聖書のみことば
2016年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月15日主日礼拝音声

 聖霊のおとずれ
2016年ペンテコステ主日礼拝 2016年5月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第2章1節〜13節

2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただ今、使徒言行録2章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。「五旬祭の日」、すなわち最初の聖霊降臨日には、様々に不思議な出来事が起こったということを、この箇所は伝えています。
 もちろん、そこでどのようなことが実際に起こっていたのかということは、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」とか「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とか、「大勢の人が集まって来て、驚き怪しんだ」というようなことが語られていますが、こういうことが実際には何を言い表しているのかを、すぐには理解しかねると思います。ただ、明らかにここで告げられていることは、この日もはや、この場だけに止めておくことのできない何事かの動きが始まったということです。聖霊降臨日の出来事というのは、当時のエルサレムに住んでいた人たちだけに関わるのではなく、遥かに広い範囲にまで影響をもたらしていく、その最初の動きが起こったのだと語られているのです。
 9節から11節に、様々な土地の名前が出てきます。私たちは単純にいろいろな国の人がそこに居たのだなと思いますが、しかしここは、思いがけない出来事に出遭わされて一同が驚いている場面ですから、群衆一人一人に「あなたはどこのご出身ですか?」と尋ねて、書き取るなどということはできた筈はありません。ここに名が出てきている18の町や地方の名前を地図上に書き込むと分かるのですが、これは、当時のエルサレムを中心として東西南北に広がっている地名です。ですから、当時知られていた「世界中の人々」がエルサレムにやって来て、この出来事に立ち会ったのだということが語られているのです。そしてまさしく、聖霊降臨の出来事には、そういう意味が込められています。この日の出来事は、単に、主イエスに招かれて従った12人の弟子たちとか、そういう狭い範囲だけのことではなく、世界中の人を相手にして、そして世界中の人たちを変えていく、そういう出来事なのです。

 私たちは、「聖霊降臨日に教会が生まれた。ペンテコステは教会の誕生日だ」とよく聞かされています。確かにその通りです。しかし、問題になるのは、この日に生まれたのはどういう教会なのかということではないかと思います。「教会」という言葉で、私たちが普通に思い浮かべることは何でしょうか。一番には、十字架を掲げた建物でしょう。あるいは、教会は建物ではないと聞かされている人にとっては、教会は、日曜日に礼拝を捧げ様々な儀式行う、そういう一つの整えられた人間集団だと考える方もいるかもしれません。また、少し違う観点からは、この世に欠けている正義を行うために様々なプログラムをこの地上で行って、結局はこの世の「右」「左」という社会理念に引き込まれていってしまう、そういう集団だと思っている方もいるでしょう。
 しかし、今言いましたことは、いずれも、このペンテコステの時に起こっていることではありません。これらは皆、教会について後から起こってきたことです。ペンテコステの日には、十字架のついた建物もありませんでしたし、今日私たちが捧げているような整然とした礼拝が行われていたとも記されていません。また、ここに語られている人たちが突然社会正義に目覚めて、この世界の過ちを弾劾してこの世を質すために立ち上がったと語られているわけでもありません。私たちが教会について思い巡らしている諸々のことは、教会の歴史の中では後から整えられていったのであり、その中で、私たちの教会にも与えられている事柄なのです。そのように、最初の教会には何も無かったにもかかわらず、この日が教会の誕生日だと言うのです。一体、この日に起きたことは何だったのでしょうか。

 聖霊降臨日に起きたことは、この世界の中に、人々の生活の中に「突然、神が踏み込んで来られた」ということです。突如として神の側から、この世界に生きている私たち人間に向かって突入が生じている、それがペンテコステの日に起こったことです。ですから、この聖霊降臨の記事で語られていることは何かと言うと、神の突然の突入に触れて「あっけにとられている」人間の姿です。文字通り、言葉を失って驚いている人たちの姿です。自分たちが触れている出来事をどう言い表そうかと右往左往している様子が語られています。この日、この出来事に立ち会った人たちが、何とかこの経験を言い表そうとして、「大勢の人があっけにとられた」とか「人々は驚き怪しんだ」とか「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」とか「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、様々に表現しています。神が直に私たちの間に突入してこられた、その出来事を前にして、まるで池の中に投げた石によって波紋が広がっていくように、驚きとショックが周りに広がっていっているのです。今まで想像もしなかったような、予想もしなかったようなことが起こったのです。

 聖霊が働かれて神が御業をなさるところでは、いつでも深いところで、私たちの物事の考え方が揺さぶられます。驚かされ、反省させられます。単にそれは、自分がこれまでどう生きてきたかという振る舞いのことではなく、これまで形作ってきた隣人との関わりであるとか、更には時代に起こっている様々な問題について見る目についても変えられていくようなことが起こります。聖霊のおとずれを感じさせられる時に、私たちもまた、新しい問いを自分自身やこの世界に対して抱いたり、それまでと違って深く広く物事を考える目を与えられたり、そのような変化を経験するということがあるのではないでしょうか。
 例えば、以前の自分は無難で安楽な暮らしをしていればそれで良いと思っていたけれども、しかしいつの間にか、自分だけが平安に暮らしていれば良いということが人生の本当の意味なのだろうかという問いが、自分の中に起こってきていると感じている方もおられるかもしれません。これまでは、何でも自分の思い通りに生きていくことこそが大事だからと、当たり前のように、その生き方に対して障害になりそうなことには触れず、抱え込まないように身をかわして、経済的な損失も被らないようにして生きてきたけれど、しかしふと、果たして自分が豊かになり自分の思い通りに物事が運びさえすればそれで良いのだろうか…と考え始める自分がいることに気づく、そういうことがあるかもしれません。
 このように、自分自身の生き方とか、隣人との関わり方とか、この社会に対する考え方などに問いが生じてくる時に、私たちは、慌ててそれを押さえ込まない方が良いと思います。そのようなことを真面目に問い始めるところで、今まで歩んできた人生の習慣とかレールから少し外れそうになるところで、もしかすると、聖霊が私たちの上に御業を始めておられるかもしれないからです。

 聖霊がまさに人間の上に働かれていることの徴として、この聖霊降臨日には、特に注目される出来事がありました。13節に「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とあります。嘲っているのは、この出来事を外から見ていた人たちです。聖霊を受けている主イエスの弟子たちに対して、どうしてこのような冷ややかな、また見当違いなことが言われたのでしょうか。弟子たちは、真に大きな喜びに浸っています。ところが、周りの人たちには、弟子たちの様子が全く理解できません。弟子たちが喜んでいる姿に圧倒されているのです。それで、自分たちなりに何とか合理的な答えを探して言った言葉が13節です。「あの人たちは、酔っているから普通の状態ではない」。
 ペンテコステの朝、主の弟子たちに投げつけられた見当違いな嘲りの言葉というのは、逆に言えば、聖霊によってもたらされた「真に強烈で深い喜び」がそこにあったことを裏付けている言葉です。「この人たちは、なぜこんなに深く喜んでいるのだろうか」と、周りの人たちは驚いているのです。その喜びの意味が分からないので、通常の感覚ではないのだと結論づけているのです。しかしまさにそこには、最初の教会とされた人たちが、この世や人間に由来するのとは違う、本当に深く大きな喜びに突き動かされていた、そういうことが語られています。教会が嘲られていたということは、まさしく、この世には由来しない別の喜びが教会を支配していたということの証拠です。
 もし、今日の教会で、こういう喜びが欠けているとするならば、私たちの中でそのことに真っ先に気づくのは、おそらく比較的若い世代の人たちだろうと思います。あるいは、とても孤独な方たちだろうと思います。どうして、その方たちが気づくのでしょうか。若い世代は、まさに自分自身を作り上げようとして悪戦苦闘しているからです。ある程度長く教会生活を続け、また年齢も重ねてきた方は、自分でも気づかないうちに、礼拝に対する態度や教会生活のあり方について、冷静であるべきだという行儀良さが身についてしまっているようなところがあります。礼拝の時には大変生真面目で、常に御言葉を心に蓄え、御言葉に支えられて生きなくてはならないという思いがはっきりしています。けれども、全員がそうである必要はありません。何かの言葉やきっかけによって自分が変えられたい、造り上げられたい、本当に楽しさや喜びを自分の中に与えられたい、強められたいという思いだけを持って、この礼拝に集ってくる方もいらっしゃるでしょう。それで良いのだと思います。
 聖霊が御業をなさるところでは、感じ方や考え方が新しくされるだけではありません。聖霊が働いて私たちを支配するところでは、いわゆる教会的な気取った堅苦しさとかキリスト教臭さというものから解放されて、私たちの間には、本当に伸びやかな人間同士の交わりというものが生まれてくると思います。神が御業をなさり、私たちを支え、生かしてくださっている、そのことを素直に喜んで生きていくという思いが、教会の中に満ち溢れます。「神が確かに、このわたしと共にいて助けてくださる。わたし自身は弱く脆い者にすぎないけれど、しかし神がこのわたしを支え持ち運んでくださる」という喜びに浸りながら、同じ時代を生きている隣人の嘆きや痛みに寄り添って行こうという思いも生まれてくるのです。あるいは、今の時代、分裂してなかなか一つになれないでいるこの社会に対しても、「神がお働きになるのだから、人間の手ではどうしても修復不可能だと見えても、しかしどこかで新しい始まりを神は備えてくださるに違いない。その始まりを期待して辛抱強く待とう」という、そういうあり方も生まれるのです。
 聖霊降臨の出来事を通して、人生やこの世界に対して新しくされた希望を抱きながら生きるようになる、そういう喜びに満ち溢れた教会がこの世界に成り立ったのだということを、今日の箇所から聞き取りたく思います。

 ただその場合、今日の箇所で述べられている事柄が、文字通りにこのままでなければならないと考えるとすると、おそらく、聖書が伝えようとしていることを受け取り損なうことになると思います。ここに記されていることは、最初から、「こうだった」という事実ではなく、比喩です。
 例えば、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」とありますから、 私たちは「風の音がしたのだな」と思っていますが、そうであるなら「吹いて来るような音」という「ような」とは何なのか。あるいは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とありますと、私たちにも同じように「燃え盛る舌が現れて、私たち一人一人の頭に蝋燭のように見えなければいけないのではないかとつい考えてしまいますが、私たちの周りにはどこを見回したところで、そんな現象はありませんから、困ってしまうのです。
 しかしこれは、あくまでも比喩であるということを、私たちが理解しなければなりません。比喩であることを分からせるために、わざわざ「ような」という言葉が使われているのです。本当は風ではないし、炎や舌ではないけれど、今経験していることを何とか伝えたいために、こういう言い方がされているのです。最初の聖霊降臨に立ち会ったキリスト者たちは、一体この出来事をどう説明したら良いのかと戸惑っているのです。けれどもしかし、黙っているわけにはいかない。何とかこの出来事を伝えたいと思って、無理矢理のように言葉にしているのが、この箇所の言葉なのです。
 またそれは、映像的なことだけではなく、最初のキリスト者たちが他国の言葉で語り出したということも同じだと思います。個人的な経験ですが、私は中学・高校時代の英語の成績が芳しくありませんでした。今にして思えば耳から聞いた言葉を素直に感覚的に覚えれば良かったのでしょうが、当時の私は理屈で納得しないと受け止めないという頑固者でした。英語は日本語と単語を置く順番が違うため納得できず、従って試験の時には当てずっぽうの選択問題にしか答えられず時間を持て余していて、「今、私の上に聖霊が降って、舌のような炎が止まってくれれば、この英語も分かるのに…」と思い、試験の時間には「聖霊が降りますように」とお祈りしていました。結果はいつも10点、20点というものでしたが、それは考えてみますと、聖霊降臨を、ここに語られている文字通りに考えていたからでしょう。
 しかし、ここに語られていることは、恐らく、突然弟子たちが外国語に堪能になったということを言っているのではないのです。そうではなくて、先ほど、ここに世界中の人が集まって来たのだと申しましたが、その世界中の人たちが皆、ここで自分の生い立ちに通じるようなことを聞かされて不思議に思ったということだろうと思います。
 そして、皆さんもまた、同じようなことを、この礼拝において経験なさるということがあるのではないでしょうか。辛いこと、深刻な状況を抱えて自分では出口が見えず、途方に暮れながら礼拝にやってくる時に、牧師に相談したわけでもないのに、礼拝の中で、自分の抱えている悩みや心配事に対するヒントになるようなことが語られて不思議に思うということがあるとすれば、それは、聖霊降臨日に起こったこととよく似ているのです。聖霊降臨日に、人種も民族も肌の色も違う世界中の人がやってきました。皆、生い立ちが違いますから、考え方や感じ方も違います。皆の前で語っているのは、学問をしたようにも見えないガリラヤ訛りの漁師のような格好の人たちですが、「この人たちがどうして、このわたしに分かるような、わたしの胸にストンと落ちるようなことを語るのだろうか。わたしが故郷にいた時に、一つ一つのことを親や先輩たちに教えてもらったように、今わたしが抱えている問題をどう受け止めたらよいのか、それを眼の前で語ってくれている。これはどうしたことだろうか」と言って不思議がっているのです。

 本当に不思議です。一体どうしてそういうことが起こるのか。それはまさに、この日、最初の教会の上に注がれたのが「聖霊」だからです。「神の霊が注がれる」ということが起こったからです。それを何とか言い表そうとして「風」とか「炎」という言葉を使っていますが、これは既に旧約聖書で、「神がそこにおられる」ということの象徴として使われた言葉です。例えば、モーセがエジプトに捕らわれているイスラエルの民を救い出しに行く際に、ホレブの山で神に命じられるのですが、そこでどのようにモーセが神と出会ったかと言いますと、羊を追って登ったホレブの山で、神は燃え尽きない柴の中から語りかけられました。モーセが見たのは、神その方のお姿ではありません。決して燃え尽きない柴の中から神は語られました。炎は、神がそこにおられる徴なのです。またあるいは、預言者エリヤは、王妃イゼベルから命を狙われ、命からがらホレブ山中に逃げ込むという出来事がありました。その時、エリヤはそこで神と出会い命じられるのですが、どのように神と出会ったかと言いますと、最初に激しい風があり、二番目に激しい地震があり、三番目に大きな火があり、それらのことの後に、神がエリヤに、細い声で語りかけられました。
 ですから、「風、炎」は、神がそこに来ておられる象徴の言葉であり、使徒言行録のこの箇所は旧約聖書の言葉を下地に使いながら書かれているのです。実際に大風が吹いたとか、舌のような形をした炎が降ったということではなく、神がここにおいでになって、自分たちの上に新しい言葉を与えてくださったのだと言い表しているのです。大風が吹かないから、また舌のような形をした炎が降らないし、外国語もわからないから、わたしには聖霊が与えられていないなどと考える必要は全くありません。むしろ、そう考えることは、聖書が語ろうとしていることと違っている方向でこの言葉を受け取ってしまうことになります。ここに語られていることは、「神が確かに私たちに語りかけて下さった」ということです。

 弟子たちの上に神が踏み込んでくださり、弟子たちを捕らえてくださいました。そしてその結果、普通でなら到底分かり合えない、隔りのある外国の人たちにまで、その人が理解し受け取ることができるような仕方で、「主イエス・キリストを通しての神の御業が持ち運ばれるようになった」のです。それが聖霊降臨日に起こったことだと言われているのですが、しかしこの出来事は、この時にだけ起こったのではなく、2000年を経た今に至るまで、歴史上の教会の中で、繰り返し繰り返し起こってきたことなのです。「神はどうして、わたしのことをご存知なのだろうか。わたしの不安や悩み、悲しみに覆われていることを。まるで見ておられるみたいだ」と思いながら、私たちが聖書の説き明かしに耳を傾けることがありますが、それはまさに、神が聖霊を送ってくださって、私たちの只中に踏み込んでくださっている、そういうことが起こっているのです。
 聖霊が注がれて、主イエスの御業が私たちにも親しく感じられるようになること、これは人間の業ではありません。神の業です。神が、今日も、新しい舌を教会にお与えになって、そして私たちに語りかけておられるのです。
 ですから、聖書が解き明かされ、神の御業が宣べ伝えられること、これは人間がしていることではありません。神がなさっておられるの業です。

 しかし、そのように神が私たちに働きかけてくださっているのは、ひょっとすると、今日では、ただ言葉を通してということだけではないかもしれないと思います。私たち自身の生活を通しても、神の御業は宣べ伝えられていくのではないでしょうか。
 神に仕え、また隣人に献身的に仕える、そういう献身のあり方とか、あるいは、自分のことは後回しにしてまず助けを必要としている人たちに静かに手を差し伸べていく、そのようなあり方を私たちがするときに、もしかすると、そういうあり方を通して「神がわたしに手を差し伸べようとしてくださっている。神がわたしを助けよう支えようとしてくださっている」と感じる人たちも出てくるかも知れません。もちろん、私たちのすることが全て、そうなるということではありません。私たちが本当に神の慈しみに従って生きようとする時に、それが用いられるかどうか、それもまた、聖霊の御業なのです。神がそのことを通して働いてくだされば、神が触れてくださったことを感じるようになりますし、あるいは、「まだ時ではない」として用いられないこともあるのです。
 けれども、私たちに求められることは、「私たちが生きているこの生活の中に、神がどうか聖霊を注いでくださいますように」と祈ること、神が聖霊を与えてくださることを期待しながら、私たちが祈りつつ神に帰る生活に励むということだと思います。

 私たち人間は、聖霊を思いのままに操るということはできません。けれども、もしかすると、神がご自身の霊を働かせ、「私たちを力づけ新しくしてくださる。御業のために用いてくださる」ということがあるのかもしれないと思います。今日の箇所をよく読みますと、聖霊が降る出来事に先立って、1節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあり、弟子たちがこの時「一つになって集まった」ことが語られております。「一つになって」というのは、エルサレムのどこか特定の場所でということを言っているのではありません。聖霊によって私たちが新しくされる、あるいは用いられることを妨げているもの、それは私たちがあまりにバラバラになっているということです。自分本位で、皆が自分勝手ということかもしれません。別の言葉で言えば、「私たちが一つところを見出せずにいる」ということかもしれません。
 教会の中で、「皆が一つになろう、一致しよう」と、そういう言葉が聞かれる場合があります。私たちは口でそう言い、心で願います。けれども、それでもなお、私たちには分裂や分離があって、残念ながら、新しく深刻な瞬間が芽生えるということもあります。確かに私たちは、教会全体が一つになりたいと本心から思っています。本当に一つになりたいと思ってはいますが、実際には、いわゆるウマの合わない人が出てくる場合があります。頭の中では、皆が一つにならなければと思っていても、実際に、もし日曜日に「あの人」に会ってしまうといたたまれない気持ちになってしまう。そして心が痛んで、だんだんと暗い思いがどうしても頭をもたげてしまい、「あの人とはいられない」と思うことがあるかも知れません。

 私たち人間は、いくら一つになりたいと願っても、相手のことをつい、心ならずも傷つけたり、あるいは裏切ってしまうということが有り得るのです。
 では、ここに言われている「弟子たちが一つになった」ということは、そういう人間の破れが何もなくて、まるで天使みたいだったということが言われているのでしょうか。そうではないと思います。現実の人間の分離や分裂を無視して、何事もないかのように大人の態度を取っていたということでもありません。そういう姑息な見せかけだけのものでは、取り繕ったとしても、本当には一つになることはできません。そうではなく、この「一つ」という時に大事なことは、「私たちが真実に一つになれる、互いが一つにされる、そういう一つ所を見出すこと」です。
 私たちは、自分たちではどうしても一つになれない、そのことに気づいて、その意味では自分は真に貧しいのだということを素直に認めなければなりません。そして、そうであるからこそ、自分で一つになろうとするのではなくて、「神が私たちを真実に一つにしてくださるように。私たちが共に生きて行くその土台を、どうぞ神が、はっきりとこのわたしにも示してくださるように。そしてまた、わたしの隣に生きているあの人にも、このことを示してくださるように」、そう願って、祈って生活することが大切なのです。
 そういうことがありますから、実は、聖霊降臨の出来事に先立って、「一同が一つになっていた」ということがここに語られるのです。この一つはどこかの場所ではなく、神によって助けられ、本当に一つの群れされるように願い求める祈りにおいて一つなのです。「一つにされるように祈る」、そう求める者としてのみ、私たちは神の側から訪れてくる聖霊降臨の出来事に従順に従うことができるし、ただ本当に神の霊によって変えられることができるようになるのです。
 神が私たちに働きかけて、「一つになりなさい、周りの人たちと和らいで、助け合って一緒に生きていきなさい」と言われる時に、私たちが、「それは絶対に嫌です」と言えば、私たちは変わりようがありません。私たちは、一つになれない険しさを持っています。でも「神よ、助けてください。私が孤独なまま滅びてしまうのではなく、皆と一つにされて、共に生きる群れの中に入られるようにしてください」と祈ることが、私たちの上に注がれる聖霊の働きに備えるということになるのです。
 私たちの間にある深い破れを嘆いて「真実に一つにしてください」と、神に助けを祈る、願い求める者であってこそ、神は私たちの上に新しい変化を、深いところから根本的な変化をもたらしてくださいます。

 すべてを深いところから塗り替えて新しいものにしてくださる。そう言われますと、「今のわたしにはとても無理です。そんなことを願い求めることはとてもできません」と思われる方がいるかもしれません。しかし、心配する必要も、悲観する必要もありません。そういうことはきっと起こるのだと、主イエスが約束しておられるからです。
 ルカによる福音書11章13節に「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。神が私たちに聖霊を与えてくださるのです。私たちが今祈れないからと言って、決して祈れないということではありません。神が必ず聖霊を与えてくださるのだと主イエスが約束してくださるのですから、私たちはそのことを信じて、祈ることができるのです。「今このわたしに、あの人と一つになれるなどという大それたことを願うことはできません。けれども、あなたは聖霊を送って、わたしを変えてくださることがおできになります。どうかわたしが砕かれて、平らな者として、あなたの御業に自分を明け渡すことができる、そういう者としてください」と祈って良いのだと、主イエスが教えてくださっているのです。
 今は難しく思えるとしても、「きっと神が聖霊を送って、あなたを変える」と、主イエスが約束してくださっています。ですから私たちは、教会が一つになって祈るものとされたいと願うのです。聖霊を与えられて、新しいものとされたい。根本から新しくされ、そして、この世がどんなに困難や苦労が多いとしても、そこでへこたれずに、主イエスの愛を行って、共に生きる僕と変えられていきたいと願うのです。
 「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」との主イエスの約束の言葉を覚えて歩む者とされたいと願います。

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