聖書のみことば
2015年3月
3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月8日主日礼拝音声

 見捨てて逃げ去る
2015年3月第2主日礼拝 2015年3月8日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章43〜52節

14章<43節>さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。<44節>イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。<45節>ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。<46節>人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 <47節>居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。<48節>そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。<49節>わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」<50節>弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。<51節>一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、<52節>亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

 43節「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た」と言われております。41節42節で、主が「もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われたところで、ユダが近づいて来たことが記されております。「十二人の一人であるユダ」と、ユダが12弟子の一人であることが強調されております。12弟子は主イエスに最も親しい者、ユダはその中の一人なのです。
 「立て、行こう」と、自ら進んで主イエスは行かれます。裏切りを避けようとせず、裏切りを受け止めようとしておられる。主は、ユダの裏切りを「あってはならないこと」として排除しておられないということです。ここに、裏切ることでユダは神の御心に従う者であることが示されております。

 主イエスが「あってはならないこと」と決めておられたならば、救いは起こらず、希望はありません。「あってはならないこと」であっても、主イエスは排除されない。だからこそ、私どもの救いが起こるのです。裏切る者であったとしても、主はご自分のものとしてくださる。そこに、神の憐みの出来事があるのです。
 私どもは、裏切らざるを得ない者なのかもしれません。担えない出来事を前にすれば、逃げ出すしかない者です。そういう者の虚しさ、はかなさを、主は知っておられ、担ってくださる。裏切ることでしか神の御心に従えない者であっても、その裏切りを通しても、主の救いは決して反故にはされないのです。主は、神は、救いの御業を成し遂げられる。罪人の営みを通しても、なおそこに、神の救いが起こるのです。

 人は、良いことを求め、良いことをしなければならないと思うものです。けれども、限界ある人の力では、必ずしも、その良い志が成就するわけではありません。良き業として起こされる悪もある。教会は、良い業をすると言わないから良いのです。良い業であっても、そこに最大限の悪がある。だからこそ、そこに救いの御業が働くことを知っている。それが教会に与えられた知恵です。
 人の罪ゆえに、主の十字架の贖いを通して、神は救いを実現されます。ユダは、裏切りを通して神の御業に参与しているのです。

 もちろん、だからと言って裏切りが良いわけではありません。けれども、マルコによる福音書は、ユダの裏切りに対する責めを語りません。ですからここで覚えるべきは、人の思いが成るのではなく「神の御旨こそが成る」ということです。一見、ユダ(人)の思いが成ったように思いますが、そうではない。また、たとえ人の思いが成ることがあったとしても、それは人の思いが成ったのではなく、更にそこで神の御心こそが成るのだということを覚えたいと思います。
 そういう神の御業であるからこそ、救いが起こるのです。人の思いが成るとすれば、全ては人の責任になります。けれども、人は全てを負うことなどできない。人の思いではなく、神の御心が成る。そこでこそ、人は思い起こすことができます。どうであったとしても「神の御心によって救われたのだ」ということを思い起こすことができるのです。
 不遜で愚かでしかない者の救いを、主イエス・キリストを通して、その十字架による執りなしを通して、神は成し遂げてくださるのです。

 もう一つ、ユダの裏切りによって示されていることがあります。それは、裏切りは身近なところで起こるということです。関係の遠いところで起こるのではありません。近い者の間に、裏切りは起こる。身近であればあるほど、そこに裏切りがあります。それゆえに、主はその裏切りを担いたもうのです。主イエス・キリストがおられる、だから救いがあるのです。
 人は決して、近い者の裏切りを許せないでしょう。けれども、そこにキリストが在す、だから許しがあるのです。人の望みの尽きるところでこそ、神の救いが鮮やかになることを覚えたいと思います。

 ユダが進み寄ると、「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」と、大勢で主を捕らえに来たことが記されております。ここで、「剣や棒を持って」武装した者たちを、兵士とも役人とも言わず、「群衆」と言っております。このことは印象的です。祭司長、律法学者、長老たちは、主の殺害を計画しましたが、「群衆を恐れて」実行できないでいたはずです。主イエスを支持していたはずの群衆が、しかしここでは主を捕らえようとしております。本来なら役人たちが捕らえに来たと記されるはずですが、ここでマルコが強調していることは、「群衆もまた、主を見捨てて、主に敵対する者となっている」ということです。
 多くの者が主イエスを支持していたはずです。しかしここで、彼らは主を捕らえる者に変わってしまっているのです。主の御業によって救われ、慰められたはずの群衆、しかしその者たちも、主を裏切る者となっているのです。
 ここに示されていることは何か。それは、主イエスの孤独です。主は孤独の淵に立っておられる、そのことが、この「群衆」という言葉によって、なお鮮やかにされております。
 助けたはずの群衆にも、主は見捨てられたのだということを覚えたい。いかに主が孤独であられるかが示されております。誰の支持もないどころか、全ての者が敵対している。それでいて、尚、主はご自分の使命を粛々と果たされるのです。それは誰も担えない孤独な業、それは罪人の救いです。

 現代社会の問題は何かと言えば、孤独に耐えられない社会だということです。ですから、孤独の中に主が立っておられるということは、救いです。孤独な者を担えるお方、それは主イエス・キリストだからです。主は、孤独な現代社会の救いとなって立ってくださっているのです。
 十字架とは、究極の孤独です。主は十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と言われました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」。神に見捨てられた悲しみ、それが究極の孤独です。その究極の孤独を、主のみご存知です。ゆえに、主こそ救いなのです。
 しかしここではまだ、そこまでの孤独が語られているわけではありません。主が捕らえられたところで、弟子たちは逃げ出します。無力さ、弱さ、それが人の孤独です。けれども、主の孤独は無力ではありません。主に敵対する者の方が無力です。彼らは大勢で、しかも剣や棒を持っております。それはまったく不必要なものでした。主イエスは、自ら進んで捕らわれてくださる。「さあ、立って行こう」と、ご自分を引き渡すつもりで、先立って行かれるのです。

 人は、武器をもってまでして自分で自分を保持しなければならない、それほどに無力な者です。弱さゆえに武力を必要とし、武力を保持したいのです。
 現代は、自ずと頭を下げるほどの人に対する尊厳というものが失われております。自ずと尊敬する、そういうところで、人は本当に他者を尊ぶ力を持ちます。武力にはそんな力はありません。人が人としての尊厳を失っている、それが現代の状況なのです。人の尊厳を失わせているがゆえに、人は武力をもって、破壊するものを持つことによって、すべてを処理しようとするのです。そして、自分の力を保持しようする、それこそが人の弱さです。
 現代は、共同体を喪失した社会です。共同体性は、人が尊厳を持ち、互いに助け合う社会性です。そこに武力は必要ありません。けれども、共同体性を失うと、自己保身のために、人は力を必要とするのです。それはお金であったり、武力であったり、それが現代社会の弱さなのです。

 ですから、教会が一つの共同体として互いに愛し合うことは、この世への大いなるメッセージを語っていることです。共同体性を失うことは、弱さであり、脆さであり、滅びであるということを覚えたいと思います。人が尊厳を失ったことの表れ、それが武力であることを覚えたいのです。
 自らを尊しとする、そこでこそ、人は他者を尊しとできます。人は、主イエスの血潮、命によって贖われました。尊い主の命によって、朽ちるべき命が尊い命とされるのです。そこでこそ、無力な淵で、他者を尊ぶことを知るに至るのです。どうしようもない人間、自分なのだと知っている。そのどうしようもない私が主によって尊い者とされる、だからこそ感謝、だからこそ他者を尊べるのです。
 自らの弱さを武力で覆い隠すのではなく、主にあって尊ぶこと、それこそが、尊厳を回復するという大切な歩みであることを忘れてはなりません。

 45節「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」と記されております。この人が主イエスであることを示すために、ユダは接吻します。ユダは、物陰からあの人だと示すこともできたはずです。けれどもそうはせず、主に近寄って接吻する。この言葉は44節と45節に出てきますが、同じではなく、45節の方は、より強い口調です。単なる挨拶の接吻ではなく、強く抱きしめるというニュアンスです。
 このように強く抱擁したとは、公然とした裏切りの姿です。「先生」と親しさを示しての裏切りであり、印象的な情景です。
 主イエスへの後ろめたさが、ほんの少しでもあるならば、こんなことはしないでしょう。マルコが語っていること、それは、ユダが主イエスに対する親しい思いから、主を裏切っているということです。主に対する嫌悪でも後ろめたさでもない。人の裏切りとは深いものであることを知らなければなりません。
 マルコの示すユダは、裏切っているという思いを持っていなかったのではないかということです。裏切っているという思いであれば、強く抱擁することなどできなかったでしょう。ユダは、このことは良いことだと考えているのではないでしょうか。主を慕い、こうするしかないと思っている。ここにユダの問題があります。

 後に出てきますが、逃げ出したペトロや他の弟子たちとの違いは何でしょうか。ペトロは主を見捨てて逃げ出した後、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と、前に主イエスに言われていたことが実際に起こって、72節「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」と記されております。ユダには後ろめたさも主への嫌悪感もない。けれどもペトロは泣いた、つまり心痛んだのです。
 人の心の無さ、それは、これで良いと開き直ることです。ユダは、主を裏切って主を引き渡すことに申し訳ないと心痛むことがありませんでした。ペトロは主の言葉を思い出して心痛んだ、そして泣きました。逃げ出し、主を裏切ったことに心痛め、主の前にどうしようもない者だと涙する心、そこにこそ救いがあります。これで良い、仕方ないと開き直るところで、その人は神から、救いから遠ざかるのです。
 心痛む人は、主を感じ、神の慈しみに涙することができるのです。
 ユダは心痛めていない。心痛めることの豊かさ、それは神の憐れみを知る恵みであることを覚えたいと思います。
 人の罪深さは、こうでしかないと思うことです。けれども、こうでしかないことを悔やむ心、そこにこそ救いがあります。

 ユダの接吻によって、人々は主を捕らえます。弟子ではなく、群衆の一人が刀を振るって大祭司の手下の耳を切り落としますが、他の福音書のようにその結末を語ることなく、マルコは淡々と情景を記します。この行動も主イエスを思ってのことでしょうが、主をまったく理解していない行動です。主は孤独の中に、一人立ってくださっております。私どものために、一人、立ちたもうお方なのです。

 49節「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」と、主は言われました。「毎日」とは、「一日中」と捉えてよいのです。つまり、いつでも主を捕らえることは可能だったということです。しかし全てのことは「これは聖書の言葉が実現するためである」ことを示すためです。予め神が言われていたことが実現するため、「神が既に語ってくださったことが、今ここに成っている。救いが今ここに成る」と、主は言ってくださっております。
 孤独の淵に立ち、十字架へと進まれる。そのことによって、神の救いのご計画が現実のものとなることが示されております。

 けれども、この時、人々は耐えられずに逃げ去るのです。51節〜「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。この一人の若者とは、マルコであるとも言われております。そのことを斟酌はしませんが、しかし、この御言葉が何を意味するのかに思いを馳せることは大事なことです。

 全ての者に見捨てられて、主は孤独の淵に立たれます。ただ主イエスのみ、孤独を担うお方です。人は、孤独において滅ぶしかない者です。尊厳を失うのです。けれども、主イエスの孤独は、罪人を担うための孤独です。
 自分自身を守るために主を見捨てるしかない者、そういう者のために十字架についてくださった、そこにこそ、救いなき者の救いがある。
 主イエス・キリストは、救いなき者の拠り所たり得る、唯一のお方なのです。

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