聖書のみことば
2016年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月1日主日礼拝音声

 心の清い者
2016年5月第1主日礼拝 2016年5月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章1節〜8節

5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。<4節>悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。<5節>柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。<6節>義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。<7節>憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。<8節>心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 ただ今、マタイによる福音書5章1節から8節までをご一緒にお聞きしました。8節に「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」とあります。ここには「神を見る」ということが語られています。
 「神を見る」と言いますと、私たちは何か非常に気高いものを見るような気持ちにさせられるのではないでしょうか。「神を見る」などということは、普通の人間にはとても考えられないような異常な経験に違いない、特に霊感が強いとか、宗教的な感性に恵まれた特別な人たちだけが、幻を見るように神を見るのだろうと考えると思います。しかし、もしここで「神を見る」ということがそういうことであるならば、それは天上の天使たちだけができることです。どんなに宗教的感性の鋭い人であっても、どんなに敬虔な人であっても、地上の人間は、天上におられる神に直接触れたり、見たりすることはできません。それは、天使たちにだけできるのです。例えば、マタイによる福音書18章10節を開きますと「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」とあります。
 けれども、今日私たちが聞いている箇所で語られていることは、天上で天使たちが神を間近に仰ぎ見ているということとは別のことです。天使が見るのではなく、ここでは「その人たちは神を見る」とはっきり言われているように、地上に生きる人間のことが語られています。神は、すべての信じる者たちにご自身を示してくださるのです。それが「神を見る」ということです。
 そして「神を見る」ということは、驚くような仕方でということではなく、ごく穏やかで、また隠された仕方で起こります。遥かな雲間から神が姿を現わすというのではなく、私たちの毎日の生活の中で、神はご自身を私たちに示してくださいます。地上を生きる人生の中で、私たちが毎日生きて行くその生活の中で、私たちは、神を知ることが許されています。大勢のキリスト者たちが、実際のこととして、各々の人生の中で、神が自分と共に歩んでくださっているという経験をしているのではないでしょうか。そして、それがまさに、一種の「神を見る」という経験に他なりません。
 もちろん、私たちが「神を見た」という時には、幻で見たということではないと思います。私たちが神を見る、あるいは示されるというのは、様々な仕方で神の導きを受けたり、思いがけない示しを与えられたり、あるいは憐れみに満ちた助けを受けたり、不思議な仕方で保護が備えられていたりという経験を通して、神が私たちと共にいてくださることを知るのだと思います。自分でも予想していなかった事の成り行きで、それまで安住の地だと思っていた所から離れて新しい生活へと赴かざるを得ない、そういう時に、私たちは、最初はとても緊張して、行く手には一体何が待ち受けているだろうかと思って身を硬くして歩むのですが、しかし、気づいてみると、神が既に先手を打っておられて、私たちが進むべき先にもよく見知った助け手が備えられていたというようなことを経験することがあります。そのような時に、私たちは確かに、憐れみに満ちた神が「あなたと共にいるよ」と教えてくださる、そういうことを思わされたりします。
 神は実に、折りに触れ、私たちにご自身を示してくださいます。喜びの時にも、私たちはそれを神がお与え下さったのだと知って、そこに神を見出すことができます。しかしまた、悲しみの時にも、試練や闘いの時にも、神がわたしと共にいてくださるのだということを示されることもあるのです。そればかりではありません。私たちが神に対して不従順で、神に背を向け、神抜きで生きようとする時でさえ、神は、そういう私たちを訓練するというなさり方で、ご自身を示してくださることがあるのです。ですから、信じる人にとっては、良い時も悪い時も、あるいは神に背を向けようとする時ですら、そういう私たちの生活の只中で、「神を見る」ということが実際に起こるのです。

 しかし、そのように「神を見る、神がおられることを確かに知る」という人たちがいる一方で、その人生において一切神を見ないで過ごしてしまうという人たちもいます。一体どうしてでしょうか。どうして、ある人には「神を見る」ということが起こるのに、そういうことが起こらない人もいるのでしょうか。神を見ることのできる人というのは、何か特別な感性を持ち合わせているのでしょうか。あるいは、特に神に対して憧れを持っていて交信したいと思っている人でしょうか。そうではないだろうと思います。恐らくは、その逆だと思います。
 私たちは、自分がどんなに「いい加減な者」でしかないか、どんなに自分自身が「ままならない者」であるかということを、つくづく思い知らされています。「神を見る、神を仰ぎ見る」というのは、何か崇高な輝かしいものを見たり、美しいものを眺めたり、壮大なスペクタクルに心奪われて感動するというようなこととは違うと思います。気高いものを見て、それを心に収めるというのでもないのです。「神を見る」ということは、このわたしが「神の前に立たされ、そして、神の前において、自分自身がどういう者であるか、どういう者に過ぎないかということをしみじみと思い知らされる」、そういうところから始まるのだろうと思います。
 聖書において、大変重々しく「罪」と言われている事柄、それは、私たちがいつでも当たり前のように自分自身を中心に考えて、自分の人生の主人は自分であると考える、そういう姿ですが、しかし、そういう自分自身に気づくというところから、実は、「神を見る」ということが始まるのです。自分の力で生きるということが当たり前になっていて、気づくといつも自分の願いや欲求や要求ばかりを心の中で言い立てている、そういう自分であることに気づいて、そこから離れたいと願うことが、神を見る生活の入り口になります。その時に、私たちは神をどこに見るのかと言いますと、遥かに遠いところに見出すのではありません。そうではなく、ある特定の場所に、即ち「主イエス・キリスト」というお方の中に見出すようになります。
 聖書の中には、「神を愛する者には、すべてのことが働いて益となる」と教えられています。つまり、神を愛する人というのは、神を必要とする人ということに他なりません。母親は、子供が自分のことを必要としてくれればくれるほど、その子から愛され尊ばれていると感じるでしょう。同じく、神も地上の人間がご自身を必要とする、神によって支えられることを望む、そのような時に、神が愛され尊ばれていることをご存じです。主イエス・キリストを必要とする、そういう人こそ、神を愛する、神を見る人になるのです。
 主イエスはかつて「わたしを見た者は、父を見たのだ」と教えてくださいました。ヨハネによる福音書14章9節「イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか』」。主イエス・キリストというお方を通して、その中に神を見る人こそ、幸いな人たちです。そして、そういう人たちは、自分自身がどんなにままならない者かということを弁えている人たちです。
 そうであるならば、今日の箇所で「心の清い人々」と言われている人たちがどういう人なのか、分かってきます。「心の清い人々」というのは、岩のように自分の心の広さを確信して自信を持っているという人たちではありません。そうではなくて、むしろ、自分の心がどんなに強情で手に負えないかを悟って、そしてそのために、主イエス・キリストというお方により頼まずにいられない人、そういう人たちです。
 ですから、「心の清い人々」というのは、別の言葉で言うならば、「心の貧しい人々」のことでもあるのです。清らかさや正しさの点でいつも飢え渇いていて、それらを求めている、そういう人たちなのです。神が自分に清さを与えてくださるのでなければ、神が自分に正しさを備えてくださるのでなければ、とてもこの私は正しく生きてはおれないと思って、いつも神にある清さ、正しさを願い求める人が「心の清い人々」です。

 そして、そういうあり方と正反対だったのが、主イエスの時代にあっては、ファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派の人たちは、自分たちの正しさ、清さに、絶対の自信を持っていました。自分たちこそ清らかさの本家本元であるかのように振る舞い、正しさの専門家であるかのように自認していたのです。ところが主イエスは、そういうファリサイ派の清さや正しさをご覧になって、それがあくまでも上辺だけの、これ見よがしのものでしかないことを見抜いておられます。主イエスはファリサイ派の人たちの清さについて、マタイによる福音書23章25節で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われました。上辺を清らかに整えて見せる、そういうあり方に対して、それは上辺だけのことであると、主イエスは極めて明確に捉えておられました。
 本当に心の清い人というのは、例えば、旧約聖書の詩編51編に出てくる詩人のように、深いため息をついて、本当の清さ、清い心を求める人です。特に12節13節に「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください」と詩人は訴えています。神によって清さを造って欲しいと願う詩人の姿がここにあります。この詩人は9節で「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」と祈っています。「神なら、こんなわたしを本当に清くお出来になる」という信頼と期待を持って、神に真の清さを願う、そういう姿があります。
 更に「心の清い人々」とは、主イエスの御業と十字架に信頼を寄せながら、旧約の預言者イザヤのような罪の告白をする人のことです。イザヤ書1章18節「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる」。わたしの罪は真っ赤であったとしても、主イエスの十字架によって真っ白にされるのだと信じる、そういう人が「心の清い人」です。
 そして、更に言いますと、「心の清い人」は、新約聖書に登場する「罪の女」と呼ばれた女性のような人です。涙をもって主イエスの足を拭い、そして主イエスから赦しの声を聞かせてもらう、そういう人たちのことです。ルカによる福音書7章50節「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」とあります。本当に主イエスに信頼して罪を清めていただきたいと心を寄せる人こそ、清い心の持ち主なのです。

 しかしそれならば逆に、心が汚れているというのは、どういうことになるのでしょうか。このことも少し考えたいと思います。先ほど、ファリサイ派の例も挙げましたが、汚れた心ということで多くの人が思うことは、性的な不潔さや情欲、乱れた心ということだろうと思います。マタイによる福音書にも、そういう類の汚れについて特に警告がされています。マタイによる福音書5章28節29節に「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」とあります。
 しかし、心の汚れというのは、こういう情欲の事柄に止まりません。聖書の中では、心の汚れはもっと広い範囲の事柄として考えられています。それは一言で言えば、その人の生活の有り様が、神との関わりにおいて二心の状態になっていることです。即ち、一方では神を意識したり、神のもとに保たれている正しさ、正義を気にするのですが、しかしもう一方では、密かに神に不従順に生きてしまう。自分の思いを神より前に先立たせてしまう、そういう時に、その心は二心になって、心の汚れた状態だと言われるのです。
 ですから、実は、神を知らない人が汚れているのではありません。神を知っている私たちが汚れるということは、十分にあり得るのです。神のことを知っているけれども、信じているつもりだけれども、しかしその一方では、神を抜きにして生きてしまって、それで良いと思ってしまう、そういう誘惑が私たちには絶えず襲ってきます。そういう二心の状態が、汚れです。
 ですから、主イエスが一番最初に教えてくださったことは、「神の国と神の義を求めなさい」ということでした。「神に従うのだという姿勢がまっすぐに貫かれていく」という姿勢が大事なのです。一方では神を立てているようでありながら、もう一方では他の神々とか、そこには自分の思いというものも入ってくるのですが、そういうものが先立つようになると、心が清いとは呼べなくなります。そういう危機感がありますから、聖書の中では、旧約聖書から黙示録に至るまで、「偶像礼拝」と「姦淫」という言葉は同じ意味の言葉として使われます。聖書に親しんでいる方は気づかれると思いますが、イスラエルの民が神に対して背信の生活をする、神抜きで生きてしまう時に、預言者たちが繰り返し「あなた方は姦淫を犯している」という言い方をしました。それは別に、肉体的性的な不道徳をしていなくても、神抜きで生きていることをそう表現するのです。どうしてかと言いますと、それは、二心が問題になっているからです。そして、そういう意味で心が汚れている者は、神を見ることはできないのです。
 しかし、それとは逆に、たとえこの世で多くの失敗を犯すとしても、神に従うことにままならない自分だということをしみじみと思わざるを得ない、そういう生活をしている人でも、本当に心から神に従いたいと願う人は、神を見ることが許されるのです。そういう人物の例としてまず名を連ねるのは、嬰児である主イエスの中に神を見ることができたシメオンという老人です。シメオンは、神によってイスラエルが慰められるということを望んで生きていたのだと、聖書に語られています。そして、主イエスがお生まれになった直後に、エルサレム神殿に連れてこられた主イエスと出会って、そして主イエスの中に神がおられると見て取って、本当に喜びました。ルカによる福音書2章29節30節のシメオンの言葉は「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」というものでした。シメオンという人は、まさに、幼子イエスの中に神の救いを見ています。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」という経験を、まさにシメオンはここでしているのです。

 ところで、神を見るということは、そのように信仰を持って主イエスを見上げるということだけで終わることではありません。実は、今、私たちがこの日常の中で信仰を持って主イエスの中に救いを見出す、神がそこにおられることを見るということは、やがての日、私たちが実際に神とお目にかかって、神との交わりの中に置かれるということと相反することではないのです。
 天に上げられて直に神とお目にかかるということは、今はまだ、天上の天使たちやこの地上の生活を終えた人たちだけに許されていることです。神と直にお目にかかるということは、この地上に生きている私たちには、今は許されていません。お墓の手前にいる今この時、私たちは、やがての日には神にお目にかかることができるのだということを信じながら、生きることができるだけです。しかし、すべてが完成され終わる時には、私たちは、実際に神を見るのだと聖書に教えられています。コリントの信徒への手紙一13章12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあります。「神を見る」ということについて、私たちは、こういう約束のもとに置かれているのだということを覚えたいと思うのです。
 今日の鏡は機械で製造されていますから、どの鏡を見ても同じように映りますが、昔の鏡はそうではなかったようです。人間が手で磨いて表面を平らにしていましたから、力の入れ具合でどうしても歪みが生じました。そうしますと、見る鏡ごとに少しずつ違って見えたのです。何枚もの鏡を見ながら、自分の顔は一体どんなものなのかと、昔の人たちは想像しながら過ごしておりました。
 そのように、私たちが地上で信仰によって神を見上げる時には、神は少しずつ違って見えるのだと、ここに教えられています。同じ神を信じていても、私たちは完全に信仰が一致しているなどとは言えません。むしろ、信仰理解が人によって違うということを経験させられる場合があります。それは、私たちが地上にいて、鏡を通すようにしてそれぞれの信仰によって神を仰ぎ見ているからです。しかし、やがての日、神がすべてを完成させて私たちに出会ってくださる時には、私たちは直に神を見るのだと言われています。私たちの信仰理解はまちまちであるけれども、しかし、神はただお一人です。そのお一人の神は配慮をもって、私たち一人ひとりを持ち運んでくださるのです。やがての日、私たちはその神との直接の交わりに入れられます。その時には、「私たちが神に知られているように、私たちも神を知るようになるのだ」と、ここには教えられているのです。

 今、私たちは、それぞれに与えられた信仰によって、やがての日を待ち望みながら生きています。そのような日を待ち望む生活というのは、しかし、いつかそういう日が来るのだからと、ただ、のほほんと過ごすだけの生活ではありません。信仰をもって神との直接の交わりを待ち望むという時には、その神との出会いの時を考えて、それに相応しい自分でありたいという憧れが生じてくるものです。
 今日の聖書の箇所を見ますと、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と言われています。将来のことですから、実体験はしていないのですけれども、しかし、まるでもう見ているかのように思う、そういう憧れの中に生きている言葉です。今日のこの言葉をよくよく噛み締めて味わう時に、詩編17編の詩人の言葉が思い出されます。この詩人の本当に強い憧れの言葉です。詩編17編15節に「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう」とあります。揺籠を揺らしてくれている母親を感じながら嬰児がまどろんでいます。そのまどろみから目覚める時に、そこには、上から覗き込んでくれている母親の顔がある。この詩人が思い浮かべているのは、そういう情景です。終わりの日に自分が神とお目にかかる時、これまでは揺籠を揺らしてくれている母親を感じながら心地よく眠っていますが、しかし目を覚ました時、そこには神がおられ、神が自分のことを「お前は正しい者なのだ」と言ってご覧になってくださっている。この詩人はそういう神の慈しみに憧れているのです。
 しかし、同時にこの詩人は、片時も「正しさ」ということを忘れていません。「わたしは正しさを認められ」と言っています。神の御前で通用するのは、本当に正しいあり方をしているということです。ですからこそ、私たちは、安穏と過ごすのではなく、神に愛されている者に相応しい、神に喜ばれるあり方を求めつつ、精一杯歩むということが起こってくるのです。

 信仰者は、神の慈しみを願い求めて、神に憧れます。と同時に、神の前に正しくありたいという思いが芽生えてきます。そして、その義の有り様についても飢え渇くのですが、それも、神がやがて満たしてくださるのです。そのことが、来週に聞きます「神の義が満たされる」というところに続いてまいります。

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