聖書のみことば
2015年3月
3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月22日主日礼拝音声

 沈黙を続ける主
2015年3月第4主日礼拝 2015年3月22日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章53〜65節

14章<53節>人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。<54節>ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。<55節>祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。<56節>多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。<57節>すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。<58節>「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」<59節>しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。<60節>そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」<61節>しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。<62節>イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」<63節>大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。<64節>諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。<65節>それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

 53節「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た」と記されております。夜であるにも拘らず祭司長、長老、律法学者たちが集まっている、ですからそれは意図的であることが分かります。祭司長、長老、律法学者たちは、主イエスへの殺意によって集まっているのです。

 人の意図するものとは何か。旧約の預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる(口語訳では「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」)」と嘆きました。おのが利益を求めるのです。自分のためになると思えば親しくし、そうでなければ無視し、損だと思えば排除する、それが人の思いです。祭司長、長老、律法学者たちは、主イエスを益とせず、損をもたらす者と思っているので殺そうとしております。彼らは真理を問うものではなく、殺人のための集団なのです。集団でのリンチ、何ともおぞましいことです。
 神の御意志は、自らの利益を計るところにはありません。ここに人と神との思いの違いがあるのです。自分の思いを優先させること、それが殺意に繋がっていきます。このことは、昔も今も変わりなくある、人の思いです。

 私どもの神の在り方は「他者のため」という在り方ですが、しかし、当時のギリシャの神々はそうではありませんでした。自分の利益のために労働させる、そのために人を造る、それがギリシャの神々です。ギリシャでは、遊び暮らす人が自由人で、働くのは奴隷です。ですから神々も同様なのです。
 しかし、真実な神は、人を道具とはなさらない。神は人を、神の呼びかけに答える「人格ある者」として造ってくださいました。神の天地創造の御業により、人は6日間、自分のために働いて良い、7日目、人格ある者として造られた自らの尊さを確かめるために御言葉に聴き、礼拝する者としてくださっているのです。神は人を、神に対することのできる「尊い人格ある者」としてくださっているのです。それが神を礼拝する者、それが私どものあるべき姿です。
 人を、神との交わりに生きることのできる尊い者として造ってくださったお方、それが真実の神です。人の罪の一切を引き受けて、主イエス・キリストは十字架に進まれる、その神の御意志は、滅びゆく者、人の救いのためにあります。
 真実な神の恵みを知らなければ、人はおのずと自らの利益を計るのです。そして真実な人間関係を失い、遂には滅びてしまうのです。

 54節「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」とあります。遠く離れていても主イエスに従っている、痛々しい姿です。「遠く離れて」とは、自分の身の安全を図りながらということです。本当は、エルサレムを離れることが一番安全ですが、そうできなかったペトロは、人目に紛れるように「下役たちと一緒に座って」いるのです。遠く離れて主イエスを見守るペトロの思い、痛みを思うと、責めることはできません。人目を忍んでもなお、主に従おうとする、その痛みを思います。
 主はもちろん、このペトロを憐れんでいてくださいます。ペトロは見捨てられない、そしてなお、主が言葉をくださっていたことを、後に知ります。主を見捨てて逃げ去る者に、主が御言葉をくださったことの恵み深さをしみじみと知り、さめざめと泣くのです。

 55〜56節「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」とあります。ここに集まっている祭司長、律法学者、長老たちは、最高法院の一員です。最高法院は72名いたと言われております。主を殺すために意図的に集まった最高法院、世の指導者たちは「イエスに不利な偽証を」するのです。
 集団を作ることで、人は自制し整えることができるかと言えば、そうではありません。しかも、善意の集団より悪意の集団の方が団結力は強いのです。悪意の方が規律がはっきりしているからです。ボランティア団体ではなかなか規律を設けるのは難しいですが、悪意の集団は厳しく自由がなく、管理的になるのです。今この時代に、このことはよく注意すべきことです。悪しき意識を持つと規律を厳しくしようとします。例えば、今の日本社会はどうでしょうか。法で国民の自由を奪おうとすれば悪しき集団となっていくのです。改憲が叫ばれれば信教の自由への危惧さえ持ちます。
 規律ある集団こそが良いと思ってはなりません。それは人を規制し自由を奪う集団であることを知らなければなりません。自らの利益のためには、他者の利益を求めない、それを組織的にしようとするのが人間なのです。神は、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記)と言われました。私どもは今この社会にあって、素直でありながら賢く生きなければなりません。

 さて、「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていた」と記されております。主イエスの死刑は決まっているのですし、しかも偽証なのですから、食い違うことはないはずです。結論は死刑、なのに罪状を決めるための偽証は一致しない、どうしてなのでしょうか。それは、よりもっともらしい理由が必要だったということでしょう。ですから、まとまらなかったのです。
 偽証の一つは、58節「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」というものでした。主イエスは弟子たちが、ヘロデの建てた神殿を見て感嘆し賛美したのに対して、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われました。どんなに素晴らしい建物でもいずれは崩壊すると言われたのです。主は決して「この神殿を打ち倒す」などとは言っておられませんし、実際に壊されたというのならそうでしょうが、そうではありません。
 またここで、「三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言ったと記されておりますが、「三日」とは、三日目に主が復活されることを示しております。神との交わりを失っている者が、主の復活により、神との交わりを回復するのです。三日とは、復活の主を意味しております。

 もし主イエスが神殿を壊したのなら、神を冒涜する者として「死刑」が相応しいでしょう。けれどもそうではないので、意見はまとまらないのです。業を煮やした大祭司は、主イエスに問います。60節「そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』」。印象的な場面です。事柄の中心が見えてきます。この場面の中心にいるのは、大祭司ではなく、主イエスです。大祭司は周辺にいて、中心にいる主イエスの所に「進み出て」問わなければならないのです。中心は主イエスであることを示しております。人々は、主の周りを囲んであれこれ言っているのです。中心は主イエスです。ですから、主がアクションを起こさない限り、事は先に進みません。主役が動かなければ、進まないのです。

 そして、主は沈黙しておられます。61節「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」。ここに語られていることは何でしょうか。大祭司が苛立って「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と言っても、主は沈黙を続けられる。それは、偽証に対しては語る必要はないということです。私どもなら、「そうではない」と議論するでしょう。しかし主イエスは、答える必要のないことにはお答えになりません。その主の沈黙に耐えられずに、人々は騒ぐのです。それゆえに、人の愚かさ、どたばたが却って明らかになるのです。
 主イエスの沈黙は、主の力を表しております。主の沈黙は人々の愚かさを示し、主の沈黙こそが、その場を支配しております。人々は主の沈黙に耐えられずに自らの愚かさを露呈しているのです。主は沈黙をもってその場を支配しておられます。

 大祭司は遂に、最も言いたくないことを言わざるを得ませんでした。偽証によってではなく、主イエスを「神の子メシア」として十字架につけるしかなかったのです。61節「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問い、真実の主イエスがどういうお方であるかということを、自らの口に出さざるを得ませんでした。
 そしてそれに対して、主イエスは「そうだ」とお答えになります。主は、偽証によっては答えられませんでした。大祭司が主の真実を語ることによって、主は答えられました。62節「イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る』」。主イエスは神の右の座すお方として、終末のときの「再臨の救い主である」と言ってくださったのです。主がご自身を「メシア」と言い表してくださった、だから大祭司は、64節「諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか」と言えるのです。そして「一同は、死刑にすべきだと決議した」と言われております。
 実は、神殿崩壊の罪であれば死刑ですが、「自称メシア」と言っても死刑にはなりませんでした。当時、自称メシアはたくさんいたからです。主は革命を起こしていません。自称メシアであれば、主は死刑にならないのです。
 けれども、主はここでご自身がメシアであることを言い表されました。「メシアである」ということで、主は死刑になるのです。それはまさしく神の御意志だからです。人々は主を神殿崩壊の罪で死刑にしたかったのですが、それはできませんでした。主がご自身を「メシアである」と言い表されたことで、人々は主を死刑にできるのです。人々の偽証のゆえの十字架ではなく、まさしく「主がメシアなるお方として十字架につかれる」、それが「神の御意志である」ことを示しております。

 主は単なる冤罪で死なれたのではありません。主イエスは、「救い主として、神の御意志によって、神の子キリストとして十字架につかれた」、そのことが示されているのです。
 人々の救いを成し遂げるために、主は、罪の贖いとして、裁きとしての死を死んでくださいました。それはしかし、人々の偽証によってではなく、「主イエスはメシアである」とはっきり言い表されてのことです。人々の偽証によらず、神の救いの御業がここに実現します。
 この世の指導者の思惑がうごめく中で、主は十字架につかれました。しかしそれは、人の思いがなるということではありません。人の思いが用いられつつ、神の救いの御意志がなるのです。それがここに示されていることです。

 主はメシアとして死刑となられます。神の御心としての、罪の裁きの死を死んでくださるのです。それが贖いとしての死です。それは、私どもが救われるための死なのです。

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