ことを弁えているのです。キリスト者は、そのことを弁えているために、自分自身が持つ正義感については、他の人たちとは少し考え方が違ってくるのです。
 キリスト者の場合も、もちろん自分なりの正義感を持っていますが、しかし、自分の持つ正義感は決して間違いはないのだと、無邪気に思えないようなところがあるのです。自分はこれが正しいと思っているけれども、しかし、本当に自分が正しいと信じていることが正しいことなのかどうかと、自分自身に疑いを持つようなところがあるのです。「人間が考える正義、人間に由来する正義は、本当の正義ではない」と知っているために、キリスト者は何をしようとするかと言いますと、懸命に御言葉に聞くのです。神はわたしに何を望んでおられるのか、わたしはどう生きるべきなのか、それを御言葉から聞いて、それに従って生きようとするのです。
 しかし、まさにそういう生き方が、人間に由来する正義に生きようとする人たちからは、大層胡散臭いものに見えてしまうのです。「なぜあなたは、自分が正しいと思ったままに行動しようとしないのか。正義なんて、分かりよいものではないか」と言われてしまうのです。けれども、キリスト者にとっては、恐らくそうではありません。もちろん、キリスト者であっても、自分で正しいと思ったことに向かって努力するということはあります。しかし同時に、自分が正しいと思っていることは、もしかしたら勘違いかもしれない、誤りかもしれない、そういう冷めたところをどこかに持っているのです。それが、この世の他の人たちとのあり方のズレが生じる理由だと思います。

 使徒パウロとなって世界中を伝道して歩き回ったパウロが、まだ甦りの主イエスに出会う前、サウロと名乗っていた時代のことを思い起こしたいのです。
使徒言行録に記されていますが、昔のパウロは教会の激しい迫害者でした。なぜ教会を迫害したのか。「十字架によって罪赦され、新しい生活が始まっているのだから、それを信じて生きることこそが正しいあり方だ」と教えるキリスト教会の教えが、人心を惑わす教えだと思っていたからです。
 パウロは、自分の中に正しさの尺度をしっかり持っていました。「律法を読み、祈り、施し、事柄を弁えていれば、自分は絶対に間違えない。そういう自分の正しいあり方を一つ一つ数えることができる。誰からも非難を受けることはない」という絶対の自信を持っていたのです。ところが、キリスト者はそうは言いません。「そういう生活をきちんとしていても、なお人間は罪の中に陥ることがあります。私たちは主イエス・キリストによってのみ、清らかな者とされているのです」。これは、当時のパウロにとっては、到底受け入れられないことでした。今ここに確かに正しいものを持っているのに、なぜそれを否定して人心を惑わすのか。キリスト者は公言していますから、こういう者たちが増えてしまっては、本当に正しく生きることができなくなる。キリスト者は疫病に罹った人たちのようだから、この世から取り除かなければならないと言って、熱心に迫害をした、それが主イエスの出会う前のパウロの姿です。
 ところが、そのパウロが甦りの主イエスに出会わされるのです。そして、「本当にこの方こそが、わたしに見えなかったものを見せてくださるお方だ」と信じた時にどうなったか。迫害する側から、今度は迫害される側に変わっていくのです。

 キリスト者は理解されないために、迫害されたり不当に軽んじられるということがあります。これは、パウロの時代だけではありません。今であってもそうだろうと思います。私たちが日曜日に教会に来る時に、「あなたはどうして、日曜日だというのに時間をかけて教会に行くの? お金が儲かるわけでもなく、逆に献金払うのでしょ」と言われたりします。それは、周りの人たちからすれば善意で言っているのです。決して悪意ではないのですが、分からないのです。そしてキリスト者は、そのように信仰を軽んじられる時に、反論して自分の手で復讐しようとして「よくもあんなことを言ってくれたな。ひどい目に遭わせてやるぞ」とは言わないと思います。キリスト者は自分の力で、力ずくで正しいあり方を築かなくてはいけないという行動に出ません。ですから、キリスト者はこの世において、いよいよ侮られて迫害されたり、軽んじられるということがあるのです。

 キリスト者に対する迫害について、パウロは自分自身の経験を通して、若い伝道者のテモテに語っています。非常にはっきりとした言葉で告げています。テモテへの手紙二3章12節で「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と言っています。まことに端的に、「主イエスを信じると迫害を受ける」と語っています。これは、評論家として言っているのではありません。パウロは自分自身が迫害に遭いましたし、若い伝道者であるテモテも、これから先、主イエスを宣べ伝えていくならば必ずそういう目に遭うけれども、しかし怯んではいけないのだという思いで、信仰を励まそうとして語っている言葉です。
 この後を読んでいきますと、信仰のない人、本当に寄り頼むべき信仰を持っていない人は、迫害に遭うとどうなるかが語られています。どんどんとすれっからしになり、人間が悪くなってしまうのです。寄り頼むものがありませんから、攻撃を受ければ受けただけ、自分を可哀想な者だと思うのです。そして、世の中とはそういうものなのだと言って、自分自身に対する扱いも、また隣人に対する扱いもどんどんがさつになっていきます。しかし、主イエスを信じる人は、迫害に遭うことで、いよいよ御言葉に寄り頼むことになるのだと、パウロは語っています。テモテへの手紙二3章13節から17節までに語られていますが、17節に「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」と言っています。

 今日最初に申し上げたように、義のために迫害されるのはキリスト者だけではありません。しかしキリスト者たちは、独特な仕方で迫害を耐え忍び、強められていくのです。すなわちキリスト者は、様々な圧迫、脅かしを受ける中で、自分たちの信じている事柄が嘲りを受けるときに、いよいよ聖書に親しみ、御言葉に聞くという仕方で自分自身を確認し、強められていきます。
 聖書を開くときに、私たちは、「神の義を知らされて、その義に忠実に生きようとした人たちが、いつの時代にも、それを理解しない周りの人たちから嘲られ迫害されたのだ」ということを聞きます。例えばそれは、旧約の時代からあります。預言者イザヤや預言者エレミヤは、神に忠実に生きなければならないことを宣べ伝えましたが、そのためにどうなったでしょうか。同胞から嘲られ、時の王アサフから、また王妃イゼベルから苦しめられ命を狙われるという経験をします。また、新約聖書の中に出てくるバプテスマのヨハネは、悔い改めて神の前に生きるのだと教えた結果、どうなったかと言えば、ガリラヤの領主ヘロデの妻になったヘロデアに憎まれ、最後には首をはねられてしまいます。あるいは、主イエスを熱心に宣べ伝えたステファノは、石を投げつけられて亡くなります。
 このように、神の正義を信じて生きようとした人たちが迫害されたという出来事が聖書の中にはたくさん出てきますが、しかし、その一番先頭にあるのが、主イエス・キリストの十字架なのです。「神の御国がやってきている。あなたは神の支配のもとで、今を生きる者となるのだ。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて神を信じなさい」、そう人々に教えられた主イエスは、「あなたは、自分の正義を振りかざすのではなくて、向きを変えて、神の義に生きる者となりなさい」と呼びかけて、そして自ら十字架へと上られ、亡くなられたのです。まさに主イエスは、そういうご自身の生涯を通して、主イエスを嘲り、神の義に従って生きる者を嘲る、そういう人間の罪を十字架の上で精算して磔にしてくださったのです。私たちがこの主イエスを信じるなら、そして、自分の言い張る正義ではなくて、神に喜ばれる、神が私たちに与えて下さろうとする正義を求めて生きようとするならば、「あなたはその時、そういうあり方で、神の御支配のうちに生きる者となる」と主は言ってくださるのです。それが、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられていることです。

 主イエスは、「神の義に生きる」、そういう信仰のあり方を励ましてくださいます。「神の義に従って生きよう、神に喜ばれる者として生きよう、そういうあり方をする時に、あなたはきっと周りに理解してもらえないだろうけれども、しかし、怯んではならない。あなたは、そういうあり方の中で確かに、神の支配のもとに生きていくのだから」と、教えてくださっているのです。

 私たちは、十字架の主イエス・キリストを信じて、そこに、本当に清らかな新しい生活が備えられている、そしてそこに生きるようにと招かれているのだということを信じて、神の御支配のもとに生活するものとされたいと願うのです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ